旅行記・英語学習記事

代表講師のブログです。海外での出来事や留学の体験、異文化コミュニケーションや国際関係について書いています。不定期の更新ですが、ぜひお読みください。

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Santa Barbaraその1。

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レンタカーが、パンクした。

モロッコと西サハラ

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海外で怪我をする(台湾編)

必ず3時間遅れるフライト(ネパール編)

ネパールのストライキ

悪質なタクシーを英語で撃退する(カルカッタ編)

インドの食あたりその2(2011年編)

インドの食あたりその1(2008年編)

スピード違反で捕まった(フロリダ編)

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イギリス=イングランドではない

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Bostonその1。

このブログ記事は、2001年に大学3年生となった僕が、夏休みを利用して2度目にチャレンジした米国ボストンでの短期留学での経験について書いています。2度目の留学を決意するに至ったのは最初の留学である「留学時代の体験:Santa Barbara編」での経験から続くものです。その経緯につきましてはぜひ、Santa Barbaraその1。のブログ記事からお読み頂ければ幸いです。

 Santa Barbaraから帰国した僕はそこでの悔しさから、国内で英語学校に通うことと次の夏休みに再び海外での勉強に挑戦することを決意しました。当時高田馬場にあったTOEICスクールにてスコアの向上を図りながら、僕は次の留学先を探し始めました。

 Santa Barbaraで4週間通学したEF International Language Schoolは、クラスの質はおそらくそこまで高かったのではないと思いますが(と言うより、おそらく語学学校のクラスはどこも大差ないでしょう)、その留学生のバランス・多様性は非常に素晴らしく世界中から学生が集まる環境が魅力的だったので、次の留学も別の都市で同じスクールを選ぶことにしました。実際に語学学校を選ぶ際のポイントは、そのクラスの質よりも学生の出身国の多様性の方が遥かに大切です(語学留学は、クラスで学ぶ時間よりプライベートで会話する時間の方がずっと長いためです。アジア人ばかりが在籍するような学校で学ぶことは、効果や経験の価値が薄いかと思います)。

 当時恵比寿にあったEFの東京オフィスを訪れて担当者と話したところ、ボストン校が校舎の雰囲気も良くおススメだと推薦されました。最初の留学先が米国だったため英国などの選択肢も頭の片隅にはありましたが、やはり世界の先頭を走る米国で学ぶことの価値、そしてハーバードやMITが立地し世界に冠たる学問の都であるボストンでの経験を選ぶことにしましたが、この選択は今でも人生の大きな財産になったと言えるものです。最初の留学ではホームステイを選択したため、ボストンでは校舎と一体となっている学生寮での滞在を選びました。通常のコースではなくクラスのコマ数が少ないサマーコースのプログラムを選択したのは、クラス内で学ぶよりもクラス外の時間が大切であることを前回に学んでいたからだったかも知れません(笑)

 父が航空会社のマイレージを大量に持っていたのもあり、留学は「無料の特典航空券が取れるタイミングという条件」となりました。既に6月に差し掛かっており夏休み中の米国行き特典航空券を予約することが難しい時期に差し掛かっていましたが、何とか8月出発、9月帰国のボストン往復航空券を見つけることができ、留学期間はそれに合わせた1ヶ月となりました。しかし困ったことに、語学学校の入校可能日に到着する航空券は予約出来ず(学生寮に入れるのはプログラム開始の前土曜日)、その前の水曜日に到着するフライトしか取れないと言う状況でした。父は「土曜日までホテルにでも泊まっておけば良いだろう」と言って、「とにかく無料航空券で行け」と言ったきり後は放置でしたし、僕も前回の留学で米国で自由に動き回るための経験は積んでいたため、ホテルはボストンに着いてから探せば良いだろうと水曜日から土曜日までの滞在先も確保せずに、僕はボストン行きのフライトに乗り込むことになります(母は「海外に行くのに泊まる場所もないなんて!」と、父に向かって若干キレていたのをかすかに覚えています笑)。

 成田空港からサンフランシスコへ飛び、空港から見る5ヶ月振りのSFの風景に懐かしさを感じながら、たまたま仕事でSF空港にいた父と軽く食事をして、僕はボストン行きの国内線フライトに乗り込みました。国内線とは言えそこは広大なアメリカ合衆国を西から東へ横断するフライト、サンフランシスコからボストンへの飛行時間は5時間を超える距離です。成田〜サンフランシスコ乗り継ぎ〜ボストンのルートはトータルで20時間くらいはかかったでしょうか、現地時間で既に日も落ちた夕刻に、僕はボストン空港に到着しました。

<ボストン空港のヒルトンホテルより>

 まだ滞在先も予約していなかったのでどうしようかと思いましたが、時間もすでに遅かったため最初の1泊はやむを得ず空港近くにあるヒルトンホテルへ行く事にして、翌日にダウンタウンにあるリーズナブルなホテルへと移ることにしました。何しろ知り合いもまだいないボストンで3泊ものヒマな時間があります(苦笑)空港から電話で最初の1泊の予約を確保してホテルのシャトルバスにてヒルトンへ向かい、ホテルで木曜日と金曜日の夜に滞在するダウンタウンのホテルを探して電話にて予約を入れました。当時はまだオンラインでの予約はまだそこまで普及しておらず、まだまだガイドブックと電話が頼りになる時代でした。最初の留学の時ですら語学学校の出迎えサービスの利用を禁じられた僕でしたので、3日も早く到着した僕を語学学校まで案内してくれるスタッフなどいるはずもなく(苦笑)それでも夏休みのボストン留学前に僕のTOEICスコアは800点に達していたため、移動や予約、ある程度の日常会話に困ることはすでにありませんでした。この事は、英語だけを勉強するなら日本国内でも十分に可能だと言う事を意味します。逆に、なんの基礎もないまま海外に1年や2年滞在、または海外の大学を卒業しても、驚くほどに英語が話せるようにならない人が沢山います。学習に大切なのは場所や環境よりむしろ、本人の意思です。

<ダウンタウンのミルナーホテル>

 空港近くで1泊した翌日、僕はバスと地下鉄を乗り継いでダウンタウンにあるリーズナブルなホテルへ移動しました。バスルームにドアもないようなホテルでしたが、大学生が1人で滞在するには贅沢なくらいだったかも知れません。しかしダウンタウンに移動してもまだ友達もおらずやる事も無かった僕は、とりあえず1人でボストン市内観光へ繰り出しました。市内一高い高層ビル、ジョン・ハンコック・タワーの展望台(当時は一般人が入れた)や落ち着いた雰囲気のショッピングスポットがあるニューベリー・ストリート(Newbury St.)、瀟洒な住宅が立ち並ぶビーコン・ヒル(Beacon Hill)や中心部の広場ボストン・コモン(Boston Common)を散策し、夕飯はホテル近くのチャイニーズのファストフードで済ませました。

<ジョン・ハンコック・タワー>

<展望台よりケンブリッジ方向を望む>

<ニューベリー・ストリート>

<アメリカではポピュラーな中華のファストフード>

 翌日は父の会社の取引先で日本人が経営する現地旅行会社へ挨拶に行きましたが、スタッフが全員日本人女性であったことが印象に残っています。海外へ出て行くのはやはり女性の方が積極的なのは、今も変わっていないのかも知れません。その会社のオフィスはHarvardを1駅越えたPorter Squareと言う場所にあったのですが、そのビルは日本人経営の旅行会社の他にも日本の食材を売るスーパーや日本食のレストランが集まっていて、本当に小さな小さな日本人コミュニティが存在していました。米国ではチャイナタウンやコリアタウンは数多くあれど、日本人が町レベルでコミュニティを形成している場所は多くはありません(LAにはリトルトーキョー、SFにはジャパンタウンがありますが、町の半分くらいがコリアタウンと化しています)。あまり大きな日本人コミュニティを作らずどちらかと言えば現地に溶け込んで生活するのが日本人移住者の特徴ですが、それでも国籍や出身国とその繋がりと言うものは完全には消えないのだと言う事を理解させる場所でもありました。

<ボストンの地下鉄・ストリートカーの愛称は”T”>

 1人で3泊を消化した土曜日、ようやく学校の学生寮に入ることができるようになった僕は地図を頼りにスーツケースを引きずりながら、T(ボストンの地下鉄・ストリートカー)にて語学学校へ向かいます。続きは次回のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Bostonその②。へ続く

Santa Barbaraその18。SBでの経験がくれたこと

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 サンタバーバラでの最後の1週間、僕らは英語の勉強よりも「カリフォルニアを最後まで満喫すること」に気持ちが傾いて行きました。良いことも悪いこともある日々でしたが、それらが全て「かけがえのない思い出であり経験」だと言うことを、共通に感じていたからだと思います。放課後はそれまであまり散策しなかったサンタバーバラのミッションや市役所、ビーチなどを毎日訪れました。今思えば、僕らは真面目過ぎる留学生だったかも知れません(笑)

<サンタバーバラの市役所は街のシンボル>

<町外れにある”Santa Barbara old mission”>

 サンタバーバラでの最後の水曜日の放課後、僕とマユミとナギサはサンタバーバラの近くにソルバングという綺麗な町がある事を聞き、翌日の午前中のクラスはサボって(笑)その町へ一泊二日の小旅行をすることに決めました。スピード違反が片付いたばかりにも関わらず懲りもせずに僕は再び国際免許証なしでレンタカーを借り、サンタバーバラから片道一時間ほどの場所にあるソルバングへと、今度は速度に気をつけながら(苦笑)向かいました。

<ソルバングは北欧を模した小さな町>

 当日の思いつきでレンタカーを借りて飛び出したためホテルも予約しませんでしたが、町外れの小さいながらも素敵なモーテルに飛び込んだところ、部屋は一泊たったの40ドルでした。夕飯を町の小洒落たレストランで取り夕飯後は部屋でお酒を飲みながら、最後の語らいの時間を楽しみ、翌朝は北欧を模して作られたソルバングの町やオールドミッションを散策して、昼頃にサンタバーバラへと帰着しました。クラスへ戻るとクラスメイトに”You skipped your class!”(あなた、クラスをサボったわね!)とからかわれましたが、このショートトリップも最後にまた一つ仲間たちと時間を過ごすことが出来た、とても大切な思い出です。

<飛び込みで宿泊した町外れの素敵なモーテル>

 そして最後のクラスの前日、僕はボルツに「最後に一緒に遊びに行こう」と誘われていたのですが、当時ボルツとアグネスが大ゲンカをしている最中で(その理由も、アグネスが僕の夕飯は作ったのにボルツの分は作らなかったと言う、何とも下らないものでしたが…苦笑)、アグネスが横から現れて「そいつと一緒に行く必要はない」とクギを刺し、間に挟まれた僕は何も言えずに”I can’t choose…”と困り果てた事を覚えています。最初から最後まで、僕はアグネスの舎弟であったのは間違いありません(笑)

<語学学校のクラスメイトたちと最後の記念撮影>

 そして語学学校での最後のクラスを終えた金曜日、クラスで記念撮影をして学校とお別れをした僕らにアンドレアを加えた仲間たちは、町のイタリアンレストランで最後のランチを一緒に食べたあと、サンタバーバラの町を散策して、バスディーポでそれぞれのバスに乗ったのが1カ月を共に過ごした仲間たちとのお別れとなりました。それぞれが日本の各地に散っていたためその後当時の仲間との再会は叶っていませんが、第2の故郷で思い出を共有した仲間たちの名前や顔はもちろん、その声まで20年経った今でも、ハッキリと思い出すことができます。

<最後の授業後にアンドレアと>

<サンタバーバラのバスディーポが最後の別れの場>

 そして1か月滞在したステイ先を離れサンフランシスコへ向かう際に、腰の手術をしたためベッドから動けなかったカレンは最後に僕を呼んで、「あなたのお別れパーティーを開けなくてごめんなさい。あなたは本当に素晴らしい青年だったわ。次に来る時にはこの家にいつでも泊まってね、お金はいらないわよ」と言ってくれました。もう少し英語が話せたらちゃんとしたお礼が言えたはずでしたが、僕は”Thank you, I enjoyed.”と言うのが精一杯でした。この時も懐の深いホストマザーとアメリカ合衆国と言うオープンな国に対する感動を覚えたと同時に、英語が話せない自分の情けなさを再認識した事を深く覚えています。カレンの母親がボルツと共に(笑)サンタバーバラの空港まで送ってくれましたが、ボルツが最後に”Next year!”(また来年!)と言った事も、最後まで彼らしいなと笑った良き思い出です。

<小さな空港でタクシーに乗る事から始まった留学生活>

<サンフランシスコを1人で巡りながら色々な事を考えた>

 その後2日間サンフランシスコで思い出の場所を1人で巡る間、そして帰りの飛行機の中で僕が考えた事はと言うと、

「このまま終わる訳にはいかない。英語を話せるようにならなければいけない。世界で通用する人間になりたい」

と言う悔しさと、新しい人生の目標でした。帰国した僕は次の夏休みでのリベンジに向けて、英語学校に通いながら狂ったように英語力の向上に取り組んで行くことになります。それはまさに日本にいながら英語漬けの日々を送る毎日で、週3回の英語クラスの出席に加えて通学の電車内では単語の暗記とリスニング、毎日カフェでTOEICテキストに取り組み、大学の講義中も英語のテキストを開き(笑)、娯楽も海外ドラマのDVDを英語字幕で見ると言う徹底振りでした。サンタバーバラからの帰国直後に英語学校で受けた診断テストでのレベルはTOEIC560程度でしたが、二か月後に初めて受けた本試験では650、その翌月のテストではスコア800に達することが出来たのは、サンタバーバラでの悔しさがあったからこそです。1か月と言う短い期間でしたが、そこでの経験はその後の人生を完全に変えるほどにショックでありながらも刺激的なものであり、それまでは理由もなく義務としてしの勉強しかしたことが無かった僕に、人生の目標前向きな姿勢を生まれて初めて与えてくれたものです。今でも僕は、サンタバーバラは自分が生まれ変わることが出来た第2の故郷であると思っています。

 よく「英語力の向上に最も効果が薄いのが短期留学だ」と単純に主張する人がいます。「その期間の英語力の向上」だけ見れば、それは嘘ではないかも知れません。たかだか1〜2か月の短期留学で英語力が劇的に向上することはあり得ないでしょう。ですが、その短期留学を無駄と思うのか、その後の糧とするのかはその留学した本人次第であり、2年留学しても海外の大学を卒業しても、驚くほどに英語が話せない人も沢山います。大切なことは海外に滞在した期間の長さではなく、その経験を生かしてどれだけ自分で頑張れるか、すべてその後の本人次第です。そして海外へ出ると言う機会がない限り、英語力の必要性を実感する機会はなかなか得るのが難しいものです。その意味でも僕は、例え短期であっても海外で生活をして、異文化の違いと英語の必要性を実感すると言う経験は必要不可欠なものだと思います。僕が米国に滞在した期間はトータルでも4か月にも満たないものですが、それでもその経験をきっかけとして、今ではネイティブスピーカーと英語で議論したり海外で英語でケンカをすることも出来るようになりました。「短期留学は無駄である」と言う主張は本質的なポイントが抜け落ちている、余りに単純な間違いであることを僕は指摘しておきたいと思います。経験に「無駄なこと」など一つもありません。初めから「無駄だ」と思ってしまえば、その時点で成長はゼロです。何事も「実際にやってみる」ことで初めて、そこに何らかのきっかけや価値が生まれます。

 サンタバーバラから帰国して4か月の間に僕のTOEICスコアは200点以上向上し、日常会話はある程度こなせるようになった大学3年の夏、僕はボストンにて再び海外での生活にリベンジしました。それはサンタバーバラでの悔しさに対するリベンジであり、英語を少しは身につけた僕の最初の挑戦でもありました。サンタバーバラでの経験が人生の転機とすれば、ボストンでの経験は僕にとって飛躍をもたらすものとなります。今でも関係の続く貴重な出会いとその財産については、次回より「留学時代の体験:Boston編」にてご紹介したいと思います。

To be continued.

Bostonその1。に続く

Santa Barbaraその17。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 ロサンゼルスからサンタバーバラへの帰り道で国際免許証不所持のままパトカーにスピード違反で捕まった僕は、気力を振り絞ってやっとの思いでサンタバーバラへと帰着しました。(追記:カリフォルニア州でも州法上、日本人は日本の免許証だけで運転することが許可されているようですが、このような事態に備えて、あるいは州をまたいで運転することに備えてやはり翻訳文の所持は推奨されます)

 雨が降りしきるなかメンバー全員をそれぞれのステイ先に送り届けたものの、「もう声も出ない」という気分でした。今なら全く気にならないと思いますが、当時はまだ英会話もロクにままならない青二才で、どうやってベンチュラの裁判所に出頭して、何をすれば良いのか…。頭には不安しかありませんでしたが、何しろ疲れ切っていたので、眠れなかったという記憶はありません(苦笑)

<スピード違反で捕まったスポーツタイプの車>

 翌朝はレンタカーを返却しなければならなかったため車で登校しましたが、毎朝アグネスと登校することが日課になっていたため、2人でその車にて学校へ向かいました。アグネスに「昨日パトカーに捕まってさ…」などと話した記憶はあるのですが、今思えばスピード狂だったアグネスが捕まったと言う話は聞かなかったので、僕はよほど運が悪かったのでしょう(笑)

 確かにアメリカでは、日本のように早く走っている車が捕まるのではなく、パトカーがフリーウェイに入って、前にいる車が例え5マイルでも制限速度を超えていれば、その車が捕まります。地下鉄の無賃乗車もそうですが(例えばロサンゼルスの地下鉄は改札がない「信用乗車方式」ですが、出口に警官がいることがあり切符を持っていないと高額な罰金となります)、取り締まりに高額の罰金と見せしめ的な心理を利用するあたりは、欧米のやり方は全てをキッチリやろうとする日本とは考え方が異なるかも知れません。こうした社会システムの違いを知ることも、海外における貴重な経験となるものです。

 アグネスと学校にたどり着いた僕は、学校の受付スタッフに泣き付きました。”Can you help me?” “I was caught by a patrol car yesterday…”などと英語で説明する必要があったのはある意味で良い勉強であったのかも知れませんが、スピード違反のチケットをスタッフに見せると、”Oh, you were driving too fast.”と笑われたことを覚えています。

 わずか1か月の滞在でこれだけコミュニケーションが取れるようになったのはある意味では留学が大成功だったと言えるのかも知れませんが、その時はそんな事を思う余裕はなく、ただ必死でした(泣)「ベンチュラの裁判所に来いって言われたんだけど、今週末には日本に帰国しないといけない」と相談したところ、”Meet principal.”(校長に相談して)と言われたので、僕は以前に噛み付いた校長に対して、今度は泣き付く事となり…(笑)

<スピード違反の舞台となったVenturaの位置>

 校長室を訪れ事情を説明すると、校長はベンチュラの裁判所へ電話で確認したあと、「裁判所に行かずにチケットを処理する方法は2つ、check(小切手)を郵送するか、クレジットカードで支払うかね、ただしカードで払う場合は値段が上がるわね」と僕に伝えました。「チェック…トラベラーズチェックで払えるの?」と聞くと、「違うわよ、銀行のチェックよ」と言われてしまい…(当たり前ですが。笑)「どちらで払うか、明日教えてね」と言われてその日は保留となりましたが、何しろ早く安全にこの問題を処理したい僕の選択はクレジットカード一択でした。2001年当時でもアメリカでは既にスピード違反の罰金までカードで払う事が出来る社会でしたので、旧態依然とトラベラーズチェックを持ち歩いていた当時の日本と比べると、少なくとも15年は進んでいたと言えるでしょう。兎にも角にも翌日に校長室を訪れた僕は校長にカード番号を託して、何とか裁判所への出頭を逃れることができたのです。

<良いことも悪いこともてんこ盛りであったEF Santa Barbara>

 駐車違反スピード違反、しかも国際免許証不携帯と、初めての、しかもわずか1か月の短期留学でこれだけやらかす留学生も珍しいかとは思いますが、良い思い出も悪い経験も含めて、今の成長した自分があります。その意味ではかなり無鉄砲ではありましたが、1ヶ月間のサバイバルは日本では体験することが難しい良き修行であり、その後の更なる挑戦を可能にしてくれたかけがえのない日々であったと思います。今後の日本と世界を担う若者にはぜひ学生のうちに海外へ飛び出して、幅広い見識と逞しさを身につけて欲しい、そして日本という私たちの母国を深く理解し考える機会を持って欲しいと願うばかりです。短期であれ長期であれ、そうした日常では経験出来ない特別な機会を与えてくれるのが留学なのだと、みなさまにお伝え出来れば幸いです。

 永らく書き連ねて来たサンタバーバラでの経験も、間もなく最終章を迎えます。結びは次回のブログにて書いて行きたいと思います。

To be continued.

Santa Barbaraその18。へ続く

Santa Barbaraその16。

 ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 前日にコリアタウンで夕食を楽しみ、2つのベッドルームを持つゴージャスな部屋を満喫した僕らは、翌朝にナギサとホテルのロビーで待ち合わせをしました。(2ベッドルームと聞くともの凄く豪華に聞こえますが、4人でシェアしたので1人当たりはそこまで目が飛び出るほどではありません。海外のホテルは「一部屋一泊」あたりのレートなので、人数が多いと割安に泊まれます)。メインのロビーで待っていたのですが約束の時間になっても現れず、当時は海外対応の携帯も持っていなかったためどうしたものかと思い始めた際にハタと気がつきました。「これだけのホテルだと、もしかして他にもロビーがあるんじゃないか」と。案の定、ホテルの別のサイドに行ってみるとやはり別のロビーらしき空間があり、そこでナギサを見つけることが出来ました。

<ハリウッドにて。>

 その日はちょうどミチコの誕生日だったため、ナギサはホールのケーキを買って来てくれました。どこで食べようかと思ったら当然、「ロサンゼルスなんだから、ビバリーヒルズのど真ん中の公園で食べよう!」と言う、これまたセレブのモノマネみたいなことを思いつきました(もっとも、本物のセレブは公園でケーキなど食べないでしょうけど…苦笑)。ビバリーヒルズの公園でミチコの誕生日を祝い、ロサンゼルスのシンボルであるハリウッドのチャイニーズ・シアターを訪れ、ハリウッドサインを遠くから記念に写真に収めた僕らは、ロサンゼルスの最終目的地であるサンタ・モニカへと向かいました。

<ビバリーヒルズの公園にて誕生日を祝う>

 ロサンゼルスと言えばビバリーヒルズサンタ・モニカのイメージが強いですが、実はこの3つはそれぞれに独立した市であり、行政区分上は別の都市です。もっともそれもまとめて「ロサンゼルス」を形成しているのは間違いないことでもありますが(ディズニーランドや成田空港が千葉県にあるのと同じようなものでしょう)。陽光きらめき人々が日光浴やローラースケートを楽しむはずのサンタ・モニカに到着した時にはあいにくの雨…でしたが、サンタ・モニカにはロデオドライブとは異なり、庶民でも手の届くアメリカのブランドショップやモールが集まっていたため、ようやくショッピングを楽しむことが出来ました(笑)その後レストランで夕食を食べた僕らは、日が落ちたハイウェイをサンタ・バーバラへ戻って行ったのですが…

<雨のサンタ・モニカ。この雨が更なる悲劇を誘発する>

 雨は強くなり、あまり周囲の見通しが良くない中で僕は一番左側の追越し車線を(アメリカは右側通行のため、1番流れの早いのは左側の車線)周りのスピードに合わせて制限速度を超えた速度で走っていた時です。バックミラーに、急に赤と青の光が写りました。そう、パトカーに後ろにつかれてしまっていたのに気づかなかったのです(汗)「やばい!」と思って速度を落として右側の車線に移りましたが、もちろん手遅れです。しばらくソロソロと走っていましたがとうとうサイレンを鳴らされてしまった僕は、車を路側帯へと止めざるを得ませんでした。

 さて、ここで1つ、普通に捕まるよりもさらにヤバい状況があったのです。スピード違反で捕まったのはしょうがないとしても、それよりも焦ったのは「国際免許証を持っていない」という絶望的な事実でした…。止めた車に警官が近づいて来たとき、メンバーの全員はもう言葉すら発する事が出来ませんでした。運転が出来るのは僕1人だけ、その人間が免許を持っていなければどうなるのか…。まさに「血の気が引いた」「顔面蒼白」という表現がピッタリの、絶望的な気分と絶体絶命の状況です…

 警官がやって来て、当然ですが免許を見せるように言われましたが、ある訳がありません。追い詰められた僕はとりあえず、トランクから日本の免許証を取り出し、破れかぶれでそれを見せてみたのですが…

当然ながら警官は読めるはずもなく、

Officer : What’s this?(何だこれは?)

Me : Japanese driving license(日本の免許です)

Officer : Don’t you have a California license?(カリフォルニアのライセンスは?)

Me : I don’t have it…(持っていません…)

となり、警官は僕にパトカーへ来いと促しました…

 「終わった…このままジェイル(拘置所)に連れて行かれるだろう…」と覚悟を決めましたが、残されたメンバーと車はどうなるんだろう…と言う心配もあり、自分にはどんな処分が下るのか、と言う恐怖もあり…

 警官は僕をパトカーへ入れると、隣に座り僕の情報を記録し始めました。「身長は?」「体重は?」「目の色は?」「国籍は?」「滞在先は?」などと聞かれ、日本の単位で回答したので少しやり取りが混乱した部分もありましたが(アメリカは長さや重さの単位がインチやフィートなど特殊。ただ、身長をセンチメートルで答えたあとに、”Do you know how tall it is?”などと聞き返したのを覚えていて、おそらくマズいを越えてしまって観念していたのか、意外な冷静さはあったのかも知れません苦笑)、免許証番号の欄には”NONE”(なし)と記入されたことを今でも覚えています。ひと通り記入すると、スピード違反の切符を渡されて「Courthouse(裁判所)に出頭しろ」と言われました。

 「やっぱり大変なことになった」と勝手に決めつけながら恐る恐る「サンタ・バーバラの裁判所ですか?」と尋ねると、「違う、Ventura(ベンチュラ)の裁判所だ」と言われます…(捕まった地点がベンチュラと言う場所だったので、当然そこへ出頭となるのですが、色々と聞き返すだけの気の強さがあったのは今思うと不思議です。そして、Venturaという地名がもう忘れられません笑)。

 「このまま裁判所へ連れて行かれるんだな」と覚悟をした瞬間に、意外なことが起きました。警官が、「今日は雨で視界が悪く危ないから、安全に運転して帰るように」と言うのです。

 「え!?運転して帰っていいの??(免許無いんだけど)」と尋ねると、「もう行っていい、気を付けろよ!」と言うのです。「何が何だか分からないけど、今日のところは解放されるのだ」ということを理解し、今度は安堵でまた血の気が下がるのを感じました。

 実はかなり後になって知ったのですが、国際免許証と言うものはあくまで日本の免許証原本のただの翻訳文であり、法的に有効であるのはあくまで「日本の免許証」なのです。ですのでハワイ州やグアムでは日本の免許証だけで運転することが許可されていますし、サンタバーバラのレンタカー会社も車を貸してくれたと言うことです。逆に言えば、国際免許証だけで車を貸してくれるレンタカー会社は世界のどこにもありませんし、国際免許証のみを所持して運転することは違法になります。知らずにやっていながら運が良かったと言えますが、ギリギリ「違法」ではなかったと言うことなのでしょう。ただそうは言っても現地の警察官が原本を読めなければ、もちろん警察署へ連れて行かれる可能性はあります。法的義務がないにも関わらずハワイ州やグアムでも国際免許証の所持が「推奨」されているのはそのためです。みなさまは「絶対に」真似をしないでください(苦笑)特に、英語でのコミュニケーションがままならないと、連行される可能性は倍増します。

<免許センターに申請すればすぐに発行される国際免許証はあくまで免許証の「翻訳証」>

 このようにして、初めての留学の最後の週末に、最大のトラブルかつ最大のピンチが待ち受けていました。今思えばこれも、とても良い経験であり様々な教訓と知識となったものだと思えるのですが、「コートハウス(裁判所)へ来い」と言われていたので、この問題を処理し終えるまでは生きた心地がしませんでした(苦笑)「裁判所」と聞くと日本では相当に深刻なイメージになりますが、アメリカでは裁判所は意外にも身近な存在であり、スピード違反の罰金なども裁判所で支払います。こうしたアメリカにおける裁判所の位置付けを知ることが出来たことだけでも、この経験は決してマイナスばかりではなかったと「今では」(笑)思います。

 その後のスピード違反の処理とサンタバーバラで過ごした最後の日々につきましては、また次回のブログにてご紹介したいと思います。

 みなさまも、ぜひ世界に飛び出して様々な経験を実際にされてみて下さい。良いことも悪いことも、その全てが自らの世界を必ず広げてくれます。

To be continued.

Santa Barbaraその17。に続く

Santa Barbaraその15。

 ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 ユンが僕らのステイ先から韓国へ帰国したその週末、僕は近しい仲間たちとロサンゼルスで最後の週末を過ごす予定になっていました。1番近いロサンゼルスがなぜ最後の週末まで持ち越されたかと言うと、近しいメンバーの1人だったナギサがこの週末にロサンゼルスで友人と会う約束をしていたため、他の目的地(サンフランシスコ・サンディエゴ)を先に回したためです。ナギサとは2泊目のホテルで合流し、帰りは一緒にサンタバーバラへ戻る約束をして、旅の当初のメンバーは僕とナツコ、マユミ、ミチコの4人となりました。いま思えば、同一行動するならこのくらいの人数が最適なのかも知れませんが、留学中は何かと色々な人間が集まってしまうものなのかも知れません(苦笑)

 金曜日の最後のクラスを終え、クラスメイトでもあったユンとは最後に記念撮影をしてお別れとなりました。もう少し僕が英語が話せたら、連絡先を聞いたりその後もやり取りを出来たと思うのですが、残念ながらその時はまだそこまで出来るようにはなっていませんでした。ですがこの時のサンタバーバラでの悔しさ・情けなさが、その後の僕が頑張れるようになった原動力であり今の全ての原点であるのは間違いありません。英語は上手くは話せませんでしたが、短くとも人生の転機だったと言える貴重な日々であったのだと思います。

<ユンと最後に撮影した写真。英語力の低さを痛感したことは大切な経験だった>

 3度目の週末ともなれば小旅行の手配も慣れたもので、レンタカーはスクールから予約を入れてもらい、ホテルは自分で電話をかけて予約をしました。(←語学学校のコーディネーターは頼りにならないことはサンディエゴで学んだので…)1泊目はユニバーサルスタジオ・ハリウッドに近いモーテル、2泊目は最後の週末の記念に、歴代のアメリカ大統領も宿泊したと言う “Biltmore Los Angeles” に宿泊することにしました。日本の免許証を見せればサンタバーバラではレンタカーを借りられると言う悪知恵もしっかり付いていて(苦笑)、5人乗りのスポーツタイプのセダンをレンタカーし、ロサンゼルスへと向かいました。この悪知恵が後に自分を窮地に追い込むことになります。(お読みの皆さまは「くれぐれも」真似をしないでください。汗)

<スポーツタイプのセダンは目線が低く運転し辛かった>

<1泊目はユニバーサルスタジオに近いモーテル>

 金曜日の午前中のクラスを終えた僕ら4人は、まずモーテルにチェックインをしたあとにハリウッドの「ロデオ・ドライブ」へとショッピングへと向かいました。いま思えばハリウッドのセレブがスーパーカーで乗り付けて買い物をするロデオ・ドライブで、モーテルに宿泊するような一般庶民の留学生が買えるようなものはほとんどないのですが、観光的なノリも半分くらいでバックパックを背負ったようなカジュアルな格好で出かけてしまいました。本当にお上りさん丸出しだったかと、今は恥ずかしくもあります(苦笑)ミチコは記念にとカバンを一つ購入していましたが他のメンバーは結局何も買うこともなく、映画「プリティ・ウーマン」の舞台となった “Beverly Wilshire Hotel – Beverly Hills” を外から見学し、ビバリーヒルズの超高級住宅街の中をブラブラとドライブしたあと、ロデオ・ドライブ近くのイタリアンレストラン「プレゴ」にてディナーを取りました。本当に、知らないと言うのは恐ろしいことで…「プレゴ」の2階では何やら貸切りでのセレブなパーティーが開かれていましたが、そんなレストランにカジュアルな服装で入った挙句にメインディシュのみを頼んでシェアをすると言う、全く持って若気の至り的な、知らないから出来たような身分不相応な半日を過ごして、その日はモーテルへと帰ることになります。

<ロデオ・ドライブにて。>

 翌日はユニバーサルスタジオ・ハリウッドを夕方まで満喫しました。ロサンゼルスと言えばディズニーランドも有名ですが、当時はまだ日本にはUSJも存在しなかった時代、ディズニーランドは東京とあまり変わらないと言うウワサも手伝って僕らの選択はユニバーサルスタジオ一択となりました。ウォーターワールドとジュラシックパーク・ライドでずぶ濡れになりつつも、カリフォルニアの乾いた空気と暖かな日差しの下でユニバーサルスタジオを満喫した僕らは、ロサンゼルスでも名門ホテルである “Biltmore Los Angeles” へと向かったのですが…

<ユニバーサルスタジオは当時はまだ日本には無かった>

 ここでメンバーの誰も経験したことのない壁が待ち受けていました、”Valet Parking” です。「バレー・パーキング」とは、ホテルの車寄せに自家用車で乗り付けると、係員がカギを預かって駐車場へと持って行ってくれるサービスのことです。映画のワンシーンでセレブがよくやっている、スマートにカギだけ渡してホテルへと入って行くこのサービスを、免許を取ってまだ数年の日本の大学生が経験したことなどあるはずもなく…(汗) あたふたと荷台から荷物を出し、何も分からないままカギを渡すと車を出す時の連絡の仕方を説明されたのですが、完全に舞い上がっていた僕らはチップすら渡すことが出来ませんでした。カジュアルな服装の子供みたいなアジア人がビニールバッグを背負ってロサンゼルスの名門ホテルのバレーパーキングへやって来た姿は、恐らく大層滑稽な光景だったことでしょう(苦笑)僕らにとっては良い勉強だったかも知れませんが、身の程知らずとはまさにこのことだったかと思います。

<Valet Parkingは日本人にはハードルの高いサービス(写真はフロリダにて)>

<ビルトモア・ホテルにて富裕層の“フリ”(笑)>

 その後ゴージャスな部屋に大層はしゃいだ僕らは夕飯はどうしようかと言う話になったのですが、ガイドブックでコリアタウンがある事を知った僕は「夕飯はコリアンBBQ(焼肉)にしよう!」と安易に思いつきました。いま思えば、アメリカのチャイナタウンやコリアタウンがどんな場所かも知らなかった僕らは、何とかバレーパーキングから車を取り出し(チップはまた渡し忘れた記憶が…)、車でコリアタウンのある住宅街へと向かいました。コリアタウンに差し掛かるとハングル表記の看板が現れ始め、「もうすぐだー」とはしゃいだのは一瞬で…。中心部付近に着いているはずにも関わらず、まばらに商店があるだけで薄暗い町を目の当たりにした僕らは(既に陽は落ちていた)、車から降りて歩き回ることは非常に危険だと言うことを明らかにみな察した空気になっていました(汗)「歩き回るのは危ないから、駐車場のある店に入るしかない」と考えた僕らは焼肉へのこだわりを捨て、駐車場が目の前にあるレストランへと車を止め、そそくさと店内へと駆け込みました。

<コリアタウンは住宅街なので基本的に暗い>

 思えばまだ日本人は韓国のことをほとんど知らなかった当時、「韓国料理」というものを食べるのは初めての経験でした。幸いなことにレストランには料理の写真が大きく貼り出されていたので、カルビ(と思われるもの)、トッポギなどいくつかの料理を頼んでシェアしたのですが、まだ辛い食べ物に慣れていなかった僕らはその辛さに驚きました。唇が痛くなるのを感じつつも初めての韓国料理を美味しく楽しんだ僕らが、ロサンゼルスに息づくコリアタウンの文化と状況も知ることができたのは、今思えば良い経験だったのだと思います。

 レストランで食事を終えたあと外に出ると、メンバーの一人が道路の反対側に小さな商店があるのを見つけ、飲み物などを買いたいと言い出しました。僕は正直、「信号を越えるだけでも歩くのは危ないんじゃないか」とは思ったのですが、素早く動けば大丈夫だろうと思い小さなリスクを伴うわずかなアドベンチャーに挑戦しました。(道の反対側へ渡っただけです。笑)幸いなことに暴漢に襲われることもなく車に無事に帰り着いた僕らは車で夜のハリウッドの方向へ向かったのですが、とある繁華街を通過した時に、ロサンゼルスで夜に出歩くのは危険だと言う雰囲気を感じ取り、車から降りることなくホテルへと帰ることにしました。

 アメリカはどこの街も同じですが、夜に徒歩で歩き回るのは非常に危険です。特に人気のないダウンタウンや住宅街を、夜に一人で歩くのは自殺行為とも言える行動です。幸いなことに車で移動していた僕らは、コリアタウンや繁華街を車で通過することでそう言った雰囲気を肌で感じることも出来ました。アメリカはやはり車社会、車で移動できると言うことにはアメリカでは様々なメリットがありますが、翌日の夜にサンタバーバラへ帰る途中に無免許運転の代償(正確には無免許ではなく国際免許証不所持)も味わう事になります。続きは次回のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその16。へ続く