“imperfect”であることを、受け入れてみよう

 本日の記事は、ちょっと抽象的な内容です。あまり現実的な実の無い「心の持ちよう」のようなところもございますので、興味のある方のみお読みください(笑)。

 僕はこれまでの人生で酸いも甘いもジェットコースターのように経験して来た中で、幸せに生きるコツとはきっとこうだろうといま考えることは、人間とはimperfect(不完全)な存在であることを受け入れる勇気を持つことかなと思っています。そもそも僕らは「ヒト」という名の動物の1種であり神様ではありませんので、完璧であることを求めずに人生を楽しんでも良いのだと考えると、色々なことが楽になり上手くいくことも増えるのかなと思います。こういう表現をすると人間の尊厳を侮辱しているように聞こえるかも知れないので誤解の無いようにしておくと、向上心はもちろん必要ですが、「自分は理想的な姿になれる/なるべき」と考えてしまうと、自らの人生や社会は狂い始めるのではないかという、ある種の提起のようなものとお考えください。

 近年はコンプライアンスだの環境保護だのと、私たちを「締め付ける」ものがどんどん増えています。もちろんこれらは必要なことであり、その行動を個人がサボればどこかで誰かが傷つきますので、概念としては誰もが持っていなければならないものです。一方で、その概念のために自らを追い込んで傷つけるのであれば、そもそもの目的を最初の段階で裏切ってしまい、本末転倒ではないかなとも思うのです。「人や社会に優しくするためには、まず自分に優しくしよう」とでも表現できるでしょうか。

 現代人は近代社会が求める合理性の中で、機械のように正確に生きて、ミスをしないことが要求されるようになってしまいました。しかしながら、そもそも私たちはベースが生物ですので、自らの意思だけで正確に完璧に生きることは事実上不可能なのであり、むしろ完璧を求める理想こそが逆に合理性を欠いていると僕は考えています。また、機械のような合理性を追求した人間の能力は、残念ながら120%の実力を発揮する「人の欲求」をベースにした行動は越えることが出来ないものです。好きなことをやっている人には、どれだけ優秀な人でも勝つことは決して出来ません。人間や社会はこれまで、そのような「人の欲求」の力のおかげで発展してきました。資本主義とはまさに、この原理を究極に利用したものです。

 現代人は情報伝達が発達した社会の中で「こうすべきだ」とか「この方が良い」、「こんな素晴らしい人がいる」というメッセージを、毎日無意識に、かつほぼ強制的に浴びせられて生きています。しかし、そもそも人間は機械ではなく生き物であり、生まれながらにして個々に違う存在である以上は、誰かが考える「パーフェクト」とは自分にとっては「パーフェクトではない」こともありますし、その逆ももちろんあるでしょう。お金をたくさん稼げば幸せな人もいれば、趣味に没頭した方が幸せな人もいます。1人でいる方が良い人もいれば、社会に貢献して初めて幸せを感じる人もいます。

 完全に僕の個人的な想定でしかない話ではあるのですが、僕は人間の50%は動物としての欲で構成されていると考えています。食べる、寝る、子孫を残すといった動物としての3大欲求は、私たちは絶対に否定できない感覚であるからです。

 そして、その他の50%の部分の中に、人としての「理性」と「人間特有の欲求」があると僕は考えています。ここは動物であれば考えることのない「ルール」や「モラル」であったり、「承認欲求」や「達成欲」、「自己実現」などがここの概念に相当します。

 歴史を振り返ってみれば、ヒトという動物が食物連鎖の頂点に立ったのはこの「理性」を使って自らの「動物としての欲」を最大化してきたからに他ならないでしょう。つまり人間が言う合理性とは、その目的自体は自分たちの「生物としての欲」を最大化するためのものだったと言えます。単純に表現するなら、もっと安定的にご飯を食べて、もっと効率的かつ楽に安全に仕事をして、もっと健康に生きて長生きしてもっと自らの子孫をたくさん増やしたい、これが人間が社会に求めて来たことです。そしてこの「理性」を活用する副作用として同時に発生したのが、動物として生きるためには必要なかったはずの「人間特有の欲求」です。動物としての欲求と人間特有の欲求を明確に区別するために、ここではそれぞれを「生活欲」と「理性欲」と仮称をつけて、別個のものとして定義してみたいと思います。

 なぜこのような区別をしてみたかと言えば、現代資本主義は近日、その元来の目標を失っていると言われているからです。これまで私たちは動物としての「生活欲」を最大化するために合理性を追求してきたのですが、現在は特に先進国や新興国を中心にここがほぼ限界に達した(つまり、ほとんどの人は食べることには困らなくなった)ため、目標を失った先進国のビジネスは次の稼ぎ頭として、人としての「理性欲」の最大化をビジネス目標に変えてしまったと言われます。つまり具体的には、食べ物や物流、エネルギーといった産業ではこれ以上の発展が望めないことから、エンターテインメントやゲーム、不動産投資に金融、ITや仮想現実などの実態のないものから旅行に至るまで、「生きるためには必要なかったもの」でより大きな資本を形成しようとするようになりました。

 これはある意味でのバブル経済のようなもので、生きていくために求められる合理性(生活のための労働)とのバランスを取るため(息抜き)以上の「理性欲」は、本来は人間には必要なかったものです。この「理性欲の最大化」を目指して極限まで競争を強いるようになった現代社会が、格差社会との形で「生活欲まで後退」させる結果となっているのが、21世紀のいまのIT化社会と言えます。人間の欲求が社会を発展させて来た原動力であるのは疑いようのない事実ですが、これ以上追及する必要のない「理性欲」を追及しているのは、実態のないバブルのような価値を追求しているようなものかも知れません。人が幸せに、平和に生きていくのに必要なもの以上の何かを、社会は実現する必要が本当にあるのかどうかは、地球環境も限界を迎えつつあるいま、今後議論される必要があるテーマであるはずです。生活欲を改善する技術やビジネスは価値あるテクノロジーと呼べますが、ただ理性欲を増幅させるだけのものは社会の革新ではない、とは言えないでしょうか。理性欲の増幅と極度の格差社会によって人の生活や幸せが脅かされるようになったいま、人は「本来目指すべきところ」を明確にして、経済成長の取捨選択をして、人類にとって本当に大切なもののバランスをコントロールして行く必要に迫られています。

 地球環境を守って持続的に発展する必要(SDGs)とは、結局は私たちが幸せに生きるため、つまり「生活欲を満たすことが目的」であるはずです。ところが現代社会では、その理念だけが1人歩きして、なぜか理性欲を満たすための道具にすり替えられている部分があるのではないでしょうか。途上国ではまだまだ生活欲を満たせていない人が多くいる段階で先進国が理性欲を満たしているのであれば、それはただの偽善と言うほかに表現が見当たりません。自動車やスマートフォン、高速の移動手段など、エネルギー消費の節約が先に求められる分野は見過ごされてしまっているように見えます。例えば、私たちの国はIT化とEV化を進めたクリーンな場所だ、とどれだけ言っても、生産に大量のCO2を排出するバッテリーをもし他国から輸入していたら意味がありません。産業が国際分業をする世界となった以上、国家単位でのエネルギー管理やCO2排出規制には、もはやなんの意味もないのです。

 化石燃料の規制云々といった途上国には受け入れられない考え方から脱却し、原子力など必要なものを現実的に活用しながら、エネルギー問題を根本から適切に解決し環境負荷の少ないエネルギーを確保するためには、損得を越えた投資が国境を越えた世界レベルで行われるべきであると僕は考えています。地球環境がこれだけ悲鳴を上げる中でも、まだ「全体よりも個が大切にされるべき」という「20世紀には」新しい発想だった概念が、こうした地球的課題の解決を妨げているような気がしてなりません。全ての個がその権利を100%実現することは、社会では不可能なことです。現代社会はまさに、この考え方のバランスがズレてしまっていると言えます。

 20世紀中盤に生み出されたリベラリズムとは究極的には「自分中心主義」であり、「理性欲の追及主義」であったと言えるでしょう。人が理性欲のみを追及して規律や社会性を放棄すれば、それは争いの絶えなかった動物としての時代への逆行と何が異なるのでしょうか。世界にはまだまだ普通に生きるための生活欲を実現できていない人もいるのだから、人が手に入れられる資源は、そうした課題の解決へと割り当てられるべきでしょう。

 人に「自由でなければならない」「個性が尊重されなければならない」とイデオロギーによって理性欲の追及を強制し無限競争を誘発することで、人は逆に不幸になっている可能性があります。経済発展が進み人はより健康に、より自由に、より幸せになったと言われますが、富裕層中心に押し上げられた数字を見て「社会は発展した」と、果たして断言して良いものでしょうか。バブルのように生み出され続けている理性欲経済のマネーを生活欲の達成に配分できていれば、こうした数字はもっと良くなっていたはずとは言えないでしょうか。

 現代人はこうした理性欲経済の中で常に自己実現を求められ、限界まで競争を煽られ続けた結果、心を病んで自殺してしまうこともあります。理想的な自分を目指さなくとも良いのだ、人間らしくても良いのだという「インパーフェクトが許容される社会」の方が、もっと人や地球に優しいのではないかと僕は考えています。

 「人はどうあるべきか」を考えた哲学者は最後には自己矛盾に到達して、自殺する結果となって来ました。理性欲の無限増幅がインターネット上で匿名で無限に発信され続けている状況に対しては、一定の規制が必要になるでしょう。インターネットによる無限競争社会は、弱肉強食の世界でただ動物が殺し合っているのとあまり変わりありません。少なくとも、匿名での発言は禁止されるべきでしょう。人は結局は動物であり完璧な存在ではありませんので、完璧な自由を与えても使いこなせないのは、ある意味で当たり前の結果と言えます。「完全な自由ほど苦しいものはない」というのが、僕のこれまでの個人的な経験でもあります。

 米国での「保守派」と「リベラル」の対立による社会分断は、深刻を極めています。お互いが自身を「パーフェクトである」と信じて疑わないところに、妥協や話し合いの余地が発生しないという最大の問題が存在していると僕は考えています。人は相互にインパーフェクトであることを認めて、だからこそお互いを許し合う寛容性を備えて初めて、こうした対立や争いも収束を迎えることが出来るでしょう。人間は神様ではないのだから、人が唱える論理が完璧になることはあり得ません。理想を目指すことには意義があるが、自分が理想を代表すると自認することは、ただの勘違いです。結論として、理性欲の追及こそが理想であり完璧に正しいと誤認されてしまったところにこそ、宗教対立や格差社会に至るまでの現代社会の問題の原点があります

 理性欲の追及にはブレーキもかけて、協調と寛容、相互理解のある平和な社会が実現されることを僕は願っています。理想や価値観の押し付けこそが問題であるとの認識を持って、個人が利己を追及しすぎないような仕組みや価値観を新時代の基準として社会が受け入れられるよう、個人として出来ることを今後も行っていきたいと思います。

 私たちは、不完全でも良いのではないでしょうか。そうすれば、相手を許すこともできるようになるでしょう。

We are all different and imperfect, because we are all human beings.

Common Sense(常識)は、もう理由にならない

 “common sense” は日本語で言う「常識」を表す表現で、それぞれの単語が表すように”common”(共通の) “sense”(感覚)と言う、私たちが普通は「正しいこと」と信じている事柄です。ですが、常識は必ず正しい、本当にそうでしょうか。僕は個人的には、常識と言われていることはまず先に疑ってみる事にしています

 この「常識を疑ってみる」と言うことは実はとても大切です。何故なら、疑うことを忘れてしまえば、人は特定の考え方に縛られコントロールすらされてしまうからです。そしてその常識を信じている限りは、それ以上の改善が全く望めません。「常識だから」と考えることは実は、考える事を放棄すると言う点においてマイナスでしか無いのです。

 例えば、「新聞の情報だから正しいはず」、「テレビが放送しているのだからみんながそう思っている」、「instagramでみんながシェアしているから人気だ」、本当にそれは正しいでしょうか。新聞の記事を書いているのもテレビの番組を製作しているのも、instagramの投稿の「流れを作っている」のも、実はただの同じ人間です。つまりこれらの情報は実は「正しいこと」ではなく、あくまで「彼らの意見」や「作られた人気」でしか無い訳です。こうした意見を「正しい」と盲目的に信じてしまうことは、実は大変危険なことです。

 分かりやすい例を、日本は歴史の中でちゃんと経験しています。第二次世界大戦に邁進する日本政府や軍部に対して、その正当性を疑う人は圧倒的に少数でした。それは新聞やラジオなどのメディアも含めて「戦争をするのが正しいのだ」と信じてしまった、あるいは信じさせられてしまったからです。まさに日本中がマインドコントロールされてしまったが故に起きてしまった悲劇でした。

 ところが一方で、「戦争で日本は悪いことだけをしたのだ」と言う常識を反対に信じることも実は大きな間違いです。もちろん戦争自体が悪である事は疑いもない事実ですが、悪いことだけを行なっていたならなぜ、中国・韓国を除いたアジアのほとんどの国が親日的なのでしょうか。特に日本の植民地支配が長期化した台湾が世界一の親日国である事は全く説明がつきません。

 このカラクリはと言うと、台湾は確かに長らく日本の植民地として統治下にありましたが、その中には悪いことと良いことの両方があった事を、台湾人が客観的にちゃんと理解をしているからです。日本の統治により自由が奪われたり過酷な労働を強いられたマイナスの側面があった一方で、教育制度やインフラが整備され人々の生活が向上し、台湾が近代化するキッカケとなったのもまた事実です。その両面をしっかり合理的に理解しているからこそ、今の台湾の親日的な人々があります。

 他の例では、東南アジア諸国は日本の植民地となる以前は長らく欧米諸国の統治下にありました。欧米諸国の植民地支配と言うものは日本のそれよりも遥かに熾烈なものであり、現地の生活を向上させることなくただただ搾取を続けるだけのものでした。そこに日本がやって来た結果そうした欧米諸国による支配が追い出された訳ですから、東南アジアではそれは結果的にプラスに働いた面もあったのです。日本の敗戦後にはインドネシアには旧宗主国であったオランダが戻って来ましたが、現地に残った日本兵はその再侵略に対して現地の人々と共に戦ったそうです。現地では今でもこの方々のお墓がしっかりと守られています。

 このような事を書いているとまるで戦争や植民化を正当化しているかのように聞こえるかも知れませんが、そう言うことでは決してありません。僕は戦争には絶対に反対です。植民化も今後は絶対に許されてはいけません。ここで述べたいのはあくまで、物事には必ず表と裏、あるいはそれ以上の多面性が必ずあり、一つの側面のみが「正しい」訳では決してないということです。一つの内容を盲目的に信じてしまうと、それは逆に宗教対立に代表されるような衝突や紛争に必ず通じます。一つの内容を正しいと信じるのではなく、様々な観点から物事を柔軟に見てみて、良い点と悪い点の両方をしっかり把握することが大切です。そのような視点を持ててこそ、私たちは異なる文化や宗教を初めて受け入れることができます。これは今後の日本と世界には必ずなくてはならない姿勢です。

 このように、一般に「正しい」と信じられているものほど、実は逆に疑ってみる必要があります。新聞、テレビ、SNS、学校教育、教科書…本当にそれは、正しいと言えますか? これらを作っているのも人間であり、必ず何らかの意図がそこには入っています。 例えそれが事実のみで構成されていたとしても、その事実を取捨選択すれば、印象と言うのは操作出来てしまいます。こうした情報を「絶対に正しい」と盲目的に信じてしまうことが、実は最も危険なのです。意見や発想は常に多様である必要があります。一つの絶対的な正解など存在しません。

 同様に、多数の人が「正しい」と言っているからといってそれが正しいとも限りません。人間はあくまで人間、神さまではありません。人間が動物である限りは、何かが「絶対に正しい」と言うことはあり得ません。例え世界の70億の人が「正しい」と言っても、あなたが「間違っている」と思うのであれば、それは試しに変えてみる価値が十分にあります

 実際に、人間の歴史は1人の天才が全てをひっくり返した事が何度もあります。重力の概念を発見したニュートン、アメリカ大陸に初めて辿り着いたコロンブス(天才とは少し違う気もしますが…)、近年で言えば、誰もが最初は「何だこれは」としか思えなかったスマートフォンの概念を創造したスティーブ・ジョブズなど、これらの1人の天才はそれまでの世界の常識をたった1人の行動で完全にひっくり返しました。70億が正しく1人が間違っていると言う保証は、実はどこにも存在しないのです。1人の方が圧倒的に正しかった例は、歴史上にもいくらでも存在します。逆に言えば、あなたが常識に固執している限り、新しい発想や発見に辿り着く可能性はゼロだと言うことです。これでは人間には何の進歩もありません。

 この「常識を疑う感覚」を養うためには、海外へ行ってみることが非常に有効です。何故なら自分が常識だと思っていた事が、海外では常識では無い事が多々あるからです。それは良い意味での自分の考え方を崩すことでもあります。更に言えば、英語を使って外国人と話すことが出来ればその幅ははるかに広がります。必ず自分が当たり前だと考えていた事が「良い意味で」裏切られることを身をもって体感できるからです。これ以上の自分を改善できるチャンスはどこにもありません。また、今後はどんどん情報が氾濫することで、どの情報が正しいかすら把握することが難しくなって行きます。そうした中から正しい情報を見分けるためにも、多くのものや情報に触れ、異なった見方や環境を体感し、物事をもう一度多角的に見直してみることで「常識を疑う」「言われていること、書かれていることをすぐに信じない」力を養う必要があります。もう、特定の思想が世界を引っ張って行く時代は、終わったのです。これからは世界の一人ひとりが、何が正しいかを「自分で」考え判断して行かなければなりません。これまでのやり方や常識が実は間違っていたなら、それはすぐに変える必要があります。

 どうも僕の経験した限りでは、「出来る方法を考える」方より「出来ない理由を探す」方が多いような気がします。これまでのやり方とは、これまでの常識とは、果たしてそんなに大切なのでしょうか。これまで上手くいったから、はあくまで過去の話であり、世界や社会の変化の中ではそれに応じて「変えるべきことは何としてでも変える」のが正しい姿のはずです。

「常識では…」、「普通は…」、「我が社のやり方は…」、「この国では…」という言い訳を使う進歩のない人には、こう言ってみるのはどうでしょうか。

「何ですか、それ。どこで食べられるんですか。」

「グローバリゼーション」の概念を更新しよう

 「グローバル化」が盛んに謳われるようになってもう相当の年月が経ちますが、今でも一般に信じられている「グローバル化を達成する事が大切だ」という昔ながらの概念は、本当に正しいと言えるのでしょうか。本日はこの「常識」に一石を投じてみたいと思います。

 僕は個人的な考えとして、「これまでのグローバリゼーションには失敗の側面がかなりあった」と思っています。英語ビジネスを展開する人間がこんな事を言うことに驚かれる方がほとんどかと思いますが、その理由をご説明したいと思います。

 まず始めに述べたい事は「全てのグローバリゼーションの要素が失敗であったのではない」と言う事です。グローバル化が進んだことは基本的にはポジティブな点が多かったと思っています。それは主に経済的な分野とITテクノロジーによる距離感の短縮、そして英語が共通語として定着した事により、世界の人々が相互に接触し理解しようとする機会が増えたという点においてです。

 経済がグローバル化した事に関してはもちろん、ローカルなビジネスが生き残れなくなったと言う一見ネガティブに見える側面もありますが、僕はその点も含めてポジティブであったと考えています。なぜならビジネスとは、「より良いサービスや商品が勝ち残る姿こそが正しい」からです。例えば農作物ならば、関税によって守られていた旧態依然としたスタイルや既得権益が貿易の自由化によって消滅することは、消費者の観点からは完全にポジティブと言えます。また自由化によって競争を迫られることで、そのビジネスが大きく改善することもよく見られるケースです。分かりやすい例では、日本には高級果物や和牛があります。コスト競争力や安さでは外国産には勝てないと言う状況は、逆に高品質な果物や世界的なブームにもなっている”Wagyu” を生み出す結果となりました。アジア各国では日本のイチゴが1パック5,000円と言うような値段で売られていることもあります。1粒あたり400〜500円と言う事は、現地ではイチゴ1粒が一回の食事かそれ以上の値段と言う計算になりますが、それでも売れていると言うのだから驚きです。また、もはや英単語ともなった”Wagyu” はステーキの本場であるアメリカでも最高の牛肉と言う評価を受けており、アメリカ産和牛やオーストラリア産和牛まで生産される有様です(種が和牛であれば現地でそれをWagyuと呼んでも良いようです。苦笑)

<和牛はもはや “Wagyu” と言う英単語になった>

 また国内では、AmazonなどのITジャイアントの上陸により小売店のビジネスが存続の危機にありますが、これも長期的な考え方をすれば正しい流れであると言えます。社会とは常に進化するものであり、旧来のビジネスがいつまでも生き残れることはあり得ません。逆にいつまでも生き残っていればそれは何らかの既得権益が裏で守られていると言う意味であり、それは消費者にとってはマイナスでしかありません。誰だって良いものを、より多くの選択肢から、出来るだけ早く、可能な限り安く購入したいのは当然のことであり、こうした環境が生まれることは社会にとっては間違いのない「進歩」であると言えます。ビジネスを営む以上は、時代が求めるものに合致しなくなった商売が淘汰されることは社会全体で考えれば「ポジティブなこと」です。ビジネスとは常に新しい工夫が求められるのが当然であり、常に生まれ変わり続ける、そうあるべきものです。残酷に聞こえるかも知れませんが、それが資本主義の大原則です。資本主義とは100%完璧な社会システムではありませんが、「それでも資本主義は、人類がこれまで生み出した中では最も優れた社会システム」です。資本主義に対するアンチテーゼとして現れた社会主義や共産主義が歴史上失敗に終わった事は、みなさまもおそらく教科書で学んだことでしょう。その100%完璧ではないが現時点ではベストではある資本主義の欠点を補うために生み出されたのが社会保障などのセーフティネットですが、これを可能な限り小さく出来る社会=個人が自立している社会が、動物の一種である人間が現時点でたどり着くことができる限界かつ最適な社会と考えられます。難しい理論に聞こえるのであれば、「努力や勤勉、挑戦は報われるべきだ」と考えればシンプルです。これらが報われなくなった瞬間に、人には怠惰と欲望のみが残る事になります。

 内容が一部被ってしまいますが、ITによる世界の距離感の短縮も、総合的に考えればポジティブと考えられます。今ではインターネットにより世界中の情報を瞬時に知ることができるようになり、インターネットの通話機能を使用すれば世界中に無料で電話をかけることも出来ます(通信量は掛かりますが国際通話料と比較すれば微々たるものでしょう)。オンラインで世界中の人間とチャットや議論をすることができますし、それは文化の相互理解や新しい価値観に気付く事を可能にするものです。またそれを国内に居ながらにして疑似体験することを可能にするVR技術の開発も進んでいます。世界中の「異なる価値観やアイディア」に触れることで、私たちは自分の国をより良く、より迅速に改善出来るようになったと言えるでしょう。さらにはAIやロボットが人の仕事を奪うと言う批判もありますが、人が単純労働から解放される事で、社会には新しい価値やアイデアが生まれやすくなる可能性もあります。こうした技術はグローバルな技術交流、部品供給や分業体制によってその発展が効率的に加速されています。例えばiPhoneであれば、設計やOSとCPUの開発は米国Appleですが、CPUの製造を可能にしているのは台湾TSMCの微細化技術、通信モデムチップは米国Qualcomm、ディスプレイのOLEDは韓国Samsung電子や中国BOE、カメラのイメージセンサーはSONY(カメラモジュール化をLGが担当することもあり)、コンデンサーなどの電子部品は日本の村田製作所や京セラ、メモリーはDRAMは韓国SamsungやSK Hynixと米国Micron Technology、フラッシュメモリーは日本のキオクシア(旧東芝メモリ)や韓国Samsung, SKなどが供給し、台湾のFoxconnやPegatronが組み立てを請け負って、その工場は実は中国やインドにある、と言った具合です。そもそもDRAMやNANDといったメモリーの製造過程で、その製造装置や部品、素材は米国Applied Materialsからだけでなく日本の東京エレクトロンや信越化学工業、ヨーロッパのASMLなどから韓国や台湾へ供給されており、スマートフォンとはその製造に国境を越えた何百社もが関わっている、非常に多国籍な製品であると言えます。近年では、ビジネスが国内で完結することの方が珍しくなりました。

<iPhoneとは複数の国の技術による「合作」>

 もちろん上記のようなポジティブな影響は全て、世界の人々が英語を「世界の共通語」として利用するようになったからに他なりません。共通語が無ければ国家間の関係とは常に1対1でしか成り立たないことになりますので、世界に言語が100あると仮定すればそれぞれの言語の専門家全てが必要となってしまいます。それに対して1つの共通語があることは全てのコミュニケーションをより円滑に、より便利に、より効率的にすることを可能にしますので世界全体としての大きなメリットがあり、不必要な無理や無駄が解消されることにも通じます。もちろん複数の国の人間が同時に話し合い意見を調整することも可能になります。これは「共通語」があって初めて出来るようになった事です。「世界が英語に支配される」と警鐘する人がちらほらいますが、それが100%真実ではありません。ほとんどの国ではオリジナルの母語が使用される状況に変わりはありませんし(例外はありますがあくまで「例外」です)、英語を話すことと各国・各文化のアイデンティティを守ることは決して矛盾しません。むしろ他文化を知ることで初めて、自国のアイデンティティを確認する事が出来るようになるとも言えます。英語を話すようになったらその場所のアイデンティティが消滅したと言う例は、一部の例外を除いてほとんど確認されていません。同じ英語を話す西欧諸国同士ですら、アメリカとイギリスとオーストラリアの文化やアイデンティティは全く異なるものです。

 では、これだけグローバル化による良い側面があったにも関わらず、なぜ「グローバリゼーションには失敗も多かった」と僕が考えるかと言うと、それは「グローバリゼーションによる行き過ぎ」が明確になりつつあるからです。

 分かりやすい例としては移民の問題があります。グローバリゼーションにより世界の国境の壁が低くなったことは良い側面もあったのですが、残念ながら「移民」と言う貧しい地域から裕福な地域への一方的な人の流れを生み出してしまいました。(そうではない優秀な移民も多数いますので、あくまで「一般論」です。)僕は個人的に、各国の人間はその生まれ育った地域を改善するための努力をすべきものだと考えています。戦争や紛争による「難民」は批判できませんが、ただ裕福な地域へ移りたいが、自分は変化も努力もしたくないと言う身勝手な移民には賛成できません。それは混乱を極めるヨーロッパを見れば明らかなことであり、「人の移動を自由にした」結果貧しい地域から一部の都市への一方的な人の移動が発生しており、パリやロンドンに貧困層がなだれ込んだ結果それらの都市の治安は悪化し、地域の文化の良さが損なわれ、元からにそこにいた人々の不満を招き、それが失業者の増加、差別意識の拡大、テロリズムの発生、ナショナリズムの激化、そして更なる移民との衝突と、悪循環を繰り返すばかりの結果となっています。富が配分されるどころか一部の地域が一層豊かになり、貧しい地域はさらに貧しくなると言う逆効果も生み出してしまいました。もともと「理由があって存在していた国境」を消滅させた事は、理想のみを夢みて副作用を考慮しなかった結果の失敗であったと言わざるを得ないでしょう。

<移民排斥デモは過激化の一途を辿る>

 また国家に限らず、全ての地域を画一化しようとする試みも悪影響しか生まないと考えられます。例えば日本国内では全国に新幹線と高速道路が整備された結果、地方にあったエネルギーやビジネス、人材が全て東京に吸われる結果となり、地方経済はもう虫の息と言える状況です。これは本来、地方は地方の特色を生かして発展させるべきであったところを、全ての地域が東京と同じインフラ、東京と同じ箱物、東京と同じ生活を求めた結果の失敗であり、新幹線や高速道路自体が悪かった訳ではありませんが、全国が東京化すればその地域の特色や魅力が失われ、その状況においては東京に勝てる要素は一切なくなるのが当然であり、それなら若者が東京へ行きたいと考えるのは至極当然の結果です。地方は「東京と同じになること」を求めるのではなく、「東京にはない魅力を磨く」事に気付くべきと言えます。近年では一部その点に気づいた地域も見られるようになり、農村の原風景や古民家を活用したビジネスが成功する事例も多くなって来ました。地方の発展とは本来、そうあるべきものです。地域の特色と伝統を守りそれを生かすことが、長い目で見たときにその地域の利益となるはずです。

 同じことがグローバリゼーションにも言えます。世界中のレストランがマクドナルドになり世界中のカフェがスターバックスになれば、こんなにつまらない世界はないでしょう。マクドナルドやスターバックスはそれはそれで価値のあるものではありますが、地域性・文化性をその国が失ってしまえば、全ての活力と人材はアメリカに吸われるだけの結果となることでしょう。当然ですが、マクドナルドとスターバックスしかない国や地域へ旅行をしようと考える人などほぼ存在しません。地域性を失うことは結果として、その地域から人がいなくなり、訪れる人もいなくなり、経済が立ち行かなくなりお金が落ちることも無くなります。地域性を消滅させることはニューヨークや東京のような場所以外にとっては自殺行為以外の何者でもありません。地域性や伝統を重んじることは、全ての国と地域にとって非常に大切な事であると言えるはずです。

 またグローバリゼーションとはこれまで、「特定の思想を他文化に押し付ける」ことでもありました。いくら西洋社会が現時点でまだ最も発展しているとは言え、私たちが不完全な人間という存在である限りは、特定の思想が100%正しいと言う保証は100%あり得ません。西洋社会がその思想を持って世界を標準化しようとした結果生み出されたのがテロリズムであり、テロリズムが悪である事は疑いのない事実ではありますが、本来その原因は特定の考え方を他文化や他宗教に強要しようとした事が原点と言えます。「1つの思想こそが理想である」と考えるのではなく、「自分と他人は異なっているのが当たり前である」ことを全ての世界市民が理解をしない限りは、世界から戦争や紛争、テロリズムが無くなることは決してないでしょう。

<テロリズムとは特定の思想を強要した結果の宗教戦争>

 身近な例に話を移すなら、日本の調査捕鯨に対する民間団体のテロ行為は最たる例です。そもそも鯨の生態系が破壊されたのは欧米諸国の乱獲が原因であり、その状況を生み出した立場から他国に急に捕鯨禁止を要求するのは非常におかしな話です。生態系を守ること自体は正しいと言えますが、もしそれが生態系に影響を与えない範囲内で行われているものであるならば、「鯨は賢い生き物だから食べるべきではない」と言う主張には合理性が無く偽善でしかありません。それは逆に言えば「賢くない生き物なら殺しても構わない」と言う主張であり、「賢いかそうでないか」によって生殺与奪を決定することは人間という生き物のエゴでしかありません。オーストラリアでは「人に害があるから」と言う理由でカンガルーが虐殺されていますが、一方で「鯨は捕獲するな」と言うのであればそれは人間の身勝手な欲望でしかないことは明確です。環境や生態系の保護と言う明確な理由がない限りは「他国の文化に他国が口を出すべきではない」とするのがあるべき姿と言えます。

 結論として、グローバリゼーションの最大の失敗と言うのは、「地域や文化の多様性を殺して1つの理想による画一化を図ろうとしたこと」です。元々異なる場所を無理矢理一体化すればその中で衝突が起こるのは当然の結果であり、特定の思想を押し付けることもやはり衝突と反発を招くだけのことです。経済や技術がグローバル化しても、地域性や文化とは画一化してはならないものですし、その点に関してはグローバル化を追い求めてはならないものです。地域性、文化そして伝統を維持することで初めて「その地域にしかない魅力」が生まれ、その事が最終的にはその地域の持続的な発展にも繋がります。全てを世界基準にすれば良いと言うものでは決してありません。

 全ての人が異なるお互いを理解し尊重すること、つまり「違いを受け入れること」で初めて、戦争や紛争、テロリズムは減少するものであると僕は考えています。そしてそのような「真の多様性を実現すること」と「共通語を話して他文化を理解すること」は決して矛盾することではなく、むしろ相互の違いを理解し尊重するために必要な事であると思います。

 日本にも多くの外国人が移り住んで来る時代となりました。それは人口が減少する国では避けられない事なのかも知れませんが、日本人は日本人としてのアイデンティティを失う事なく、それと同時に異なる文化も受け入れる事が出来る平和な国となる事を願うばかりです。そして私たちが日本人として生まれた以上はその母国と文化を大切にし、少しでもより良い日本の実現を目標に努力して行くことが私たち1人ひとりに課せられた使命であるはずです。(国のために働けと言う意味ではありません。より良い社会を実現するために、マナーを守ったり違いを尊重するなど、自分に出来る範囲のことをしましょうと言う趣旨です)。そして世界のモデルとなれるような日本を実現することで、世界の多くの国々へと貢献することも忘れてはなりません。

<平成天皇は最後の誕生日に「我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」と述べたそうです>

SSEAは英語と世界の多様な文化や価値観をお伝えすることで、そうした多様な社会と平和を実現できる日本と世界を創造することを目指しています。そして英会話を学ばれる方お1人おひとりに、そのストーリーの主役を務めて欲しいと願っています。

イノベーションとは何か

 “innovation”は日本語では「革新」を表す言葉です。ざっくり一般的に言うと、それまでに無かったアイデアで何かを劇的に、あるいは根本的に変える行動や発明のことを指します。

 では、”innovation” とは完全に新しい概念によるものなのか、と言うと、実はそうではありません。それらは実際は、ほんの些細な「気づき」によって生まれるものです。

 身近なスマートフォンを例に挙げてみましょう。Appleのスティーブ・ジョブズが生み出したiPhoneは、それまでの生活やアイデアを完全にひっくり返したイノベーションであることは間違いありません。「スティーブ・ジョブズは天才だった」と言う人は世界中に数知れず存在します。しかし、ジョブズのアイデアとは実は、本当に小さな発想の転換でした。そしてそれは彼にとっては、実は非常に当たり前の結論だったはずです。

 Appleが2007年に世界初のスマートフォンである初代iPhoneを発表する以前から、類似の製品は僕が大学生であった2000年前後の頃にすでに、日本には存在していました。当時のガラケー(フィーチャーフォン)は既に、インターネットへの接続機能とソフトウェア(アプリ)の追加機能を持っていました。ガラケーにゲームをダウンロードしてプレイしていた方も多かったのではないでしょうか。ネットへの接続機能とソフトウェアの追加機能は、今日のスマートフォンとほぼ同じアイデアです。もちろんカメラも既に搭載していましたし、一部の機種は電子マネー機能すら有していました。ただしそのアプローチはあくまで、「携帯電話にコンピューターの機能を加える」と言うものでした。なぜならその当時の携帯電話は電子機器メーカーではなく、通信キャリア(携帯電話会社)が主導して開発をしていたからです。

 ジョブズが考え出したのはシンプルに、これと逆のアプローチ「コンピューターに携帯電話(通信機能)を追加する」、と言うアイデアです。この逆の発想がそれまでの携帯電話をすべて駆逐する絶対的な差となったのですが、アイデア自体は「完全に新しいもの」ではありません。それまでに存在していた技術に「反対からアプローチした」と言う本当に小さな気づきです。それはAppleと言う「コンピューターの会社」をしていたジョブズにとっては、至って自然な気づきだったに違いありません。ただそれを「1番最初に実行」しただけのことです。しかしこの気づきを「実行した」ことこそが、”innovation”と呼ばれるべきことです。気づくだけなら、遅かれ早かれ何人もの人間が出来たことでしょう。その意味ではジョブズは「天才」ではなく「実行者」だったと僕は考えています。

 Amazonのネットビジネス、SNSのfacebookやtwitterにinstagram、Google検索もすべて同じ事です。彼らはそれまでの社会から得たアイデアを「誰よりも先に実行した」からこそ、イノベーションを起こす事が出来ました。「気づき」は絶対的な差を生むものですが、気づくこと自体はそれらの人間のみに可能だった事では決してありません。気づかなければもちろん何も生まれませんが、それを「先に実行した」ことにこそ真の価値があるものです。

 歴史上の革新は全て、気づいた後の「行動」から生まれたものです。重力の概念はニュートンが「物が落ちるのは、地球が引っ張っているのではないか」という気づきを「研究した」からこそ成立した理論ですし、コロンブスによるアメリカ大陸の発見は「地球を反対に向かって進む」ことを実行した偶然の産物です。宇宙が回っているのではなく地球の方が回っているのだと言う地動説は、ガリレオが研究を進めるはるか以前の紀元前から、「地球が宇宙の中心ではない」と言う説が存在していました。ただそれを立証出来たかどうか、という「行動の差」です。気づくこと以上に、それを実行した事にこそ”innovation”がありました。

 「気づく」ことは簡単なことではありません。常識を疑うことが出来るのは、ごく限られた一部の人間のみに可能なことです。しかし、それに気づくことが出来る人間とは実は1人ではないのです。ただしそれを「最初に実行するのは、歴史上に必ず1人しかいない」と言うことです。この実行を最初に成し遂げた人間にのみ、”innovation” の称号が与えられます。

 気づくだけ、考えるだけでは何も生まれません。そのアイデアが正解であろうが不正解であろうが、実行して初めてそれは価値あるものになります。1つの成功とは10,000の失敗からこそ生まれるものです。

 失敗を恐れず、何事も挑戦してみましょう。世界には「やる」と「やらない」という2つの選択肢しかありません。例えばみなさまが英会話の勉強を「実行して」新しい自分の価値を作り出せたなら、それはみなさまの中の小さな、しかし確実な”innovation”です。どんな変化でも、成功のファーストステップとは最初は本当に小さなもののはずです。しかし初めはわずかな変化であったとしても、それを進めて行くことで最終的なイノベーションとなります。一方で、もし何も行動に移さなければ、当然ですが世の中にもみなさまにも、何の変化も訪れません。イノベーションとはそれまでに無かった事を実行に移すこと、それは前例がないので

「やってみなければ、分からない」

“Do it, or not?”

人気の高いラーメン屋ほど「お支払いは現金のみ」が合理的であるのはなぜか

 海外の人と触れ色々なことを比較する中で感じるのは、日本人は「マネーの話に恐ろしく疎い」という点です。その是非はまたいつか触れるとして、今後の子供たちはやはりそのような知識も必須になって来ますし、世界を相手に戦っていくには避けられないスキルでもありますので、本日のブログ記事はあまり英語やコミュニケーションとは関係はないようにも見えますが、日本人として無意識に常識として信じてしまっていること、あるいはそう錯覚させられてしまっていることを「常識の殻を破る一歩」として書いてみたいと思います。この気づきの一部は僕も、海外での経験から日本を見たときに初めて辻褄が合ったものです。

 キャッシュレス全盛にも思われる今のIT化時代、クレジットカードや電子マネー、バーコード決済が使えないなんて合理的でない、単純にそう思ったことは無いでしょうか。僕も20年前に米国でスピード違反で捕まった際に、その罰金の支払いがクレジットカード1枚で済んだことに感動を覚えて「アメリカはやっぱり何でも進んでいる」、そう思ったものです。

 しかしながら最近、様々な知識も増え以前よりもっと多角的な方向からものごとを考えられるようになって、改めて新しい気づきとして逆の方向へ考え直したことがあります。日本でもコロナ禍もありキャッシュレスや非接触の導入が当然との空気も漂う中でも、「人気のあるラーメン屋さんほど、実は現金しか使えない」という事実から学んだことです。

 これは消費者側から見れば単純に「不便だ」「時代遅れ」としか見えないかも知れませんが、そのようなお店ほど本当は価値が高い事には、実はれっきとした合理性があります。「人気が高い事にあぐらを書いている殿様商売だ」と感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、自らビジネスを興してみたからこそ僕がいまハッキリ言えることは、「現金しか使えないラーメン屋ほど、商品の価値が高く訪れるべき店であるのは間違いない」ということです。

 この理由を理解するためにはまず「日本の金融事情」と「ラーメン屋と言うビジネスモデル」の2つを、その構造や競争環境も含めて理解する必要があります。

 まず日本という国の金融事情からひも解いて行くことにしましょう。「日本の金融手数料は高い」という話は、経済やマネーに詳しい方ならどこかで耳にした事があるかも知れません。銀行の振り込み手数料もそうなのですが、まずは消費者にとって身近である「クレジットカード」の仕組みを例にして順に見て行きたいと思います。ここの原則は、QRコード決済や電子マネーでも基本的には同じです。 

 現金を使ってもクレジットカードを使っても「支払額は同じはずだ」、そう思っている方がほとんどかと思いますが、実は仕組みとしてはまったくそうではありません。クレジットカードは消費者は年会費を除いて手数料なしで使用できる決済手段ですが、では誰がその手数料を負担しているかと言えば「クレジットカード加盟店」、つまり支払いを受け付けている店舗や組織になります。つまりクレジットカードは「無料で使用できるものではない」のであり、そこにはしっかりと支払いごとに金融手数料コストが発生しているのです。カード会社も民間企業であり、システムや広告に多額の投資をして従業員には国内平均よりもかなり高額な給与を支払っていますので、その使用にコストが発生するのは、よく考えて見れば当然と言えば当然です。

 この「加盟店が負担する手数料」は個別の契約にもよりますが、一般的に海外では2%程度であるところ、日本では「平均で決済額の3%強」と言われており、零細加盟店なら4%~5%に上ることもあります。決済金額に対するこの一定の割合の決済手数料はカード会社の収入となり、その手数料を差し引いた金額が後から加盟店に払い戻されるのが、近年シェアを拡大しているQR決済を含む、一般的な「キャッシュレス決済」の仕組みです。さらに、この一定の手数料とは別に、決済回数に応じた取扱い手数料が設定されている事もあります。加えて、加盟店にはオンライン決済を行うための機器の導入あるいはリース費用、その機器をオンラインにしておくための通信コストなども必要となって来ますので、キャッシュレス決済を行った場合の加盟店の最終的な負担割合(ここでは、現金決済と比較した際の損失割合)は、最低でも5%から、場合によっては10%近くにもなります。

 例えば、ある飲食店で800円の決済を行うと仮定してみましょう。飲食店の場合、この「800円」という価格には様々なコストが含まれていて、原材料費や調理のための光熱費はもちろん、店舗の家賃や従業員の人件費、事業にまつわる広告費や税金までを総合的に計算して、それで飲食店にも最低限の利益が残るように価格を設定します。もちろんお店にもよるかと思いますが、特にお酒を伴わない外食に関しては、最終利益で売上高の10%を見込めるレストランはそう多くはないでしょう。あのマクドナルドでさえ、ハンバーガーではほとんど利益がなく、収益の大半は実は飲み物とフライドポテトからと言われています。ここでもし800円の飲食の利益率がお店側で10%に設定されていたとして、現金で支払われる場合はお店は80円の利益を得る事となりますが、これがクレジットカードで決済された場合は利益はほぼゼロとなり加盟店としては働き損であるばかりか、キャッシュレス決済はその支払いが後日に入金される仕組みであるため、下手をすれば「ただカード会社に1ヵ月程度、利息なしでお金を貸すためだけに食事を提供した」ことになります。ですので飲食店の多くが食べ物だけではなく「飲み物を勧めて来る」のは、利益率の高い飲み物で収益率を整えるためにやむを得ないことだと考えられますし、欧米ではレストランでは飲み物を最低1杯はオーダーするべきとの文化があるのは、マナーの話を越えて、ビジネスモデルの裏にある利益率が影響をして来たのは間違いないでしょう。それは欧米の消費者からはレストランに対する敬意であると同時に、そうしてもらえなければそもそも外食産業とは「成立できない」のです。

 みなさまもレストランを訪れた際に「ランチではクレジットカードは使えません」と言われたり、「カード利用は3,000円以上からになります」と言われた経験が、1度はあるのではないでしょうか。「同じレストランなのに、なぜ場合によって違うのか」と思われるかも知れませんが、不思議に思った時にはレストラン側の視点から考えてみてください。これは金融手数料の仕組みを考えれば非常に自然な結果であり、少額の決済をカード払いにされてしまった場合、利益率の薄いビジネスはもうその商品を提供する意味そのものが無くなってしまうのです。そして皮肉なことに、利益率が薄いことは消費者に負担を押し付けないという経営努力の裏返しでもあります。

 僕が以前にモロッコを訪れた際には次のような経験がありました。お土産屋さんでカード払いをしようとしたところお店の店員さんの態度が急変して、「カード払いなら値段は5%アップになる」と言うのです。若かりし僕は当時は「そんなバカな」と思ったものですが、今になってよくよく考えてみれば当然のことでもあり、そのお店の定価には本当に、現金払いを前提とした最低限の利益しか入っていなかったのでしょう。その際は結局現金払いとしましたが、実は同様の例は日本にもあります。税金や公共料金の支払いをカードで支払おうとすれば、国税や都税の支払いサイトでは税額に加えて「決済手数料」が上乗せされる仕組みになっています。税金とは必ず決まった額を集めなければいけないことから結果的にこうなるのですが、いずれにしても真実としては金融決済コストとは「無料ではない」のであり、カード払いやキャッシュレス決済で現金と同じ価格を支払っているように消費者の立場では感じても、実はその価格には「手数料のためのコスト」もあらかじめ上乗せされています。そのため逆に考えれば、現金とカード払いで価格が同じ場合は「金融決済の分の余分なコストはあらかじめ価格に入っているのだから、現金払いをした人は純粋に少し無駄な費用を払っている」と考えることもできます。

 日本では「キャッシュレス決済が進まない」と声高に言われていますが、その根本的な原因は「日本人の現金信仰意識」とか「高齢者が多いから」とか、そのような精神論的な話では実は全くなく、この「金融決済手数料が他国に比べて高い」ことが最大の原因です。他国ではカード決済でもコストの上昇幅がトータルで2%程度に抑えられる場合もある一方で、日本ではこのキャッシュレス決済による損失額の割合が最大で10%近くにもなります(決済事業者との契約条件やビジネス環境にもよりますが、決済回数の少ない零細加盟店ほど手数料の利率が高くなると考えるのが妥当です)。これは国内の金融決済システムや銀行にも構造的な問題があり、キャッシュレス決済の決済手数料に留まらず、それが加盟店に入金される際には「銀行間送金手数料」も最終的に必要になるからとも言われます。近年この「銀行間送金手数料」はなんと半世紀ぶりにようやく引き下げられたものの、それでも根本的な問題は同じままであり、日本社会では見えないところで国民全員が金融事業者と銀行を社会インフラとして無意識かつシステム的に支えてしまっており、この高額な決済手数料と銀行間送金手数料が、加盟店のキャッシュレス決済導入を妨げている原因となっています。この環境はビジネスの視点から見ると、キャッシュレス決済を導入することにデメリットが多すぎて「加盟店は合理的なメリットを見いだせない」状況と言えます。

 さて、金融の話が長くなってしまいましたが、ようやくここでラーメン屋の話へ入って行きたいと思います。なぜ人気のラーメン屋ほどキャッシュレス決済を導入しないのかと言えば結論は非常にシンプルで、「ほとんどが零細業者である人気ラーメン店がキャッシュレス決済を導入すれば、競争に簡単に負けるから」です。これは「ラーメン屋というビジネスはコストパフォーマンスを極限まで追求したものである」ことに大きく関連しています。 

 みなさまもだいたいイメージをお持ちだと思いますが、人気のある高級ラーメン屋でもその基本的な価格は1杯1,000円未満に抑えられていることが一般的です。そしてラーメン屋ではこの低価格でラーメンを作るのに、信じられないほどの時間と手間、多くの材料が注ぎこまれていて、ラーメンとはコストパフォーマンスでは他の料理の追随を許さないほどに価値のある食べ物と言えます。多くの材料費がかかる料理で、他のコストを抑えると同時に販売量を確保する必要もあることから、店舗は1人または2人といった超少人数で業務を回していることが多く、食べたらすぐに出て行ってもらうことで回転率を確保する必要もあります。ラーメン屋で「1人1杯は必ず注文を」「小さなお子さまのご入店はお断りします」という貼り紙をご覧になったことがある方がいらっしゃるかも知れませんが、これは極限まで回転率を高めて効率的に販売量を確保する必要がある競争環境を考えると、もちろん良い気持ちにはなりませんが、理解できる部分があるのも確かです。そうした「極限の効率性」を維持しなければ、ラーメン店とはビジネスそのものが「環境的に成立しない」からです。

 さて、みなさまももうお察しかも知れませんが、このような「極限の経営努力」が求められる競争の激しいラーメン業界でキャッシュレス決済を導入しないことは、彼らにとっては「完全に合理的」なのです。国内ではキャッシュレス決済により最大で10%程度のコストが上乗せされてしまうため、単価が1,000円未満のラーメン屋では現在の価格設定では単純に赤字になってしまうか、価格そのものを値上げする必要が出て来てしまいます。ご存じのようにコストパフォーマンスを極限まで高めて競争しているビジネスですので、10%の値上げはそのまま「競合店に負けて店をたたむしかない」ことを意味します。

 そのため、おいしいラーメンで集客したいとの考えで経営をしているラーメン屋であればあるほどキャッシュレス決済にコストをかける合理的な理由はまったくなく、もしそのコスト分の余裕があるなら、むしろもっと質の高い材料を使ってラーメンを作ることで、お店の価値をより高めようとするはずです。これが僕が「お支払いは現金のみであるラーメン屋ほど、美味しいラーメンを作れるはずだ」と考える理由であり、そこには精神論やカルチャーの問題ではないラーメン業界特有の「合理的かつ明確な理由」があり、もちろんラーメン屋さんの個々のポリシーや信念の問題でもなく、経済合理性に照らした「マネーの取り扱い方」に理由が存在しています。「どんな人気店でも10年経てば飽きられる」とまで言われるラーメン業界で、キャッシュレス決済という「無駄なコスト」を店舗がかける理由は、どこにもないのです。僕が自分ならどちらを選ぶかを「消費者の立場」から考えてみても、クレジットカードで払えるけど味はまあまあで900円のラーメンより、現金しか使えなくても同じ900円で「これは美味しい!」と感動できるようなラーメンを提供するお店を必ず選ぶのは間違いありません。

 ただしこの「キャッシュレス決済はビジネスにとってメリットがない」ケースは特定のビジネスモデルに限った話であり、高い取扱い手数料をかけてでもキャッシュレス決済にした方が合理的にメリットがあるビジネスも、たくさん存在します。たとえばECの店舗やオンラインビジネスはそもそも現金を受け取るための実店舗を持ちませんので、専用の支払い場所を設けて人間を置いておくよりはすべてオンライン決済にしてしまった方が、むしろ商品やサービスを安く提供できるでしょう。商品を全て定価で売っていて利益率が高いコンビニなども同様で、利益率がそもそも高いこと、どこも同じ商品を売っていて差別化ができないため支払い利便性も大切であること、膨大な量の現金の入出金や運搬に逆にコストがかかることから、現金の取り扱いを減らす方がより効率的なサービスや商品を提供できるでしょう。単価が高い高級レストランや高級品を販売するお店も同様で、1回で大きな利益を出せることや高額な現金を持ち歩く人は少ないことから、やはりキャッシュレス決済にした方が合理的なメリットが大きくなると考えられます。

 なぜかイメージ優先で消費者にとってどちらが便利かとの視点からだけで語られがちな「現金かキャッシュレス決済か」の問題ですが、僕としてはむしろこのように冷静に「どちらの方がマネーや商品の価値に大きなメリットをもたらすか」という合理的な計算をベースとして総合的に考えてみるべきかなと思います。そのような視点を持つことで、少なくともラーメン屋さんのように「本当に価値のあるもの」をより確実に選ぶことができるようになるでしょう。

 日本人は真面目な民族性であることと、他者の話を受け入れやすい集団的な性格であることから、「何事も完璧でなければならない」「便利にしないことは怠慢だ」「新しいテクノロジーは良いはずだ」「そうするのは時代の流れだ」と精神論的な視点で考えがちですが、他国へ行ってより多角的な例を見てものごとを考えると、「本当に合理的なこととは実はそうではなく、最終的に残るマネーの問題として捉えるべき」ということに気づかされる事があります。僕が海外で気づいたこととは、全てが完璧であることは無駄なコストを生むだけであり、実は損失の方が大きいという点です。ビジネス用語にも「選択と集中」という言葉もありますが、僕としては必要なものとそうでないものを冷静に仕分けて価値付けや優先順位付けを行うと言う「完璧を目指さないことの合理性」により、日本の社会や経済はもっと良くなるのではないかなと思っています。

 まったく種類の異なる話にはなるのですが、かつて「世界一の品質」を誇った日本のソーラーパネルが、なぜ世界のマーケットで敗北する結果となったかを振り返ってみたいと思います。10年以上前とかなり昔の話にはなるのですが、当時日本のソーラーパネルの発電効率は世界一で、他国のメーカーの追随は許さないほど優れていました。

 では、なぜそのような素晴らしい商品がシェアを失ったかと言えば単純で、消費者に合理性を提供できなかったからです。日本のソーラーパネルが最高品質を誇った時代、競合メーカーであった海外メーカーはこう考えました。「80%の発電効率でも、価格が50%なら勝てるだろう」。

 これが完全に合理的にマーケットにヒットして、日本製のソーラーパネルは世界の市場で駆逐されることとなりました。よく考えれば単純な話で、効率80%のパネルを2枚購入すれば価格は同じ、しかし総発電量は160%になるのです。この競争において、高品質だけど価格が高すぎるパネルを買う人はいません。単純に「オーバースペックで高いだけ」になってしまったのです。

 このように、完璧を目指さないことによって合理性が高まるケースはいくらでもあります。例えば、僕が米国ロスアンゼルスを訪れた当時、市内を走るメトロにはなんと「改札がありませんでした」。

これは「信用乗車方式」と呼ばれるもので、海外の地下鉄や鉄道には結構あるパターンなのですが、全てをチェックしなくても乗客は一定の割合でチケットを買うだろうとの「信用」をベースに、買わずに乗車する乗客分の損失は最初から諦めることと引き換えに、自動改札機や係員、システム構築を省略することでコストを大幅にカットする方式です。「そんなことをしたら誰も払わないだろう」と感じるかも知れませんが、そこはちゃんと対策も施してあり、「稀に」出口に警察官が立っていて、チケットを持っていない乗客は高額な罰金を課される仕組みになっています。米国ではスピード違反の取り締まりも「一番速く走る車を捕まえる」のではなく、たまたま前にいた車が「少しでも速度超過したら捕まえる」ような感じになっていて、完璧な結果を実現するよりも人間の心理を利用して全体を「ある程度」抑制する方式によって、最終結果を合理化・効率化して社会の損失を減らしているのだなあと感じました。ロサンゼルスのメトロの出口で僕がその取り締まり警察官に遭遇した時、僕がちゃんと切符を買って持っており捕まることはなくホッとしたのは、必要ありませんが強調しておこうと思います(笑)(最初から1日券を買ったので、運もあったとは思いますが…)

 また、近年ではアフリカへの中国企業の進出が目覚ましいと言われていますが、中国製の商品の品質は良くなって来ているとはいえ、一部を除きまだまだみなさまが持っているイメージ通りであるのもまた真実かと思います。これは技術が追いついていないことや社会の怠慢といった要素もゼロではないのでしょうが、実は「低品質で良いのだ」とビジネスとして意図的に割り切っている部分があるのではないかと僕は考えています。

 先日、アフリカでまだ開通もしていない中国製の橋が崩落したとのニュースがあり驚いたのですが、アフリカの人々はそれでも「ああ、中国製だからね。壊れたらまた作れば良いのさ」と笑いながら言っているのです。おそらく先進国の価値観では理解が難しいかも知れませんが、まだ発展途上であるアフリカではそれこそが合理的なのであり、アフリカには「100年壊れない橋」はまだ必要なく、むしろ10年も持たない橋であっても初期投資を抑えてとにかく建設することで、今後の発展の基礎を少しでも早く整える方が総合的には合理的なのです。中国のビジネスは、発展途上国の顧客にとって必要なことを先進国のビジネスよりもちゃんと理解していると言えるのかも知れません。いずれにしても、相手のニーズを理解しないまま自らの価値観を持ち込んでも、ビジネスとして成功しないことは様々な結果が証明しているかなと思います。

 さて、最終的にラーメンの話からだいぶ遠ざかってしまいましたが、本ブログの最終的な趣旨は「常識に捉われると、合理性は見えなくなることがある」という点です。私たちには無意識のうちに「正しいと信じてしまっていること」がありますので、その価値観を一度裏切らせることで、私たちは価値観をリセットし続けて行く必要があるのかなと思います。過去の成功体験は忘れて、そもそも生まれながらにして「人間そのものが不完全な存在であること」も変数として計算に加味し、自らの価値観や経験は完璧では無かったことを認める勇気を持って、相手の立場から物事を考えて見たときに、より正確な何かが再び見つかるものなのかも知れません。いつまでも子供のような冒険心や探究心を持っていることも、実は有効かも知れませんね(笑)

 正しさの基準そのものを考え直すことで、あなたの周りの世界や人生は、少し良い方向へ変えられるかも知れません。そうした価値観の基準そのものを変えてみるために、ぜひ一度、世界へ出かけてみませんか。

2つの”equality”:「機会の平等」と「結果の平等」

 みなさまこんにちは。最近は文字ばかりの記事になってしまい恐縮なのですが、本日は僕が組織を運営するにあたって常に悩みどころともなっている「機会の平等」(Equality of Oppotunitiy)と「結果の平等」(Equality of Outcomes)について、書いてみたいと思います。

 最初に結論のようなことを書いてしまうと、「平等」に関する問題には、完全な解決方法と言うものは、実は存在しません。そもそも「何を平等と考えるか」によって、大切にすべきことが変わってしまいますし、上記した「機会の平等」と「結果の平等」は、実は必ず相互に矛盾する(includes a mutual contradiction)存在だからです。つまり、私たちが平等な環境を実現するための取り組みというのは、実はこの「機会の平等と結果の平等の間の、どこでバランスを実現するのか」について、人々が自らの属性の利益を追求するための駆け引きとして行っているに過ぎません。どちらかの平等を追求すれば、もう一方の平等は損なわれる。残念ながら、それが人間が形成している社会と言えます。

 一般的には、私たちは「機会の平等」を尊重すべきだとほとんどの人が認識しています。国籍や宗教、ジェンダーや年齢に囚われず、全ての人が等しく機会を与えられるべきである。この概念だけを1つの視点から見た時には完全に正しいように見えるのですが、その裏には、ネガティブな副作用も隠されています。しかし、その副作用やネガティブな側面については、残念ながら昨今のメディアや学問で「主流の意見として」取り上げられることはほぼありません。

 僕自身も組織を運営していますので、機会の平等が限りなく実現されるような仕組みを社内に導入しています。日本人だけでなく、欧米を中心に多くの国籍のメンバーが働いていますので、出自やジェンダー、年齢ですら区別を付けずにチャンスがあるような「能力評価」のシステムにしています。頑張って結果を出した人こそがその分評価され報われる姿を日々確認できていますし、その新しい組織のあり方には一定の満足を感じています。日本でもようやく欧米型の「ジョブ型雇用」を取り入れる大企業も現れ始めましたが、SSEAという組織には少なくとも、従来の日本企業とはまったく異なった価値観と企業文化が存在しているのは間違いありません。幹部の半数が外国人ですし、その中には女性もチームの一員として参加しています。「頑張れば、出自や性別、年齢に関わらず、誰でも報われる」、それを当たり前のことにしたいし、そうすべきであるというのが、ここまでの組織作りの大前提として大切にして来た事でもあります。

 一方で、機会の平等を尊重するためなら「結果の平等はないがしろにしても良いか」ともし聞かれるとしたら、それもまた違うのかなと考えています。

 議論の余地はもちろんありますが、ものすごく単純に分けて考えるのであれば、これまで欧米社会、特に米国は機会の平等の実現を追求して来たのに対し、日本社会はどちらかと言えば「結果の平等」を大切にして来たように思えます。日本ではメンバーシップ型雇用(終身雇用:Lifetime Employment)によってほぼ全ての社員が退職までの生活とその後の年金を保証され、主に年齢と就業年数によって昇進が決められ(年功序列:Seniority System)、悪い言い方をすれば「頑張っても頑張らなくても、結果はあまり大きくは変わらない」のが、これまでの日本社会でした。みなさまも、まったく仕事をしているように見えない課長や部長を、どこの会社でも見かけたことがあるかと思います。極端に言えば、これまでの日本の社会では「真面目に頑張る人ほど、損をする状態になってしまっていた」ことを、日本企業で勤務したことがある方なら誰もが実感して来たのではないでしょうか。

 この点は海外と日本の社会を比較すれば、多くの側面で違いを確認することが可能です。近年は国内では「格差が広がった」と、まるでこの世の終わりかのようにネガティブに報道するケースが目につきますが、その状況を加味してもなお、日本はまだまだ他国と比べれば「他国と比較することが馬鹿馬鹿しいくらいに、圧倒的に格差が小さい社会」です。格差が広がること自体が良いのか悪いのかは後半で再度触れますが、事実としては日本ほど格差が小さすぎる社会は、世界広しと言えども、極端な福祉制度を持つ北欧くらいかも知れません。米国の投資銀行の駐在員として日本に滞在した日本支社のCEOが帰国時に述べた感想が

「日本は世界で最も大きな規模の社会主義国だ」

だった、との笑い話は冗談ではなく、社会制度や規制によって、本当に社会主義に近い状況に結果的になっていることを象徴したひと言だったのかと思います。少なくとも、海外から見ればそのように見えるのが日本の社会制度です。

 例えば、日本ではなぜか「学歴は大切なのか」という話題がたびたびメディアで繰り広げられますが、こんなことを真剣に議論するのは日本人だけではないかと思います。残念ながらこの点は国内メディアも井の中の蛙になっている(正確には、メディアだけでなく日本では読み手がそれを求めているからこそ、そのような趣旨の記事や番組が増える)と感じるのですが、日本人が学歴云々を議論する間にも、海外では日本以上の超学歴社会が繰り広げられており、大卒と高卒では人生は天と地ほどに変わってしまいます。欧米ではさらに、大卒どころか修士や博士の学位を取得することも当たり前のように推奨されており、大卒でも高卒でも平均年収の差が1.5倍にもならない日本社会は、世界の中ではむしろ「異常なほど格差を認めない社会」となっています。欧米ではスチューデントローンを組んで、借金をしてでも大学を卒業して働きながら返済して行くのが当然ですし、社会に出たあとでも、年間で1000万円の学費にも達する大学院へ戻るために数年間は働いて貯金をし、さらに高度な学歴取得を目指して人生設計を組み立てるのが普通です。

 また、日本の税の仕組みや社会保険なども、例外に漏れずに日本人の価値観を反映したものとなっています。所得税に関して言えば累進課税が設定されているので、例えば頑張って働いて年収が1,000万円に到達すると、その収入の約半分は税金と保険料で消えてしまいます(所得税や住民税だけではなく、健康保険料なども収入に応じて増減するため)。一見とても公平なように見えるのですが、ここでは頑張った結果は報われるべきという「機会の平等」よりも、収入が多い人はその分を他人に還元すべきとの「結果の平等」が優先されているのが、今の日本社会です。収入の半分を失うために、昼夜を問わずに必死に働いて何かを努力しようとする人が、果たしているのでしょうか。日本人はよく「集団のために生きている民族」と海外から揶揄されることがありますが、これは国民性だけではなく社会制度そのものもこうした目的を達成するための設計となっていることを、私たちも正確に知っておく必要があるでしょう。結果の平等を尊重する社会とは、反対に言い換えれば「努力を搾取している社会」でもあります。歴史上で社会主義や共産主義が失敗に終わって来たのは、結果の平等を追及すると誰も努力をしなくなり、社会と人間そのものが腐ってしまうからです。残念ながら人間とは、競争が無ければ怠惰になり腐る生き物であることは、すでに歴史が証明しています。

 さて、ここまで書いて来た内容を読んで「単純に日本を批判している」とお感じになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、実はそのような意図でこの記事を書いているのではないことを、一度立ち戻って確認しておきたいと思います。ここまで書いて来たことはあくまで比較対象としての「事実の羅列」であって、僕の意見や考えとは異なることです。むしろ冒頭でも述べた通り、「機会の平等を一方的に追求することには、罠もある」というのが、ここで本当に明らかにしたいことでもあります。

 先日、「ジョブ型雇用は実は欧米ではもう時代遅れのものなのに、日本は今から導入しようとしている」と書かれた記事がありました。これはまさに僕も同じことを感じています。ジョブ型雇用で、つまり能力のみを絶対かつ唯一の評価基準として組織を運営しても、そもそも人間には感情があり機械の部品ではないので、結果的には上手く行かないと、ここまでの組織作りの経験で僕も理解して来たことでもあります。ですのでSSEAでは、あくまで機会の平等を基本原則としながらも、結果の平等が損なわれ過ぎないよう、「バランスを取るための決定」も忘れないようにしています。純粋な弱肉強食だけではやはり、組織や社会は良いバランスでは成長しないと感じているからです。そのためSSEAではビジネス原則を基本としながらも、多くの企業では一般的に(どれだけ包み隠しても)絶対の正義とされている「利益第一主義」や「売上至上主義」は敢えて排除し、顧客満足と従業員のウェルビーイングを利益よりも先にまず実現すべきことに据えています。そこはおそらく、SSEAという組織が利益の最大化自体を組織のパーパスとせず、社会貢献をその存在価値としているからこそ可能なのかなと思います。欧米型の考え方やシステムを取り入れつつも、そもそもアメリカとヨーロッパとオーストラリアで既に相互にまったく異なっている価値観やシステムを常に比較し、日本の良いところも加えながら、「ベストミックス」して新しい組織の在り方を生み出すことをマネジメントの前提としています。いかに米国が世界の最先端であっても、米国のビジネスをコピーすることはここでは全く望んでいません。むしろ、米国を上回る良いものを実現するべきだと考えています。

 現在の米国での「社会分断」(Social Segregation)の深刻さはたびたびニュースで取り上げられていますが、それでも日本で普通に生活する方々がその深刻さを本当の意味で理解することは、非常に難しいことなのではないかなと思います。この社会分断の原因には「弱肉強食社会での階層化」が根底にあり、機会の平等を追求したいリベラル主義と、宗教に基づいた「古き良き」伝統的な価値観を維持したい保守的な中間層が、相互に話し合うことすらもはや不可能になってしまうくらいに対立を深めてしまった結果であると言えます。AなのかBなのか、白なのか黒なのかという、2択のどちらかを双方が「絶対正義」と考え、その選択を迫るような価値観が強まった結果、今のアメリカではおよそ人口の半分の人が「2030年までにアメリカは内戦に陥る」と感じているそうです。それが実際に武器を使った姿の内戦になるかどうかは分かりませんが、機会の平等を絶対の理念として追及して来た結果、米国は社会に大きすぎる格差と階層、対立・紛争と不理解を副作用として誘発して、社会がバランスを取るための機能を失ってしまっているように見えます。相互に対する理解や思い遣りを欠き、ただひたすらに相手を否定すること自体を目的とする前提の姿勢と議論では、社会がより良い姿を実現する事は不可能と言えるでしょう。格差が異常なまでに小さく、妥協や集団生活を重んじる日本人の価値観はその対極にあることから、日本人がこのような「社会分断と格差の現実」を本当の意味で理解し実感することは、ほぼ不可能なのではないかと思います。

 ただ、ここで確認しておきたいもう1つの事実は、これは本当に「残酷な社会の真実」だと思うのですが、「分断された社会や格差は、一部の既得権益や富裕層、国の経済や資本家にとっては、むしろポジティブ」だという点です。近年に「伸びている」企業や経済、あるいは国家では一部の大企業や資本家と富裕層の利益だけが物凄い勢いで増えていることがほとんどであり、こうした「経済の先導役」がいて初めて、国際競争に勝ち抜き経済や平均所得が向上するのが現実です。中国では「富めるものから先に豊かになれ」として社会の格差を容認した鄧小平による改革開放が現在の経済発展のきっかけとなり、米国であればGAFA、韓国であれば財閥企業(特に経済の20%を占めるサムスン電子)、台湾であれば世界の半導体の中心プレーヤーともなった台湾積体電路製造(TSMC)などのIT関連企業、シンガポールや香港であれば富裕層による金融と投資が経済を支えていますが、これは「国民全員が豊かになった」とのイメージとは全くに異なる姿の「発展」であり、どの国家や地域でも日本とは比較できないような深刻な格差問題と社会分断を抱えていますが、そうした面は国内で報道の場にあがることは非常に稀です。社会の上位10%~20%に富が集中する方が社会の平均値は素早く上昇するのですが、逆に考えればそれは社会の80%を形成する「苦しい庶民」の犠牲と、そこからの搾取によって成立している「平均値という名前の数字上の発展」でもあります。日本以外の国の経済の「平均値」を考えてみても、実は何も参考にならないことは、直接その国の人々と触れてみれば、よく分かることです(平均値は富裕層や大企業が一気に押し上げているものであり、その「平均値で生きている人」は、格差社会には多くは存在しません)。まだまだ中間層が社会の最も大きなウェイトを占める日本人はとにかく格差にアレルギーがありますが、経済成長(平均値の底上げ)を達成するためには「格差社会の方が優れている」のもまた、知っておかなければならない残酷な現実です。

 当然こうした「格差社会」には、多くの犠牲が内包されています。富裕層が超高級車やプライベートジェットで豪遊する一方で、中間層を含む庶民は病院で満足な医療も受けられないのもまた米国社会であり、金融や投資で豊かな地域では、肉体労働のような社会の厳しい職務を負担し、その生活が向上する可能性は与えられていない「奴隷のような労働力」が社会を支えています。「機会の平等を尊重して豊かになった社会」(平均値が押し上げられた社会)とは、必ずしも美しいことばかりではないのです。必ず勝者と敗者に分けられて、同じ人間とは思えないくらいの立場の違いを受け入れるか、感情的に受け入れられなければ、社会分断と治安の悪化を副作用として誘発する。残念ながら、格差社会で競争に敗れることとなるほとんどの人間は機会の平等を論理的に受け入れて大人しく平和に暮らすことを受け入れないので、社会分断と治安悪化は、機会の平等という美しい響きの単語とセットで、必ずやって来ます。こうした「機会の平等を追及することの裏に存在する現実」も、私たちは未来の社会を描く際には知っておかなければならないでしょう。

 さて、僕の中で「機会の平等と結果の平等のどちらを尊重すべきか」という宿題については、残念ながらまだ答えが出ていません。というよりは、ハッキリとした答えは絶対に見つからない問題なのだろうということが、既に分かってしまっている、と言う方が正しいかなと思います。

 機会の平等と結果の平等は必ず相互に矛盾しますので、どちらか一方を追及するのではなく、どこにその理想的なバランスがあるのかを探し続けるのが僕の課題の1つかなと考えています。チャンスが平等にあり、頑張ったことが報われるべきというのは組織や社会の最低条件ですが、一方でそこに、人の生命や幸せといった基本的人権に対する犠牲があってはならないとも感じます。

 運の良いことに、SSEAには国籍も価値観も文化も、もともとバラバラであった多様なメンバーが集結しています。その多様性の中でバランスを取ることで、どこに理想的なバランスがあるのか、その永遠に答えは出ないであろう宿題に今後も取り組んで行ければと僕は考えています。

 また、いま僕がこうしてメディアに書かれている情報をいったん疑い、ゼロベースから物事を考えるようになったのは、やはり英語が話せるようになり、多くの外国人と直接触れ合って来たおかげかなと、常に実感しています。みなさまにもぜひ、少しでも英語を身に付けて、オンラインからの「情報」では分からない本当の世界の姿を、「経験」として発見していただければ幸いです。

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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「育てる」ときに大切だと思うこと

 しばらくぶりのブログ投稿になります。今日は「育てる」と言うトピックについて、書いてみたいと思います。

 日々多くの生徒さまに接しながら感じることなのですが、「その方の力をどうやったら伸ばしてあげられるか」と思い悩むのは、教育に携わる方のみならず、子供をお持ちの全ての親御さまや、企業や組織で社員や後輩の育成に携わる方まで、多くの人々が「難しい」と感じることなのではないかと思います。本日は僕が「人を育てる」ことについて「欠けてはならない」と思うことを2つ挙げてみたいと思います。

最初に結論をシンプルに箇条書きしてしまえば、この2つは英語教育に限らず、必ず必要なことなのではないかと思っています。

A:相手の成功体験を作ることで「自信とやる気の土台を作ってあげる」こと

B:相手に教える行為が「自分のためではなく、相手の利益になっている」こと

 まず「自信とやる気を作ってあげる」ことですが、これは人生の全てにおいて、もっとも大切な基礎であると僕は考えています。英語に関して言えばもちろん「単語」や「文法」、「発音」や「スピーキング力」など、スキルとして指導しなければならないことは限りなくたくさんあるのですが、そのステップに進む以前に、まず学習される方に「モチベーション」が無ければ、どれだけ内容が素晴らしい指導でも時間や費用の無駄になってしまうものかなと考えています。モチベーションとは動機、つまり「何かを頑張るための目的」です。

 「帝王学」という学問がありますが、これは将来に大きな組織のリーダーとなるためにはとにかくまず「揺るがない自信」を醸成することが大切と考え、幼少期にはとにかく褒めることや成功体験を積み上げることで、大人になったときに困難なことがあっても崩れてしまわない強さと自己に対する自信をまず作り上げることを目的としているように思えます。そして帝王学の基礎はまず「幼少期」にありますので、何より子供とは「まず自らの親に認められる」ことに全てがあり、そのステップをクリアすると次は「友だちや先生に認められること」となります。日本にも「三つ子の魂百まで」とのことわざがありますが、人生の70%以上は、実は生まれた直後の家庭での体験に左右されるものかも知れません。

 ですので僕が子育てをされる親御さまにまずお勧めしたいのは、否定による教育を重視しすぎないと言うことです。もちろん、一定の負荷をかけることで耐性を持たせることも必要なのですが、これに偏ってしまうと、スキルは一見は身についているように今は見えても、将来に自信が持てずに自我が崩壊してしまいます。「良く出来たことは手放しで褒めて、悪いことをしたら叱る」、この両方がバランス良く存在して初めて、褒めることと叱ることは相互に効果を発揮できます。

(誤解を招かないように強調しておくと、これまでの否定が中心の教育では上手く行かないから、何があっても叱らず、悪いことをしても無理矢理ただひたすら褒めれば良い、ということも明らかな間違いです。英語では甘やかすことを”spoil”と言いますが、spoilの本来の意味は「ダメにすること」との意味であり、褒めることを良しとする欧米社会においてさえ、甘やかすことは虐待であるとの価値観が存在していることは言語そのものが証明しています。あくまで「正しい価値観を伝え、それが達成されたときだけ褒める」ことが必要です。)

 また、この「成功や達成を認めてあげることの重要性」は子育てに限らず、全ての「育てること」において共通に必要なことではないかなと思います。人は他者に認められて初めて、至らない点を呑み込むこともできます。これは人間の「自我」の存在を考えればむしろ科学的かつ合理的なことであり、アメリカでは人事のマニュアルにまで記載されている内容だと聞いています。努力を促すためにはただ否定するのではなく、まずは「認めてあげる」という作業が最初に必要です。人に認められているという「自信」があって初めて、人間は自らの欠点を受け入れて改善したり、自らの気持ちに余裕を持ってマナーやルールを守ったりすることが出来るようになるためです。ですので、自信を崩すような言い方や教育は、どのように指導内容が素晴らしいものでも、どれだけ言っていることが正論でも、その前の段階でまったく効力を得ることができません。

 次に「育てることは、自分のためであってはならない」という点です。私たちはみな人間ですので、教えられている側は必ずどこかで「この人は自分のためにそう言ってくれているのか、ただ自分の面子や利益のためなのか」を感じ取っています。

 例えば、将来は「良い大学に行った方が良いに決まっている」ことを相手に伝えるとして、それが「本人の利益を考えてそう言っているのか」、それとも「親としての面子や自己満足のためなのか」、あるいは「塾や先生の実績や利益にしたいだけなのか」によって、同じ内容でもまったく効果が変わってしまいます。人間とは不思議なもので、まったく同じ言葉や文章からでも、その他の要素、例えば日頃の行いや話し方、表情や指導している人のヒストリーなどから、「相手が自分の利益を重視しているのか、それとも単純に相手の利益のために言っているだけなのか」を総合的にかつ本能的に判断するものです。

 ですので、相手に何か改善や努力を促したいのであれば、まず「それが本当に相手にとって利益になるのかどうか」、「そもそも、その相手にとっての利益や幸せとは何なのか」から、まず考え直してみる必要があるのではないでしょうか。価値観や幸せの定義とは世代によって、個人によっても違うものですので、自分の考えや成功体験がその「育てたい」相手にとって、本当に同じような利益であるとは限りません。その世代やその相手の性格など、「育てる相手の視点」から本当の利益とは何かを理解して、その利益を実現するためのサポートを提供してあげることが教育なのかなと、僕は考えています。つまり主役は育てる側であってはならず、あくまで「育てられる人の未来」であるべきです。

 日本人とはその歴史的な背景や民族性から「当初より強固なアイデンティティを備えている」と、世界の様々な人間を観察して来た結果として僕は感じています。それはつまり「否定されても揺るがない強さと自信」であるため、日本では体育会のようなしごき文化で指導を行っても、大半の人はポジティブな面を得ることが出来たのではないかと思います。定義の議論はさておき、日本という国は少なくとも他国に侵略を受けた経験が無く、文化的アイデンティティが強固に守られ続けて来ました。国が出現した時から王族が一度も変更されていない歴史を持っているのは、世界広しと言えども日本は世界で唯一の存在です。これまで「本質的に」「文化的に」否定された経験が薄いからこそ、少しのことでは揺るがないアイデンティティを維持していると言えるでしょう。

(話は脱線しますが、太平洋戦争の後に米国は日本を「支配」せず文化的アイデンティティも否定しなかったことは、直前まで戦っていた敵国だったにも関わらず、(米国の利益にも叶ったとは言え)どこまでも冷静で秀逸な判断だったと思います。)

 この点に関しては良い点と悪い点、メリットとデメリットが存在しています。自信があること自体は基本的にポジティブに作用しますので、逆境に負けずに耐える力、冷静に目標に向かって感情をコントロールする力、余裕があり他者に親切に出来たり異質なものを比較的容易に受け入れる受容性などは、ナショナリズムを離れて客観的に比較した場合でも他国より優れているように感じます。この点はまさに「アイデンティティが強固である」賜物ではないかと思います。

 一方で「育てる」という観点から見た場合に、否定されても揺るがない経験に慣れてしまっていることから、「否定することは普通で、耐えられない方がむしろ悪い」という暗黙の思い込みを常識として文化に内包してしまっています。これまで、国内のほとんどが日本人で、同質的な文化を維持している場合に限ってはそれでも良かったのですが、経済や情報がグローバル化し、国内でもより多様な価値観への対応が迫られるようになった現代社会では、これまでの「育て方」はまったく通用しなくなって来ています

 現代社会はインターネットで常に海外の情報と繋がっており、人は常に「自らと海外の人々」を無意識に比較し競争する環境に置かれていますので、これまでのように否定を中心とした育て方では「成功体験が最終的には得られない」状況となってしまいました。シンプルな例えだと、これまで日本では「プロ野球選手になればほぼ頂点」だったものが、現在では「メジャーリーグの選手はほとんどの人が国内のトップ選手より稼いでいる」と言ったことを、誰もが当たり前のように知るようになったというようなことです。国境のハードルが下がった結果、世界のどの国でも人々の競争相手は「国内ではなく全世界」に変わったと言えます。

 経済においても「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われた1980年代と比較して、世界の競争環境はまったく異なるものとなりました。日本が世界経済の中心だった時代なら、日本のやり方で、日本でトップを取れば、それはそのまま最高の結果だったと言えたのかも知れませんが、今では違います。少子高齢化が進んだ日本の環境では、言い方は悪いですが、今後の若者は「退役世代を支えると言うハンディキャップを背負わされた状況で」グローバル化された世界の強者たちとの競争に挑まなければなりません。残念ながら、国内で勝てれば勝ち組という時代は、30年ほど前にもう終わったのです。果たして、私たちが今後の将来世代にしてあげられることは、なんでしょうか。

 少なくとも今後の現役世代を「育てる」時には、こうした世界の強者と戦っても揺るがないだけの「自信とアイデンティティ」を作り出すことが求められます。また、価値観が多様化して周囲の人間も日本人とは限らなくなった以上、これまでのような否定を中心とした育て方では、大人になった時に周囲とのコミュニケーションに支障を来たし、最悪の場合はパワーハラスメントで組織を追われるといった結果になり兼ねません。私たちが将来世代の幸せを本気で願うのであればなおさら、私たちが育てる世代には「世界基準で勝ち抜くための育て方」が求められています。それはこれまで私たちが達成してきたことの何十倍もの努力と工夫、そして「これまでには無かったレベルでの育て方」が必要となるでしょう。今の日本社会、特に人を育てる親世代や管理職世代には、「価値観の抜本的な転換」が求められています。

  SSEAでは、未来の社会を担う方々を育てるお手伝いが出来ればと考えております。価値観の転換は世代に限らず、社会の全ての方々がそれぞれの役割に従って身に付けなければならないことではないでしょうか。

 ただ、私たちにはそのための希望がしっかりと見えています。これまで日本人が培ってきた「強固なアイデンティティ」と「他者に奉仕する精神」は、人を育てるという作業に関しては無類の強みを発揮できる下地でもあるからです。今後の将来世代が確固たる自信を持って、幸せに生きて行くためのお手伝いを実現出来たなら、それが私たちが存在する意義なのではないかと考えています。私たちは今後も、未来を創るための仕事をしていきます。

We can change the world.

Fly to the world, realize the next one and open your future.

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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