“imperfect”であることを、受け入れてみよう

 本日の記事は、ちょっと抽象的な内容です。あまり現実的な実の無い「心の持ちよう」のようなところもございますので、興味のある方のみお読みください(笑)。

 僕はこれまでの人生で酸いも甘いもジェットコースターのように経験して来た中で、幸せに生きるコツとはきっとこうだろうといま考えることは、人間とはimperfect(不完全)な存在であることを受け入れる勇気を持つことかなと思っています。そもそも僕らは「ヒト」という名の動物の1種であり神様ではありませんので、完璧であることを求めずに人生を楽しんでも良いのだと考えると、色々なことが楽になり上手くいくことも増えるのかなと思います。こういう表現をすると人間の尊厳を侮辱しているように聞こえるかも知れないので誤解の無いようにしておくと、向上心はもちろん必要ですが、「自分は理想的な姿になれる/なるべき」と考えてしまうと、自らの人生や社会は狂い始めるのではないかという、ある種の提起のようなものとお考えください。

 近年はコンプライアンスだの環境保護だのと、私たちを「締め付ける」ものがどんどん増えています。もちろんこれらは必要なことであり、その行動を個人がサボればどこかで誰かが傷つきますので、概念としては誰もが持っていなければならないものです。一方で、その概念のために自らを追い込んで傷つけるのであれば、そもそもの目的を最初の段階で裏切ってしまい、本末転倒ではないかなとも思うのです。「人や社会に優しくするためには、まず自分に優しくしよう」とでも表現できるでしょうか。

 現代人は近代社会が求める合理性の中で、機械のように正確に生きて、ミスをしないことが要求されるようになってしまいました。しかしながら、そもそも私たちはベースが生物ですので、自らの意思だけで正確に完璧に生きることは事実上不可能なのであり、むしろ完璧を求める理想こそが逆に合理性を欠いていると僕は考えています。また、機械のような合理性を追求した人間の能力は、残念ながら120%の実力を発揮する「人の欲求」をベースにした行動は越えることが出来ないものです。好きなことをやっている人には、どれだけ優秀な人でも勝つことは決して出来ません。人間や社会はこれまで、そのような「人の欲求」の力のおかげで発展してきました。資本主義とはまさに、この原理を究極に利用したものです。

 現代人は情報伝達が発達した社会の中で「こうすべきだ」とか「この方が良い」、「こんな素晴らしい人がいる」というメッセージを、毎日無意識に、かつほぼ強制的に浴びせられて生きています。しかし、そもそも人間は機械ではなく生き物であり、生まれながらにして個々に違う存在である以上は、誰かが考える「パーフェクト」とは自分にとっては「パーフェクトではない」こともありますし、その逆ももちろんあるでしょう。お金をたくさん稼げば幸せな人もいれば、趣味に没頭した方が幸せな人もいます。1人でいる方が良い人もいれば、社会に貢献して初めて幸せを感じる人もいます。

 完全に僕の個人的な想定でしかない話ではあるのですが、僕は人間の50%は動物としての欲で構成されていると考えています。食べる、寝る、子孫を残すといった動物としての3大欲求は、私たちは絶対に否定できない感覚であるからです。

 そして、その他の50%の部分の中に、人としての「理性」と「人間特有の欲求」があると僕は考えています。ここは動物であれば考えることのない「ルール」や「モラル」であったり、「承認欲求」や「達成欲」、「自己実現」などがここの概念に相当します。

 歴史を振り返ってみれば、ヒトという動物が食物連鎖の頂点に立ったのはこの「理性」を使って自らの「動物としての欲」を最大化してきたからに他ならないでしょう。つまり人間が言う合理性とは、その目的自体は自分たちの「生物としての欲」を最大化するためのものだったと言えます。単純に表現するなら、もっと安定的にご飯を食べて、もっと効率的かつ楽に安全に仕事をして、もっと健康に生きて長生きしてもっと自らの子孫をたくさん増やしたい、これが人間が社会に求めて来たことです。そしてこの「理性」を活用する副作用として同時に発生したのが、動物として生きるためには必要なかったはずの「人間特有の欲求」です。動物としての欲求と人間特有の欲求を明確に区別するために、ここではそれぞれを「生活欲」と「理性欲」と仮称をつけて、別個のものとして定義してみたいと思います。

 なぜこのような区別をしてみたかと言えば、現代資本主義は近日、その元来の目標を失っていると言われているからです。これまで私たちは動物としての「生活欲」を最大化するために合理性を追求してきたのですが、現在は特に先進国や新興国を中心にここがほぼ限界に達した(つまり、ほとんどの人は食べることには困らなくなった)ため、目標を失った先進国のビジネスは次の稼ぎ頭として、人としての「理性欲」の最大化をビジネス目標に変えてしまったと言われます。つまり具体的には、食べ物や物流、エネルギーといった産業ではこれ以上の発展が望めないことから、エンターテインメントやゲーム、不動産投資に金融、ITや仮想現実などの実態のないものから旅行に至るまで、「生きるためには必要なかったもの」でより大きな資本を形成しようとするようになりました。

 これはある意味でのバブル経済のようなもので、生きていくために求められる合理性(生活のための労働)とのバランスを取るため(息抜き)以上の「理性欲」は、本来は人間には必要なかったものです。この「理性欲の最大化」を目指して極限まで競争を強いるようになった現代社会が、格差社会との形で「生活欲まで後退」させる結果となっているのが、21世紀のいまのIT化社会と言えます。人間の欲求が社会を発展させて来た原動力であるのは疑いようのない事実ですが、これ以上追及する必要のない「理性欲」を追及しているのは、実態のないバブルのような価値を追求しているようなものかも知れません。人が幸せに、平和に生きていくのに必要なもの以上の何かを、社会は実現する必要が本当にあるのかどうかは、地球環境も限界を迎えつつあるいま、今後議論される必要があるテーマであるはずです。生活欲を改善する技術やビジネスは価値あるテクノロジーと呼べますが、ただ理性欲を増幅させるだけのものは社会の革新ではない、とは言えないでしょうか。理性欲の増幅と極度の格差社会によって人の生活や幸せが脅かされるようになったいま、人は「本来目指すべきところ」を明確にして、経済成長の取捨選択をして、人類にとって本当に大切なもののバランスをコントロールして行く必要に迫られています。

 地球環境を守って持続的に発展する必要(SDGs)とは、結局は私たちが幸せに生きるため、つまり「生活欲を満たすことが目的」であるはずです。ところが現代社会では、その理念だけが1人歩きして、なぜか理性欲を満たすための道具にすり替えられている部分があるのではないでしょうか。途上国ではまだまだ生活欲を満たせていない人が多くいる段階で先進国が理性欲を満たしているのであれば、それはただの偽善と言うほかに表現が見当たりません。自動車やスマートフォン、高速の移動手段など、エネルギー消費の節約が先に求められる分野は見過ごされてしまっているように見えます。例えば、私たちの国はIT化とEV化を進めたクリーンな場所だ、とどれだけ言っても、生産に大量のCO2を排出するバッテリーをもし他国から輸入していたら意味がありません。産業が国際分業をする世界となった以上、国家単位でのエネルギー管理やCO2排出規制には、もはやなんの意味もないのです。

 化石燃料の規制云々といった途上国には受け入れられない考え方から脱却し、原子力など必要なものを現実的に活用しながら、エネルギー問題を根本から適切に解決し環境負荷の少ないエネルギーを確保するためには、損得を越えた投資が国境を越えた世界レベルで行われるべきであると僕は考えています。地球環境がこれだけ悲鳴を上げる中でも、まだ「全体よりも個が大切にされるべき」という「20世紀には」新しい発想だった概念が、こうした地球的課題の解決を妨げているような気がしてなりません。全ての個がその権利を100%実現することは、社会では不可能なことです。現代社会はまさに、この考え方のバランスがズレてしまっていると言えます。

 20世紀中盤に生み出されたリベラリズムとは究極的には「自分中心主義」であり、「理性欲の追及主義」であったと言えるでしょう。人が理性欲のみを追及して規律や社会性を放棄すれば、それは争いの絶えなかった動物としての時代への逆行と何が異なるのでしょうか。世界にはまだまだ普通に生きるための生活欲を実現できていない人もいるのだから、人が手に入れられる資源は、そうした課題の解決へと割り当てられるべきでしょう。

 人に「自由でなければならない」「個性が尊重されなければならない」とイデオロギーによって理性欲の追及を強制し無限競争を誘発することで、人は逆に不幸になっている可能性があります。経済発展が進み人はより健康に、より自由に、より幸せになったと言われますが、富裕層中心に押し上げられた数字を見て「社会は発展した」と、果たして断言して良いものでしょうか。バブルのように生み出され続けている理性欲経済のマネーを生活欲の達成に配分できていれば、こうした数字はもっと良くなっていたはずとは言えないでしょうか。

 現代人はこうした理性欲経済の中で常に自己実現を求められ、限界まで競争を煽られ続けた結果、心を病んで自殺してしまうこともあります。理想的な自分を目指さなくとも良いのだ、人間らしくても良いのだという「インパーフェクトが許容される社会」の方が、もっと人や地球に優しいのではないかと僕は考えています。

 「人はどうあるべきか」を考えた哲学者は最後には自己矛盾に到達して、自殺する結果となって来ました。理性欲の無限増幅がインターネット上で匿名で無限に発信され続けている状況に対しては、一定の規制が必要になるでしょう。インターネットによる無限競争社会は、弱肉強食の世界でただ動物が殺し合っているのとあまり変わりありません。少なくとも、匿名での発言は禁止されるべきでしょう。人は結局は動物であり完璧な存在ではありませんので、完璧な自由を与えても使いこなせないのは、ある意味で当たり前の結果と言えます。「完全な自由ほど苦しいものはない」というのが、僕のこれまでの個人的な経験でもあります。

 米国での「保守派」と「リベラル」の対立による社会分断は、深刻を極めています。お互いが自身を「パーフェクトである」と信じて疑わないところに、妥協や話し合いの余地が発生しないという最大の問題が存在していると僕は考えています。人は相互にインパーフェクトであることを認めて、だからこそお互いを許し合う寛容性を備えて初めて、こうした対立や争いも収束を迎えることが出来るでしょう。人間は神様ではないのだから、人が唱える論理が完璧になることはあり得ません。理想を目指すことには意義があるが、自分が理想を代表すると自認することは、ただの勘違いです。結論として、理性欲の追及こそが理想であり完璧に正しいと誤認されてしまったところにこそ、宗教対立や格差社会に至るまでの現代社会の問題の原点があります

 理性欲の追及にはブレーキもかけて、協調と寛容、相互理解のある平和な社会が実現されることを僕は願っています。理想や価値観の押し付けこそが問題であるとの認識を持って、個人が利己を追及しすぎないような仕組みや価値観を新時代の基準として社会が受け入れられるよう、個人として出来ることを今後も行っていきたいと思います。

 私たちは、不完全でも良いのではないでしょうか。そうすれば、相手を許すこともできるようになるでしょう。

We are all different and imperfect, because we are all human beings.

Common Sense(常識)は、もう理由にならない

 “common sense” は日本語で言う「常識」を表す表現で、それぞれの単語が表すように”common”(共通の) “sense”(感覚)と言う、私たちが普通は「正しいこと」と信じている事柄です。ですが、常識は必ず正しい、本当にそうでしょうか。僕は個人的には、常識と言われていることはまず先に疑ってみる事にしています

 この「常識を疑ってみる」と言うことは実はとても大切です。何故なら、疑うことを忘れてしまえば、人は特定の考え方に縛られコントロールすらされてしまうからです。そしてその常識を信じている限りは、それ以上の改善が全く望めません。「常識だから」と考えることは実は、考える事を放棄すると言う点においてマイナスでしか無いのです。

 例えば、「新聞の情報だから正しいはず」、「テレビが放送しているのだからみんながそう思っている」、「instagramでみんながシェアしているから人気だ」、本当にそれは正しいでしょうか。新聞の記事を書いているのもテレビの番組を製作しているのも、instagramの投稿の「流れを作っている」のも、実はただの同じ人間です。つまりこれらの情報は実は「正しいこと」ではなく、あくまで「彼らの意見」や「作られた人気」でしか無い訳です。こうした意見を「正しい」と盲目的に信じてしまうことは、実は大変危険なことです。

 分かりやすい例を、日本は歴史の中でちゃんと経験しています。第二次世界大戦に邁進する日本政府や軍部に対して、その正当性を疑う人は圧倒的に少数でした。それは新聞やラジオなどのメディアも含めて「戦争をするのが正しいのだ」と信じてしまった、あるいは信じさせられてしまったからです。まさに日本中がマインドコントロールされてしまったが故に起きてしまった悲劇でした。

 ところが一方で、「戦争で日本は悪いことだけをしたのだ」と言う常識を反対に信じることも実は大きな間違いです。もちろん戦争自体が悪である事は疑いもない事実ですが、悪いことだけを行なっていたならなぜ、中国・韓国を除いたアジアのほとんどの国が親日的なのでしょうか。特に日本の植民地支配が長期化した台湾が世界一の親日国である事は全く説明がつきません。

 このカラクリはと言うと、台湾は確かに長らく日本の植民地として統治下にありましたが、その中には悪いことと良いことの両方があった事を、台湾人が客観的にちゃんと理解をしているからです。日本の統治により自由が奪われたり過酷な労働を強いられたマイナスの側面があった一方で、教育制度やインフラが整備され人々の生活が向上し、台湾が近代化するキッカケとなったのもまた事実です。その両面をしっかり合理的に理解しているからこそ、今の台湾の親日的な人々があります。

 他の例では、東南アジア諸国は日本の植民地となる以前は長らく欧米諸国の統治下にありました。欧米諸国の植民地支配と言うものは日本のそれよりも遥かに熾烈なものであり、現地の生活を向上させることなくただただ搾取を続けるだけのものでした。そこに日本がやって来た結果そうした欧米諸国による支配が追い出された訳ですから、東南アジアではそれは結果的にプラスに働いた面もあったのです。日本の敗戦後にはインドネシアには旧宗主国であったオランダが戻って来ましたが、現地に残った日本兵はその再侵略に対して現地の人々と共に戦ったそうです。現地では今でもこの方々のお墓がしっかりと守られています。

 このような事を書いているとまるで戦争や植民化を正当化しているかのように聞こえるかも知れませんが、そう言うことでは決してありません。僕は戦争には絶対に反対です。植民化も今後は絶対に許されてはいけません。ここで述べたいのはあくまで、物事には必ず表と裏、あるいはそれ以上の多面性が必ずあり、一つの側面のみが「正しい」訳では決してないということです。一つの内容を盲目的に信じてしまうと、それは逆に宗教対立に代表されるような衝突や紛争に必ず通じます。一つの内容を正しいと信じるのではなく、様々な観点から物事を柔軟に見てみて、良い点と悪い点の両方をしっかり把握することが大切です。そのような視点を持ててこそ、私たちは異なる文化や宗教を初めて受け入れることができます。これは今後の日本と世界には必ずなくてはならない姿勢です。

 このように、一般に「正しい」と信じられているものほど、実は逆に疑ってみる必要があります。新聞、テレビ、SNS、学校教育、教科書…本当にそれは、正しいと言えますか? これらを作っているのも人間であり、必ず何らかの意図がそこには入っています。 例えそれが事実のみで構成されていたとしても、その事実を取捨選択すれば、印象と言うのは操作出来てしまいます。こうした情報を「絶対に正しい」と盲目的に信じてしまうことが、実は最も危険なのです。意見や発想は常に多様である必要があります。一つの絶対的な正解など存在しません。

 同様に、多数の人が「正しい」と言っているからといってそれが正しいとも限りません。人間はあくまで人間、神さまではありません。人間が動物である限りは、何かが「絶対に正しい」と言うことはあり得ません。例え世界の70億の人が「正しい」と言っても、あなたが「間違っている」と思うのであれば、それは試しに変えてみる価値が十分にあります

 実際に、人間の歴史は1人の天才が全てをひっくり返した事が何度もあります。重力の概念を発見したニュートン、アメリカ大陸に初めて辿り着いたコロンブス(天才とは少し違う気もしますが…)、近年で言えば、誰もが最初は「何だこれは」としか思えなかったスマートフォンの概念を創造したスティーブ・ジョブズなど、これらの1人の天才はそれまでの世界の常識をたった1人の行動で完全にひっくり返しました。70億が正しく1人が間違っていると言う保証は、実はどこにも存在しないのです。1人の方が圧倒的に正しかった例は、歴史上にもいくらでも存在します。逆に言えば、あなたが常識に固執している限り、新しい発想や発見に辿り着く可能性はゼロだと言うことです。これでは人間には何の進歩もありません。

 この「常識を疑う感覚」を養うためには、海外へ行ってみることが非常に有効です。何故なら自分が常識だと思っていた事が、海外では常識では無い事が多々あるからです。それは良い意味での自分の考え方を崩すことでもあります。更に言えば、英語を使って外国人と話すことが出来ればその幅ははるかに広がります。必ず自分が当たり前だと考えていた事が「良い意味で」裏切られることを身をもって体感できるからです。これ以上の自分を改善できるチャンスはどこにもありません。また、今後はどんどん情報が氾濫することで、どの情報が正しいかすら把握することが難しくなって行きます。そうした中から正しい情報を見分けるためにも、多くのものや情報に触れ、異なった見方や環境を体感し、物事をもう一度多角的に見直してみることで「常識を疑う」「言われていること、書かれていることをすぐに信じない」力を養う必要があります。もう、特定の思想が世界を引っ張って行く時代は、終わったのです。これからは世界の一人ひとりが、何が正しいかを「自分で」考え判断して行かなければなりません。これまでのやり方や常識が実は間違っていたなら、それはすぐに変える必要があります。

 どうも僕の経験した限りでは、「出来る方法を考える」方より「出来ない理由を探す」方が多いような気がします。これまでのやり方とは、これまでの常識とは、果たしてそんなに大切なのでしょうか。これまで上手くいったから、はあくまで過去の話であり、世界や社会の変化の中ではそれに応じて「変えるべきことは何としてでも変える」のが正しい姿のはずです。

「常識では…」、「普通は…」、「我が社のやり方は…」、「この国では…」という言い訳を使う進歩のない人には、こう言ってみるのはどうでしょうか。

「何ですか、それ。どこで食べられるんですか。」

「グローバリゼーション」の概念を更新しよう

 「グローバル化」が盛んに謳われるようになってもう相当の年月が経ちますが、今でも一般に信じられている「グローバル化を達成する事が大切だ」という昔ながらの概念は、本当に正しいと言えるのでしょうか。本日はこの「常識」に一石を投じてみたいと思います。

 僕は個人的な考えとして、「これまでのグローバリゼーションには失敗の側面がかなりあった」と思っています。英語ビジネスを展開する人間がこんな事を言うことに驚かれる方がほとんどかと思いますが、その理由をご説明したいと思います。

 まず始めに述べたい事は「全てのグローバリゼーションの要素が失敗であったのではない」と言う事です。グローバル化が進んだことは基本的にはポジティブな点が多かったと思っています。それは主に経済的な分野とITテクノロジーによる距離感の短縮、そして英語が共通語として定着した事により、世界の人々が相互に接触し理解しようとする機会が増えたという点においてです。

 経済がグローバル化した事に関してはもちろん、ローカルなビジネスが生き残れなくなったと言う一見ネガティブに見える側面もありますが、僕はその点も含めてポジティブであったと考えています。なぜならビジネスとは、「より良いサービスや商品が勝ち残る姿こそが正しい」からです。例えば農作物ならば、関税によって守られていた旧態依然としたスタイルや既得権益が貿易の自由化によって消滅することは、消費者の観点からは完全にポジティブと言えます。また自由化によって競争を迫られることで、そのビジネスが大きく改善することもよく見られるケースです。分かりやすい例では、日本には高級果物や和牛があります。コスト競争力や安さでは外国産には勝てないと言う状況は、逆に高品質な果物や世界的なブームにもなっている”Wagyu” を生み出す結果となりました。アジア各国では日本のイチゴが1パック5,000円と言うような値段で売られていることもあります。1粒あたり400〜500円と言う事は、現地ではイチゴ1粒が一回の食事かそれ以上の値段と言う計算になりますが、それでも売れていると言うのだから驚きです。また、もはや英単語ともなった”Wagyu” はステーキの本場であるアメリカでも最高の牛肉と言う評価を受けており、アメリカ産和牛やオーストラリア産和牛まで生産される有様です(種が和牛であれば現地でそれをWagyuと呼んでも良いようです。苦笑)

<和牛はもはや “Wagyu” と言う英単語になった>

 また国内では、AmazonなどのITジャイアントの上陸により小売店のビジネスが存続の危機にありますが、これも長期的な考え方をすれば正しい流れであると言えます。社会とは常に進化するものであり、旧来のビジネスがいつまでも生き残れることはあり得ません。逆にいつまでも生き残っていればそれは何らかの既得権益が裏で守られていると言う意味であり、それは消費者にとってはマイナスでしかありません。誰だって良いものを、より多くの選択肢から、出来るだけ早く、可能な限り安く購入したいのは当然のことであり、こうした環境が生まれることは社会にとっては間違いのない「進歩」であると言えます。ビジネスを営む以上は、時代が求めるものに合致しなくなった商売が淘汰されることは社会全体で考えれば「ポジティブなこと」です。ビジネスとは常に新しい工夫が求められるのが当然であり、常に生まれ変わり続ける、そうあるべきものです。残酷に聞こえるかも知れませんが、それが資本主義の大原則です。資本主義とは100%完璧な社会システムではありませんが、「それでも資本主義は、人類がこれまで生み出した中では最も優れた社会システム」です。資本主義に対するアンチテーゼとして現れた社会主義や共産主義が歴史上失敗に終わった事は、みなさまもおそらく教科書で学んだことでしょう。その100%完璧ではないが現時点ではベストではある資本主義の欠点を補うために生み出されたのが社会保障などのセーフティネットですが、これを可能な限り小さく出来る社会=個人が自立している社会が、動物の一種である人間が現時点でたどり着くことができる限界かつ最適な社会と考えられます。難しい理論に聞こえるのであれば、「努力や勤勉、挑戦は報われるべきだ」と考えればシンプルです。これらが報われなくなった瞬間に、人には怠惰と欲望のみが残る事になります。

 内容が一部被ってしまいますが、ITによる世界の距離感の短縮も、総合的に考えればポジティブと考えられます。今ではインターネットにより世界中の情報を瞬時に知ることができるようになり、インターネットの通話機能を使用すれば世界中に無料で電話をかけることも出来ます(通信量は掛かりますが国際通話料と比較すれば微々たるものでしょう)。オンラインで世界中の人間とチャットや議論をすることができますし、それは文化の相互理解や新しい価値観に気付く事を可能にするものです。またそれを国内に居ながらにして疑似体験することを可能にするVR技術の開発も進んでいます。世界中の「異なる価値観やアイディア」に触れることで、私たちは自分の国をより良く、より迅速に改善出来るようになったと言えるでしょう。さらにはAIやロボットが人の仕事を奪うと言う批判もありますが、人が単純労働から解放される事で、社会には新しい価値やアイデアが生まれやすくなる可能性もあります。こうした技術はグローバルな技術交流、部品供給や分業体制によってその発展が効率的に加速されています。例えばiPhoneであれば、設計やOSとCPUの開発は米国Appleですが、CPUの製造を可能にしているのは台湾TSMCの微細化技術、通信モデムチップは米国Qualcomm、ディスプレイのOLEDは韓国Samsung電子や中国BOE、カメラのイメージセンサーはSONY(カメラモジュール化をLGが担当することもあり)、コンデンサーなどの電子部品は日本の村田製作所や京セラ、メモリーはDRAMは韓国SamsungやSK Hynixと米国Micron Technology、フラッシュメモリーは日本のキオクシア(旧東芝メモリ)や韓国Samsung, SKなどが供給し、台湾のFoxconnやPegatronが組み立てを請け負って、その工場は実は中国やインドにある、と言った具合です。そもそもDRAMやNANDといったメモリーの製造過程で、その製造装置や部品、素材は米国Applied Materialsからだけでなく日本の東京エレクトロンや信越化学工業、ヨーロッパのASMLなどから韓国や台湾へ供給されており、スマートフォンとはその製造に国境を越えた何百社もが関わっている、非常に多国籍な製品であると言えます。近年では、ビジネスが国内で完結することの方が珍しくなりました。

<iPhoneとは複数の国の技術による「合作」>

 もちろん上記のようなポジティブな影響は全て、世界の人々が英語を「世界の共通語」として利用するようになったからに他なりません。共通語が無ければ国家間の関係とは常に1対1でしか成り立たないことになりますので、世界に言語が100あると仮定すればそれぞれの言語の専門家全てが必要となってしまいます。それに対して1つの共通語があることは全てのコミュニケーションをより円滑に、より便利に、より効率的にすることを可能にしますので世界全体としての大きなメリットがあり、不必要な無理や無駄が解消されることにも通じます。もちろん複数の国の人間が同時に話し合い意見を調整することも可能になります。これは「共通語」があって初めて出来るようになった事です。「世界が英語に支配される」と警鐘する人がちらほらいますが、それが100%真実ではありません。ほとんどの国ではオリジナルの母語が使用される状況に変わりはありませんし(例外はありますがあくまで「例外」です)、英語を話すことと各国・各文化のアイデンティティを守ることは決して矛盾しません。むしろ他文化を知ることで初めて、自国のアイデンティティを確認する事が出来るようになるとも言えます。英語を話すようになったらその場所のアイデンティティが消滅したと言う例は、一部の例外を除いてほとんど確認されていません。同じ英語を話す西欧諸国同士ですら、アメリカとイギリスとオーストラリアの文化やアイデンティティは全く異なるものです。

 では、これだけグローバル化による良い側面があったにも関わらず、なぜ「グローバリゼーションには失敗も多かった」と僕が考えるかと言うと、それは「グローバリゼーションによる行き過ぎ」が明確になりつつあるからです。

 分かりやすい例としては移民の問題があります。グローバリゼーションにより世界の国境の壁が低くなったことは良い側面もあったのですが、残念ながら「移民」と言う貧しい地域から裕福な地域への一方的な人の流れを生み出してしまいました。(そうではない優秀な移民も多数いますので、あくまで「一般論」です。)僕は個人的に、各国の人間はその生まれ育った地域を改善するための努力をすべきものだと考えています。戦争や紛争による「難民」は批判できませんが、ただ裕福な地域へ移りたいが、自分は変化も努力もしたくないと言う身勝手な移民には賛成できません。それは混乱を極めるヨーロッパを見れば明らかなことであり、「人の移動を自由にした」結果貧しい地域から一部の都市への一方的な人の移動が発生しており、パリやロンドンに貧困層がなだれ込んだ結果それらの都市の治安は悪化し、地域の文化の良さが損なわれ、元からにそこにいた人々の不満を招き、それが失業者の増加、差別意識の拡大、テロリズムの発生、ナショナリズムの激化、そして更なる移民との衝突と、悪循環を繰り返すばかりの結果となっています。富が配分されるどころか一部の地域が一層豊かになり、貧しい地域はさらに貧しくなると言う逆効果も生み出してしまいました。もともと「理由があって存在していた国境」を消滅させた事は、理想のみを夢みて副作用を考慮しなかった結果の失敗であったと言わざるを得ないでしょう。

<移民排斥デモは過激化の一途を辿る>

 また国家に限らず、全ての地域を画一化しようとする試みも悪影響しか生まないと考えられます。例えば日本国内では全国に新幹線と高速道路が整備された結果、地方にあったエネルギーやビジネス、人材が全て東京に吸われる結果となり、地方経済はもう虫の息と言える状況です。これは本来、地方は地方の特色を生かして発展させるべきであったところを、全ての地域が東京と同じインフラ、東京と同じ箱物、東京と同じ生活を求めた結果の失敗であり、新幹線や高速道路自体が悪かった訳ではありませんが、全国が東京化すればその地域の特色や魅力が失われ、その状況においては東京に勝てる要素は一切なくなるのが当然であり、それなら若者が東京へ行きたいと考えるのは至極当然の結果です。地方は「東京と同じになること」を求めるのではなく、「東京にはない魅力を磨く」事に気付くべきと言えます。近年では一部その点に気づいた地域も見られるようになり、農村の原風景や古民家を活用したビジネスが成功する事例も多くなって来ました。地方の発展とは本来、そうあるべきものです。地域の特色と伝統を守りそれを生かすことが、長い目で見たときにその地域の利益となるはずです。

 同じことがグローバリゼーションにも言えます。世界中のレストランがマクドナルドになり世界中のカフェがスターバックスになれば、こんなにつまらない世界はないでしょう。マクドナルドやスターバックスはそれはそれで価値のあるものではありますが、地域性・文化性をその国が失ってしまえば、全ての活力と人材はアメリカに吸われるだけの結果となることでしょう。当然ですが、マクドナルドとスターバックスしかない国や地域へ旅行をしようと考える人などほぼ存在しません。地域性を失うことは結果として、その地域から人がいなくなり、訪れる人もいなくなり、経済が立ち行かなくなりお金が落ちることも無くなります。地域性を消滅させることはニューヨークや東京のような場所以外にとっては自殺行為以外の何者でもありません。地域性や伝統を重んじることは、全ての国と地域にとって非常に大切な事であると言えるはずです。

 またグローバリゼーションとはこれまで、「特定の思想を他文化に押し付ける」ことでもありました。いくら西洋社会が現時点でまだ最も発展しているとは言え、私たちが不完全な人間という存在である限りは、特定の思想が100%正しいと言う保証は100%あり得ません。西洋社会がその思想を持って世界を標準化しようとした結果生み出されたのがテロリズムであり、テロリズムが悪である事は疑いのない事実ではありますが、本来その原因は特定の考え方を他文化や他宗教に強要しようとした事が原点と言えます。「1つの思想こそが理想である」と考えるのではなく、「自分と他人は異なっているのが当たり前である」ことを全ての世界市民が理解をしない限りは、世界から戦争や紛争、テロリズムが無くなることは決してないでしょう。

<テロリズムとは特定の思想を強要した結果の宗教戦争>

 身近な例に話を移すなら、日本の調査捕鯨に対する民間団体のテロ行為は最たる例です。そもそも鯨の生態系が破壊されたのは欧米諸国の乱獲が原因であり、その状況を生み出した立場から他国に急に捕鯨禁止を要求するのは非常におかしな話です。生態系を守ること自体は正しいと言えますが、もしそれが生態系に影響を与えない範囲内で行われているものであるならば、「鯨は賢い生き物だから食べるべきではない」と言う主張には合理性が無く偽善でしかありません。それは逆に言えば「賢くない生き物なら殺しても構わない」と言う主張であり、「賢いかそうでないか」によって生殺与奪を決定することは人間という生き物のエゴでしかありません。オーストラリアでは「人に害があるから」と言う理由でカンガルーが虐殺されていますが、一方で「鯨は捕獲するな」と言うのであればそれは人間の身勝手な欲望でしかないことは明確です。環境や生態系の保護と言う明確な理由がない限りは「他国の文化に他国が口を出すべきではない」とするのがあるべき姿と言えます。

 結論として、グローバリゼーションの最大の失敗と言うのは、「地域や文化の多様性を殺して1つの理想による画一化を図ろうとしたこと」です。元々異なる場所を無理矢理一体化すればその中で衝突が起こるのは当然の結果であり、特定の思想を押し付けることもやはり衝突と反発を招くだけのことです。経済や技術がグローバル化しても、地域性や文化とは画一化してはならないものですし、その点に関してはグローバル化を追い求めてはならないものです。地域性、文化そして伝統を維持することで初めて「その地域にしかない魅力」が生まれ、その事が最終的にはその地域の持続的な発展にも繋がります。全てを世界基準にすれば良いと言うものでは決してありません。

 全ての人が異なるお互いを理解し尊重すること、つまり「違いを受け入れること」で初めて、戦争や紛争、テロリズムは減少するものであると僕は考えています。そしてそのような「真の多様性を実現すること」と「共通語を話して他文化を理解すること」は決して矛盾することではなく、むしろ相互の違いを理解し尊重するために必要な事であると思います。

 日本にも多くの外国人が移り住んで来る時代となりました。それは人口が減少する国では避けられない事なのかも知れませんが、日本人は日本人としてのアイデンティティを失う事なく、それと同時に異なる文化も受け入れる事が出来る平和な国となる事を願うばかりです。そして私たちが日本人として生まれた以上はその母国と文化を大切にし、少しでもより良い日本の実現を目標に努力して行くことが私たち1人ひとりに課せられた使命であるはずです。(国のために働けと言う意味ではありません。より良い社会を実現するために、マナーを守ったり違いを尊重するなど、自分に出来る範囲のことをしましょうと言う趣旨です)。そして世界のモデルとなれるような日本を実現することで、世界の多くの国々へと貢献することも忘れてはなりません。

<平成天皇は最後の誕生日に「我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」と述べたそうです>

SSEAは英語と世界の多様な文化や価値観をお伝えすることで、そうした多様な社会と平和を実現できる日本と世界を創造することを目指しています。そして英会話を学ばれる方お1人おひとりに、そのストーリーの主役を務めて欲しいと願っています。

イノベーションとは何か

 “innovation”は日本語では「革新」を表す言葉です。ざっくり一般的に言うと、それまでに無かったアイデアで何かを劇的に、あるいは根本的に変える行動や発明のことを指します。

 では、”innovation” とは完全に新しい概念によるものなのか、と言うと、実はそうではありません。それらは実際は、ほんの些細な「気づき」によって生まれるものです。

 身近なスマートフォンを例に挙げてみましょう。Appleのスティーブ・ジョブズが生み出したiPhoneは、それまでの生活やアイデアを完全にひっくり返したイノベーションであることは間違いありません。「スティーブ・ジョブズは天才だった」と言う人は世界中に数知れず存在します。しかし、ジョブズのアイデアとは実は、本当に小さな発想の転換でした。そしてそれは彼にとっては、実は非常に当たり前の結論だったはずです。

 Appleが2007年に世界初のスマートフォンである初代iPhoneを発表する以前から、類似の製品は僕が大学生であった2000年前後の頃にすでに、日本には存在していました。当時のガラケー(フィーチャーフォン)は既に、インターネットへの接続機能とソフトウェア(アプリ)の追加機能を持っていました。ガラケーにゲームをダウンロードしてプレイしていた方も多かったのではないでしょうか。ネットへの接続機能とソフトウェアの追加機能は、今日のスマートフォンとほぼ同じアイデアです。もちろんカメラも既に搭載していましたし、一部の機種は電子マネー機能すら有していました。ただしそのアプローチはあくまで、「携帯電話にコンピューターの機能を加える」と言うものでした。なぜならその当時の携帯電話は電子機器メーカーではなく、通信キャリア(携帯電話会社)が主導して開発をしていたからです。

 ジョブズが考え出したのはシンプルに、これと逆のアプローチ「コンピューターに携帯電話(通信機能)を追加する」、と言うアイデアです。この逆の発想がそれまでの携帯電話をすべて駆逐する絶対的な差となったのですが、アイデア自体は「完全に新しいもの」ではありません。それまでに存在していた技術に「反対からアプローチした」と言う本当に小さな気づきです。それはAppleと言う「コンピューターの会社」をしていたジョブズにとっては、至って自然な気づきだったに違いありません。ただそれを「1番最初に実行」しただけのことです。しかしこの気づきを「実行した」ことこそが、”innovation”と呼ばれるべきことです。気づくだけなら、遅かれ早かれ何人もの人間が出来たことでしょう。その意味ではジョブズは「天才」ではなく「実行者」だったと僕は考えています。

 Amazonのネットビジネス、SNSのfacebookやtwitterにinstagram、Google検索もすべて同じ事です。彼らはそれまでの社会から得たアイデアを「誰よりも先に実行した」からこそ、イノベーションを起こす事が出来ました。「気づき」は絶対的な差を生むものですが、気づくこと自体はそれらの人間のみに可能だった事では決してありません。気づかなければもちろん何も生まれませんが、それを「先に実行した」ことにこそ真の価値があるものです。

 歴史上の革新は全て、気づいた後の「行動」から生まれたものです。重力の概念はニュートンが「物が落ちるのは、地球が引っ張っているのではないか」という気づきを「研究した」からこそ成立した理論ですし、コロンブスによるアメリカ大陸の発見は「地球を反対に向かって進む」ことを実行した偶然の産物です。宇宙が回っているのではなく地球の方が回っているのだと言う地動説は、ガリレオが研究を進めるはるか以前の紀元前から、「地球が宇宙の中心ではない」と言う説が存在していました。ただそれを立証出来たかどうか、という「行動の差」です。気づくこと以上に、それを実行した事にこそ”innovation”がありました。

 「気づく」ことは簡単なことではありません。常識を疑うことが出来るのは、ごく限られた一部の人間のみに可能なことです。しかし、それに気づくことが出来る人間とは実は1人ではないのです。ただしそれを「最初に実行するのは、歴史上に必ず1人しかいない」と言うことです。この実行を最初に成し遂げた人間にのみ、”innovation” の称号が与えられます。

 気づくだけ、考えるだけでは何も生まれません。そのアイデアが正解であろうが不正解であろうが、実行して初めてそれは価値あるものになります。1つの成功とは10,000の失敗からこそ生まれるものです。

 失敗を恐れず、何事も挑戦してみましょう。世界には「やる」と「やらない」という2つの選択肢しかありません。例えばみなさまが英会話の勉強を「実行して」新しい自分の価値を作り出せたなら、それはみなさまの中の小さな、しかし確実な”innovation”です。どんな変化でも、成功のファーストステップとは最初は本当に小さなもののはずです。しかし初めはわずかな変化であったとしても、それを進めて行くことで最終的なイノベーションとなります。一方で、もし何も行動に移さなければ、当然ですが世の中にもみなさまにも、何の変化も訪れません。イノベーションとはそれまでに無かった事を実行に移すこと、それは前例がないので

「やってみなければ、分からない」

“Do it, or not?”

八方美人は、実は誰にも優しくない

 この記事は一見、英会話の学習には関係なく聞こえるかも知れません。しかしこの内容は国際社会でコミュニケーションを図る上では非常に大切なことで、英会話を学ぶ全ての方に知っておいて頂きたいと僕は考えています。

 国際社会でのコミュニケーション、英語でのコミュニケーションでは、「自らの意思や意見を明確に伝えること」は非常に大切です。日本では「察する事は美徳である」ような風潮がありますが、文化や考え方の異なる外国人とコミュニケーションを取る上でこの考え方は全く通用しないばかりか、意思を伝えないことはコミュニケーション自体を放棄しているとみなされる事もあります。文化として日本の中でそれが美徳であること自体は否定しませんし、国内ではそれで良いと思います。しかし残念ながら、それはあくまで国内の同じ日本人同士でしか美徳にならないことです。外国人とコミュニケーションを取る上では、意思を伝えない事はただの失礼にしか当たりません。

 また同様に、「空気を読んでただ合わせること」も国際社会では軽蔑の対象にしかなりません。それは自分の意思を明確にしない事で「自分だけを都合よく守っている」とみなされるからです。意見を言わないことは自らの身を守るための逃避であり卑怯な行動でしかないのが、考え方や価値観の異なる相手とのコミュニケーションにおける評価であり現実であると言えます。

 このような行動を身近な例で上手く理解するのに役立つ好例が「八方美人」です。誰にも優しく、波風を立てるのが嫌いで、全ての人に親切にして、自らの意思や意見を持たない、または言わずに隠している。このような行動は一見「優しい人、思いやりのある人」のように見えます。しかし歴史の中で「八方美人」と言う表現が生み出されたこと自体が象徴するように、実はこのような行動こそが「全ての相手に最も優しくない」のであり、「実は自分だけを大切にしている欲である」と言えます。

 価値観の異なる国際社会を例に用いなくても、身近な範囲でAさんとBさんの意見や考え方が異なると言う事はいくらでもあります。そうした際に波風を立てるのを避けてAさんにもBさんにも一見優しいような言葉や態度を見せれば、結局のところその人間はどちらからの信用も失います。AさんとBさんに反対のことをその場しのぎで言えばただの嘘つきですし、どちらに対しても意見を示さなければ当然どちらからもその場だけ都合の良い人と評価され、信用されることはまず無いでしょう。これが典型的な「八方美人」の概念です。「全ての人に親切にしよう」とすれば、「全ての人からの信頼を失います」。そしてそれは「全ての人を裏切っていること」と同じです

 厳しいように聞こえるかも知れませんが、英語で外国人とコミュニケーションを取るならば「自らの意見と立場を述べられること」と言うのは最低限の礼儀でありマナーです。「自分自身を持っていない人」と言うのは、国際社会では全く相手にもされません。自らの中身を包み隠さず明確にすることで初めて、その価値観や文化の異なる相手に認められ信用を受けることが出来ます。これは言語のスキルが高い事よりも、遥かに大切なことです。自らの意見や意思がなくただ誰にでも親切に良い顔をしようとすれば、誰からも十分に信用をされることはないでしょう。自らはどのように考えていて、自らはどのような価値観を持っていて、自らはどのような立場で、その考え方に沿ってどのように行動をしているのか。これは英語でのコミュニケーションに限らず、今後の国際社会で異なる価値観と接して行くためには必ず持っていなければならない「強さ」であり「真の親切であり優しさ」であると僕は考えています。

 もちろんその上で、ただ自らの立場に固執して相手を否定すれば良いと言うものでは決してありません。合わせるのではなく「お互いの違いを確認してその違いをまず認め合い」、そのことを認識した上で「どう歩みよって共生出来るのか」を考える必要があります。もちろん相互に必ず譲れないこともあるでしょうし、無理に片方が片方の価値観を強制することは衝突を生むだけです。一定の距離を保って「許容し合う」ことが大切です。

 しかしながら、全ての相手に良い顔をしようとする「八方美人」は、まずその相互の違いを認めると言う段階に辿り着くこと自体を放棄しているのです。それは他人との違いを生みたく無い、認めたくないと言う点において「最終的に自分だけが可愛い」のであり、一見優しいように見えて「全ての相手に対して最高に冷たい」行動となります。「察することが美徳」「空気を読んで合わせる」事を良しと考える日本社会は、それは国際社会では全く通用しない「最も失礼で親切でない行動」であることを理解する必要があるでしょう。

 日本社会の「他人の気持ちを推し量る」こと自体は世界に誇るべき最高に価値あることだと僕は思いますし、人の気持ちや立場に立てないのであればそれはただの自己中心でしかないでしょう。しかしながら人の気持ちを推し量る事が出来るなら、その推し量って理解したことを基にして自分の考えを持って明確に意見を発する事が大切です。「推し量った結果何もしない」ことは結果として、自分だけを大切にして全ての他人を傷つける結果となります。あちらにもこちらにも良い顔をしようとするような国が、他国からみて信頼をされる事はあり得ません。他国の状況や気持ちを推し量りながら、自らの明確な意思と立ち位置を持つことが大切です。

 英話を話すことで「異なる存在を理解しようとする姿勢」「自分がどう考えるかを常に発する能力」を養い、その意思を持って明確に行動を取ることが出来る今後の日本であって欲しいことを私たちは切に願っています。世界にはまだ、解決すべき様々な問題があります。大切な価値観や社会システムを育んでいくことは世界の全員の義務であり、侵略や虐待を見過ごすことは全ての人の共犯となります。時に制裁が必要なことは、親が子供を怒る必要があること、警察官が銃を持っている必要があること(使えと言っているのではありません)、社会に刑罰が必要なことと同じです。常に優しければ、波風を立てなければ良いと言うものでは決してありません。八方美人であること、罪を見過ごすことは、「誰かを不幸にすることを手助けしている」事だと言う事を、私たちは知っておく必要があります。

 「自分の国さえ良ければそれで良い」と言う内向的な考えから脱却し、衝突することを恐れず世界を変えて世界に貢献出来る、そのような日本の更なる成長とその未来を担って行く一人一人のみなさまを、私たちのスクールが少しでもお手伝いが出来たら幸いです。より良い世界を実現することこそが、周り回ってより良く平和な日本を実現することです。見過ごすことや何もしないことはいつか、必ず自らの身にマイナスとなって戻って来ます。

 みなさまは日本と世界の未来に何を望むでしょうか。もし望む未来があるならばぜひ、事なかれ主義や八方美人に逃げることなく「自らの意思を持って意見を発信」してみましょう。例え失敗や意見の衝突があっても、その1万回の失敗と挑戦こそが1つの大きな成果を必ず生み出します失敗が無ければ成功とは絶対に生まれ得ない、僕はそのように考えています。私たちの世界と未来は、私たち一人一人が少しずつ変えることができます。それは全て私たち次第なのであり、同時に全ての私たち一人一人の責任でもあります。それならば目をつぶるよりも、より良い未来と世界を実現する方が良いに決まっています。

日本から世界を変えに行きましょう。主役は、あなた自身です。

Sweet to everybody means not sweet to anybody.

人気の高いラーメン屋ほど「お支払いは現金のみ」が合理的であるのはなぜか

 海外の人と触れ色々なことを比較する中で感じるのは、日本人は「マネーの話に恐ろしく疎い」という点です。その是非はまたいつか触れるとして、今後の子供たちはやはりそのような知識も必須になって来ますし、世界を相手に戦っていくには避けられないスキルでもありますので、本日のブログ記事はあまり英語やコミュニケーションとは関係はないようにも見えますが、日本人として無意識に常識として信じてしまっていること、あるいはそう錯覚させられてしまっていることを「常識の殻を破る一歩」として書いてみたいと思います。この気づきの一部は僕も、海外での経験から日本を見たときに初めて辻褄が合ったものです。

 キャッシュレス全盛にも思われる今のIT化時代、クレジットカードや電子マネー、バーコード決済が使えないなんて合理的でない、単純にそう思ったことは無いでしょうか。僕も20年前に米国でスピード違反で捕まった際に、その罰金の支払いがクレジットカード1枚で済んだことに感動を覚えて「アメリカはやっぱり何でも進んでいる」、そう思ったものです。

 しかしながら最近、様々な知識も増え以前よりもっと多角的な方向からものごとを考えられるようになって、改めて新しい気づきとして逆の方向へ考え直したことがあります。日本でもコロナ禍もありキャッシュレスや非接触の導入が当然との空気も漂う中でも、「人気のあるラーメン屋さんほど、実は現金しか使えない」という事実から学んだことです。

 これは消費者側から見れば単純に「不便だ」「時代遅れ」としか見えないかも知れませんが、そのようなお店ほど本当は価値が高い事には、実はれっきとした合理性があります。「人気が高い事にあぐらを書いている殿様商売だ」と感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、自らビジネスを興してみたからこそ僕がいまハッキリ言えることは、「現金しか使えないラーメン屋ほど、商品の価値が高く訪れるべき店であるのは間違いない」ということです。

 この理由を理解するためにはまず「日本の金融事情」と「ラーメン屋と言うビジネスモデル」の2つを、その構造や競争環境も含めて理解する必要があります。

 まず日本という国の金融事情からひも解いて行くことにしましょう。「日本の金融手数料は高い」という話は、経済やマネーに詳しい方ならどこかで耳にした事があるかも知れません。銀行の振り込み手数料もそうなのですが、まずは消費者にとって身近である「クレジットカード」の仕組みを例にして順に見て行きたいと思います。ここの原則は、QRコード決済や電子マネーでも基本的には同じです。 

 現金を使ってもクレジットカードを使っても「支払額は同じはずだ」、そう思っている方がほとんどかと思いますが、実は仕組みとしてはまったくそうではありません。クレジットカードは消費者は年会費を除いて手数料なしで使用できる決済手段ですが、では誰がその手数料を負担しているかと言えば「クレジットカード加盟店」、つまり支払いを受け付けている店舗や組織になります。つまりクレジットカードは「無料で使用できるものではない」のであり、そこにはしっかりと支払いごとに金融手数料コストが発生しているのです。カード会社も民間企業であり、システムや広告に多額の投資をして従業員には国内平均よりもかなり高額な給与を支払っていますので、その使用にコストが発生するのは、よく考えて見れば当然と言えば当然です。

 この「加盟店が負担する手数料」は個別の契約にもよりますが、一般的に海外では2%程度であるところ、日本では「平均で決済額の3%強」と言われており、零細加盟店なら4%~5%に上ることもあります。決済金額に対するこの一定の割合の決済手数料はカード会社の収入となり、その手数料を差し引いた金額が後から加盟店に払い戻されるのが、近年シェアを拡大しているQR決済を含む、一般的な「キャッシュレス決済」の仕組みです。さらに、この一定の手数料とは別に、決済回数に応じた取扱い手数料が設定されている事もあります。加えて、加盟店にはオンライン決済を行うための機器の導入あるいはリース費用、その機器をオンラインにしておくための通信コストなども必要となって来ますので、キャッシュレス決済を行った場合の加盟店の最終的な負担割合(ここでは、現金決済と比較した際の損失割合)は、最低でも5%から、場合によっては10%近くにもなります。

 例えば、ある飲食店で800円の決済を行うと仮定してみましょう。飲食店の場合、この「800円」という価格には様々なコストが含まれていて、原材料費や調理のための光熱費はもちろん、店舗の家賃や従業員の人件費、事業にまつわる広告費や税金までを総合的に計算して、それで飲食店にも最低限の利益が残るように価格を設定します。もちろんお店にもよるかと思いますが、特にお酒を伴わない外食に関しては、最終利益で売上高の10%を見込めるレストランはそう多くはないでしょう。あのマクドナルドでさえ、ハンバーガーではほとんど利益がなく、収益の大半は実は飲み物とフライドポテトからと言われています。ここでもし800円の飲食の利益率がお店側で10%に設定されていたとして、現金で支払われる場合はお店は80円の利益を得る事となりますが、これがクレジットカードで決済された場合は利益はほぼゼロとなり加盟店としては働き損であるばかりか、キャッシュレス決済はその支払いが後日に入金される仕組みであるため、下手をすれば「ただカード会社に1ヵ月程度、利息なしでお金を貸すためだけに食事を提供した」ことになります。ですので飲食店の多くが食べ物だけではなく「飲み物を勧めて来る」のは、利益率の高い飲み物で収益率を整えるためにやむを得ないことだと考えられますし、欧米ではレストランでは飲み物を最低1杯はオーダーするべきとの文化があるのは、マナーの話を越えて、ビジネスモデルの裏にある利益率が影響をして来たのは間違いないでしょう。それは欧米の消費者からはレストランに対する敬意であると同時に、そうしてもらえなければそもそも外食産業とは「成立できない」のです。

 みなさまもレストランを訪れた際に「ランチではクレジットカードは使えません」と言われたり、「カード利用は3,000円以上からになります」と言われた経験が、1度はあるのではないでしょうか。「同じレストランなのに、なぜ場合によって違うのか」と思われるかも知れませんが、不思議に思った時にはレストラン側の視点から考えてみてください。これは金融手数料の仕組みを考えれば非常に自然な結果であり、少額の決済をカード払いにされてしまった場合、利益率の薄いビジネスはもうその商品を提供する意味そのものが無くなってしまうのです。そして皮肉なことに、利益率が薄いことは消費者に負担を押し付けないという経営努力の裏返しでもあります。

 僕が以前にモロッコを訪れた際には次のような経験がありました。お土産屋さんでカード払いをしようとしたところお店の店員さんの態度が急変して、「カード払いなら値段は5%アップになる」と言うのです。若かりし僕は当時は「そんなバカな」と思ったものですが、今になってよくよく考えてみれば当然のことでもあり、そのお店の定価には本当に、現金払いを前提とした最低限の利益しか入っていなかったのでしょう。その際は結局現金払いとしましたが、実は同様の例は日本にもあります。税金や公共料金の支払いをカードで支払おうとすれば、国税や都税の支払いサイトでは税額に加えて「決済手数料」が上乗せされる仕組みになっています。税金とは必ず決まった額を集めなければいけないことから結果的にこうなるのですが、いずれにしても真実としては金融決済コストとは「無料ではない」のであり、カード払いやキャッシュレス決済で現金と同じ価格を支払っているように消費者の立場では感じても、実はその価格には「手数料のためのコスト」もあらかじめ上乗せされています。そのため逆に考えれば、現金とカード払いで価格が同じ場合は「金融決済の分の余分なコストはあらかじめ価格に入っているのだから、現金払いをした人は純粋に少し無駄な費用を払っている」と考えることもできます。

 日本では「キャッシュレス決済が進まない」と声高に言われていますが、その根本的な原因は「日本人の現金信仰意識」とか「高齢者が多いから」とか、そのような精神論的な話では実は全くなく、この「金融決済手数料が他国に比べて高い」ことが最大の原因です。他国ではカード決済でもコストの上昇幅がトータルで2%程度に抑えられる場合もある一方で、日本ではこのキャッシュレス決済による損失額の割合が最大で10%近くにもなります(決済事業者との契約条件やビジネス環境にもよりますが、決済回数の少ない零細加盟店ほど手数料の利率が高くなると考えるのが妥当です)。これは国内の金融決済システムや銀行にも構造的な問題があり、キャッシュレス決済の決済手数料に留まらず、それが加盟店に入金される際には「銀行間送金手数料」も最終的に必要になるからとも言われます。近年この「銀行間送金手数料」はなんと半世紀ぶりにようやく引き下げられたものの、それでも根本的な問題は同じままであり、日本社会では見えないところで国民全員が金融事業者と銀行を社会インフラとして無意識かつシステム的に支えてしまっており、この高額な決済手数料と銀行間送金手数料が、加盟店のキャッシュレス決済導入を妨げている原因となっています。この環境はビジネスの視点から見ると、キャッシュレス決済を導入することにデメリットが多すぎて「加盟店は合理的なメリットを見いだせない」状況と言えます。

 さて、金融の話が長くなってしまいましたが、ようやくここでラーメン屋の話へ入って行きたいと思います。なぜ人気のラーメン屋ほどキャッシュレス決済を導入しないのかと言えば結論は非常にシンプルで、「ほとんどが零細業者である人気ラーメン店がキャッシュレス決済を導入すれば、競争に簡単に負けるから」です。これは「ラーメン屋というビジネスはコストパフォーマンスを極限まで追求したものである」ことに大きく関連しています。 

 みなさまもだいたいイメージをお持ちだと思いますが、人気のある高級ラーメン屋でもその基本的な価格は1杯1,000円未満に抑えられていることが一般的です。そしてラーメン屋ではこの低価格でラーメンを作るのに、信じられないほどの時間と手間、多くの材料が注ぎこまれていて、ラーメンとはコストパフォーマンスでは他の料理の追随を許さないほどに価値のある食べ物と言えます。多くの材料費がかかる料理で、他のコストを抑えると同時に販売量を確保する必要もあることから、店舗は1人または2人といった超少人数で業務を回していることが多く、食べたらすぐに出て行ってもらうことで回転率を確保する必要もあります。ラーメン屋で「1人1杯は必ず注文を」「小さなお子さまのご入店はお断りします」という貼り紙をご覧になったことがある方がいらっしゃるかも知れませんが、これは極限まで回転率を高めて効率的に販売量を確保する必要がある競争環境を考えると、もちろん良い気持ちにはなりませんが、理解できる部分があるのも確かです。そうした「極限の効率性」を維持しなければ、ラーメン店とはビジネスそのものが「環境的に成立しない」からです。

 さて、みなさまももうお察しかも知れませんが、このような「極限の経営努力」が求められる競争の激しいラーメン業界でキャッシュレス決済を導入しないことは、彼らにとっては「完全に合理的」なのです。国内ではキャッシュレス決済により最大で10%程度のコストが上乗せされてしまうため、単価が1,000円未満のラーメン屋では現在の価格設定では単純に赤字になってしまうか、価格そのものを値上げする必要が出て来てしまいます。ご存じのようにコストパフォーマンスを極限まで高めて競争しているビジネスですので、10%の値上げはそのまま「競合店に負けて店をたたむしかない」ことを意味します。

 そのため、おいしいラーメンで集客したいとの考えで経営をしているラーメン屋であればあるほどキャッシュレス決済にコストをかける合理的な理由はまったくなく、もしそのコスト分の余裕があるなら、むしろもっと質の高い材料を使ってラーメンを作ることで、お店の価値をより高めようとするはずです。これが僕が「お支払いは現金のみであるラーメン屋ほど、美味しいラーメンを作れるはずだ」と考える理由であり、そこには精神論やカルチャーの問題ではないラーメン業界特有の「合理的かつ明確な理由」があり、もちろんラーメン屋さんの個々のポリシーや信念の問題でもなく、経済合理性に照らした「マネーの取り扱い方」に理由が存在しています。「どんな人気店でも10年経てば飽きられる」とまで言われるラーメン業界で、キャッシュレス決済という「無駄なコスト」を店舗がかける理由は、どこにもないのです。僕が自分ならどちらを選ぶかを「消費者の立場」から考えてみても、クレジットカードで払えるけど味はまあまあで900円のラーメンより、現金しか使えなくても同じ900円で「これは美味しい!」と感動できるようなラーメンを提供するお店を必ず選ぶのは間違いありません。

 ただしこの「キャッシュレス決済はビジネスにとってメリットがない」ケースは特定のビジネスモデルに限った話であり、高い取扱い手数料をかけてでもキャッシュレス決済にした方が合理的にメリットがあるビジネスも、たくさん存在します。たとえばECの店舗やオンラインビジネスはそもそも現金を受け取るための実店舗を持ちませんので、専用の支払い場所を設けて人間を置いておくよりはすべてオンライン決済にしてしまった方が、むしろ商品やサービスを安く提供できるでしょう。商品を全て定価で売っていて利益率が高いコンビニなども同様で、利益率がそもそも高いこと、どこも同じ商品を売っていて差別化ができないため支払い利便性も大切であること、膨大な量の現金の入出金や運搬に逆にコストがかかることから、現金の取り扱いを減らす方がより効率的なサービスや商品を提供できるでしょう。単価が高い高級レストランや高級品を販売するお店も同様で、1回で大きな利益を出せることや高額な現金を持ち歩く人は少ないことから、やはりキャッシュレス決済にした方が合理的なメリットが大きくなると考えられます。

 なぜかイメージ優先で消費者にとってどちらが便利かとの視点からだけで語られがちな「現金かキャッシュレス決済か」の問題ですが、僕としてはむしろこのように冷静に「どちらの方がマネーや商品の価値に大きなメリットをもたらすか」という合理的な計算をベースとして総合的に考えてみるべきかなと思います。そのような視点を持つことで、少なくともラーメン屋さんのように「本当に価値のあるもの」をより確実に選ぶことができるようになるでしょう。

 日本人は真面目な民族性であることと、他者の話を受け入れやすい集団的な性格であることから、「何事も完璧でなければならない」「便利にしないことは怠慢だ」「新しいテクノロジーは良いはずだ」「そうするのは時代の流れだ」と精神論的な視点で考えがちですが、他国へ行ってより多角的な例を見てものごとを考えると、「本当に合理的なこととは実はそうではなく、最終的に残るマネーの問題として捉えるべき」ということに気づかされる事があります。僕が海外で気づいたこととは、全てが完璧であることは無駄なコストを生むだけであり、実は損失の方が大きいという点です。ビジネス用語にも「選択と集中」という言葉もありますが、僕としては必要なものとそうでないものを冷静に仕分けて価値付けや優先順位付けを行うと言う「完璧を目指さないことの合理性」により、日本の社会や経済はもっと良くなるのではないかなと思っています。

 まったく種類の異なる話にはなるのですが、かつて「世界一の品質」を誇った日本のソーラーパネルが、なぜ世界のマーケットで敗北する結果となったかを振り返ってみたいと思います。10年以上前とかなり昔の話にはなるのですが、当時日本のソーラーパネルの発電効率は世界一で、他国のメーカーの追随は許さないほど優れていました。

 では、なぜそのような素晴らしい商品がシェアを失ったかと言えば単純で、消費者に合理性を提供できなかったからです。日本のソーラーパネルが最高品質を誇った時代、競合メーカーであった海外メーカーはこう考えました。「80%の発電効率でも、価格が50%なら勝てるだろう」。

 これが完全に合理的にマーケットにヒットして、日本製のソーラーパネルは世界の市場で駆逐されることとなりました。よく考えれば単純な話で、効率80%のパネルを2枚購入すれば価格は同じ、しかし総発電量は160%になるのです。この競争において、高品質だけど価格が高すぎるパネルを買う人はいません。単純に「オーバースペックで高いだけ」になってしまったのです。

 このように、完璧を目指さないことによって合理性が高まるケースはいくらでもあります。例えば、僕が米国ロスアンゼルスを訪れた当時、市内を走るメトロにはなんと「改札がありませんでした」。

これは「信用乗車方式」と呼ばれるもので、海外の地下鉄や鉄道には結構あるパターンなのですが、全てをチェックしなくても乗客は一定の割合でチケットを買うだろうとの「信用」をベースに、買わずに乗車する乗客分の損失は最初から諦めることと引き換えに、自動改札機や係員、システム構築を省略することでコストを大幅にカットする方式です。「そんなことをしたら誰も払わないだろう」と感じるかも知れませんが、そこはちゃんと対策も施してあり、「稀に」出口に警察官が立っていて、チケットを持っていない乗客は高額な罰金を課される仕組みになっています。米国ではスピード違反の取り締まりも「一番速く走る車を捕まえる」のではなく、たまたま前にいた車が「少しでも速度超過したら捕まえる」ような感じになっていて、完璧な結果を実現するよりも人間の心理を利用して全体を「ある程度」抑制する方式によって、最終結果を合理化・効率化して社会の損失を減らしているのだなあと感じました。ロサンゼルスのメトロの出口で僕がその取り締まり警察官に遭遇した時、僕がちゃんと切符を買って持っており捕まることはなくホッとしたのは、必要ありませんが強調しておこうと思います(笑)(最初から1日券を買ったので、運もあったとは思いますが…)

 また、近年ではアフリカへの中国企業の進出が目覚ましいと言われていますが、中国製の商品の品質は良くなって来ているとはいえ、一部を除きまだまだみなさまが持っているイメージ通りであるのもまた真実かと思います。これは技術が追いついていないことや社会の怠慢といった要素もゼロではないのでしょうが、実は「低品質で良いのだ」とビジネスとして意図的に割り切っている部分があるのではないかと僕は考えています。

 先日、アフリカでまだ開通もしていない中国製の橋が崩落したとのニュースがあり驚いたのですが、アフリカの人々はそれでも「ああ、中国製だからね。壊れたらまた作れば良いのさ」と笑いながら言っているのです。おそらく先進国の価値観では理解が難しいかも知れませんが、まだ発展途上であるアフリカではそれこそが合理的なのであり、アフリカには「100年壊れない橋」はまだ必要なく、むしろ10年も持たない橋であっても初期投資を抑えてとにかく建設することで、今後の発展の基礎を少しでも早く整える方が総合的には合理的なのです。中国のビジネスは、発展途上国の顧客にとって必要なことを先進国のビジネスよりもちゃんと理解していると言えるのかも知れません。いずれにしても、相手のニーズを理解しないまま自らの価値観を持ち込んでも、ビジネスとして成功しないことは様々な結果が証明しているかなと思います。

 さて、最終的にラーメンの話からだいぶ遠ざかってしまいましたが、本ブログの最終的な趣旨は「常識に捉われると、合理性は見えなくなることがある」という点です。私たちには無意識のうちに「正しいと信じてしまっていること」がありますので、その価値観を一度裏切らせることで、私たちは価値観をリセットし続けて行く必要があるのかなと思います。過去の成功体験は忘れて、そもそも生まれながらにして「人間そのものが不完全な存在であること」も変数として計算に加味し、自らの価値観や経験は完璧では無かったことを認める勇気を持って、相手の立場から物事を考えて見たときに、より正確な何かが再び見つかるものなのかも知れません。いつまでも子供のような冒険心や探究心を持っていることも、実は有効かも知れませんね(笑)

 正しさの基準そのものを考え直すことで、あなたの周りの世界や人生は、少し良い方向へ変えられるかも知れません。そうした価値観の基準そのものを変えてみるために、ぜひ一度、世界へ出かけてみませんか。

2つの”equality”:「機会の平等」と「結果の平等」

 みなさまこんにちは。最近は文字ばかりの記事になってしまい恐縮なのですが、本日は僕が組織を運営するにあたって常に悩みどころともなっている「機会の平等」(Equality of Oppotunitiy)と「結果の平等」(Equality of Outcomes)について、書いてみたいと思います。

 最初に結論のようなことを書いてしまうと、「平等」に関する問題には、完全な解決方法と言うものは、実は存在しません。そもそも「何を平等と考えるか」によって、大切にすべきことが変わってしまいますし、上記した「機会の平等」と「結果の平等」は、実は必ず相互に矛盾する(includes a mutual contradiction)存在だからです。つまり、私たちが平等な環境を実現するための取り組みというのは、実はこの「機会の平等と結果の平等の間の、どこでバランスを実現するのか」について、人々が自らの属性の利益を追求するための駆け引きとして行っているに過ぎません。どちらかの平等を追求すれば、もう一方の平等は損なわれる。残念ながら、それが人間が形成している社会と言えます。

 一般的には、私たちは「機会の平等」を尊重すべきだとほとんどの人が認識しています。国籍や宗教、ジェンダーや年齢に囚われず、全ての人が等しく機会を与えられるべきである。この概念だけを1つの視点から見た時には完全に正しいように見えるのですが、その裏には、ネガティブな副作用も隠されています。しかし、その副作用やネガティブな側面については、残念ながら昨今のメディアや学問で「主流の意見として」取り上げられることはほぼありません。

 僕自身も組織を運営していますので、機会の平等が限りなく実現されるような仕組みを社内に導入しています。日本人だけでなく、欧米を中心に多くの国籍のメンバーが働いていますので、出自やジェンダー、年齢ですら区別を付けずにチャンスがあるような「能力評価」のシステムにしています。頑張って結果を出した人こそがその分評価され報われる姿を日々確認できていますし、その新しい組織のあり方には一定の満足を感じています。日本でもようやく欧米型の「ジョブ型雇用」を取り入れる大企業も現れ始めましたが、SSEAという組織には少なくとも、従来の日本企業とはまったく異なった価値観と企業文化が存在しているのは間違いありません。幹部の半数が外国人ですし、その中には女性もチームの一員として参加しています。「頑張れば、出自や性別、年齢に関わらず、誰でも報われる」、それを当たり前のことにしたいし、そうすべきであるというのが、ここまでの組織作りの大前提として大切にして来た事でもあります。

 一方で、機会の平等を尊重するためなら「結果の平等はないがしろにしても良いか」ともし聞かれるとしたら、それもまた違うのかなと考えています。

 議論の余地はもちろんありますが、ものすごく単純に分けて考えるのであれば、これまで欧米社会、特に米国は機会の平等の実現を追求して来たのに対し、日本社会はどちらかと言えば「結果の平等」を大切にして来たように思えます。日本ではメンバーシップ型雇用(終身雇用:Lifetime Employment)によってほぼ全ての社員が退職までの生活とその後の年金を保証され、主に年齢と就業年数によって昇進が決められ(年功序列:Seniority System)、悪い言い方をすれば「頑張っても頑張らなくても、結果はあまり大きくは変わらない」のが、これまでの日本社会でした。みなさまも、まったく仕事をしているように見えない課長や部長を、どこの会社でも見かけたことがあるかと思います。極端に言えば、これまでの日本の社会では「真面目に頑張る人ほど、損をする状態になってしまっていた」ことを、日本企業で勤務したことがある方なら誰もが実感して来たのではないでしょうか。

 この点は海外と日本の社会を比較すれば、多くの側面で違いを確認することが可能です。近年は国内では「格差が広がった」と、まるでこの世の終わりかのようにネガティブに報道するケースが目につきますが、その状況を加味してもなお、日本はまだまだ他国と比べれば「他国と比較することが馬鹿馬鹿しいくらいに、圧倒的に格差が小さい社会」です。格差が広がること自体が良いのか悪いのかは後半で再度触れますが、事実としては日本ほど格差が小さすぎる社会は、世界広しと言えども、極端な福祉制度を持つ北欧くらいかも知れません。米国の投資銀行の駐在員として日本に滞在した日本支社のCEOが帰国時に述べた感想が

「日本は世界で最も大きな規模の社会主義国だ」

だった、との笑い話は冗談ではなく、社会制度や規制によって、本当に社会主義に近い状況に結果的になっていることを象徴したひと言だったのかと思います。少なくとも、海外から見ればそのように見えるのが日本の社会制度です。

 例えば、日本ではなぜか「学歴は大切なのか」という話題がたびたびメディアで繰り広げられますが、こんなことを真剣に議論するのは日本人だけではないかと思います。残念ながらこの点は国内メディアも井の中の蛙になっている(正確には、メディアだけでなく日本では読み手がそれを求めているからこそ、そのような趣旨の記事や番組が増える)と感じるのですが、日本人が学歴云々を議論する間にも、海外では日本以上の超学歴社会が繰り広げられており、大卒と高卒では人生は天と地ほどに変わってしまいます。欧米ではさらに、大卒どころか修士や博士の学位を取得することも当たり前のように推奨されており、大卒でも高卒でも平均年収の差が1.5倍にもならない日本社会は、世界の中ではむしろ「異常なほど格差を認めない社会」となっています。欧米ではスチューデントローンを組んで、借金をしてでも大学を卒業して働きながら返済して行くのが当然ですし、社会に出たあとでも、年間で1000万円の学費にも達する大学院へ戻るために数年間は働いて貯金をし、さらに高度な学歴取得を目指して人生設計を組み立てるのが普通です。

 また、日本の税の仕組みや社会保険なども、例外に漏れずに日本人の価値観を反映したものとなっています。所得税に関して言えば累進課税が設定されているので、例えば頑張って働いて年収が1,000万円に到達すると、その収入の約半分は税金と保険料で消えてしまいます(所得税や住民税だけではなく、健康保険料なども収入に応じて増減するため)。一見とても公平なように見えるのですが、ここでは頑張った結果は報われるべきという「機会の平等」よりも、収入が多い人はその分を他人に還元すべきとの「結果の平等」が優先されているのが、今の日本社会です。収入の半分を失うために、昼夜を問わずに必死に働いて何かを努力しようとする人が、果たしているのでしょうか。日本人はよく「集団のために生きている民族」と海外から揶揄されることがありますが、これは国民性だけではなく社会制度そのものもこうした目的を達成するための設計となっていることを、私たちも正確に知っておく必要があるでしょう。結果の平等を尊重する社会とは、反対に言い換えれば「努力を搾取している社会」でもあります。歴史上で社会主義や共産主義が失敗に終わって来たのは、結果の平等を追及すると誰も努力をしなくなり、社会と人間そのものが腐ってしまうからです。残念ながら人間とは、競争が無ければ怠惰になり腐る生き物であることは、すでに歴史が証明しています。

 さて、ここまで書いて来た内容を読んで「単純に日本を批判している」とお感じになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、実はそのような意図でこの記事を書いているのではないことを、一度立ち戻って確認しておきたいと思います。ここまで書いて来たことはあくまで比較対象としての「事実の羅列」であって、僕の意見や考えとは異なることです。むしろ冒頭でも述べた通り、「機会の平等を一方的に追求することには、罠もある」というのが、ここで本当に明らかにしたいことでもあります。

 先日、「ジョブ型雇用は実は欧米ではもう時代遅れのものなのに、日本は今から導入しようとしている」と書かれた記事がありました。これはまさに僕も同じことを感じています。ジョブ型雇用で、つまり能力のみを絶対かつ唯一の評価基準として組織を運営しても、そもそも人間には感情があり機械の部品ではないので、結果的には上手く行かないと、ここまでの組織作りの経験で僕も理解して来たことでもあります。ですのでSSEAでは、あくまで機会の平等を基本原則としながらも、結果の平等が損なわれ過ぎないよう、「バランスを取るための決定」も忘れないようにしています。純粋な弱肉強食だけではやはり、組織や社会は良いバランスでは成長しないと感じているからです。そのためSSEAではビジネス原則を基本としながらも、多くの企業では一般的に(どれだけ包み隠しても)絶対の正義とされている「利益第一主義」や「売上至上主義」は敢えて排除し、顧客満足と従業員のウェルビーイングを利益よりも先にまず実現すべきことに据えています。そこはおそらく、SSEAという組織が利益の最大化自体を組織のパーパスとせず、社会貢献をその存在価値としているからこそ可能なのかなと思います。欧米型の考え方やシステムを取り入れつつも、そもそもアメリカとヨーロッパとオーストラリアで既に相互にまったく異なっている価値観やシステムを常に比較し、日本の良いところも加えながら、「ベストミックス」して新しい組織の在り方を生み出すことをマネジメントの前提としています。いかに米国が世界の最先端であっても、米国のビジネスをコピーすることはここでは全く望んでいません。むしろ、米国を上回る良いものを実現するべきだと考えています。

 現在の米国での「社会分断」(Social Segregation)の深刻さはたびたびニュースで取り上げられていますが、それでも日本で普通に生活する方々がその深刻さを本当の意味で理解することは、非常に難しいことなのではないかなと思います。この社会分断の原因には「弱肉強食社会での階層化」が根底にあり、機会の平等を追求したいリベラル主義と、宗教に基づいた「古き良き」伝統的な価値観を維持したい保守的な中間層が、相互に話し合うことすらもはや不可能になってしまうくらいに対立を深めてしまった結果であると言えます。AなのかBなのか、白なのか黒なのかという、2択のどちらかを双方が「絶対正義」と考え、その選択を迫るような価値観が強まった結果、今のアメリカではおよそ人口の半分の人が「2030年までにアメリカは内戦に陥る」と感じているそうです。それが実際に武器を使った姿の内戦になるかどうかは分かりませんが、機会の平等を絶対の理念として追及して来た結果、米国は社会に大きすぎる格差と階層、対立・紛争と不理解を副作用として誘発して、社会がバランスを取るための機能を失ってしまっているように見えます。相互に対する理解や思い遣りを欠き、ただひたすらに相手を否定すること自体を目的とする前提の姿勢と議論では、社会がより良い姿を実現する事は不可能と言えるでしょう。格差が異常なまでに小さく、妥協や集団生活を重んじる日本人の価値観はその対極にあることから、日本人がこのような「社会分断と格差の現実」を本当の意味で理解し実感することは、ほぼ不可能なのではないかと思います。

 ただ、ここで確認しておきたいもう1つの事実は、これは本当に「残酷な社会の真実」だと思うのですが、「分断された社会や格差は、一部の既得権益や富裕層、国の経済や資本家にとっては、むしろポジティブ」だという点です。近年に「伸びている」企業や経済、あるいは国家では一部の大企業や資本家と富裕層の利益だけが物凄い勢いで増えていることがほとんどであり、こうした「経済の先導役」がいて初めて、国際競争に勝ち抜き経済や平均所得が向上するのが現実です。中国では「富めるものから先に豊かになれ」として社会の格差を容認した鄧小平による改革開放が現在の経済発展のきっかけとなり、米国であればGAFA、韓国であれば財閥企業(特に経済の20%を占めるサムスン電子)、台湾であれば世界の半導体の中心プレーヤーともなった台湾積体電路製造(TSMC)などのIT関連企業、シンガポールや香港であれば富裕層による金融と投資が経済を支えていますが、これは「国民全員が豊かになった」とのイメージとは全くに異なる姿の「発展」であり、どの国家や地域でも日本とは比較できないような深刻な格差問題と社会分断を抱えていますが、そうした面は国内で報道の場にあがることは非常に稀です。社会の上位10%~20%に富が集中する方が社会の平均値は素早く上昇するのですが、逆に考えればそれは社会の80%を形成する「苦しい庶民」の犠牲と、そこからの搾取によって成立している「平均値という名前の数字上の発展」でもあります。日本以外の国の経済の「平均値」を考えてみても、実は何も参考にならないことは、直接その国の人々と触れてみれば、よく分かることです(平均値は富裕層や大企業が一気に押し上げているものであり、その「平均値で生きている人」は、格差社会には多くは存在しません)。まだまだ中間層が社会の最も大きなウェイトを占める日本人はとにかく格差にアレルギーがありますが、経済成長(平均値の底上げ)を達成するためには「格差社会の方が優れている」のもまた、知っておかなければならない残酷な現実です。

 当然こうした「格差社会」には、多くの犠牲が内包されています。富裕層が超高級車やプライベートジェットで豪遊する一方で、中間層を含む庶民は病院で満足な医療も受けられないのもまた米国社会であり、金融や投資で豊かな地域では、肉体労働のような社会の厳しい職務を負担し、その生活が向上する可能性は与えられていない「奴隷のような労働力」が社会を支えています。「機会の平等を尊重して豊かになった社会」(平均値が押し上げられた社会)とは、必ずしも美しいことばかりではないのです。必ず勝者と敗者に分けられて、同じ人間とは思えないくらいの立場の違いを受け入れるか、感情的に受け入れられなければ、社会分断と治安の悪化を副作用として誘発する。残念ながら、格差社会で競争に敗れることとなるほとんどの人間は機会の平等を論理的に受け入れて大人しく平和に暮らすことを受け入れないので、社会分断と治安悪化は、機会の平等という美しい響きの単語とセットで、必ずやって来ます。こうした「機会の平等を追及することの裏に存在する現実」も、私たちは未来の社会を描く際には知っておかなければならないでしょう。

 さて、僕の中で「機会の平等と結果の平等のどちらを尊重すべきか」という宿題については、残念ながらまだ答えが出ていません。というよりは、ハッキリとした答えは絶対に見つからない問題なのだろうということが、既に分かってしまっている、と言う方が正しいかなと思います。

 機会の平等と結果の平等は必ず相互に矛盾しますので、どちらか一方を追及するのではなく、どこにその理想的なバランスがあるのかを探し続けるのが僕の課題の1つかなと考えています。チャンスが平等にあり、頑張ったことが報われるべきというのは組織や社会の最低条件ですが、一方でそこに、人の生命や幸せといった基本的人権に対する犠牲があってはならないとも感じます。

 運の良いことに、SSEAには国籍も価値観も文化も、もともとバラバラであった多様なメンバーが集結しています。その多様性の中でバランスを取ることで、どこに理想的なバランスがあるのか、その永遠に答えは出ないであろう宿題に今後も取り組んで行ければと僕は考えています。

 また、いま僕がこうしてメディアに書かれている情報をいったん疑い、ゼロベースから物事を考えるようになったのは、やはり英語が話せるようになり、多くの外国人と直接触れ合って来たおかげかなと、常に実感しています。みなさまにもぜひ、少しでも英語を身に付けて、オンラインからの「情報」では分からない本当の世界の姿を、「経験」として発見していただければ幸いです。

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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「育てる」ときに大切だと思うこと

 しばらくぶりのブログ投稿になります。今日は「育てる」と言うトピックについて、書いてみたいと思います。

 日々多くの生徒さまに接しながら感じることなのですが、「その方の力をどうやったら伸ばしてあげられるか」と思い悩むのは、教育に携わる方のみならず、子供をお持ちの全ての親御さまや、企業や組織で社員や後輩の育成に携わる方まで、多くの人々が「難しい」と感じることなのではないかと思います。本日は僕が「人を育てる」ことについて「欠けてはならない」と思うことを2つ挙げてみたいと思います。

最初に結論をシンプルに箇条書きしてしまえば、この2つは英語教育に限らず、必ず必要なことなのではないかと思っています。

A:相手の成功体験を作ることで「自信とやる気の土台を作ってあげる」こと

B:相手に教える行為が「自分のためではなく、相手の利益になっている」こと

 まず「自信とやる気を作ってあげる」ことですが、これは人生の全てにおいて、もっとも大切な基礎であると僕は考えています。英語に関して言えばもちろん「単語」や「文法」、「発音」や「スピーキング力」など、スキルとして指導しなければならないことは限りなくたくさんあるのですが、そのステップに進む以前に、まず学習される方に「モチベーション」が無ければ、どれだけ内容が素晴らしい指導でも時間や費用の無駄になってしまうものかなと考えています。モチベーションとは動機、つまり「何かを頑張るための目的」です。

 「帝王学」という学問がありますが、これは将来に大きな組織のリーダーとなるためにはとにかくまず「揺るがない自信」を醸成することが大切と考え、幼少期にはとにかく褒めることや成功体験を積み上げることで、大人になったときに困難なことがあっても崩れてしまわない強さと自己に対する自信をまず作り上げることを目的としているように思えます。そして帝王学の基礎はまず「幼少期」にありますので、何より子供とは「まず自らの親に認められる」ことに全てがあり、そのステップをクリアすると次は「友だちや先生に認められること」となります。日本にも「三つ子の魂百まで」とのことわざがありますが、人生の70%以上は、実は生まれた直後の家庭での体験に左右されるものかも知れません。

 ですので僕が子育てをされる親御さまにまずお勧めしたいのは、否定による教育を重視しすぎないと言うことです。もちろん、一定の負荷をかけることで耐性を持たせることも必要なのですが、これに偏ってしまうと、スキルは一見は身についているように今は見えても、将来に自信が持てずに自我が崩壊してしまいます。「良く出来たことは手放しで褒めて、悪いことをしたら叱る」、この両方がバランス良く存在して初めて、褒めることと叱ることは相互に効果を発揮できます。

(誤解を招かないように強調しておくと、これまでの否定が中心の教育では上手く行かないから、何があっても叱らず、悪いことをしても無理矢理ただひたすら褒めれば良い、ということも明らかな間違いです。英語では甘やかすことを”spoil”と言いますが、spoilの本来の意味は「ダメにすること」との意味であり、褒めることを良しとする欧米社会においてさえ、甘やかすことは虐待であるとの価値観が存在していることは言語そのものが証明しています。あくまで「正しい価値観を伝え、それが達成されたときだけ褒める」ことが必要です。)

 また、この「成功や達成を認めてあげることの重要性」は子育てに限らず、全ての「育てること」において共通に必要なことではないかなと思います。人は他者に認められて初めて、至らない点を呑み込むこともできます。これは人間の「自我」の存在を考えればむしろ科学的かつ合理的なことであり、アメリカでは人事のマニュアルにまで記載されている内容だと聞いています。努力を促すためにはただ否定するのではなく、まずは「認めてあげる」という作業が最初に必要です。人に認められているという「自信」があって初めて、人間は自らの欠点を受け入れて改善したり、自らの気持ちに余裕を持ってマナーやルールを守ったりすることが出来るようになるためです。ですので、自信を崩すような言い方や教育は、どのように指導内容が素晴らしいものでも、どれだけ言っていることが正論でも、その前の段階でまったく効力を得ることができません。

 次に「育てることは、自分のためであってはならない」という点です。私たちはみな人間ですので、教えられている側は必ずどこかで「この人は自分のためにそう言ってくれているのか、ただ自分の面子や利益のためなのか」を感じ取っています。

 例えば、将来は「良い大学に行った方が良いに決まっている」ことを相手に伝えるとして、それが「本人の利益を考えてそう言っているのか」、それとも「親としての面子や自己満足のためなのか」、あるいは「塾や先生の実績や利益にしたいだけなのか」によって、同じ内容でもまったく効果が変わってしまいます。人間とは不思議なもので、まったく同じ言葉や文章からでも、その他の要素、例えば日頃の行いや話し方、表情や指導している人のヒストリーなどから、「相手が自分の利益を重視しているのか、それとも単純に相手の利益のために言っているだけなのか」を総合的にかつ本能的に判断するものです。

 ですので、相手に何か改善や努力を促したいのであれば、まず「それが本当に相手にとって利益になるのかどうか」、「そもそも、その相手にとっての利益や幸せとは何なのか」から、まず考え直してみる必要があるのではないでしょうか。価値観や幸せの定義とは世代によって、個人によっても違うものですので、自分の考えや成功体験がその「育てたい」相手にとって、本当に同じような利益であるとは限りません。その世代やその相手の性格など、「育てる相手の視点」から本当の利益とは何かを理解して、その利益を実現するためのサポートを提供してあげることが教育なのかなと、僕は考えています。つまり主役は育てる側であってはならず、あくまで「育てられる人の未来」であるべきです。

 日本人とはその歴史的な背景や民族性から「当初より強固なアイデンティティを備えている」と、世界の様々な人間を観察して来た結果として僕は感じています。それはつまり「否定されても揺るがない強さと自信」であるため、日本では体育会のようなしごき文化で指導を行っても、大半の人はポジティブな面を得ることが出来たのではないかと思います。定義の議論はさておき、日本という国は少なくとも他国に侵略を受けた経験が無く、文化的アイデンティティが強固に守られ続けて来ました。国が出現した時から王族が一度も変更されていない歴史を持っているのは、世界広しと言えども日本は世界で唯一の存在です。これまで「本質的に」「文化的に」否定された経験が薄いからこそ、少しのことでは揺るがないアイデンティティを維持していると言えるでしょう。

(話は脱線しますが、太平洋戦争の後に米国は日本を「支配」せず文化的アイデンティティも否定しなかったことは、直前まで戦っていた敵国だったにも関わらず、(米国の利益にも叶ったとは言え)どこまでも冷静で秀逸な判断だったと思います。)

 この点に関しては良い点と悪い点、メリットとデメリットが存在しています。自信があること自体は基本的にポジティブに作用しますので、逆境に負けずに耐える力、冷静に目標に向かって感情をコントロールする力、余裕があり他者に親切に出来たり異質なものを比較的容易に受け入れる受容性などは、ナショナリズムを離れて客観的に比較した場合でも他国より優れているように感じます。この点はまさに「アイデンティティが強固である」賜物ではないかと思います。

 一方で「育てる」という観点から見た場合に、否定されても揺るがない経験に慣れてしまっていることから、「否定することは普通で、耐えられない方がむしろ悪い」という暗黙の思い込みを常識として文化に内包してしまっています。これまで、国内のほとんどが日本人で、同質的な文化を維持している場合に限ってはそれでも良かったのですが、経済や情報がグローバル化し、国内でもより多様な価値観への対応が迫られるようになった現代社会では、これまでの「育て方」はまったく通用しなくなって来ています

 現代社会はインターネットで常に海外の情報と繋がっており、人は常に「自らと海外の人々」を無意識に比較し競争する環境に置かれていますので、これまでのように否定を中心とした育て方では「成功体験が最終的には得られない」状況となってしまいました。シンプルな例えだと、これまで日本では「プロ野球選手になればほぼ頂点」だったものが、現在では「メジャーリーグの選手はほとんどの人が国内のトップ選手より稼いでいる」と言ったことを、誰もが当たり前のように知るようになったというようなことです。国境のハードルが下がった結果、世界のどの国でも人々の競争相手は「国内ではなく全世界」に変わったと言えます。

 経済においても「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われた1980年代と比較して、世界の競争環境はまったく異なるものとなりました。日本が世界経済の中心だった時代なら、日本のやり方で、日本でトップを取れば、それはそのまま最高の結果だったと言えたのかも知れませんが、今では違います。少子高齢化が進んだ日本の環境では、言い方は悪いですが、今後の若者は「退役世代を支えると言うハンディキャップを背負わされた状況で」グローバル化された世界の強者たちとの競争に挑まなければなりません。残念ながら、国内で勝てれば勝ち組という時代は、30年ほど前にもう終わったのです。果たして、私たちが今後の将来世代にしてあげられることは、なんでしょうか。

 少なくとも今後の現役世代を「育てる」時には、こうした世界の強者と戦っても揺るがないだけの「自信とアイデンティティ」を作り出すことが求められます。また、価値観が多様化して周囲の人間も日本人とは限らなくなった以上、これまでのような否定を中心とした育て方では、大人になった時に周囲とのコミュニケーションに支障を来たし、最悪の場合はパワーハラスメントで組織を追われるといった結果になり兼ねません。私たちが将来世代の幸せを本気で願うのであればなおさら、私たちが育てる世代には「世界基準で勝ち抜くための育て方」が求められています。それはこれまで私たちが達成してきたことの何十倍もの努力と工夫、そして「これまでには無かったレベルでの育て方」が必要となるでしょう。今の日本社会、特に人を育てる親世代や管理職世代には、「価値観の抜本的な転換」が求められています。

  SSEAでは、未来の社会を担う方々を育てるお手伝いが出来ればと考えております。価値観の転換は世代に限らず、社会の全ての方々がそれぞれの役割に従って身に付けなければならないことではないでしょうか。

 ただ、私たちにはそのための希望がしっかりと見えています。これまで日本人が培ってきた「強固なアイデンティティ」と「他者に奉仕する精神」は、人を育てるという作業に関しては無類の強みを発揮できる下地でもあるからです。今後の将来世代が確固たる自信を持って、幸せに生きて行くためのお手伝いを実現出来たなら、それが私たちが存在する意義なのではないかと考えています。私たちは今後も、未来を創るための仕事をしていきます。

We can change the world.

Fly to the world, realize the next one and open your future.

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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「英語を勉強して良かった」1番大切な理由

「英語って、何のために勉強するの?」

皆さんが英語や英会話を学ばれる理由は様々だと思います。「旅行をもっと楽しみたい」「留学やホームステイに行きたい」「受験のシステムが変わる」「仕事で英語が必要だ」「就職や転職で有利になる」「外国人と話してみたい」「外国人の友達や恋人が欲しい」「もうすぐ東京オリンピック!」「シェアハウスに入居したら周りがみんな外国人」…その目的、動機は人によって千差万別でしょう。きっかけや目的が何であれ、英語を身に付ける事はその方々にとっては必ず何らかのプラスになるはずです。僕に至っては、大学時代に父に「学生のうちに留学くらいしておけ」と言われたのがきっかけです(笑)もちろんそれ以前からTOEICくらいは受けないと…と思って単語を覚える程度はしていましたが、本格的に背中を押してくれたのはその父の一言だったのは間違いありません。詳しくは留学時代の体験 「Santa Barbaraその1。」のブログからお読み頂ければ幸いですが、何しろ僕はそのようなきっかけでロクロク会話の経験もないまま留学へ出発し、現地で打ちのめされ自分の情けなさを痛感し、そこから必死に英語の勉強を始めることとなりました。

きっかけはこのような情けないものですが、とにもかくにもその後英語を身につけた事で、次の留学では海外に多数の友人ができ、その後9.11直後の超氷河期の就職活動を勝ち抜き、海外旅行へ行っても不自由なく行きたい所へ行き、やりたい事をやり、食べたい物を食べ、相手を怒らせるまで値切り(笑)、時には英語でケンカをする事も出来ます。今ではネイティブと英語で議論してもそう簡単には負けません。そして何より、いまこうして英語を教えると言う仕事を立ち上げる事も出来ました。まさにあの時の父のひと言が、僕にとってはかけがえのない一生ものの財産となりました。恥ずかしくて口では伝えられませんが、僕はその時の父のアドバイスに、本当に深く深く感謝をしています。日本語しか話せなければコミュニケーションが取れるのはせいぜい1億人と少しですが、英語と言う「世界の共通語」でコミュニケーションが取れる人の数は、少なく見積もっても世界の半分、約35億人に上るでしょう。つまり僕の世界は父のおかげで35倍の広さになったのです。世界を自由自在に旅をして、35億の人々と会話ができ、様々な知識や経験を得て無限の魅力と出会うことが出来る。こんなに素晴らしい事は無いと思います。

しかし、僕が「英語を身に付けて良かった」と思う1番大切な理由は、実は上記したような事ではありません。僕にとっては世界を知ることで、「日本のことを初めて正しく知ることができた」と言うことが、もっとも大切な事だったといま思えることです。

実は僕は若い頃は、いつか日本を出て行きたいと思っていました。こんな経済が低迷し、刺激的な事が少なく、政治家や官僚は悪事ばかりを働き、過労死するほど働かなければならない国に住むのは不幸だと勘違いをしていました。ただ僕がこのように思っていた事は実はそれほど稀なケースではなく、実際に日本の若者は他国の若者と比べて自分たちを幸せだと感じていない、と言う調査データが出ています。つまり日本人、特に若者は日本に生まれた事を「幸せでない」と思ってしまっているのが現状なのです。それは実は大きな勘違いなのですが、残念ながらそれが勘違いだと気付くチャンスや方法が日本の若者にはないのかも知れません。それは日本の教育政策の失敗と、マスメディアがネガティブな内容ばかりを批判的に報道する偏向的な姿勢、そして何より、若者が内向的にならざるを得ない英語教育のレベルの低さに大きく起因しています。

僕は英語が話せるようになってから、色々な国の友人と話をしたり、中々行く事が出来ないような場所にも行けるようになり、個人的に旅行が好きだった事もあり世界各地の様々な場所へ行き、様々な現状や問題を自らの目で見て感じる事が出来ました。そしてその中で、初めて気付くことが出来たのです。「自分は何て恵まれた国に生まれ育ったのだろう」と言うことに。

<これだけの大都市にも関わらず、東京の空は青い。アジアからの観光客は、まず空の色が違う事に驚くそうです。アジアやヨーロッパの大都市の空が青い事は、近年ほとんど無くなりました>

世の中面白いもので、日本に生まれて日本しか見た事がなかった時は、実は日本のことは何も分かっていなかったのです。世界に飛び出して他国と日本を比べた時に初めて、日本は世界の中でもズバ抜けて幸せな国だと気付きました。治安が良く女性が夜に繁華街や住宅街を1人で歩いても何も問題がなく、町は清潔で人々は勤勉で礼儀正しく親切、カフェでバッグを席に残してトイレに行っても盗む人もおらず、電車にスマホを忘れてもかなりの確率で戻って来ます。サービスのクオリティは世界のトップと言えるほど優れており、仕事を探そうと思えば労働者の数より求人の数の方が多い、賃金の水準もバブル期のように世界トップでは無いにしろ、先進国に相応しい十分に裕福な生活を送ることができ、ほとんどの国民が海外旅行を楽しめ、日本のパスポートを見せればビザも免除され疑われることもほとんどありません。世界のトップを争う技術や医療環境も存在し、選挙権も表現の自由も当たり前のように与えられている。自然に恵まれ美しい景色と文化的な財産を持ち、水資源に困るどころか水道の水をそのまま飲むことまで出来る。首都である東京都市圏は人口ベースでも経済ベースでも世界最大の都市で、世界中の料理を楽しめ、世界中のエンターテイメントや芸術がやって来て、手に入らないものの方が珍しく、ありとあらゆる種類の娯楽を楽しむことができ、把握仕切れないほどの新スポットが次々と生まれ、ニューヨークと世界一を争う事が出来るくらい刺激と新しさに満ちあふれています。高品質で新鮮な食材があふれていて、美味しいものがいくらでもあり、和食は世界的にも最も価値のある料理の1つとして世界遺産にもなりました。高級な食べ物でなくてもクオリティが高く、安くて美味しいものが沢山あります(安くても美味しい、と言うのは他国では非常に稀なことです)。アニメや漫画と言ったサブカルチャーは世界中の若者を魅了して日本好きの外国人がどんどん増えていて、逆に海外へ行けば日本人だと言うだけで親切にされたり礼儀正しく扱われる。これだけ恵まれている国は世界のどこにもありません。日本より進んでいる国はおそらく、アメリカぐらいのものでしょう。そのアメリカですら、全ての面で日本より優れている訳ではありません。

<イタリア・ナポリのメインストリート。経済状況が悪化しゴミの回収がままならないそうです>

先進国が集まるヨーロッパでさえ失業率が10%を超える国が続出し、10人に1人は仕事がありません。多くの国は砂漠化と水資源の確保に苦しみ、水道水を安心して飲めるなどと言う国はほとんどなく、移民の受け入れに問題があった国では差別や貧困が蔓延し治安も悪化しています。パリやロンドンでテロが頻発しているのは皆さまもおそらくニュースでご覧になった事があるかと思います。発展途上国では水不足に水質汚染と大気汚染が深刻化しており、他のどの先進国を見ても発展途上国を見ても、日本のように何一つ不自由がない国は1つもありません。

日本人は自らが築いて来た文化、歴史、経済や自然環境にもっと誇りを持っても良いと、僕は思います。これだけ素晴らしい国は見つける事が不可能だ、と言っても決して過言ではないと思います。逆に日本を知る外国人の方が、日本の事をよく分かっていたりします(苦笑)ただ、それは残念ながら、日本にいたら分からないこと、世界へ出てみて初めて気付くことです。その意味で、僕は英語を身に付ける事ができて本当に良かったと思い、もっと日本の良さを世界に発信したい、そして日本の皆さまにも、私たちの住む国のことをより良く知って頂けたら、と思います。そして私たちは恵まれているからこそ、もっと世界に貢献する事も忘れてはならないと感じます。

そのためにも、僕は今後も日本の英語教育を変えると言う目標に挑戦し続けたいと思います。そして日本の未来を創って行く若者に、ぜひ世界に飛び出して見識と経験を広げ、今後の日本をより良くして行って欲しいと願うばかりです。皆さまが世界を知り日本を知る、そのお手伝いが少しでも出来たら幸いです。

Learning the world means learning your own country. Find and love the country where you have grown up. Contribute to and improve your home country and the world.

“Find the world. Find Japan again!”

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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“Amazing Grace”と言う歌の意味とその背景

おそらく皆さまも一度はどこかで耳にしたことがあるであろう曲、”Amazing Grace”(アメイジング・グレイス)ですが、この曲は実はキリスト教の賛美歌であると言うことをご存知でしょうか。恥ずかしながら僕もつい先日までは知りませんでした(苦笑)本日はこの曲が持つその意味と、この曲が生まれた背景から僕が考えたことを書いてみたいと思います。

    <AMAZING GRACE (Hayley Westenra)>

“Amazing Grace”は「素晴らしいグレースさん」と言う意味ではもちろんありません。ここで使われている”Grace”とは「神の恵み」「恩寵」の意味であり、日本語に訳すと「すばらしき神の恩寵」となります。神の恵みに感謝することを歌うこの曲は、イギリスの牧師であるJohn Newtonによって1772年に作詞されました。彼がこの曲を作詞するに至った背景には、彼が牧師となる前に行なっていた過去の行いと、それに対する後悔の念が大きく関係しています。

<John Newtonの肖像画>

John Newtonは実は、当初は船乗りとして黒人奴隷貿易によって富を築いていた商人でした。当時の奴隷に対する扱いは想像を絶する家畜以下のものであり、多くの奴隷は輸送中の非衛生的な環境の中でその命を落としたと言われています。彼はそのような罪深いビジネスに従事して富を得ていましたが、1748年のある日、彼の船が嵐により浸水し、沈没の危機に瀕しました。彼はクリスチャンとして育ったものの、救いを求めて本当に心の底から神に祈りを捧げたのは、この時が初めてのことでした。
船は運良く沈没を免れ彼は生き延びることとなりますが、この日を境に彼の考え方は大きく転換し、「奴隷貿易を行なっていたような罪深い自分にも、神は赦しを与えた」ことに対して深く感謝をするようになります。その後もしばらくは奴隷貿易に従事し続けたものの飲酒やギャンブルなどを控えるようになり、1755年にはついに船を降りることを決断し、その後勉学と多額の献金を行い、彼のその経験を伝える事ができるよう牧師へと転身したのです。

こうした後悔の気持ちと、それを赦した神への感謝を述べるために作詞されたのが、今では広く知られることとなった”Amazing Grace”です。”amazing”(驚くべき)の単語が使用されたことからも、彼にとって神の赦しは驚くべきほど深いものだったのでしょう。当初彼が作詞したオリジナルの歌詞には次のように綴られています。

<Amazing Grace(オリジナルの歌詞)>

Amazing grace! how sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost but now am found
Was blind, but now I see.

‘Twas grace that taught my heart to fear.
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.

Through many dangers, toils and snares.
I have already come;
‘Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

The Lord has promised good to me,
His word my hope secures;
He will my shield and portion be,
As long as life endures.

Yes,when this flesh and heart shall fail,
And mortal life shall cease;
I shall possess, within the vail,
A life of joy and peace.

The earth shall soon dissolve like snow
The sun forebear to shine;
But,God who called me here below,
Will be forever mine.

<アメイジング・グレイス(日本語訳)>

驚くべき恵み なんと甘美な響きだろう
私のように悲惨な者を救って下さった
かつては迷ったが、今は見つけられ、
かつては盲目であったが、今は見える

神の恵みが私の心に恐れることを教え、
そして、これらの恵みが恐れから私を解放した
どれほどすばらしい恵みが現れただろうか、
私が最初に信じた時に

多くの危険、苦しみと誘惑を乗り越え、
私はすでに辿り着いた
この恵みが、ここまで私を無事に導いてくださった
だから、恵みが私を家に導くだろう

神は私に良い事を約束して下さった
彼の言葉は私の希望の保障である
彼は私の盾と分け前になって下さる
私の命が続く限り

そう、この体と心が滅び、
私の死ぬべき命が終わる時、
私は、来世で得るものがある
それは、喜びと平和の命である

地上はまもなく雪のように白くなり、
太陽は光を失うだろう
しかし、私を御許に召して下さった神は、
永遠に私のものになる

このように、”Amazing Grace”とは、過去の自らの過ちを悔い改め、それを許してくれた神に感謝の祈りを捧げた賛美歌なのです。そして人が過ちを犯したならそれを悔い改め、自らを律して正しく生きて行くべき事を、彼はその賛美歌の歌詞へと込めました。

話が全くそれますが、僕は誰かに「人は何のために生きているのか」と聞かれた時は、こう答える事にしています。

「人は、幸せになるために生きている。人生を楽しむために生きている。」

なぜなら、幸せではない人生、楽しくない人生はウソだと思うからです。人も生き物である以上、その欲望から完全に逃れることは出来ません。食欲、性欲、睡眠欲と言った動物が本能として備えている欲に加えて、「美味しいものを食べたい」「旅行に行きたい」「物を手に入れたい」「他人とコミュニケーションが取りたい」「人に理解されたい」「もっと多くのことを知りたい」と言った、知恵や知識があるからこそ生まれる、人間ならではの欲もあります。僕は一応(というか日本人の大部分は)仏教徒になるかと思いますが、仏陀のように欲を完全に捨てることは、おそらく僕には無理だと思います。

しかし一方で、人間にはその欲を抑えたり他人を思いやると言う「理性」や「倫理観」、「社会性」も同時に備わっています。これは人間がその進化の過程で知恵と同時に培って来た、生命体では人間のみが持つ能力です。人間にはその知恵ゆえの欲望がある一方で、それを制したり反省する知恵もあるのが私たち「人間」と言う生き物と言えます。

宗教もこうした歴史の過程で、人が自らを律したり、生きるべき道を示したり、時に自らの過ちを認め悔い改めるために生まれて来た概念と言えます。僕は特定の宗教を深く信仰するタイプではありませんが、宗教の考え方やその背景にある事実を知ることは「人がどのように生きるべきか」「社会はどうあるべきか」と言う事を考えるきっかけを与えてくれるものです。

<世界にある様々な宗教は人々を導くためのもの>

“Amazing Grace”を聴いたりその歌詞や誕生の背景を知ることで、「人は時には過ちを犯すことが必ずある。そうした際には、その過ちを認め悔い改め、その先にある人生に生かしていくべきだ。」と言うことを、僕はまた1つ知ることができました。皆さまもこの心に染み渡るメロディーを耳にした際は、人には人間のみがもつ「欲」と「理性」が両方とも存在し、それをどのようにバランスを取るべきなのか、そして「人はみな幸せになるために生きている」が、そのためには「過ちは悔い改め正しく生きて行く必要がある」と言うことを、思い出してみて下さい。

We must make mistakes sometimes, as long as we are human being. But we should not give up improving ourselves and realizing our happiness.

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本気の留学ならアメリカに行くべき10個の理由

一言で「留学」と言っても、中高生のホームステイ体験から超一流大学でのMBA取得まで、その内容は様々です。英語を学ぶのが目的なのであれば、英語圏の国ならどこへ行っても良いだろうと思うかも知れません。また、近年ではフィリピンやフィジーといった格安で語学留学できる国も人気です。(ただし、フィリピンやフィジーでは英語は「公用語」であり、「母国語」ではありません。)

ですが、本気で様々な実力を養いたいのであれば、僕は留学先はアメリカを選ぶべきと考えます。それはホームステイであっても、語学留学であっても、大学院への進学であっても同じです。今日は僕がそのように考える10個の理由について、ご紹介したいと思います。

①研究のレベル

まず、大学・大学院へ留学するのであれば、世界の研究の最先端を走っているのは間違いなくアメリカです。ここで幾つかのデータをご紹介したいと思います。

【世界大学ランキング2018(THE)】

1位 オクスフォード大学(イギリス)

2位 ケンブリッジ大学(イギリス)

3位 スタンフォード大学(アメリカ)

3位 カリフォルニア工科大学(アメリカ)

5位 マサチューセッツ工科大学(アメリカ)

6位 ハーバード大学(アメリカ)

7位 プリンストン大学(アメリカ)

8位 インペリアル・カレッジ・ロンドン(イギリス)

9位 シカゴ大学(アメリカ)

10位 ペンシルバニア大学(アメリカ)

1位と2位がイギリス…なら、イギリスが良いんじゃない?と思われるかも知れませんが、もう少ししっかりと全体像を見ると違うことが見えて来ます。上位20校の大学の数を国別に見てみると、

アメリカ 15校

イギリス 4校

スイス  1校

と、アメリカの大学が圧倒的に多いことが分かります。更に、海外の大学で学ぶ価値のある分野の1つである経営学修士(MBA)に限って見てみると、

【Financial Times MBA Ranking 2018】

1位 Stanford Graduate School of Business(アメリカ)

2位 Insead(フランス・シンガポール)

3位 University of Pennsylvania: Wharton(アメリカ)

4位 London Business School(イギリス)

5位 Harvard Business School(アメリカ)

6位 University of Chicago: Booth(アメリカ)

7位 Columbia Business School(アメリカ)

8位 Ceibs(中国)

9位 MIT: Sloan(アメリカ)

10位 University of California at Berkeley: Haas(アメリカ)

2・4・8位以外は全てアメリカの大学で、総合ランキングで1位と2位のオクスフォードやケンブリッジは10位以下です。更に、The Economistのランキングでは上位10校は全てアメリカの大学が占めています。

また、もう1つ、海外で学ぶ価値があると考えられる理工系、特にコンピューターサイエンスや宇宙科学の分野は、分野毎に見ることが難しいので、次のような指標を見てみてください。

【世界の国際特許出願件数 国別ランキング2019】

1位 中国     59,005件

2位 アメリカ   57,723件

3位 日本     52,665件

4位 ドイツ    19,329件

5位 韓国     19,085件

6位 フランス    7,929件

7位 イギリス    5,774件

8位 スイス     4,607件

9位 スウェーデン  4,189件

10位 オランダ    4,033件

近年1位は中国となりましたがこの数字の中には基幹技術ではないものが多いためここでは割愛します。アメリカが世界の重要な技術のほとんどを占めている状況は過去半世紀に渡り変化しておらず、その次に続くのは大学ランキングでは全く名前の出てこなかった日本で、この点も長らく変化していません。つまり日本では、研究開発は大学よりも民間企業を中心に行われていることが分かります。英語圏で2番目に名前の出てくるイギリスの出願数はアメリカの10分の1にとどまり、傾向としてむしろ上位3か国とその他の国の差は年々拡大しつつあります。近年日本の技術力低下を叫ぶ風潮がありますがあくまでそれは一部の情報分野と商業ベースで見た偏向的な視点であり、世界の基礎研究と基幹技術の90%以上は未だ日米で占められています

<半導体の製造も基幹技術は欧州1社以外は日米の技術の寡占>

また、あくまで大学の研究開発のみを指標として見るのであれば、この様な数字もあります。

【ノーベル賞(自然科学分野)の2000年以降の受賞者数】

1位 アメリカ 59人

2位 日本   16人

3位 イギリス  10人

4位 フランス  7人

5位 ドイツ  6人

6位 イスラエル  5人

※ 以下、人数が少ないため省略

以上のように、物理・科学・工学・医学でもアメリカでの研究は群を抜いていて、技術分野で次に続いているのは日本である事が分かります。つまり、日本より研究が進んでいる、あるいは日本では勉強が難しい自然科学分野を勉強するなら、やはりアメリカのみが選択肢と言うことになります。

②学生のレベル

①で見てきた研究開発のレベル以上に大きな要素と考えられるのが、集まって来る学生のレベルと多様性です。移民国家で様々な人種が混在しながらも、人口が3億2千万を超え、そこに世界中から各国のトップの学生が殺到するアメリカの学生のレベルと多様性は、他の国とは比較にならないと言っても過言ではありません。英語圏の国々の人口を見てみても、

アメリカ    3億2,300万人

日本(※参考) 1億2,700万人

イギリス    6,400万人

カナダ      3,600万人

オーストラリア 2,400万人

ニュージーランド 476万人

アメリカの人口は他の英語圏の国々よりも圧倒的に多いことが分かります。その数は日本の3倍イギリス比では5倍にも上ります。当然、競争は熾烈を極めており、トップ大学のレベルはそれに比例して高くなります。

また、外国人留学生の数を見ても、

アメリカ      975,000人

イギリス      312,000人

オーストラリア   348,000人

カナダ      19,5000人

とアメリカが群を抜いており、MBAランキングなどを考慮すればその質も他国とは比較出来ないと考えられます。つまり数を見ても質を見ても、アメリカに集まる学生のレベルと多様性は圧倒的と言えるのです。例え英語学習のみが目的の語学留学だったとしても、米国の大学への進学を目指す質の高い学生との交流は、大きな刺激や経験となることでしょう。

③イノベーションは常にアメリカから始まる

上記した数字以上にアメリカの凄さを象徴しているのは、「イノベーション」が常にアメリカから始まるという点です。これは金融のメソッドから新しいコンピューターソフトウェアの開発、宇宙工学の研究や開発に留まらず、電気自動車に代表されるテスラ・モーターズや民間宇宙開発の先頭を走るスペースXのようなベンチャー企業、世界で初めて「LCC」と言うカテゴリーを具現化し、世界の空の旅を身近なものにしたサウスウエスト航空、自動運転車やハイパーループのような社会的実験、州ごとに法律や規制が異なり、州政府に一定の裁量権が与えられている地方自治のあり方のような社会制度の仕組みに至るまで、新しい技術や発想のほとんどがアメリカで誕生しています。

身近な例で言えば、AppleのiPhoneや検索サイトのGoogle、SNSのFacebookはその象徴的な例と言えるでしょう。初めてスティーブ・ジョブズがiPhoneを発表した時、正直僕は「こんなボタンも無くて入力がしずらい携帯電話が売れるのか」と思いました。しかしいつの間にか、iPhoneが創造した「スマートフォン」と言うデバイスはもはや生活の全ての基準となり、近年の若者はスマホのせいでPCを使わなくなったとまで言われています。実は、iPhoneを分解してみると、大半の部品は日本製、あるいは日本製の製造装置を使って作られています。日本の技術がなくては製造すら出来ないかも知れないのが実はiPhoneなのですが、重要なのはそこではなく、「スマートフォン」と言う発想を生み出し世界の基準の全てを変えたのが、たった1人の天才によって成し遂げられたと言う点です。日本には技術はあったが発想がなかった、そこが決定的な差になったのが現実で、こうした新しい、他人が考えなかった発想=イノベーションがほとんどアメリカで生まれていると言う事実を、私たちは認識する必要があるでしょう。また同時に、「なぜイノベーションはアメリカでばかり生まれるのか」についても知らなければなりませんが、そのためにはやはり、まずアメリカと言う社会を肌で感じ、何が他の国と違うのかを考える必要があります。人種の多様性による産物なのか、教育レベルの高さ故なのか…ただ、人種が多様で教育水準が高いだけの国なら他にもたくさんありますので、それとは異なる、自由な発想を生む何らかの下地があると考えるべきでしょう。そうした環境の中へ留学に行く事こそが特別な経験と言えます。その意味で、アメリカで勉強する事の意味は、他の国でのそれとは全く違うことなのです。

④留学の目的は学位だけでなく人脈と経験

留学と言えば勉強すること、とは限りません。実際、MBAを取るためにアメリカの大学を選ぶ理由はその学位の名声よりむしろ、世界中から集まる超一流の人材と触れ合う経験と、そこでのみ築くことが可能な高レベルでの人脈作りだと言われています。

学校で勉強する、というのはあくまで机上の空論です。もちろんMBAのプログラムでは実際のビジネス環境や成功例を取り上げて勉強しますが、そのクラスにおいても実は大切な要素はそのクラスに集まっている学生の質です。世界中の一流企業からのトップ人材が集まるプログラムの中で議論したり他国の状況を学んだりするからこそ価値があるのであって、逆に言えば一定の地域からの留学生しか集まらない環境は、あまり参加する価値があるとは言えません。アメリカは世界のトップだからこそ世界中から一流のトップ人材が集まるのであり、逆に言えば一流の人材であればあるほど、アメリカ以外の大学を選択しません。つまり本当の一流の人材と触れ合い刺激と経験を獲得すること、その環境によってのみ作り出される高いプログラムや教育環境の質、そしてそこで築かれる最高の人脈は、アメリカにのみ存在すると言っても決して過言ではないのです。
これは何もMBAに限った事ではなく、例え英語の学習のみが目的の語学留学であっても、基本的な環境は類似しています。向上心が高い人材なら当然、質の高い学生が集まる国での勉強を選択しますし、語学学校にはアメリカの大学への進学を目指す1流の学生も多数在籍しています。そうした学生と出会い、触れ合う事で受けることの出来る刺激と経験は、きっと他のどの場所よりも貴重なものとなり、あなたの向上心や目標を高めてくれることでしょう。

⑤世界の縮図アメリカ

アメリカと言う国は、おそらく世界で最も多様性のある国です。世界中から人が集まる場所ですので、人種・国籍・宗教・バックグラウンドから信念や哲学・考え方に至るまで、ありとあらゆる「異なるもの」が1つの国の中に混在しています。良い人もいれば悪い人もいて、大富豪もいれば貧しい人もいる、世界のすべての宗教が存在し、もしかしたら世界の全ての国の出身者がいるかも知れません。当然、差別や争い事もあり、人種差別、宗教対立、保守とリベラルの意見の対立、貧富の差の拡大など、世界のあらゆる問題がアメリカ国内に同じように存在しています。そしてそれに人々がどのように取り組んでいるか、と言う点も知る事が出来るでしょう。

つまり、それは良くも悪くも「世界の縮図」なのであり、世界を感じて理解を深めるのにはこれ以上の場所はおそらくないでしょう。日本ではあまり感じることが出来ない「他人と自分は異なっている」という事が当たり前のように存在する、それは今後の国際社会、そして外国人観光客や労働者の増加が見込まれる日本が、いま一番学ばなければいけないことです。「異なる人間とどう共存するか」は、アメリカの良い所も現状の問題点も両側面を自分の目で見て感じることで、初めて現実の問題としてしっかりと考え直すことが出来るのではないでしょうか。

⑥フロンティア精神とチャレンジスピリット

イノベーションのほとんどがアメリカで起こっている背景にある要素の1つは、アメリカ建国の歴史にあるのかも知れません。それはよく「フロンティア精神」「チャレンジスピリット」と言う言葉で表現されます。

アメリカへ最初に移民をした西洋人は、当初は各国のカトリック達が入植しましたが、それに続いたのはイギリスで宗教的に迫害を受けていたピューリタン達でした。彼らは自分たちが生活できる新天地を求めて、まだ良く知られていなかった未開の地である北米大陸へと、船で大西洋を横断して渡りました。おそらくそれは、当時は命がけの挑戦であったことでしょう。その後もアメリカの人々は、合衆国の建国、イギリスからの独立、西部フロンティアの開拓、南北戦争による奴隷の開放と、挑戦の歴史を歩んで来ました。もちろんその過程でネイティブアメリカンの土地を奪ったり虐殺したという負の歴史もありますが、負の歴史を全く持たない国など、世界には存在しないでしょう。

こうした「挑戦の歴史」の中で培われてきたのが、おそらくリスクを恐れず挑戦すると言う「フロンティア精神」なのかも知れません。もともと国家のない場所に、自由と平等と言う理念と星条旗の元に、様々な人種や国籍の人々が1つになる事を目指して築き上げたのが、アメリカ合衆国と言う国家です。(本当に自由と平等が達成されているか、についてはもちろん議論の余地はあります。)つまり、様々な人種も環境も異なる人々が共通の理念の下で国家を形成しているのがアメリカであり、「昔からそこに住んでいたから自然と成立した国家」とはその誕生の過程が全く異なっています。一つの理念=目標を達成するために既存の考え方や特定の文化から抜け出し、新しい発想で理念を達成しようとして来た「挑戦の歴史」が、今もiPhoneやGoogleと言ったイノベーションを起こす下地の要素の1つとなっているのは十分な可能性と言えるのではないでしょうか。こういった「既存の文化や発想に捉われない」「目標・理念のためにリスクを恐れず挑戦する」と言った姿勢が、政治や経済においてアメリカを世界のトップへと押し上げてきたという経緯を私たちは知る必要があり、そうした自由な発想と創造力を今後は自分たちも養って行かなければなりません。そのためにも、日本の多くの若者に、アメリカで英語や学問・技術、そして「アメリカ合衆国」と言う国について学んで欲しいと願うばかりです。

⑦日本で学べる事は日本で

「英語や学問は海外で勉強するほうが良い」と思いますか?実はそれは正解でもあり不正解でもあります。

例えば、海外で1年間ワーキングホリデーをした人間と、日本でコツコツと2年間英会話を自力で勉強した学生を比較すると、「国内で学んだ学生の方が英語が上手だ」という事が良くあります。ワーキングホリデーとはその名が示す通り「休暇」です。現地でアルバイトをしたとしても、仕事で使うフレーズは毎日お決まりの、英会話のごくごく一部に過ぎません。カフェや農場でアルバイトをしても自分で英語を勉強する努力が無ければ、おそらくちゃんとした「会話」をすることなく遊んで帰って来るだけの結果になるでしょう。英語の勉強だけなら日本でも十分にできます。要は本人の意識と努力次第です。

また、技術系に関して言えば、日本が研究のトップを走っている分野もたくさん存在します。そうした技術を身につけたいのであれば、海外の名もなき大学に入って母国語でない言語で技術を学ぶより、その分野で研究成果を上げている日本の大学や企業へ入る方が遥かに良いでしょう。

留学は何でもとにかく海外に行けば良い、と言うものではありません。留学の目的をはっきりとさせ、日本では学べない知識や経験を学びに行くものです。ただ「海外に行ってみたい」というのが動機の留学の多くは失敗に終わります。日本で学ぶべきことは日本で、日本で取得すべき学歴は日本で取得した上で、プラスアルファで日本で学べないことを学びに行く必要があります。もしカナダ人になりたいのであればカナダの大学に入って現地で就職し、カナダ国籍の取得を目指せばそれで良いと思います。もしフランス人になりたいのであればフランスで同じようにすれば良いでしょう。ですが、「日本人として」国際感覚や技術を身につけたいのであれば、まず日本でやるべきことをやり、その上で高い志をもって留学へ出発しましょう。そして、高い志があるのであれば、ぜひ世界のトップを肌で感じてみてはいかがでしょうか。

⑧社会の「未来」を学ぶ場所

アメリカは良くも悪くも、世界で最も進んでいる国です。イノベーションや先端技術、金融の新しいメソッドが次々と生まれる一方で、様々な社会問題や人格障害、悲惨な犯罪が最初に発生するのもアメリカです。つまりアメリカを知るという事は、良い点も悪い点も「自分とその国の将来を考えること」でもあるのです。アメリカでこう言う問題が起こっている。いつか日本でも起こるだろう。じゃあその時、自分たちはどのように取り組んだらよいか、そう言ったお手本として、あるいは反面教師として、良くも悪くも自分たちの未来を考え学ぶことができる国と言えます。

日本にはアメリカより優れている側面もたくさんあります。いくつかの技術や製造業の質、社会の安定性や治安などは単純に比べれば日本の方が優れているでしょう。しかし、アメリカは全体的に日本の15年先を走っていると考えて下さい。もしかするともっと前を走っているかも知れません。アメリカで発生する問題は、次は日本でも発生します。例えば、電子産業はまずアメリカで発達しましたが、その主導権は1980年代以降日本に移り、そして2000年代になると韓国へ、現在は中国へと移行しつつあります。中国の後はインドや東南アジアに移るかもしれません。その間にアメリカは産業構造を変革し、金融やサービス業、最先端のITビジネスやベンチャー企業を発達させて来ました。アメリカではすでに、宇宙開発さえも民間企業に移行しつつあります。日本はまだ、それを追いかけている状況です。追いつくことが出来るかどうかは誰にも分かりません。しかし、後ろからも追われている以上、日本も未来について学び、社会や産業を進化させて行かなければなりません。「日本より前を走っている国がある」、その国を研究して追いかけない理由はどこにもないのです。

⑨「平等」とは何かを考える

アメリカは「平等」とは程遠い国だ、そう思いますか? 確かに、貧富の差は激しく、大富豪がプライベートジェットで移動する一方で、貧しい暮らしに困る人も多いのは事実でしょう。

では、貧富の差が少なく、国民がみな同じような水準で暮らしていれば、それは本当に平等と言えるのでしょうか。僕はそれはおかしいと思います。頑張ったら報われて、努力しなければ結果は付いて来ない、社会はそうあるべきだと思います。もちろん、生まれつきの貧富の差で有利不利はあるでしょう。しかし少なくとも、「機会」は全員に開かれている、それがアメリカという国です。頑張って勉強すれば奨学金がもらえますし、創意工夫でビジネスを起こせばゼロからだって成功できる。そのような「機会の平等」があるからこそ、努力の差によって貧富の差が生まれるのがアメリカと言えます。実は、アメリカは貧富の差が大きいと言いますが、アフリカ諸国のように仕事も食べ物もない、という訳では決してありません。貧困層向けの職業訓練やボランティアのサポートなど、社会のセーフティネットはちゃんと存在します。「恵まれない環境に生まれたから貧乏だ」、と愚痴を言うのは簡単ですが、チャンスは実は誰にでもある。愚痴を言う時間があるならその時間を努力に使えば良いだけの事です。平等とは誰もが同じように暮らすことではないのだ、むしろ全員が同じであることの方が異常なのかも知れないと気付かされます。

「頑張ったら、報われる。頑張らなければ、当然報われない。自分の人生は、実は全て自分次第である。」こんな簡単なことですが、意外と気づかないものです。特に貧富の差が比較的小さい日本では。頑張っても頑張らなくても結果があまり変わらない国というのは、実は非常に危険な状態なのかも知れません。頑張ってもあまり報われない国であれば、頑張る人が減って行き、優秀な人材は海外へ流出して国の成長エネルギーは徐々に失われてしまうでしょう。アメリカでは初の黒人大統領も誕生し、大企業の女性CEOも数え切れないほどです。果たして日本とアメリカで、平等を達成している国はどちらでしょうか。「平等とは何か」、アメリカではそれを考え直す機会も得ることができると思います。

⑩帰国後のキャリア形成

留学はいつか終わるもの、留学に行くのであれば当然、留学後の進路やキャリアを考える必要もあります。留学に行って現地で就職し、日本に戻らないつもりであればそれはそれで良いでしょう。

しかし残念ながら、現実はそんなに甘くはありません。現地の国籍を持っていなければ当然、「外国人」として現地で働くことになります。当然、現地のネイティブより出世したり同等の待遇を手に入れることは、相当に難しいことです。同じ能力なら、現地の人間の方が高く評価される。残念ですが当然と言えば当然です。現地で就職したけど、次の契約をもらうことが出来なかった。当然、労働ビザは切れてしまいます。そうなると、現地のネイティブと結婚する以外には日本に帰国するしかありませんが、帰国してからの就職も困難を極めます。例えば、日本の大学に入学せず海外の名もなき大学に入って卒業した場合、日本の企業ではそれは大卒の資格としてみなされません。つまり「高卒扱い」となり、大卒総合職としての就職はほとんど不可能になります。海外の大学を卒業したけどロクな就職ができなかったというのは、残念ながら非常によくあるケースです。

また、近年よく耳にする「世界大学ランキング」を鵜呑みにするのは現実とはかけ離れています。世界大学ランキングはあくまで欧米基準の物差しで、英語で書かれた論文のみを評価対象とし、さらに自然科学分野を圧倒的に重視したアカデミックなランキングであり、それは社会や企業での評価とは必ずしも一致しないものです。ここでこの「世界大学ランキング」と矛盾する、もう一つのランキングをご紹介したいと思います。

【世界の大学就職力ランキング2018(QS)】

① スタンフォード大学(アメリカ)
② カリフォルニア大学ロサンゼルス校(アメリカ)
③ ハーバード大学(アメリカ)
④ シドニー大学(オーストラリア)
⑤ マサチューセッツ工科大学(アメリカ)
⑥ ケンブリッジ大学(イギリス)
⑦ メルボルン大学(オーストラリア)
⑧ オクスフォード大学(イギリス)
⑨ カリフォルニア大学バークレー校(アメリカ)
⑩ 清華大学(中国)
⑪ ニューヨーク大学(アメリカ)
⑫ コロンビア大学(アメリカ)
⑬ プリンストン大学(アメリカ)
⑭ 東京大学(日本)
⑮ 北京大学(中国)
⑮ トロント大学(カナダ)
⑯ スイス連邦工科大学(スイス)
⑰ ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(イギリス)
⑱ コーネル大学(アメリカ)
⑲ エール大学(アメリカ)
⑳ 香港大学(香港)
㉑ シカゴ大学(アメリカ)
㉒ ペンシルバニア大学(アメリカ)
㉔ ウォータールー大学(カナダ)
㉕ ミシガン大学(アメリカ)
㉖ 早稲田大学(日本)
㉗ 復旦大学(中国)
㉘ エコール・ポリテクニーク(フランス)
㉙ インペリアル・カレッジ・ロンドン(イギリス)
㉚ カールスルーエ工科大学(ドイツ)
㉚ シンガポール国立大学(シンガポール)
(中略、以下日米の大学のみ記載)
㉜ ノースウェスタン大学
㉞ デューク大学
㊸ ブラウン大学
㊼ パデュー大学
㊸ ジョージア工科大学
㊺ 慶應義塾大学(日本)
(以下、主要大学のみ記載)
ボストン大学(51位)
京都大学(53位)
東京工業大学(57位)
南カリフォルニア大学(59位)
ジョンズ・ホプキンズ大学(64位)
ワシントン大学(64位)
カリフォルニア工科大学(73位)
大阪大学(76位)
アリゾナ州立大学(81位)
ペンシルバニア州立大学(87位)
名古屋大学(90位)

このランキングは各大学の卒業生を、政治やビジネスのリーダーから、ジャーナリスト、科学者、文学やアートの分野に至るまで、①「雇用者の評判」、②「卒業生の成功指標」、③「雇用者とのパートナーシップ」、④「雇用者と学生の関係」、⑤「卒業生の就職率」の5つの要素を基に、世界の大学がどれだけ社会の中で評価されているかを指標化したもので、皆さまがお持ちのイメージと近い「現実的なランキング」と言えるでしょう。世界大学ランキングでは全く低評価を受けている日本からも、上位50位以内に東京大学・早稲田大学・慶應義塾大学がしっかりとランクインしています。ボストン大学やカリフォルニア工科大学もアメリカでは「一流大学」と呼ばれる優秀な大学ですが、世界基準で見ても日本の一流大学の後塵を拝し、それが日本基準になればその評価はさらに低いものになることは容易に想像できます。州立大学レベルの学位は就職活動では「その他の大学」のカテゴリーに分類されてしまうでしょう。日本で正当に「一流の学歴」と評価されるには、少なくとも東京大学より上位にランキングされているアメリカの8大学(スタンフォード、UCLA、ハーバード、MIT、UCバークレー、ニューヨーク、コロンビア、プリンストン)での「実用的な学位」(経済学、経営学、法律、自然科学分野など)が必要となって来ます。それが「日本における現実の評価」と言えます。

また、MBAを取りに行く際も注意が必要です。MBAとは「経営学修士」との名前が示す通り、企業の経営について学ぶ学位です。つまり経営マネジメントに携わるレベルの人間だけが必要な学位であり、そうした優秀な人材が学びに行くべき大学は上記したMBAランキングの上位20校程度ということになります。「MBAさえ持っていれば評価される」と言う訳ではありません。「どこの大学のMBAを持っているか」まで、キッチリ人事担当者に評価されます。名もなき大学のMBAを取って帰って来ても、「なんでそこの大学のMBAを取ったの?」、「そもそもあなたにMBAの資格が必要だったの?」と言う反応しか返って来ないでしょう。つまり、下手をすると「自分が分析できていない」と言うマイナス評価にしかならないのです。ですので、MBAを取るなら最低条件はアメリカの大学(とその他数校)かつ、日本人が知っている上位校のみが評価対象なのが現実でしょう。

「留学に行って知識や経験を深めたい」と言う志は非常に素晴らしいものであり、当スクールでは可能な限りそのお手伝いをさせて頂ければ幸いと考えております。しかし、目的意識のない長期の海外渡航や日本の慣習を考慮していない留学については、ご本人のためにもあまりお勧めできません。留学をしたからにはその結果を求められてしまうのも留学です。行ったから無条件に評価されると言うものでは決してありません。「どこの国に、何のために行って、その後どうするか」と言う点について、しっかりと目標を定めて努力する必要があります。そして、留学して一番多くの事を学べ、最も評価される国はアメリカであるのは間違いありません。「本気で留学するなら」僕はやはりアメリカをお勧めしたいと思います。英語や留学、将来のキャリア形成にご興味のある方は、ぜひ一度、当スクールへご相談ください。その生徒さまに最も合った留学のスタイルと事前準備をご提案し、お手伝いをさせて頂けましたら幸いです。

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イギリス=イングランドではない

本日は、日本で多くの方に勘違いをされている「イギリス=イングランド?」問題について、イギリスと言う国家の成り立ちと共に整理してみたいと思います。

まず根本的な勘違いとして、世界に「イギリス」と言う国家名自体が存在しません。このイギリスと言う日本でのみ使用されている国名は、遡ること江戸時代に日本に入って来たポルトガル語「イングレス」やオランダ語「エンゲルシュ」が国内で「エゲレス」と訛ったものが残っているものであり、世界のどこへ行っても「イギリス」と言う国家名を理解出来る場所は存在しません(苦笑)日本でイギリスと呼ばれている国家の正式名称は、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」、英語名では”the United Kingdom” (通称the UK)であり、United(連合)Kingdom(王国)の名前が示す通り、4つの旧王国であるイングランド、スコットランド、ウェールズ並びに北アイルランドが連合国として国家を形成しているものです。つまりイングランドとは”the United Kingdom”の一部でしかない訳であり、「イギリス=イングランド」と言う認識はイングランド外の英国市民にとっては失礼以外の何者でもありません。歴史上、イングランドがウェールズ、スコットランド、北アイルランドの順に征服をして形成されたためイギリス女王=イングランド女王であるのは紛れも無い事実として今も残っていますが、イングランド女王も日本の天皇制と同様に政治的な権限のない国家元首となっており、英国=イングランドとの認識は100%間違いです。

<イギリスに存在している4つの王国>

<ユニオンフラッグ(英国旗)成立の経緯>

では、なぜ日本ではこの「イギリス=イングランド」と言う誤った認識が広がってしまったのでしょうか。理由はもちろん複数あり、イングランド女王がイギリス女王であることや、イングランドにあるロンドンが首都であることも影響があったかとは思いますが、おそらく最大の要因はサッカーのワールドカップ本大会に「イングランド代表」だけが出場していることが大きく関係したのではないかと僕は個人的には考えています。

そもそも国家ではない「イングランド代表」がワールドカップに出場しているのは、そのサッカーの歴史によるものが大きく起因しています。サッカー発祥の地であるイングランドは国際サッカー連盟(FIFA)でやや特殊な扱いとされており、イングランドのみの代表チームの存在が認められているのです。逆に言うと、実は「スコットランド代表」「ウェールズ代表」及び「北アイルランド代表」と言うチームも確かに存在するのですが、残念ながらヨーロッパ予選を通過してワールドカップに出場することが出来ないために、日本のほとんどの皆さまが「イングランド代表」のみをワールドカップ中継で見た結果、「ああ、イングランドはイギリスの事なんだな」と言う勘違いへと通じてしまったものと考えられます。

<左上から時計回りに、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの代表チーム>

サッカーの話はさておき、英国ではそれぞれの地域に明確に異なる文化とアイデンティティがあり、スコットランドの人々は自らを「スコットランド人」として、ウェールズ人や北アイルランド人も同様に自らを「イングランド人ではない」と考えており、これらの人々を「イングランド」と言うカテゴリーに入れてしまう事は大変な失礼にあたります。このような誤った認識を現地の人へ伝えてしまえば、彼らは大変不快に感じることでしょう。イングランド人が”English”なら、スコットランド人は”Scot”または”Scottish”、ウェールズ人は”Welsh”、北アイルランド人は”Northern Irish”とそれぞれ別個の単語があります。イングランド人以外は”English”ではありません。知らずの事とは言え、日本での誤った認識とはこのような深刻なものと言えます。そもそも「イギリス」が英単語だと思っていて、英語での正式な呼称やその理由を知らない方も大変多いかと考えられます。

英語を学ぶ際には、それに関わる国々の歴史や文化、そして正確な知識も同様に身につけるべきものと僕は考えています。正確な知識なく英語だけを話すことは、時に外国の方々に対して侮辱にすらなり得るからです。英語を学ぶと同時に、世界の様々なことを学ぶことが大切です。

SSEAは英語だけを学ぶ場ではなく、英会話を学ぶ方々が1人の立派な日本人として成長出来るような場でありたいと考えています。そのためには講師・スタッフもただ何かをお伝えする立場ではなく、生徒さまとご一緒に1人の立派な世界市民となれるよう、自ら学び生徒さまから学び、常にご一緒に成長を続けて行けましたら幸いです。SSEAのスタイルが「完成する」ことは決してありません。私たちはいつまでも「変わり続けて成長し続ける」ことが出来るよう、常に最善と改善に挑戦し続けて参ります。

“Keep changing, keep challenging!”

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“I can do it.” “I will do it.” は “I have done it.” ではない。

“I can do it.” “I will do it.” と “I have done it.” 日本語に訳せば「私にはそれが出来る」「私はそれをするつもりだ」と「私はそれをやり遂げた」となりますが、皆さまはこの前者2つと後者の間にある決定的な差に、お気づきになりますでしょうか。

簡単に言ってしまえば、前者はまだ実際には何も行われていない状態に対して、後者は実際にやり遂げられたということの違いです。では、前者はいつか必ず後者になるかと言うと、それは99%以上の確率でそうはなりません。実際に「やり遂げた」とハッキリ宣言出来る確率は、実は1%にも満たないものです。

例えば日本でビジネスを起業して、それが実際に成功する確率を大雑把に計算してみましょう。おそらく世の中で働く人の半分は、「自分の商売を持ったら」くらいのことが頭をよぎったことがあるかも知れません。誰かが成功した例を見て、「あれくらいなら自分にも出来るだろう」と思う事もあるでしょう。

しかし実際に、日本の総人口を約1億2千万人と仮定して、その中で実際に自らのビジネスを持っている、あるいは始められる人の数はわずかに30万人ほど、割合にしてたったの0.25%です。この時点で既にもう1%にすら達していません。さらにこの0.25%が始めたビジネスが10年後に生き残っている確率は、0.25%の中のさらにわずかに6%です。つまり日本人がビジネスを所有して成功した確率と言うのは0.0025 × 0.06 = 0.00015、つまり0.015%でしかありません。1万分の1.5と言うことです。実際に起業において「やり遂げた」と宣言出来る人は、1万人に2人もいないと言うことになります。しかもこの数字には元から所有されているビジネスも含まれているため、本当にゼロから「やり遂げる」ことが出来る人の確率はおそらく、計算すら出来ないほどに小さなものでしょう。

歴史の中にはこの「やれば出来る」と「やり遂げた」の違いを端的に表した良いエピソードがあります。それは「コロンブスの卵」と言われるストーリーです。

コロンブスは皆さまもご存知の通り、アメリカ大陸を歴史上初めて発見した西洋人です。その業績の是非はここでは問いません。(米国ではこれはすでに少し敏感な内容です。)ただ、アメリカ大陸を発見した人物が歴史上ただ1人であったこと自体は、疑いようのない事実です。コロンブスは本来、インドへたどり着く目的で大西洋の逆の方向へと船を走らせましたが、それが結果として偶然の新大陸発見へと繋がりました。

コロンブスが帰国したのち、その偉業を称えるための晩餐会が開かれた中で、その偉業に嫉妬した1人の人物が次のように吐き捨てました。「なんだ、大西洋を反対に進めば誰にでも見つけられたじゃないか」と。

するとコロンブスは机の上にあったゆで卵を持ち上げてこのように言いました。「誰か、この卵を直立に立ててみて下さい」と。全ての列席者が挑戦しましたが、当然ながら誰も立てることは出来ませんでした。ゆで卵は丸いので、当然のことに思えるかも知れません。

列席者が「そんなことは不可能だ」と言ったところで、コロンブスは「じゃあ私がやって見せましょう」と言って、彼はその卵をテーブルに叩きつけました。卵は底面が潰れ、確かに直立したのです。

その時にまず列席者から返って来た言葉は、「なんだ、そんなやり方なら誰にでも出来る」と言うものでした。しかし、そこでコロンブスはこう明言しました。「そうです。これは誰にでも出来たことです。しかし、実際にそれをやったのは私1人だけです」と。これが「やれば出来る」と「やり遂げた」の明確な差を表した「コロンブスの卵」と呼ばれるエピソードです。

さて、そろそろこのブログの結論へと移りたいと思います。考えるだけなら誰にでも出来ることです。現状に不満や文句を言うことも簡単です。しかし、それを本当に実行に移して、あるいは問題を解決するために新しい方法を確立して「やり遂げた」人間とは、起業に絞って考えてみてもわずかに0.015%以下、世界で初めての事を成し遂げる人間は歴史上にそれぞれ1人しかいないと言うことです。頭で考えただけのことや口に出しただけのことには、何の価値もありません。むしろ行動に移さない口実にすると言う意味ではマイナスですらあります。物事は実際に「やり遂げて」こそ初めて価値が生まれます。あれこれ考えるよりも、出来ない理由を探すよりも、まず挑戦してみることにこそ価値があります。失敗することを恐れている限りは、私たちは何も「やり遂げる」ことは出来ません。10,000の失敗から1の成功が生まれれば、それは間違いなく100%の成功なのです。

ぜひ一度、振り返ってみてください。あなたは実際に何を「しました」か?頭でだけ何かを考えていませんか?口だけで何かに不満や文句を言っていませんか?

その時間とエネルギーがあるなら、それを「実際にやり遂げる」事に使うべきだと僕は思います。それは別に、起業や歴史的な発見のような大きな事である必要は全くありません。例えば、海外のレストランで自分で注文できたなら、日本で外国の方に少しでも道案内が出来たなら、それは「やり遂げた」ことです。子供が何か習い事をする気持ちに変わったなら、それも親御さんにとっての間違いのない「成功」です。

SSEAはそんな、失敗を恐れず挑戦する生徒さまお1人おひとりのお手伝いをさせて頂ければ幸いです。綺麗な英語、美しい発音、完璧な文法で英語が話せなくても、それは何も問題のないことです。なぜなら英語とは「人とコミュニケーションを取るための会話の手段」であって、100点を取るべきテストでは決してないからです。つたない英語でも英語でコミュニケーションが取れたなら、それはすでに皆さまにとっての「成功」であり「やり遂げたこと」であると私たちは考えています。失敗を恐れて何も挑戦しなければ、それはコロンブスにただ嫉妬した人物と何ら変わりません。10,000回失敗しても1度成功すれば、それはゼロよりもはるかに価値のある事です。「失敗して何かを失えばマイナスだ」とお考えになる方もいらっしゃるかも知れませんが、実は「挑戦しないことで失うものの方がはるかに大きい」ものです。なぜなら時代は常に変わって行きますが、その中で自分だけが変わらないのであれは、何もしないことによって自分の価値は相対的に下がって行くのだと言うことを意味します。例え失敗をしたとしても、少なくとも失敗からも必ず何かしらを学ぶ事が出来るはずです。私たちはそんな価値観をお伝え出来るような、英語を身近なものとして挑戦して頂けるようなスクールでありたいと考えています。

SSEAは日本の英語教育を変えることを目標としています。今はまだ “We will do it.”ですが、それは必ず近い将来に “We have done it.” にしたいと考えています。ですが、私たちはゴールだけを見て急いで走ることはしません。私たちはゴールに向かって、毎日の一歩一歩、生徒さまとのひと言ひとことの会話を、大切に積み重ねています。講師・スタッフの全員が1人ひとりの生徒さまを大切に、全力で向き合ってお手伝いをさせて頂きます。1人ひとりの生徒さまに1人でも多くの方に英語を好きになって頂くことが、私たちの “We have done it.” へ続く階段を一段ずつ上ることです。例えその成功率が1%に満たないとしても、それを日本で実際にやり遂げることをSSEAは目指しています。

“Be a person who will have done it.”

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“Better than Nothing”

“Better than Nothing”

(何もないよりずっと良い)

これは僕がスクールのネイティブ講師と会話する中で、僕自身のジェットコースターのような人生をジョークにする時によく使うフレーズです。辛いことや悲しいことがあっても、それは自分にとって何らかの糧になっているはずだと言うことを笑って話せるように思いついたフレーズです。(希望的観測とも呼びます。笑)

個人的な話で恐縮なのですが、僕の人生は本当に山あり谷あり、いやエベレストとマリアナ海溝を常に上っては下っているような毎日です(笑)当然上っている時は良いことが、下っている時は「マジか(汗)」と思うくらい悲惨な事が起こります。悪い方だけを列挙すれば、高校生の時は不登校の一歩手前まで行きましたし、就職活動の直前には9.11の同時多発テロがただでさえ最悪だった就職氷河期に拍車をかけました。それでも何とか勝ち取った就職は僕にとってはただの悪夢でしたし、その後の職場にもお世辞にも恵まれたとは言えません。プライベートでは近しい人にこっぴどく裏切られた事や親友が自殺を図ったこと、そして詐欺に遭ったことまであります。本当に話題には事欠きません(苦笑)

ですが、こうした悲惨な経験も含めてこそ今の自分とその成長があったのだと今では思えます。辛い経験からも非常に多くの事を学ぶことが出来ましたし、その経験こそがより大きな世界を僕に見せてくれる事となりました。ですので僕はこうした悲惨な経験をした事を今では全く後悔していません。むしろ有り難かった、そのおかげで最高の人生を見つけられたとすら思っています。不思議なことですが、物事は成功よりも失敗から学ぶことの方が多いものです。だからこそ日々何か悪いことがあったとしても、”Better than Nothing” とジョークで笑い飛ばすことが出来ます。

人生には、世界には、必ず良いことと悪いことが両方存在します。程度の差こそあれ、そのプラスマイナスは必ずゼロなのだと僕は考えています。ですので、下り坂のあとには必ず上り坂があり、努力を諦めなければそれは何らかの形で必ず報われるのだと信じることが出来ます。良いことと悪いことの両方を経験した事こそが僕の原動力であり、今後の大きな目標を追うための知恵であり経験でもあります。

実は、僕には英語が話せたからこそ起こった(起こってしまった)事も沢山ありました。英語が話せれば良いことは数え切れないくらい沢山ありますが、同時にそれが災難をもたらした事もあります(苦笑)ですがそれも含めて、僕はより広い世界、より多くの事を経験し学ぶことが出来て、本当に幸せだと思います。英語は自分自身を何倍も大きくしてくれたのだと、今では感謝の気持ちしかありません。まさに僕にとっては全てのことが “Better than Nothing” です。こんなにワクワクするような人生を歩めて、幸せだと思えます。

僕が人生に迷った時に、よく確認する文章があります。何かネガティブな事に遭遇した時に、自分を奮い立たせるためのものです。

I’m not afraid of being hurt.

Whatever happens in my life,

I will never give up, and keep challenging.

Even if I fail once, it’s the path to the next challenge.

To make my dream come true.

I’m not afraid of being hurt.

As we get hurt more, we can learn much more.

As we shed more tears, we can be much sweeter.

So I’m not afraid of anything.

To make me grow up.

悪いことがあっても辛いことがあっても、それは必ず自らを成長させてくれるものです。退屈な平穏にしがみつくより、失敗することの方がずっと価値があると思っています。だからこそ失敗することを恐れず、とにかく挑戦してみよう、失敗したとしてもそれはむしろ良い勉強なのだと、全て笑い飛ばしながら人生を楽しめたら最高だと思います。

SSEAはそんな価値観に出会うことが出来るような、失敗することを恐れない人材を育成することが出来るような、そんな場所であり続けたいと思っています。

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北欧は本当に「豊か」なのか

皆さまが「北欧」と聞いて連想するのは恐らく、「生活が豊かだ」「福祉が充実」「学力が高い」「洗練されたデザイン」と言ったポジティブなイメージだと思います。それに比べて日本は仕事は忙しいし、待機児童は多いし、ゆとり教育でレベルが落ちて…とネガティブに感じられるかも知れません。

では、本当にこのイメージは正しいと言えるのでしょうか。僕が客観的に考える限り、この対照的なイメージはマスコミが意図的に誇張した偏ったものと言わざるを得ません。僕は決して右翼や愛国主義者ではありませんが、客観的な視点を日本の人々が正しく持つ必要があると思いますので、あえて事実関係をここで考えてみたいと思います。また、始めに北欧に嫌悪感を持っているのでは無いことも予めお断りしておきます。

まず目につくのは豊かさの指標として最も一般的な「国民1人あたりの名目GDP」ですが、その数字は以下のようになっています。

<2017年の世界のGDPランキング(1人あたり)>

1.ルクセンブルク 105,863ドル

2.スイス     80,637ドル

3.マカオ     77,111ドル

4.ノルウェー     75,389ドル

<中略>

8.アメリカ合衆国  59,792ドル

9.シンガポール   57,713ドル

10.デンマーク    56,631ドル

12.スウェーデン   52,925ドル

16.香港       46,080ドル

17.フィンランド   45,927ドル

25.日本       38,449ドル

このランキングを見てショックを受ける方は少なくないはずです。かつて世界一にもなった日本の1人あたりのGDPは今や25位、北欧はおろかシンガポールや香港にも及ばない…とマトモに考えては実はいけません。確かに国家と言う単位で括ればこのようになりますが、そもそも人口や地理などの条件が全く異なります。人口の少ない場所や都市国家は1人あたりのGDPが大きくなるのは当然です。これを単純に比較しては、実態を見誤ります。上記の国の人口を大きい順に見れば、

参考:EU         約5億人

アメリカ       約3億5千万人

日本         約1億2千万人

参考:東京都市圏    約4000万人

参考:北欧総人口    約2700万人

参考:東京都      約1400万人

参考:東京23区     921万人

スウェーデン      910万人

スイス         842万人

香港          740万人

シンガポール      561万人

デンマーク       540万人

フィンランド      530万人

ノルウェー       470万人

マカオ           62万人

ルクセンブルク       59万人

参考:東京都心3区    45万人

北欧を全て合わせてもその規模は東京都市圏(東京・神奈川・千葉・埼玉)よりも遥かに小さいものであり、同じ人口規模で比較するなら北欧の国は東京23区でようやく比較対象となるべきものです。ヨーロッパの一部の豊かな部分だけを切り取って「豊かだ」と断定するのは、東京23区のみを見て「豊かだ」と言っている事と同じです。日本全体として比較するべき対象はアメリカ合衆国やEUと言った単位であり、そうした基準で考えれば豊かさの指標は全く異なるものになります。マカオやルクセンブルクの規模は都心3区(千代田・中央・港区)と比較するようなものです。逆に考えると、人口が3億5千万のアメリカのGDPが6万ドルに迫ると言うのは想像を絶する事と言えます。これがアメリカが世界の頂点たる確固たる理由です。

この「基準を合わせた」豊かさの比較を1人あたりのGDPで行ってみると、以下のようになります。

アメリカ合衆国  55,805ドル

日本       32,485ドル

EU         31,968ドル

(以上2015年基準)

東京23区     76,900ドル

ノルウェー    75,389ドル

シンガポール   57,713ドル

デンマーク    56,631ドル

スウェーデン   52,925ドル

香港       46,080ドル

フィンランド   45,927ドル

(以上2017年基準。東京23区は総生産85兆円÷921万人 1ドル120円)

「豊かな場所だけを切り取る」と言う数字の比較がいかに参考にならないものかが、お分かり頂けるかと思います。日本から東京23区だけを切り取った場合、その「豊かな場所だけなら」世界では未だにトップクラスに豊かだと言うことになります。大きな括りで考えるなら、EUは日本を下回っているとも言えるはずです。またシンガポールなどは、あくまで「東南アジアの金融センター」であるから豊かなのであり、大きな括りにするためには周辺の東南アジア諸国を含めて比較するのが正しい比較対象です。そうして考えた場合、東南アジアにおける貧富の格差は日本の東京と地方の格差とは比較にならないほど大きなものです。EUにおける格差も日本より遥かに大きいと言えるでしょう。それはデモの多発や政情不安、頻発するテロや高い失業率を見ても明らかなことです。EU全体での失業率はすでに9%にも達しています。「労働者が足りない」と騒ぎになっている日本と、どちらが幸せと言えるでしょうか。

また、これらはあくまでも数字の上だけでの比較です。他の要素を勘案すれば、北欧が必ずしも豊かとは言えない理由はたくさん存在します。

例えば、皆さまは「北欧の大企業」を聞かれたら、どれだけ挙げることができるでしょうか。ノキア、エリクソン、ボルボ、サーブ、レゴ、イケア、スポティファイ…このくらいではないでしょうか。これはアメリカや日本はもちろん、ドイツ1国と比べても圧倒的に劣勢であり、学力が高いはずの北欧にはそれを受け入れるだけの環境が存在しないと言うことになります。学力が高いのに競争力のある企業が育たない、これは非常に矛盾していると思いませんか?これには北欧諸国が福祉の充実に注力し過ぎてしまった弊害が関係しています。

北欧の国での福祉が充実しているのは、紛れもない事実です。医療費、年金、社会保障と、人々は安定した裕福な福祉の恩恵を確実に受けており、これが一見すると「暮らしやすい」ように見える理由の一つです。しかし一方で、その福祉を維持するための税率は北欧では圧倒的に高くなっています。日本の消費税に相当する標準税率は22%から25%と、何をするにも税金で飛んで行ってしまいます。また産業の脆弱さから公務員比率が高くなっており、大半の国で公務員比率が30%を超えています。公務員の無駄な仕事が叫ばれる日本の比率が9%程度である事を見ても、これがいかに異常な数値かがお分かり頂けるかと思います。一体どうしてこれで豊かな国が成り立つのか不思議に感じられるかも知れませんが、その秘密は油田や鉄鉱石などの資源にあります。つまり経済は完全に資源依存で成り立っているのであり、これはアラブの産油国と何ら異なるものではありません。日本にはほとんど資源がないにも関わらずこれだけの経済力を知恵と勤勉で生み出している、これは逆に誇るべきことだと僕は考えます。

北欧の「豊かさ」とは、豊富な資源を背景に国民が高い税金を支払う事で全員が恩恵を受けましょう、そのような前提で成り立っているものです。国民がみな似たような水準で福祉を受けられる一方で、高水準の最低所得が国で定められているため製造業では国際的なコスト競争力が失われました。その結果残る仕事は研究開発を除けばドライバーやウエイターのような単純労働のみ。税率は高く、物価も高い。その代償として教育や医療が無料であると言う福祉が成り立っています。つまり「みんなでほどほどに幸せに暮らしましょう、大きな夢を見ることは出来ませんが」、そのようなものです。また働き口のない移民でも高い失業手当がもらえる事から無職の失業者が増加した結果、外国人への差別意識が非常に高くなっています。こうした状況と平行して低い出生率と高齢化も進み、人口も増加していません。豊かなはずの国の人口がなぜ増えないのか、それは良く考えてみる必要のあることです。国全体がお金を持ちながらも排他的な「老人ホーム」となっているようなものです。

先日このような事件があったのを皆さまはニュースでご覧になったでしょうか。北欧のとある国のホテルに予約の前日にチェックインしようとした中国人観光客が宿泊を断られ、ロビーで寝泊りしようとしたところを警察につまみ出されました。もちろん原因は中国人観光客のマナー違反であったのは疑いもありませんが、それを国のテレビ局が馬鹿にして番組を制作し、「中国人観光客の皆さまを歓迎致します。ただし、散歩をしている犬は食べ物ではありませんので食べないように(笑)また用を足す時はトイレに行く必要があるんですよ(笑)」と言う侮辱的な内容が放送され、国際問題にまで発展しました。もし日本のNHKがこのような番組を放送したら、皆さまは恥ずかしいと思いませんか?例え中国人観光客のマナーに怒りを覚えたとしても、人としての品位は守って然るべきもののはずです。この国では外国人への差別意識がこれだけ高いものであり、国民の民度は残念ながらこのように低いものだと言わざるを得ません。

さて、皆さまは日本の未来に何を望むでしょうか。北欧のように「排他的に小さくまとまる幸せ」なのか、「勤勉や努力、挑戦や多様性が認められる幸せ」か。僕は日本の未来は後者であって欲しいと願うばかりです。繰り返しになりますが、僕は愛国主義者ではありません。北欧を嫌悪する感情も一切ありません。それぞれの国にはそれぞれの考え方があって当然です。ただ、自分の生まれ育った国がより良くなって欲しいと言うことを、当たり前に願っているだけです。多様な人々がお互いを尊重する社会、私たちのスクールはその実現を目指しています。

“Hope we can respect the diligence, effort, challenge and diversity, to make our country grow up.”

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アイルランドの歴史と言語事情

本日、SSEAでは新たにアイルランド出身のネイティブ講師がチームの一員となりました。

「あれ、アイルランドには、アイルランド語はないんだっけ?」

と気づいた方は鋭いです!実は「アイルランド語」と言う言語は確かに存在します。では、アイルランド語があるはずなのに、なぜアイルランド出身の講師は英語のネイティブ講師なのでしょうか。本日はその理由を、アイルランドの歴史と言語事情を交えてご紹介したいと思います。

<アイルランド共和国の国旗>

現在のアイルランドにおいてはアイルランド語を第一言語として話す人々はわずか数%と言われており、わずかな狭い地域のみで会話に使用されているのみで、アイルランド国民のほとんどが英語を母語として育った英語のネイティブスピーカーとなっています。アイルランドではアイルランド語が国語として定められているものの、ほとんどの国民は学校で勉強するのみで、会話に使用するのもままならないほどにその存在は危機に瀕しています。

この状況に危機感を持ったアイルランド政府によってアイルランド語復活政策が推進され、アイルランド国内の標識などには英語とアイルランド語の両方が表記されたり、義務教育や公務員試験においてもアイルランド語が必修とされているものの、就職後には多くの人が忘れてしまい、英語が第一言語である状況を覆せる可能性はほとんどないと言われています。

本来、ゲルマン語にルーツを持つ英語とケルト語の一派であるアイルランド語は完全に違う言語であり、当然ながら相互に意思疎通を図ることはできません。きっと、日本人と韓国人が自らの言語で会話をしようとするようなものでしょう。本来アイルランド語を話していた地域であったアイルランドが、なぜ英語が母語の国になってしまったのでしょうか。それには当然、隣接するイギリスとの歴史が大きく関係しています。

<アイルランドと周辺国の位置関係>

本来ケルト人が住み着いた地域であったアイルランドにゲルマン系のノルマン人の侵攻が始まったのは、はるか12世紀にまで遡ります。12世紀中には多くの豪族たちがイングランドの支配下におかれ、とうとう16世紀にはイングランド王ヘンリー8世が「アイルランド王」を自称することとなり、これ以降、多くのイングランド人がアイルランドに入植するようになります。1652年のオリバー・クロムウェルによるアイルランド侵略によりアイルランドは事実上イングランドの植民地となり、1801年にはイギリスによるアイルランド併合が行われ、イギリスによる統治は1922年のアイルランド自由国(イギリス自治領)の成立まで長きに渡り続きました。この間に起こったジャガイモ飢饉や、イングランドによる迫害を逃れた多くのアイルランド人がアメリカへ脱出したため、最盛期に880万人であったアイルランドの人口は現在でも約480万人ほどです。また、この自由国成立の際に北部6州は北アイルランドとしてイギリスに留まることになり、その後のアイルランド内戦へと発展したものの、様々な歴史を経て1998年に国民投票により北部6州の領有権は公式に放棄されました。北アイルランドが今もイギリスの一部となっているのは、イギリスによる植民化と分断の歴史によるものです。このような歴史から、アイルランドにおける対英感情は今でもお世辞にも良いとは言えないものとなっています。

<アイルランド共和国と北アイルランド(イギリス領)>

しかしこうした歴史や反英感情とは逆行するかのように、アイルランド固有の言語であったアイルランド語は第一言語の役割を英語に奪われたままとなったのです。隣接するヨーロッパの金融センターであるイギリスとの経済的結びつきは非常に重要なものであり、その実用性から多くの人々は独立後も英語を使い続ける道を選びました。1990年代の「アイルランドの奇跡」と言われる経済成長はアメリカやEUによる投資や援助が大きな役割を果たし、英語を母語としない者は社会的にも不利な立場になってしまうとの現実から、例えアイルランド語が話せる母親でもその子供は英語で育てるのが現状で、アイルランド人にアイルランド語で話しかけても相手が戸惑ってしまうくらいにその存在は小さなものとなってしまったのです。現代のアイルランドの街中でアイルランド語を耳にする機会はほとんどなく、多くの若者にとってアイルランド語は古典を学ぶような位置づけとなっています。

このような複雑な歴史から、独自のアイルランド語を持ちながら英語のネイティブ国家となったアイルランドですが、イギリス内でもイングランド人とスコットランド人には全く異なるアイデンティティがあるように、アイルランドとしてのアイデンティティはしっかりと残されています。アイルランドは第二次世界大戦中においても、当時は英連邦であったにも関わらず唯一対日参戦を行わなかった国であり、現在ではイギリスにただ傾斜するのではなくアメリカとの経済的結びつきも強めています。

<英語が母語の同じ西洋人でも性格や特徴は全く異なる>

日本人から見ればみな仲間かのように見える英語を母国語とする6か国(アメリカ・カナダ・イギリス・アイルランド・オーストラリア・ニュージーランド)ですが、それぞれにそれぞれの歴史とアイデンティティがあります。英語は現代の地球では「世界語」となった存在であり、もはや特定の国の言語ではない英語を学び話すことと自国のアイデンティティを保つことは、決して矛盾するものではないのかも知れません。今後は英語を積極的に学ぶことで、相互の交流によって逆に文化の違いを理解し尊重し合う事の重要性に気づくことが大切なのでしょう。日本にも近年では、多くの外国人が移り住むようになりました。20年前に、東京がこれだけ国際的な都市になる事を想像していた人がいたでしょうか。日本の良さを保ちながら、「異なる文化を受け入れ尊重する」ためにも、1人でも多くの皆さまに英語を学んで頂ければ幸いです。

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世界を旅して思うこと

今日は1人の日本人として、世界を旅して感じた事や日本に対して思う事を書いてみたいと思います。この記事は、新しく思う事が増えたり、考え方が変わった時は随時更新をして行きたいと思っています。今の時点で世界の全てのことを理解したつもりはなく、まだまだ見たり聞いたり、学ばなければいけない事がたくさんあると思います。

1番始めに述べたいことは、「日本人に生まれた事は幸せだった」と言うことです。他のブログ記事でも触れましたが、日本と言う国の生活環境、そして戦後日本人が築いて来た日本人の価値と評価は、概ね世界のほとんどの国で高く評価されています。どこの国へ行っても「日本から来た」と言って嫌な想いをした事や失礼な扱いを受けた事は、今まで記憶にありません。

それはこの国の人々が積み上げて来た技術や経済力、文化的あるいは自然環境の遺産に加えて、謙虚、勤勉、礼儀正しいと言った日本人の本質が世界の人々に伝わって来た結果であると、しみじみと思います。海外旅行でも、初期の頃は現地の文化や慣習に対する理解が及ばなかった時期もあったかとは思いますが、日本人としてのマナーを守り、現地の文化や慣習を尊重し、礼儀正しく振舞い続けて来た積み重ねがあったからこそ、今の日本人の高い評判へと繋がったのかと思います。他国で入国審査を受ける際も、日本のパスポートを出せばまず疑われる事はありませんし、列に並んでいたら「お前は日本人か?」と聞かれ、そうだと答えたら現地国籍のレーンに案内されそのまま優先的に通された事も1度ではありません。フランスに住む友人に聞く限りでは、同じアジア人でも「日本人」は全く異なるイメージを持たれているそうです。現地に住む台湾の友人と過ごしていた時に、こんな事がありました。メトロの階段を上がるのに2人でベビーカーを担いでいた際に、後ろにいたフランス人から「見ろ、中国人がバカやってるぜ」と侮辱されていたらしいのです。僕はフランス語が分からないので気づきませんでしたが、ここでアジア人の見分けもつかないはずなのに、軽蔑の言葉が「日本人がバカやってる」とならなかった事は、ある意味一つの証拠だったのかと思います。

<子供を大切にする先進国フランスでもバリアフリーは日本よりはるかに遅れている>

先のブラジルワールドカップでも、観戦後にゴミを拾って帰る日本人サポーターの姿が非常に高く評価され、その後の国際大会で真似をする国が続出しました。また、先日のテニスのU.S.オープンで優勝した日本人の血を引く大阪なおみ選手が、表彰式で現地の人々からブーイングを受ける中で行った「気遣いの込められたスピーチ」は、止むことのなかったブーイングを一瞬で拍手へと変えてしまいました。大阪なおみ選手がどの程度日本の文化や習慣に触れて育ったのかは僕には分かりませんが、少なくとも彼女の振る舞いは日本人の評価をまた一つ高めた事は間違いありません。

そして今、日本に憧れ日本を訪れる外国人がものすごい勢いで増加しています。特に若い世代の人たちは、小さな頃から日本製の電化製品や車、アニメ・ゲームや漫画などのサブカルチャーに触れて育って来ているため、欧米人でも有色人種として偏見の目を持つ人はかなり減っているように思います。日本人だけが特別扱いなのかも知れませんが、欧米の国々へ行っても自分が日本人だと言えばみんな嬉しそうな顔をして、親切にしてくれます。確かに日本は欧米以外からG7に参加するアジア唯一の先進国ですが、こうした経済の成熟度以上に力を発揮しているのは、日本人1人ひとりがこれまで積み重ねて築き上げた、日本の世界に対する貢献と日本人に対する評価であるのは間違いないと思います。また、フランスやカナダ、アメリカに行けば多くのアジア・アフリカからの移民を見かけますが、日本人の移民を見かけることはあまり多くありません。アジアではチャンスさえあれば海外で就職をして国を脱出しようとする国民が増えていますが、逆に日本では留学へ行く若者が減っていると言う、全く逆の現象が起きています。留学に行く若者が少ないこと自体は憂うべきことですが、逆に言えば日本の経済と社会がそれだけ安定しており、居心地がよく海外へ脱出する必要がないことの裏返しでもあります。日本から人が出て行かないばかりか近年では外国人の移民や労働者がどんどん流入し始めており、日本は人気の移民先国家として既に世界の第4位となっています。英語圏やフランス語圏でない国にこれだけの移民が来ると言う事は、それだけ日本が魅力的な国なのだと言う確たる証拠でもあります。

このように世界を旅すればするほど、逆に日本の凄さを実感する僕が唯一「まだ及ばない」と感じた国があります。それは他のブログ記事でも度々話題に取り上げている、アメリカ合衆国です。

もちろん、アメリカが政治・経済・技術開発・軍事など多くの点で最先端にあり、世界の頂点に立つ国であることを疑う人はおそらくほとんどいないでしょう。しかし、僕が「日本はまだ及ばない」と感じた出来事は、実は本当にちょっとした事でした。2013年にアメリカ南部、テキサス・ルイジアナ・フロリダ州を訪れた時のことです。僕らはニューオーリンズからフロリダへ、世界初のLCCであるサウスウエスト航空のフライトを利用しました。フロリダの空港に到着し、飛行機から降りようとした時です。前の列にいた乗客がまだ準備に時間がかかりそうだったため、先に降りようした僕を1人の男性が制止しました。”Excuse me.”と…

その時初めて、僕は自分がマナー違反をしかけた事に気がつきました。アメリカでは例えLCCでも、乗客は前の列の人たちが降りるまで、決して前に進みません。正直なところ、これは僕には忘れられない衝撃的な出来事でした。「日本より進んでいる国がある」と言うことを、小さな事から嫌と言うほど痛感しました。そして、自分たちはまだまだ学ばなければならない事がたくさんあると思い知りました。「日本よりも遥かに前を走っている国が1つある。アメリカ合衆国と言う名の国だ」、少なくともこれは確かなことです。

<アメリカではLCCでも障害者や子供連れ家族の優先搭乗は徹底されている>

他の国へ行けば、「やはり日本の治安やサービス、人々のマナーと勤勉さは凄い」と思う一方で、アメリカへ行ったりそのニュースやイノベーションを聞くたびに「やはりアメリカは凄い、まだまだ及ばない」とも思います。日本は、非常に恵まれている国でしょう。おそらく世界で2番目に進んでいる国と言えるかも知れません。しかし一方で、「まだ2番」です。日本人にはまだまだしなければならない事がたくさんあります。まず今後国内でも進むであろう国際化・多様化する社会に適応することが緊急に必要で、そのためには海外の文化や「異なる考え方」を受け入れる下地を作らなければなりません。世界の共通語である英語を会話として使えるようになる事も大切でしょう。そして海外の現状や問題、あるいは見習うべきことを1人でも多くの若者が経験し、日本と言う国をさらに発展させて行く必要があります。

また同時に、「日本は世界への貢献がまだ足りない」とも思います。確かに技術面や経済面、文化的な影響を通じてこれまで多くの貢献をして来たとは思います。しかし、世界にはまだまだ多くの問題があります。「日本が幸せな国ならそれで良い」と考えてはいけないのだと思います。もっと積極的に、世界の平和や貧困の解消を目指して中心的な役割を果たして行かなければなりません。それは決して軍事力を拡大して戦争に加わるべきだと言う意味ではなく、環境・エネルギー技術の開発や発展途上国の産業の育成、あるいは国際社会でのリーダーシップや新しい枠組みの創設など、日本らしいやり方や新しい発想で世界をリードして行けるようにならなければならないと感じます。総合面で日本よりも進んでいる国は、アメリカしかありません。(全ての面ではないことは強調しておきます。)日本が国際社会で行うべき責務はもっと重いはずです。もっと日本の知恵と良さを世界に発信し、アメリカからは学ぶべきことを学び、世界に貢献出来る国となって欲しい、そう願うばかりです。

そのためにも、今後も多くの国々を訪れ見識を広げ、その経験を多くの日本の皆さまに英語と共にお伝えできたら幸いです。そして、世界に貢献するための最大の武器は、やはり英語なのだと思います。1人でも多くの方に、ぜひ英語と共に世界へ飛び出して多くのことを学び日本へ持ち帰って、その知識と経験をこの国と世界へ貢献する事に役立て欲しいと願い、僕自身もそのお手伝いが出来るよう、また自分自身も世界に貢献出来る人間になれるよう、今後も出来る限りのことに取り組んで行きたいと考えています。今後の若者には日本人としての誇りを忘れず、世界を学び日本を知り、そしてその知識と経験で日本と世界へ貢献して行って欲しいと思います。

We can change the world with English.

Find the world, find Japan again.

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ハリネズミのジレンマ

今日は、一見英会話とは関係ないようで、実はコミュニケーションにとても大切だと僕が思うことを書いてみたいと思います。それは、「ハリネズミのジレンマ(hedgehog’s dilemma)」と呼ばれる人間関係における現象です。

「ハリネズミのジレンマ」は「ヤマアラシのジレンマ(porcupine’s dilemma)」と呼ばれることもありますが、哲学者ショーペンハウエルの寓話を元に心理学者フロイトが作った、人間関係に関するたとえ話のことです。

ハリネズミは皆さまもご存知の通り、身体全体に鋭いトゲを持っています。これは自らの身を守るためのものですが、同時に仲間を遠ざけてしまうものでもあります。ハリネズミが寒さに凍えたとき、ハリネズミは身を寄せ合ってお互いを暖めようと試みます。しかし悲しいことに、ハリネズミ同士が身を寄せ合うと、その鋭いトゲでお互いを傷つけてしまいます。お互いを傷つけてしまうことに気付いたハリネズミはお互いを傷つけないようにいったん距離を取りますが、やはりお互いを暖め合おうとして再び近づこうとします。こうしてお互いに近づこうとしてはお互いを傷つけることを繰り返してしまうのが、「ハリネズミのジレンマ」と呼ばれる人間関係です。

<ハリネズミはそのトゲゆえにお互いを傷つける>

これは人間同士にも非常に良く見られる現象で、恋人、夫婦、友人、そして家族と、お互いに近づこうとすると時にお互いを傷つけてしまうことがあります。こうして近づいたり離れたりを繰り返すことで、私たちはそれぞれに適切な距離と関係を少しずつ見つけて行きます。人間関係はお互いに近づきすぎると、傷つき傷つけてしまい関係が悪化することがある一方で、距離をとってしまえば疎遠になり、親密な関係を築くことは出来ません。人にはそれぞれ最適な距離感があるのですがそれを見つけるのはとても難しいことで、その過程で必ず傷つけ傷ついてしまうことがあります。

それでも、例え傷つくことがあったとしても、人はお互いを理解しようとすることを諦めてはいけないのだと僕は思います。お互いを理解し距離を近づけることが出来なければ人々は永遠に他人同士であり、その利害が干渉することがあればそれは必ず衝突と争いへと発展してしまうからです。

実は、英語を話すことや異なる価値観と出会うことは、この「ハリネズミのジレンマ」と全く同じことです。同じ国で育った人間同士でもそうなのですから、異なる文化や宗教を持つ人々が近づこうとすれば、そこには必ず誤解や衝突が生じることがあります。しかしそれでも、粘り強くお互いを理解し、お互いの適切な距離と関係を築くことがとても大切です。それを諦めてしまえば、世界には恐らく戦争や紛争しか残らないでしょう。

僕が初めてカリフォルニアに留学した時に、同じ家に滞在していた日系ブラジル人のアグネスに言われた言葉があります。(詳しくは留学時代のブログ:Santa Barbaraその1。から順にお読み下さい)

“Try to understand.”
(理解しようとしなさい)

とてもシンプルなフレーズですが、僕は20年近く経過した今でもこの言葉を忘れることが出来ず、とても大切にしています。

<英語を話すことは相手を理解しようとすること>

お互いを理解することを諦めてしまえば、人々が近づき、協力し、平和な社会と世界を築くことは決して出来ません。その過程ではもちろん傷つくことも必ずあります。しかしそれでも私たちは、お互いを理解することを決して諦めてはいけない、そのことをアグネスは僕がカリフォルニアに到着したその日に教えてくれました。(そこまで深い意図があったかは分かりませんが。笑)日本人にとって英語を話すと言うことは非常に難しいことです。姉妹語を母語とするフランス人やスペイン人が英語を学ぶことと、全く異なる文法と文字を使用する日本人が英語を学ぶことは全く別次元の話であり、それは同列に比較することは出来ません。

ですが、私たちは世界の共通語である英語を自ら話すことで初めて、他の文化や価値観を理解しようとする姿勢を持つことが出来ます。翻訳ツールを使った方が早い、とお考えになる方もいらっしゃるかも知れませんが、そこには明確に違いがあります。機械で即座に翻訳してしまえば、私たちはそれを情報としてしか理解することが出来ません。コミュニケーションとはそうではなく、人がみな必ず持っている感情と共に「お互いを理解しようと努力すること」です。自ら英語を話したり聞こうとして初めて、私たちは異なる価値観を「理解しよう」と言う姿勢を学ぶことが出来ると僕は思います。そして世界の人々がお互いを「理解しよう」と努力して初めて、私たちは地球と言う限られたエリアの中で共生することが出来るのではないでしょうか。

もちろんその中では、お互い傷ついたり傷つけてしまうことが必ずあります。それは個人同士でも、日本人と外国人でも、国と国の関係でも同じです。必ずいつか「ハリネズミのジレンマ」を経験します。しかしそれで諦めるのではなく、近づいたり離れたりを繰り返しながらお互いを理解して、お互いが共生出来る距離と関係を見つけることを私たちは決して忘れてはいけません。

実は僕はまだ高校生の頃に、とあるアニメのストーリーでこの「ハリネズミのジレンマ」を知りました(笑)アニメと言うと軽く見る人もいらっしゃるかも知れませんが、様々な道徳的なメッセージが含まれているドラえもんに代表されるように、これは日本が世界に誇るれっきとした立派な文化だと僕は思います。世界中の人々がドラえもんを見て育てば、世界はもっと平和になるかも知れません(笑)実際に日本のアニメを見て育った外国の人々は、大部分の人々が日本を非常に好意的に捉えています。それはきっと、外国の人々にとって「日本」と言う文化を理解することなのでしょう。

<ドラえもん名言集(笑)>

<人を理解しようとすることは難しい。でも諦めてはいけない>

世界には必ず、幸せなことと辛いこと、嬉しいことと悲しいこと、簡単なことと難しいことがあります。人生には、世界には、多かれ少なかれ良いことと悪いことがあるものです。しかし、辛いことや悲しいことを経験したら、そのぶん人には優しくなれる事もあります。人と人はそうして、常にお互いを思いやり協力する努力を諦めてはいけないと僕は思います。それがお互いを「理解しようとする」事なのだと思います。

“Try to understand”

皆さまもぜひ英語を自らの口で話すことに挑戦して、人々を理解しようとすることの大切さを学んで頂ければ幸いです。

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海外で怪我をする(台湾編)

2007年の9月、僕は台湾の友人に誘われて約10日間の台湾周遊旅行に行くことにしました。昔ボストンに留学した際に台湾人の友達が出来たのですが、その友人が大学院を卒業したあと、2006年に来日して日本の語学学校で日本語を1年間勉強した際に、その子を通じて台湾人の友人が沢山出来ました。日本語を勉強していた友人ばかりなので日本語で会話出来ますし、何でも通訳してくれるので困ることは何もありません。みんな優しく親切な友人ばかりで、ぜひ自分の家にと言って泊めてくれますし、家族の方々にもとても暖かく迎えて頂きました。台湾の人たちは親日的な人が多く町の人もみんなフレンドリーですし、この国に友人が出来たことはすごく幸せなことで、本当に良い出会いに恵まれたと思います。

この旅行では台北を中心に、九份、基隆、烏来、淡水、三峡、鶯歌、そして台湾中部の人気の観光地である日月譚(リーユエタン)を巡りました。移動は友人たちが運転してくれたので、本当に快適な旅です(台湾は日本とは逆の右側通行なのに加えてオートバイが非常に多く、慣れない日本人が運転するのは困難です)。旅行も半分が過ぎた日月譚からの帰り道に、僕らは客家(ハッカ)の人たちが住む内湾(ネイワン)という小さな町に立ち寄りました。客家と言うのは漢民族の中でも中原発祥の中華文化を守ってきた正統な民族で、そのルーツを辿ると古代中国の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多く、多くの家に古代からの族譜があり祖先信仰が強く風習を頑なに守ってきたため、移住先では住民から“よそ者”とされ「客家」と呼ばれることになった人々で、今でも独特の言語と文化を受け継いでいて、内湾はそうした人たちが集まっている町だそうです。町は日本のガイドブックに載っているような有名な観光地ではないものの台湾では人気の場所のようで、メインストリートは沢山の人で賑わっていて、お土産屋さんやレストランも沢山あり、台湾の友人が連れて行ってくれなければ訪れる事は出来なかったであろう貴重な所でした。しかしこの小さな町で、旅慣れた僕にとっても初めての経験となる事件が起こります…

内湾のメインストリート

町には名所の一つとして立派な吊り橋があり、メインストリートを散策したあとその橋を渡って夕飯にしようということになりました。「せっかくだから、橋の上で皆で記念写真を撮ろう」と思っていたのですが…橋をみんなで渡り始めたその時、何を思ったのか、1人が急に走り始めたのです。実は彼女は極度の高所恐怖症で、怖いので下を見ないで走り抜けてしまおうとしたらしいのですが…

「おいちょっと待て皆で写真を…」と思っていた僕は慌てて追いかけようとしたのですが、当時27歳だった僕は久しく走ると言う行動をしておらず、情けない事に足がもつれて転倒してしまったのです…もう若い時のように体が思い通りについて来る年齢ではなかったようで…(さすがに20代後半でこれは情けないですが、皆さんも気をつけて下さい。体はいつか言うことを聞かなくなる時が来ます…)転倒した時は痛いと言うよりまず恥ずかしいと言う感情が先に来ました。なんてカッコ悪いんだろうと思いましたが、立ち上がった時に恥ずかしいでは済まなかった事に気付きました。転倒の仕方が悪かったようで足を捻っていて、立ち上がった瞬間に激痛が走りました。僕が転倒したので驚いて戻って来たので写真は撮れたものの、歩くのもままならないほど酷く捻ってしまい、激痛を押し殺して夕飯に向かいましたが皆について行くことが出来ず1人どんどん遅れてしまいます。台湾の友人が1人気付いて一緒にゆっくり歩いてくれましたが、その激痛具合に軽傷ではないことはすぐに分かり、正直「骨が折れたのかも…」と思うほどでした。怪我の具合が心配でその後は客家料理の夕食も友人との会話もまったく楽しむことが出来ず、落ち込んだ気分のまま台北に帰り着いた僕は、夜も深くなっていたので友人に頼んで薬局へ行ってもらいました。

客家料理。しっかり味わう余裕はありませんでした…

薬局で靴下を脱いでみると、足はかつて見たことが無いほど膨れ上がっており、僕の気分は更に沈みました。ひょうきんな薬局の店主は湿布薬を持って来て、「これは物凄い効くんだ!明日には治っちゃうだろうね!治らなかったら湿布では治らない状態ってこと!」などと陽気にサラッと言ったのを聞き、僕の不安は更に更に深まりました…。翌朝に腫れが引くのを祈って眠りましたが朝起きても足の様子には全く変化がなく、その日は台南に行く計画でしたがさすがの僕も病院に行かないとマズいと判断し、友人に頼んで病院へ連れて行ってもらう事になってしまったのです…

まず病院に行く前に旅行保険の確認をしました。病院によっては保険会社が治療費を立て替えてくれる所もありますが、日本のコールセンターに問い合わせたところ台北には提携している病院がなく、実費で支払いをして日本で請求をすることになりました。(旅行保険を請求する時は病院に行く前にまず一報する事をお勧めします。事後請求だと保険が降りない可能性もあります。)健康保険制度がしっかり整っている日本ではイマイチ実感出来ませんが、医療費は実費で支払うとかなりの高額になります。日本は3割負担ですので少なくともその3倍以上、国によっては更に高額な所もあります。実費負担も不安でしたが足の状態はそれ以上にずっと不安で、大きな総合病院に連れて行ってもらい診察を受けると医師はレントゲンで判断すると言いました。レントゲン撮影を終えて医師が写真を見ている時に、僕の緊張はピークに達しました…折れているのか…大丈夫なのか…

レントゲンを見た医師は僕が日本人だから漢字が分かるだろうと思ったのか、紙を取り出し、そこに「没問骨」と書きました。「没」と「骨」という字を見た僕は血の気が引くのを感じたのですが、友人がすぐに「骨は大丈夫」と教えてくれました。「没」は中国語で「無い」と言う意味なんですね…骨折は免れたものの重度の捻挫とのことで、医師は足首を固定した方が良いと言い、巻き付けたらカチカチに固まるバンドを巻くことになりました。費用も2万円弱で収まり事なきを得ましたが、足を固定してしまったので歩くことが出来ず、友人に車椅子を借りてもらい、その後の旅行は車椅子で押されて周るということに…台湾人の友人はみんな車椅子を押そうとしてくれましたが、僕はあまりの申し訳なさに言葉がありませんでした…台北101では車椅子で訪れたため料金が障害者割引になり、エレベーターも待たずに優先的に乗せてもらうことに(苦笑)かくしてこの台湾旅行の後半はほとんどを車椅子の上で過ごしました。有名な士林夜市の人混みも車椅子で移動しましたので、周りからは大層奇妙なグループに見えたことと思います(苦笑)

坂で有名な九份は、車椅子と松葉杖には厳しい場所…
友人は夜市の人混みもずっと車椅子を押してくれました。左足は靴を履けない状態…

こうして台湾の友人に徹底的にお世話になった旅行は終わりました。空港では出国の際も日本に入国の際も、空港職員に押されて特別レーンでの優先審査でした。イミグレーションに並ばないという経験は、後にも先にもこの時だけです(苦笑)空港に迎えに来てくれた両親は車椅子に乗って出て来た僕を見て大層驚きましたが…(笑)足をキツく固定し過ぎたのか僕の足は帰国の頃には紫色に染まり、翌日すぐに日本の病院で診察を受けました。完治までは3〜4週間を要したと思います。

こうして海外で怪我をして病院へ行き、保険を請求したことで分かった事がいくつかあります。怪我をした際はまず保険会社に一報しなければならないこと、旅行保険で一定以上の金額を請求すると、次の旅行の際は保険に入り難くなることなど…(保険に入る際に「以前に○万円以上の保険金を申請したことは無い」という欄があります。この時はギリギリ基準額以下でしたが…)

もし病院のないような僻地で怪我をしてヘリコプター搬送をされたりすると、何百万という請求が来るそうです。近年は多くのクレジットカードに海外旅行保険が付帯していますが、保障金が十分で無かったり審査が厳しかったりしますので、やはり海外旅行の際は保険に入ることをお勧めします。もちろん、怪我をしない様に慎重に行動することがまず大事だというのが、この旅行の教訓だったのですが…(苦笑)

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お台場に「自由の女神」がある理由

皆さん、「自由の女神」って、世界に一体いくつあるか、ご存知でしょうか?

「あれ、そういえばお台場にもあったような」と気付かれる方もいらっしゃるかも知れません。実のところ、偽物やレプリカは世界中に無数にあり、数えることは困難を極めます。実は日本にも、青森県のおいらせ町や北海道の函館などにもレプリカが存在します。ここでご紹介させて頂きたいのは、「公式な」自由の女神像は、世界にいくつあるかと言う点です。

<ラスベガスのホテルにあるレプリカは低クオリティ…>

世界で最も有名な自由の女神像は、世界遺産にも登録されており、ニューヨークのシンボルとなっている有名なものであるのは間違いないでしょう。もしかしたら、アメリカ人でも本物の自由の女神はニューヨークにしかないと信じている人がいるかも知れません。自由の女神は英語では”Statue of Liberty”と呼ばれています。”statue”は「像」を意味する単語で、”liberty”は「束縛からの解放と自由」を表す単語です。つまり直訳すると「自由の像」なんですね、女性の像なので日本語では「自由の女神」と呼ばれていますが、英語ではあくまでも”Statue of Liberty”です。

<ニューヨークの自由の女神像は合衆国のシンボル>

このニューヨークの自由の女神像は、アメリカ合衆国の独立100年を記念して、独立運動を支援したフランス人たちの募金によってパリにて建造され、完成の後に1886年にアメリカ合衆国へプレゼントされたものです。アメリカ合衆国の象徴のイメージが強い自由の女神像ですが、その生まれ故郷は実はフランスなんですね。

実は、世界にはもう一つ、「公式な」自由の女神像と考えられているものがあります。それは女神像の生まれ故郷である、フランス・パリのセーヌ川のグルネル橋のたもとに設置されているものです。大きさは高さ11.5メートルとニューヨークのものより小さいこの「パリの自由の女神像」は、フランス革命100周年を記念して、パリに住むアメリカ人たちによってニューヨークの女神像に対するお返しとして、1889年にパリへと寄贈されたものです。つまりアメリカ人とフランス人は、お互いに自由の女神像をプレゼントし合ったんですね。ですので、「公式な」自由の女神像と考えられるものは世界に2つ、と言うのが正解と言えるでしょう。その他のものは全てレプリカという事になります。

<パリの自由の女神像はセーヌ川の中州にある>

「あれ、じゃあお台場にある自由の女神は、やっぱりただの偽物なのかあ」と思った方、ちょっとお待ち下さい。確かに完全な「公式な」ものとは言えませんが、逆に完全な「偽物」とも言えない代物なのがお台場の女神像です。

まず、なぜお台場に自由の女神像が設置されたのか、その経緯をたどってみることにしましょう。お台場に初めて自由の女神像が設置されたのは遡ること1998年、日本におけるフランス年事業の一環として、本物の「パリの自由の女神像」が約1年ほど設置されたのが始まりです。本物の自由の女神像をパリから輸送して設置し、除幕式には当時の首相であった橋本龍太郎とフランスのシラク大統領も出席して、盛大に点火が行われました。日本は地震国であるため本物の自由の女神像に何かあってはならないと、設置する台座は耐震構造で入念に設計され慎重に設置されたそうです。つまりお台場には「本物の自由の女神像」が1年間、ちゃんと存在していたのです。

ところが…残念なことにこの女神像はパリの大切なものですので、やはり1年後には帰国し、元の場所に戻されてしまいました。しかしこの事業が好評を博したため、「お台場にも自由の女神像が欲しい!」と言う機運が高まり、その後フランス政府からレプリカの制作が認められたため、フランスのクーベルタン鋳造所にて複製されたブロンズ製のレプリカが、2000年に改めてお台場に設置されました。このフランス政府公認のレプリカは実際にパリの本物の自由の女神像から型を取って鋳造されたため、パリにあるものと全く同じ形の、パリ生まれでフランス政府公認の「東京の自由の女神像」なのです!もちろんアメリカとフランスがそうしたように「寄贈されたもの」ではないため公式な像にはカウントされませんが、フランス政府が公認した「準公式の」自由の女神像と言えるものです。これは日本人にも、フランス人にもほとんど知られていない事実で、お台場の自由の女神は決して「偽物」ではないのです。「世界で3番目の自由の女神像」と言っても過言ではないでしょう。

<東京の自由の女神像はフランス政府公認>

僕が10年ほど前に米国西海岸へ留学した際に、ホームステイした家のルームメイトがたまたまフランス人の青年でした。彼の名はセバスチャンと言い、週末に一緒に旅をしたりと割と親しく付き合ったのですが、ある日、自由の女神の話になり「そういえば、東京にも自由の女神があるんだよ」と彼に伝えたところ、彼は笑いながら「バカなことを言わないでくれ、自由の女神は世界に2つだけだ(笑)」と言ったのです。その時、僕はお台場になぜ自由の女神像があるのか、その経緯を知らなかったため、「いや、本当にあるんだって!」としか言えなかったのですが、一方で「ただのレプリカなのかな」とも思い、セバスチャンも全く信用していない様子だったのですが…。帰国してある日、お台場を訪れた際にこの自由の女神像がフランス政府公認のものであることを知り、「ちくしょう、あの野郎!フランス政府公認じゃないか!(笑)」と、今では非常に悔しく思います(苦笑)何しろこのように、日本人にもフランス人にもその経緯と正統性がほとんど知られていないのが、お台場にある「世界で3番目の自由の女神像」です。日本政府はもっと積極的に働きかけて、フランス政府と共に「自由の女神は世界に3つ、ニューヨーク・パリ・東京にある」と宣言したら良いのでは、と思います(笑)

<パリ出身のセバスチャンも東京の女神像の事は知らず>

このように、お台場にある自由の女神像は意外にもれっきとしたものです。皆さんもフランス人やアメリカ人と出会った際は、しっかりとその正統性を教えてあげてください(笑)「フランス政府公認の自由の女神」ですから!

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You and I are different. ‐ 異文化を理解すること

英会話を学ぶことの大きな目的の一つに、「異なる文化や価値観を理解すること」があります。この相互の理解は今後の世界から宗教対立や民族紛争を無くすためには必ず必要なことと言えるでしょう。

それでは、「異なる文化を理解する」とは、一体どのような姿なのでしょうか。

僕がこれまで様々な国を訪れて色々な国の人間と話したり交流をして来た中でこれが人間にとって最善であると考えたのは、実はこれまで世界が考えて来たような「お互い仲良く交流を深めよう」と言うような姿ではありません。とても冷徹に聞こえるかも知れませんが、僕はこのように結論付けました。

お互いを理解し尊重した上で、一致を求めずお互い必要以上の干渉を避けるべきである

なぜこのような結論となったかと言うと、結局私たちはそれぞれが生物としての欲をベースとして生きている人間と言う名前の動物だからです。つまりお互いに近づこうとする行動は私たちの「欲」であり、等しくなろうとする試みは私たちが互いの価値観の一致を要求すると言う自分のためでしかない行動であるからです。私たちが欲を元に生きている人間である以上、最終的にたどり着ける姿とは可能な限りこの欲を抑えること、つまり「他者に自らの価値観を求めないこと」です。

この「価値観の一致を求める」と言う行動が残念ながら、これまでの対立や紛争に終止符を打つことが出来なかった根本的な原因です。西洋社会を中心とした今までの理想がたどり着いたのは結局、宗教対立とテロリズム、民族対立と差別であり、それは圧力と反発が終わらず繰り返される世界であったことは否定出来ません。圧力はかつてよりは争いの数を減らすことは出来たかも知れませんが、対立を無くすことは出来なかったと言う点においてここが限界であると考えられます。

この現状を私たち世界がもう一歩進めることが出来るとすれば、それは自らの価値観の押し付けを止めて他者を尊重すること、異なるものを異なるままに容認することではないでしょうか。そのためにはお互いの価値観を交換し理解したら、それ以上のことをお互い求めない事が必要です。それ以上は他者や他文化に「干渉しない」と言う、ある意味で大人としての振る舞いが大切です。

誤解を招かないようにすると、「必要以上の干渉をしない」と言うのは「理解を諦める」と言うことではありません。まずコミュニケーションを取った上でお互いの違いを理解し認め合い、可能な限り譲り合う努力をしながら自らの価値観を押し付けることをやめる、と言うことです。異なる文化や他者を尊重し共生するとはそうあるべきものです。「協力」をする一方で「一致」を求めてはいけません。「お互いのため」が「自分のため」に変わった瞬間に、人間には必ず衝突が生じます。自分と同じであることを求めてはいけません。

これまでの世界は国境を無くしたり共同体の設立による同化と一体化を押し進めて来ましたが、それはEUの崩壊や国連の無力化を見る限り限界であると言えるでしょう。それは元々に異なるものを無理矢理一つにしようと試みた事に原因があります。つまり人類は「理想を追い求め過ぎた」と表現することができます。私たちが生き物である限りは、欲を完全に放棄して理想的に生きることは出来ません。現在の世界は、無理な理想が副作用としての反発と対立を生み出している状況です。

身近な人間関係に戻って考えてみましょう。価値観の一致や過剰な干渉がもらたす代表的な失敗例として分かりやすいのは家族関係、特に親子関係です。子離れ出来ない親、親離れ出来ない子供の関係とは必ず、その後の関係とその他の人間関係の中に支障を来します。相互が過剰に依存していて過剰に期待をしているために相互を束縛し、その期待に応えない場合にはそれが衝突へと発展します。マザコンやファザコンを想像すれば分かりやすいかと思いますが、こうした関係において子供が自らの思い通りにならなければそれだけで親は不満を覚え、子供は親が助けてくれるのが当然、そうでなければ裏切りと判断してしまいます。このような過剰な依存や干渉は相互の自立を妨害するだけでなく、「期待に応えないのは悪いこと」と言う自らの欲望を増幅させる結果となります。こうした人間関係は親子に限ったものではなく、かつての日本に見られたような「家を継ぐのは当然」「子供が親の面倒を見るのは義務」と言うような束縛を生み、その束縛はそれが実現しなかった際の衝突へと通じます。しかしながらその原因とは実は「過剰に期待していること」、つまりそれぞれ個人の欲でしか無いものです。これらは「友達だから」「同郷だから」と言ったケースも同様で、自己の責任を他者へと転嫁する欲望の口実でしかありません。自立出来ない関係とは結局、他者に負担を押し付けるための準備を常に行っているようなものです。

これは国家間や異文化間でも同じことが言えるだろうと僕は考えています。過剰に価値観を押し付けることや異なる存在を尊重出来ないことはそれぞれの欲でしか無く、その欲が満たされない時に必ず衝突へと変わってしまうものです。世界の各個人はそれぞれ自立をして、協力はしても干渉はしないことがあるべき姿と言えます。理解をしてそのまま違いを受け入れ許容し合うことが必要です。

価値観の一致を強要することは結局、世界レベルで全体主義を求めているようなものです。そうではなくこれからは他者との違いを理解し受け入れるために、多様で異なっていることを尊重できるように、私たちはぜひ日本の皆さまに英会話をもっと学んで欲しいと願っています。それは私たちが自らの価値観を押し付けるためではなく、異なる存在を理解し受け入れるために持つべきスキルと姿勢であると考えています。「あなたと私は違うけど、それで良いのだ」と言う、新しい国際関係のあり方をぜひ皆さまにもお考え頂けたら幸いです。

“You and I are different.”

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本場アメリカのステーキ事情

ステーキと言えば、やっぱりアメリカが本場ですよね!ですが近年、アメリカのステーキ事情に大きな変化の兆しが…そんなアメリカのステーキ事情についてご紹介したいと思います。まず、アメリカでのステーキの種類を見てみましょう。

<RIB EYE(リブアイ・ステーキ)>
日本で言うとリブステーキです。脂がのっていて肉質は少し固めですが、肉好きが最も愛するステーキです。

<NEW YORK STRIP(ニューヨークストリップ)、KANSAS CITY STEAK(カンザスシティ・ステーキ)>
日本では(お店によっては現地でも)サーロインステーキと呼ばれます。脂はRIB EYEより少なくフィレよりは多い、肉質はRIB EYEより柔らかいもののフィレよりは固め、といった感じ。ちょうどほどほどなお肉なので人気があります。

<Filet Mignon(フィレミニョン)、Tenderloin(テンダーロイン)>
フィレステーキです。脂は少なくてあっさりしていますが非常にやわらかく、牛一頭から取れる量が少ないためお値段も高めです。

<Porterhouse(ポーターハウス)、T-bone steak(ティーボーン)>
T字型の骨の左右にフィレとサーロインが付いている、一度で二種類のお肉が楽しめる大きなステーキです。

<Tomahawk(トマホーク)>
テキサスなどのステーキハウスにある、非常に巨大なRIB EYEステーキで、その大きさは38オンス(1077グラム)や50オンス(1417グラム)など、まさにアメリカンサイズ!

<Prime Rib(プライムリブ)>
これは焼いたステーキとは調理方法がやや異なり、リブの肉をかたまりのままじっくり焼き上げ、食べる際に切り分けて盛り付ける温かいローストビーフのことです。

さて、このステーキの本場で、ある異変が起きていることをご存知でしょうか。なんと今アメリカでは、和牛が大ブームになっているのです。有名なステーキハウスのメニューを見て頂くと分かるのですが、評価の高いステーキハウスは軒並み和牛を売りにしています。和牛の名称もバラエティに富んでおり、WAGYUだったりAKAUSHIとか、KOBE BEEFと記載している所もあります。

余談になりますが、「神戸牛」というのは兵庫県で生産された「但馬牛(たじまうし)」からとれる肉が一定以上の基準を満たした場合にのみ用いることが出来る高級な牛肉のブランド名であり、日本三大和牛の1つとして非常に希少なものであるためほとんど海外には流通しておらず、アメリカに神戸牛が氾濫しているはずはないのですが…(苦笑)アメリカでは日本で飼育されたものでなくても、種牛が和牛であればWAGYUと呼ばれているようで、アメリカ産に加えてオーストラリア産の「WAGYU」まであります(笑)僕が先の年末年始にフロリダのステーキハウスで食事をした際に、ウエイターが特別な牛肉があると言って誇らしげに2つのお肉を持って来て見せてくれました。1つは宮崎牛のフィレで、もう一つはオーストラリア産のWAGYUのリブアイだと言っていました。もちろんアメリカに行ってまでわざわざ和牛を食べるのは本末転倒ですので、僕らはアメリカ産アンガス牛のステーキを注文しましたが…それにしても彼らが宮崎牛だと言っていたフィレは目玉が飛び出るほどの値段でした…

一昔前までは和牛は柔らかすぎて脂っこくてこれは本物のステーキじゃないとアメリカ人は言っていたような記憶もありますが…時代は変わるものですね…いずれにしても日本の畜産農家の努力と研究の賜物である和牛が世界で評価されていることは、日本人として喜ばしい限りです。神戸牛は2009年に、米メディアが選んだ「世界で最も高価な9種類の食べ物」にキャビア、フォアグラ、白トリュフらと共に選出されたと言うから驚きですね。品質を追求する日本人の底力は食材の分野でも発揮されつつあるようです。

ですが、本場のアメリカらしいステーキを食べたいと思っている方は、レストランに行く前にどこのお肉を扱っているのかチェックすることをお勧めします(苦笑)

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