2つの”equality”:「機会の平等」と「結果の平等」

 みなさまこんにちは。最近は文字ばかりの記事になってしまい恐縮なのですが、本日は僕が組織を運営するにあたって常に悩みどころともなっている「機会の平等」(Equality of Oppotunitiy)と「結果の平等」(Equality of Outcomes)について、書いてみたいと思います。

 最初に結論のようなことを書いてしまうと、「平等」に関する問題には、完全な解決方法と言うものは、実は存在しません。そもそも「何を平等と考えるか」によって、大切にすべきことが変わってしまいますし、上記した「機会の平等」と「結果の平等」は、実は必ず相互に矛盾する(includes a mutual contradiction)存在だからです。つまり、私たちが平等な環境を実現するための取り組みというのは、実はこの「機会の平等と結果の平等の間の、どこでバランスを実現するのか」について、人々が自らの属性の利益を追求するための駆け引きとして行っているに過ぎません。どちらかの平等を追求すれば、もう一方の平等は損なわれる。残念ながら、それが人間が形成している社会と言えます。

 一般的には、私たちは「機会の平等」を尊重すべきだとほとんどの人が認識しています。国籍や宗教、ジェンダーや年齢に囚われず、全ての人が等しく機会を与えられるべきである。この概念だけを1つの視点から見た時には完全に正しいように見えるのですが、その裏には、ネガティブな副作用も隠されています。しかし、その副作用やネガティブな側面については、残念ながら昨今のメディアや学問で「主流の意見として」取り上げられることはほぼありません。

 僕自身も組織を運営していますので、機会の平等が限りなく実現されるような仕組みを社内に導入しています。日本人だけでなく、欧米を中心に多くの国籍のメンバーが働いていますので、出自やジェンダー、年齢ですら区別を付けずにチャンスがあるような「能力評価」のシステムにしています。頑張って結果を出した人こそがその分評価され報われる姿を日々確認できていますし、その新しい組織のあり方には一定の満足を感じています。日本でもようやく欧米型の「ジョブ型雇用」を取り入れる大企業も現れ始めましたが、SSEAという組織には少なくとも、従来の日本企業とはまったく異なった価値観と企業文化が存在しているのは間違いありません。幹部の半数が外国人ですし、その中には女性もチームの一員として参加しています。「頑張れば、出自や性別、年齢に関わらず、誰でも報われる」、それを当たり前のことにしたいし、そうすべきであるというのが、ここまでの組織作りの大前提として大切にして来た事でもあります。

 一方で、機会の平等を尊重するためなら「結果の平等はないがしろにしても良いか」ともし聞かれるとしたら、それもまた違うのかなと考えています。

 議論の余地はもちろんありますが、ものすごく単純に分けて考えるのであれば、これまで欧米社会、特に米国は機会の平等の実現を追求して来たのに対し、日本社会はどちらかと言えば「結果の平等」を大切にして来たように思えます。日本ではメンバーシップ型雇用(終身雇用:Lifetime Employment)によってほぼ全ての社員が退職までの生活とその後の年金を保証され、主に年齢と就業年数によって昇進が決められ(年功序列:Seniority System)、悪い言い方をすれば「頑張っても頑張らなくても、結果はあまり大きくは変わらない」のが、これまでの日本社会でした。みなさまも、まったく仕事をしているように見えない課長や部長を、どこの会社でも見かけたことがあるかと思います。極端に言えば、これまでの日本の社会では「真面目に頑張る人ほど、損をする状態になってしまっていた」ことを、日本企業で勤務したことがある方なら誰もが実感して来たのではないでしょうか。

 この点は海外と日本の社会を比較すれば、多くの側面で違いを確認することが可能です。近年は国内では「格差が広がった」と、まるでこの世の終わりかのようにネガティブに報道するケースが目につきますが、その状況を加味してもなお、日本はまだまだ他国と比べれば「他国と比較することが馬鹿馬鹿しいくらいに、圧倒的に格差が小さい社会」です。格差が広がること自体が良いのか悪いのかは後半で再度触れますが、事実としては日本ほど格差が小さすぎる社会は、世界広しと言えども、極端な福祉制度を持つ北欧くらいかも知れません。米国の投資銀行の駐在員として日本に滞在した日本支社のCEOが帰国時に述べた感想が

「日本は世界で最も大きな規模の社会主義国だ」

だった、との笑い話は冗談ではなく、社会制度や規制によって、本当に社会主義に近い状況に結果的になっていることを象徴したひと言だったのかと思います。少なくとも、海外から見ればそのように見えるのが日本の社会制度です。

 例えば、日本ではなぜか「学歴は大切なのか」という話題がたびたびメディアで繰り広げられますが、こんなことを真剣に議論するのは日本人だけではないかと思います。残念ながらこの点は国内メディアも井の中の蛙になっている(正確には、メディアだけでなく日本では読み手がそれを求めているからこそ、そのような趣旨の記事や番組が増える)と感じるのですが、日本人が学歴云々を議論する間にも、海外では日本以上の超学歴社会が繰り広げられており、大卒と高卒では人生は天と地ほどに変わってしまいます。欧米ではさらに、大卒どころか修士や博士の学位を取得することも当たり前のように推奨されており、大卒でも高卒でも平均年収の差が1.5倍にもならない日本社会は、世界の中ではむしろ「異常なほど格差を認めない社会」となっています。欧米ではスチューデントローンを組んで、借金をしてでも大学を卒業して働きながら返済して行くのが当然ですし、社会に出たあとでも、年間で1000万円の学費にも達する大学院へ戻るために数年間は働いて貯金をし、さらに高度な学歴取得を目指して人生設計を組み立てるのが普通です。

 また、日本の税の仕組みや社会保険なども、例外に漏れずに日本人の価値観を反映したものとなっています。所得税に関して言えば累進課税が設定されているので、例えば頑張って働いて年収が1,000万円に到達すると、その収入の約半分は税金と保険料で消えてしまいます(所得税や住民税だけではなく、健康保険料なども収入に応じて増減するため)。一見とても公平なように見えるのですが、ここでは頑張った結果は報われるべきという「機会の平等」よりも、収入が多い人はその分を他人に還元すべきとの「結果の平等」が優先されているのが、今の日本社会です。収入の半分を失うために、昼夜を問わずに必死に働いて何かを努力しようとする人が、果たしているのでしょうか。日本人はよく「集団のために生きている民族」と海外から揶揄されることがありますが、これは国民性だけではなく社会制度そのものもこうした目的を達成するための設計となっていることを、私たちも正確に知っておく必要があるでしょう。結果の平等を尊重する社会とは、反対に言い換えれば「努力を搾取している社会」でもあります。歴史上で社会主義や共産主義が失敗に終わって来たのは、結果の平等を追及すると誰も努力をしなくなり、社会と人間そのものが腐ってしまうからです。残念ながら人間とは、競争が無ければ怠惰になり腐る生き物であることは、すでに歴史が証明しています。

 さて、ここまで書いて来た内容を読んで「単純に日本を批判している」とお感じになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、実はそのような意図でこの記事を書いているのではないことを、一度立ち戻って確認しておきたいと思います。ここまで書いて来たことはあくまで比較対象としての「事実の羅列」であって、僕の意見や考えとは異なることです。むしろ冒頭でも述べた通り、「機会の平等を一方的に追求することには、罠もある」というのが、ここで本当に明らかにしたいことでもあります。

 先日、「ジョブ型雇用は実は欧米ではもう時代遅れのものなのに、日本は今から導入しようとしている」と書かれた記事がありました。これはまさに僕も同じことを感じています。ジョブ型雇用で、つまり能力のみを絶対かつ唯一の評価基準として組織を運営しても、そもそも人間には感情があり機械の部品ではないので、結果的には上手く行かないと、ここまでの組織作りの経験で僕も理解して来たことでもあります。ですのでSSEAでは、あくまで機会の平等を基本原則としながらも、結果の平等が損なわれ過ぎないよう、「バランスを取るための決定」も忘れないようにしています。純粋な弱肉強食だけではやはり、組織や社会は良いバランスでは成長しないと感じているからです。そのためSSEAではビジネス原則を基本としながらも、多くの企業では一般的に(どれだけ包み隠しても)絶対の正義とされている「利益第一主義」や「売上至上主義」は敢えて排除し、顧客満足と従業員のウェルビーイングを利益よりも先にまず実現すべきことに据えています。そこはおそらく、SSEAという組織が利益の最大化自体を組織のパーパスとせず、社会貢献をその存在価値としているからこそ可能なのかなと思います。欧米型の考え方やシステムを取り入れつつも、そもそもアメリカとヨーロッパとオーストラリアで既に相互にまったく異なっている価値観やシステムを常に比較し、日本の良いところも加えながら、「ベストミックス」して新しい組織の在り方を生み出すことをマネジメントの前提としています。いかに米国が世界の最先端であっても、米国のビジネスをコピーすることはここでは全く望んでいません。むしろ、米国を上回る良いものを実現するべきだと考えています。

 現在の米国での「社会分断」(Social Segregation)の深刻さはたびたびニュースで取り上げられていますが、それでも日本で普通に生活する方々がその深刻さを本当の意味で理解することは、非常に難しいことなのではないかなと思います。この社会分断の原因には「弱肉強食社会での階層化」が根底にあり、機会の平等を追求したいリベラル主義と、宗教に基づいた「古き良き」伝統的な価値観を維持したい保守的な中間層が、相互に話し合うことすらもはや不可能になってしまうくらいに対立を深めてしまった結果であると言えます。AなのかBなのか、白なのか黒なのかという、2択のどちらかを双方が「絶対正義」と考え、その選択を迫るような価値観が強まった結果、今のアメリカではおよそ人口の半分の人が「2030年までにアメリカは内戦に陥る」と感じているそうです。それが実際に武器を使った姿の内戦になるかどうかは分かりませんが、機会の平等を絶対の理念として追及して来た結果、米国は社会に大きすぎる格差と階層、対立・紛争と不理解を副作用として誘発して、社会がバランスを取るための機能を失ってしまっているように見えます。相互に対する理解や思い遣りを欠き、ただひたすらに相手を否定すること自体を目的とする前提の姿勢と議論では、社会がより良い姿を実現する事は不可能と言えるでしょう。格差が異常なまでに小さく、妥協や集団生活を重んじる日本人の価値観はその対極にあることから、日本人がこのような「社会分断と格差の現実」を本当の意味で理解し実感することは、ほぼ不可能なのではないかと思います。

 ただ、ここで確認しておきたいもう1つの事実は、これは本当に「残酷な社会の真実」だと思うのですが、「分断された社会や格差は、一部の既得権益や富裕層、国の経済や資本家にとっては、むしろポジティブ」だという点です。近年に「伸びている」企業や経済、あるいは国家では一部の大企業や資本家と富裕層の利益だけが物凄い勢いで増えていることがほとんどであり、こうした「経済の先導役」がいて初めて、国際競争に勝ち抜き経済や平均所得が向上するのが現実です。中国では「富めるものから先に豊かになれ」として社会の格差を容認した鄧小平による改革開放が現在の経済発展のきっかけとなり、米国であればGAFA、韓国であれば財閥企業(特に経済の20%を占めるサムスン電子)、台湾であれば世界の半導体の中心プレーヤーともなった台湾積体電路製造(TSMC)などのIT関連企業、シンガポールや香港であれば富裕層による金融と投資が経済を支えていますが、これは「国民全員が豊かになった」とのイメージとは全くに異なる姿の「発展」であり、どの国家や地域でも日本とは比較できないような深刻な格差問題と社会分断を抱えていますが、そうした面は国内で報道の場にあがることは非常に稀です。社会の上位10%~20%に富が集中する方が社会の平均値は素早く上昇するのですが、逆に考えればそれは社会の80%を形成する「苦しい庶民」の犠牲と、そこからの搾取によって成立している「平均値という名前の数字上の発展」でもあります。日本以外の国の経済の「平均値」を考えてみても、実は何も参考にならないことは、直接その国の人々と触れてみれば、よく分かることです(平均値は富裕層や大企業が一気に押し上げているものであり、その「平均値で生きている人」は、格差社会には多くは存在しません)。まだまだ中間層が社会の最も大きなウェイトを占める日本人はとにかく格差にアレルギーがありますが、経済成長(平均値の底上げ)を達成するためには「格差社会の方が優れている」のもまた、知っておかなければならない残酷な現実です。

 当然こうした「格差社会」には、多くの犠牲が内包されています。富裕層が超高級車やプライベートジェットで豪遊する一方で、中間層を含む庶民は病院で満足な医療も受けられないのもまた米国社会であり、金融や投資で豊かな地域では、肉体労働のような社会の厳しい職務を負担し、その生活が向上する可能性は与えられていない「奴隷のような労働力」が社会を支えています。「機会の平等を尊重して豊かになった社会」(平均値が押し上げられた社会)とは、必ずしも美しいことばかりではないのです。必ず勝者と敗者に分けられて、同じ人間とは思えないくらいの立場の違いを受け入れるか、感情的に受け入れられなければ、社会分断と治安の悪化を副作用として誘発する。残念ながら、格差社会で競争に敗れることとなるほとんどの人間は機会の平等を論理的に受け入れて大人しく平和に暮らすことを受け入れないので、社会分断と治安悪化は、機会の平等という美しい響きの単語とセットで、必ずやって来ます。こうした「機会の平等を追及することの裏に存在する現実」も、私たちは未来の社会を描く際には知っておかなければならないでしょう。

 さて、僕の中で「機会の平等と結果の平等のどちらを尊重すべきか」という宿題については、残念ながらまだ答えが出ていません。というよりは、ハッキリとした答えは絶対に見つからない問題なのだろうということが、既に分かってしまっている、と言う方が正しいかなと思います。

 機会の平等と結果の平等は必ず相互に矛盾しますので、どちらか一方を追及するのではなく、どこにその理想的なバランスがあるのかを探し続けるのが僕の課題の1つかなと考えています。チャンスが平等にあり、頑張ったことが報われるべきというのは組織や社会の最低条件ですが、一方でそこに、人の生命や幸せといった基本的人権に対する犠牲があってはならないとも感じます。

 運の良いことに、SSEAには国籍も価値観も文化も、もともとバラバラであった多様なメンバーが集結しています。その多様性の中でバランスを取ることで、どこに理想的なバランスがあるのか、その永遠に答えは出ないであろう宿題に今後も取り組んで行ければと僕は考えています。

 また、いま僕がこうしてメディアに書かれている情報をいったん疑い、ゼロベースから物事を考えるようになったのは、やはり英語が話せるようになり、多くの外国人と直接触れ合って来たおかげかなと、常に実感しています。みなさまにもぜひ、少しでも英語を身に付けて、オンラインからの「情報」では分からない本当の世界の姿を、「経験」として発見していただければ幸いです。

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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