Bostonその1。

このブログ記事は、2001年に大学3年生となった僕が、夏休みを利用して2度目にチャレンジした米国ボストンでの短期留学での経験について書いています。2度目の留学を決意するに至ったのは最初の留学である「留学時代の体験:Santa Barbara編」での経験から続くものです。その経緯につきましてはぜひ、Santa Barbaraその1。のブログ記事からお読み頂ければ幸いです。

 Santa Barbaraから帰国した僕はそこでの悔しさから、国内で英語学校に通うことと次の夏休みに再び海外での勉強に挑戦することを決意しました。当時高田馬場にあったTOEICスクールにてスコアの向上を図りながら、僕は次の留学先を探し始めました。

 Santa Barbaraで4週間通学したEF International Language Schoolは、クラスの質はおそらくそこまで高かったのではないと思いますが(と言うより、おそらく語学学校のクラスはどこも大差ないでしょう)、その留学生のバランス・多様性は非常に素晴らしく世界中から学生が集まる環境が魅力的だったので、次の留学も別の都市で同じスクールを選ぶことにしました。実際に語学学校を選ぶ際のポイントは、そのクラスの質よりも学生の出身国の多様性の方が遥かに大切です(語学留学は、クラスで学ぶ時間よりプライベートで会話する時間の方がずっと長いためです。アジア人ばかりが在籍するような学校で学ぶことは、効果や経験の価値が薄いかと思います)。

 当時恵比寿にあったEFの東京オフィスを訪れて担当者と話したところ、ボストン校が校舎の雰囲気も良くおススメだと推薦されました。最初の留学先が米国だったため英国などの選択肢も頭の片隅にはありましたが、やはり世界の先頭を走る米国で学ぶことの価値、そしてハーバードやMITが立地し世界に冠たる学問の都であるボストンでの経験を選ぶことにしましたが、この選択は今でも人生の大きな財産になったと言えるものです。最初の留学ではホームステイを選択したため、ボストンでは校舎と一体となっている学生寮での滞在を選びました。通常のコースではなくクラスのコマ数が少ないサマーコースのプログラムを選択したのは、クラス内で学ぶよりもクラス外の時間が大切であることを前回に学んでいたからだったかも知れません(笑)

 父が航空会社のマイレージを大量に持っていたのもあり、留学は「無料の特典航空券が取れるタイミングという条件」となりました。既に6月に差し掛かっており夏休み中の米国行き特典航空券を予約することが難しい時期に差し掛かっていましたが、何とか8月出発、9月帰国のボストン往復航空券を見つけることができ、留学期間はそれに合わせた1ヶ月となりました。しかし困ったことに、語学学校の入校可能日に到着する航空券は予約出来ず(学生寮に入れるのはプログラム開始の前土曜日)、その前の水曜日に到着するフライトしか取れないと言う状況でした。父は「土曜日までホテルにでも泊まっておけば良いだろう」と言って、「とにかく無料航空券で行け」と言ったきり後は放置でしたし、僕も前回の留学で米国で自由に動き回るための経験は積んでいたため、ホテルはボストンに着いてから探せば良いだろうと水曜日から土曜日までの滞在先も確保せずに、僕はボストン行きのフライトに乗り込むことになります(母は「海外に行くのに泊まる場所もないなんて!」と、父に向かって若干キレていたのをかすかに覚えています笑)。

 成田空港からサンフランシスコへ飛び、空港から見る5ヶ月振りのSFの風景に懐かしさを感じながら、たまたま仕事でSF空港にいた父と軽く食事をして、僕はボストン行きの国内線フライトに乗り込みました。国内線とは言えそこは広大なアメリカ合衆国を西から東へ横断するフライト、サンフランシスコからボストンへの飛行時間は5時間を超える距離です。成田〜サンフランシスコ乗り継ぎ〜ボストンのルートはトータルで20時間くらいはかかったでしょうか、現地時間で既に日も落ちた夕刻に、僕はボストン空港に到着しました。

<ボストン空港のヒルトンホテルより>

 まだ滞在先も予約していなかったのでどうしようかと思いましたが、時間もすでに遅かったため最初の1泊はやむを得ず空港近くにあるヒルトンホテルへ行く事にして、翌日にダウンタウンにあるリーズナブルなホテルへと移ることにしました。何しろ知り合いもまだいないボストンで3泊ものヒマな時間があります(苦笑)空港から電話で最初の1泊の予約を確保してホテルのシャトルバスにてヒルトンへ向かい、ホテルで木曜日と金曜日の夜に滞在するダウンタウンのホテルを探して電話にて予約を入れました。当時はまだオンラインでの予約はまだそこまで普及しておらず、まだまだガイドブックと電話が頼りになる時代でした。最初の留学の時ですら語学学校の出迎えサービスの利用を禁じられた僕でしたので、3日も早く到着した僕を語学学校まで案内してくれるスタッフなどいるはずもなく(苦笑)それでも夏休みのボストン留学前に僕のTOEICスコアは800点に達していたため、移動や予約、ある程度の日常会話に困ることはすでにありませんでした。この事は、英語だけを勉強するなら日本国内でも十分に可能だと言う事を意味します。逆に、なんの基礎もないまま海外に1年や2年滞在、または海外の大学を卒業しても、驚くほどに英語が話せるようにならない人が沢山います。学習に大切なのは場所や環境よりむしろ、本人の意思です。

<ダウンタウンのミルナーホテル>

 空港近くで1泊した翌日、僕はバスと地下鉄を乗り継いでダウンタウンにあるリーズナブルなホテルへ移動しました。バスルームにドアもないようなホテルでしたが、大学生が1人で滞在するには贅沢なくらいだったかも知れません。しかしダウンタウンに移動してもまだ友達もおらずやる事も無かった僕は、とりあえず1人でボストン市内観光へ繰り出しました。市内一高い高層ビル、ジョン・ハンコック・タワーの展望台(当時は一般人が入れた)や落ち着いた雰囲気のショッピングスポットがあるニューベリー・ストリート(Newbury St.)、瀟洒な住宅が立ち並ぶビーコン・ヒル(Beacon Hill)や中心部の広場ボストン・コモン(Boston Common)を散策し、夕飯はホテル近くのチャイニーズのファストフードで済ませました。

<ジョン・ハンコック・タワー>

<展望台よりケンブリッジ方向を望む>

<ニューベリー・ストリート>

<アメリカではポピュラーな中華のファストフード>

 翌日は父の会社の取引先で日本人が経営する現地旅行会社へ挨拶に行きましたが、スタッフが全員日本人女性であったことが印象に残っています。海外へ出て行くのはやはり女性の方が積極的なのは、今も変わっていないのかも知れません。その会社のオフィスはHarvardを1駅越えたPorter Squareと言う場所にあったのですが、そのビルは日本人経営の旅行会社の他にも日本の食材を売るスーパーや日本食のレストランが集まっていて、本当に小さな小さな日本人コミュニティが存在していました。米国ではチャイナタウンやコリアタウンは数多くあれど、日本人が町レベルでコミュニティを形成している場所は多くはありません(LAにはリトルトーキョー、SFにはジャパンタウンがありますが、町の半分くらいがコリアタウンと化しています)。あまり大きな日本人コミュニティを作らずどちらかと言えば現地に溶け込んで生活するのが日本人移住者の特徴ですが、それでも国籍や出身国とその繋がりと言うものは完全には消えないのだと言う事を理解させる場所でもありました。

<ボストンの地下鉄・ストリートカーの愛称は”T”>

 1人で3泊を消化した土曜日、ようやく学校の学生寮に入ることができるようになった僕は地図を頼りにスーツケースを引きずりながら、T(ボストンの地下鉄・ストリートカー)にて語学学校へ向かいます。続きは次回のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Bostonその②。へ続く

Santa Barbaraその18。SBでの経験がくれたこと

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 サンタバーバラでの最後の1週間、僕らは英語の勉強よりも「カリフォルニアを最後まで満喫すること」に気持ちが傾いて行きました。良いことも悪いこともある日々でしたが、それらが全て「かけがえのない思い出であり経験」だと言うことを、共通に感じていたからだと思います。放課後はそれまであまり散策しなかったサンタバーバラのミッションや市役所、ビーチなどを毎日訪れました。今思えば、僕らは真面目過ぎる留学生だったかも知れません(笑)

<サンタバーバラの市役所は街のシンボル>

<町外れにある”Santa Barbara old mission”>

 サンタバーバラでの最後の水曜日の放課後、僕とマユミとナギサはサンタバーバラの近くにソルバングという綺麗な町がある事を聞き、翌日の午前中のクラスはサボって(笑)その町へ一泊二日の小旅行をすることに決めました。スピード違反が片付いたばかりにも関わらず懲りもせずに僕は再び国際免許証なしでレンタカーを借り、サンタバーバラから片道一時間ほどの場所にあるソルバングへと、今度は速度に気をつけながら(苦笑)向かいました。

<ソルバングは北欧を模した小さな町>

 当日の思いつきでレンタカーを借りて飛び出したためホテルも予約しませんでしたが、町外れの小さいながらも素敵なモーテルに飛び込んだところ、部屋は一泊たったの40ドルでした。夕飯を町の小洒落たレストランで取り夕飯後は部屋でお酒を飲みながら、最後の語らいの時間を楽しみ、翌朝は北欧を模して作られたソルバングの町やオールドミッションを散策して、昼頃にサンタバーバラへと帰着しました。クラスへ戻るとクラスメイトに”You skipped your class!”(あなた、クラスをサボったわね!)とからかわれましたが、このショートトリップも最後にまた一つ仲間たちと時間を過ごすことが出来た、とても大切な思い出です。

<飛び込みで宿泊した町外れの素敵なモーテル>

 そして最後のクラスの前日、僕はボルツに「最後に一緒に遊びに行こう」と誘われていたのですが、当時ボルツとアグネスが大ゲンカをしている最中で(その理由も、アグネスが僕の夕飯は作ったのにボルツの分は作らなかったと言う、何とも下らないものでしたが…苦笑)、アグネスが横から現れて「そいつと一緒に行く必要はない」とクギを刺し、間に挟まれた僕は何も言えずに”I can’t choose…”と困り果てた事を覚えています。最初から最後まで、僕はアグネスの舎弟であったのは間違いありません(笑)

<語学学校のクラスメイトたちと最後の記念撮影>

 そして語学学校での最後のクラスを終えた金曜日、クラスで記念撮影をして学校とお別れをした僕らにアンドレアを加えた仲間たちは、町のイタリアンレストランで最後のランチを一緒に食べたあと、サンタバーバラの町を散策して、バスディーポでそれぞれのバスに乗ったのが1カ月を共に過ごした仲間たちとのお別れとなりました。それぞれが日本の各地に散っていたためその後当時の仲間との再会は叶っていませんが、第2の故郷で思い出を共有した仲間たちの名前や顔はもちろん、その声まで20年経った今でも、ハッキリと思い出すことができます。

<最後の授業後にアンドレアと>

<サンタバーバラのバスディーポが最後の別れの場>

 そして1か月滞在したステイ先を離れサンフランシスコへ向かう際に、腰の手術をしたためベッドから動けなかったカレンは最後に僕を呼んで、「あなたのお別れパーティーを開けなくてごめんなさい。あなたは本当に素晴らしい青年だったわ。次に来る時にはこの家にいつでも泊まってね、お金はいらないわよ」と言ってくれました。もう少し英語が話せたらちゃんとしたお礼が言えたはずでしたが、僕は”Thank you, I enjoyed.”と言うのが精一杯でした。この時も懐の深いホストマザーとアメリカ合衆国と言うオープンな国に対する感動を覚えたと同時に、英語が話せない自分の情けなさを再認識した事を深く覚えています。カレンの母親がボルツと共に(笑)サンタバーバラの空港まで送ってくれましたが、ボルツが最後に”Next year!”(また来年!)と言った事も、最後まで彼らしいなと笑った良き思い出です。

<小さな空港でタクシーに乗る事から始まった留学生活>

<サンフランシスコを1人で巡りながら色々な事を考えた>

 その後2日間サンフランシスコで思い出の場所を1人で巡る間、そして帰りの飛行機の中で僕が考えた事はと言うと、

「このまま終わる訳にはいかない。英語を話せるようにならなければいけない。世界で通用する人間になりたい」

と言う悔しさと、新しい人生の目標でした。帰国した僕は次の夏休みでのリベンジに向けて、英語学校に通いながら狂ったように英語力の向上に取り組んで行くことになります。それはまさに日本にいながら英語漬けの日々を送る毎日で、週3回の英語クラスの出席に加えて通学の電車内では単語の暗記とリスニング、毎日カフェでTOEICテキストに取り組み、大学の講義中も英語のテキストを開き(笑)、娯楽も海外ドラマのDVDを英語字幕で見ると言う徹底振りでした。サンタバーバラからの帰国直後に英語学校で受けた診断テストでのレベルはTOEIC560程度でしたが、二か月後に初めて受けた本試験では650、その翌月のテストではスコア800に達することが出来たのは、サンタバーバラでの悔しさがあったからこそです。1か月と言う短い期間でしたが、そこでの経験はその後の人生を完全に変えるほどにショックでありながらも刺激的なものであり、それまでは理由もなく義務としてしの勉強しかしたことが無かった僕に、人生の目標前向きな姿勢を生まれて初めて与えてくれたものです。今でも僕は、サンタバーバラは自分が生まれ変わることが出来た第2の故郷であると思っています。

 よく「英語力の向上に最も効果が薄いのが短期留学だ」と単純に主張する人がいます。「その期間の英語力の向上」だけ見れば、それは嘘ではないかも知れません。たかだか1〜2か月の短期留学で英語力が劇的に向上することはあり得ないでしょう。ですが、その短期留学を無駄と思うのか、その後の糧とするのかはその留学した本人次第であり、2年留学しても海外の大学を卒業しても、驚くほどに英語が話せない人も沢山います。大切なことは海外に滞在した期間の長さではなく、その経験を生かしてどれだけ自分で頑張れるか、すべてその後の本人次第です。そして海外へ出ると言う機会がない限り、英語力の必要性を実感する機会はなかなか得るのが難しいものです。その意味でも僕は、例え短期であっても海外で生活をして、異文化の違いと英語の必要性を実感すると言う経験は必要不可欠なものだと思います。僕が米国に滞在した期間はトータルでも4か月にも満たないものですが、それでもその経験をきっかけとして、今ではネイティブスピーカーと英語で議論したり海外で英語でケンカをすることも出来るようになりました。「短期留学は無駄である」と言う主張は本質的なポイントが抜け落ちている、余りに単純な間違いであることを僕は指摘しておきたいと思います。経験に「無駄なこと」など一つもありません。初めから「無駄だ」と思ってしまえば、その時点で成長はゼロです。何事も「実際にやってみる」ことで初めて、そこに何らかのきっかけや価値が生まれます。

 サンタバーバラから帰国して4か月の間に僕のTOEICスコアは200点以上向上し、日常会話はある程度こなせるようになった大学3年の夏、僕はボストンにて再び海外での生活にリベンジしました。それはサンタバーバラでの悔しさに対するリベンジであり、英語を少しは身につけた僕の最初の挑戦でもありました。サンタバーバラでの経験が人生の転機とすれば、ボストンでの経験は僕にとって飛躍をもたらすものとなります。今でも関係の続く貴重な出会いとその財産については、次回より「留学時代の体験:Boston編」にてご紹介したいと思います。

To be continued.

Bostonその1。に続く

Santa Barbaraその17。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 ロサンゼルスからサンタバーバラへの帰り道で国際免許証不所持のままパトカーにスピード違反で捕まった僕は、気力を振り絞ってやっとの思いでサンタバーバラへと帰着しました。(追記:カリフォルニア州でも州法上、日本人は日本の免許証だけで運転することが許可されているようですが、このような事態に備えて、あるいは州をまたいで運転することに備えてやはり翻訳文の所持は推奨されます)

 雨が降りしきるなかメンバー全員をそれぞれのステイ先に送り届けたものの、「もう声も出ない」という気分でした。今なら全く気にならないと思いますが、当時はまだ英会話もロクにままならない青二才で、どうやってベンチュラの裁判所に出頭して、何をすれば良いのか…。頭には不安しかありませんでしたが、何しろ疲れ切っていたので、眠れなかったという記憶はありません(苦笑)

<スピード違反で捕まったスポーツタイプの車>

 翌朝はレンタカーを返却しなければならなかったため車で登校しましたが、毎朝アグネスと登校することが日課になっていたため、2人でその車にて学校へ向かいました。アグネスに「昨日パトカーに捕まってさ…」などと話した記憶はあるのですが、今思えばスピード狂だったアグネスが捕まったと言う話は聞かなかったので、僕はよほど運が悪かったのでしょう(笑)

 確かにアメリカでは、日本のように早く走っている車が捕まるのではなく、パトカーがフリーウェイに入って、前にいる車が例え5マイルでも制限速度を超えていれば、その車が捕まります。地下鉄の無賃乗車もそうですが(例えばロサンゼルスの地下鉄は改札がない「信用乗車方式」ですが、出口に警官がいることがあり切符を持っていないと高額な罰金となります)、取り締まりに高額の罰金と見せしめ的な心理を利用するあたりは、欧米のやり方は全てをキッチリやろうとする日本とは考え方が異なるかも知れません。こうした社会システムの違いを知ることも、海外における貴重な経験となるものです。

 アグネスと学校にたどり着いた僕は、学校の受付スタッフに泣き付きました。”Can you help me?” “I was caught by a patrol car yesterday…”などと英語で説明する必要があったのはある意味で良い勉強であったのかも知れませんが、スピード違反のチケットをスタッフに見せると、”Oh, you were driving too fast.”と笑われたことを覚えています。

 わずか1か月の滞在でこれだけコミュニケーションが取れるようになったのはある意味では留学が大成功だったと言えるのかも知れませんが、その時はそんな事を思う余裕はなく、ただ必死でした(泣)「ベンチュラの裁判所に来いって言われたんだけど、今週末には日本に帰国しないといけない」と相談したところ、”Meet principal.”(校長に相談して)と言われたので、僕は以前に噛み付いた校長に対して、今度は泣き付く事となり…(笑)

<スピード違反の舞台となったVenturaの位置>

 校長室を訪れ事情を説明すると、校長はベンチュラの裁判所へ電話で確認したあと、「裁判所に行かずにチケットを処理する方法は2つ、check(小切手)を郵送するか、クレジットカードで支払うかね、ただしカードで払う場合は値段が上がるわね」と僕に伝えました。「チェック…トラベラーズチェックで払えるの?」と聞くと、「違うわよ、銀行のチェックよ」と言われてしまい…(当たり前ですが。笑)「どちらで払うか、明日教えてね」と言われてその日は保留となりましたが、何しろ早く安全にこの問題を処理したい僕の選択はクレジットカード一択でした。2001年当時でもアメリカでは既にスピード違反の罰金までカードで払う事が出来る社会でしたので、旧態依然とトラベラーズチェックを持ち歩いていた当時の日本と比べると、少なくとも15年は進んでいたと言えるでしょう。兎にも角にも翌日に校長室を訪れた僕は校長にカード番号を託して、何とか裁判所への出頭を逃れることができたのです。

<良いことも悪いこともてんこ盛りであったEF Santa Barbara>

 駐車違反スピード違反、しかも国際免許証不携帯と、初めての、しかもわずか1か月の短期留学でこれだけやらかす留学生も珍しいかとは思いますが、良い思い出も悪い経験も含めて、今の成長した自分があります。その意味ではかなり無鉄砲ではありましたが、1ヶ月間のサバイバルは日本では体験することが難しい良き修行であり、その後の更なる挑戦を可能にしてくれたかけがえのない日々であったと思います。今後の日本と世界を担う若者にはぜひ学生のうちに海外へ飛び出して、幅広い見識と逞しさを身につけて欲しい、そして日本という私たちの母国を深く理解し考える機会を持って欲しいと願うばかりです。短期であれ長期であれ、そうした日常では経験出来ない特別な機会を与えてくれるのが留学なのだと、みなさまにお伝え出来れば幸いです。

 永らく書き連ねて来たサンタバーバラでの経験も、間もなく最終章を迎えます。結びは次回のブログにて書いて行きたいと思います。

To be continued.

Santa Barbaraその18。へ続く

Santa Barbaraその16。

 ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 前日にコリアタウンで夕食を楽しみ、2つのベッドルームを持つゴージャスな部屋を満喫した僕らは、翌朝にナギサとホテルのロビーで待ち合わせをしました。(2ベッドルームと聞くともの凄く豪華に聞こえますが、4人でシェアしたので1人当たりはそこまで目が飛び出るほどではありません。海外のホテルは「一部屋一泊」あたりのレートなので、人数が多いと割安に泊まれます)。メインのロビーで待っていたのですが約束の時間になっても現れず、当時は海外対応の携帯も持っていなかったためどうしたものかと思い始めた際にハタと気がつきました。「これだけのホテルだと、もしかして他にもロビーがあるんじゃないか」と。案の定、ホテルの別のサイドに行ってみるとやはり別のロビーらしき空間があり、そこでナギサを見つけることが出来ました。

<ハリウッドにて。>

 その日はちょうどミチコの誕生日だったため、ナギサはホールのケーキを買って来てくれました。どこで食べようかと思ったら当然、「ロサンゼルスなんだから、ビバリーヒルズのど真ん中の公園で食べよう!」と言う、これまたセレブのモノマネみたいなことを思いつきました(もっとも、本物のセレブは公園でケーキなど食べないでしょうけど…苦笑)。ビバリーヒルズの公園でミチコの誕生日を祝い、ロサンゼルスのシンボルであるハリウッドのチャイニーズ・シアターを訪れ、ハリウッドサインを遠くから記念に写真に収めた僕らは、ロサンゼルスの最終目的地であるサンタ・モニカへと向かいました。

<ビバリーヒルズの公園にて誕生日を祝う>

 ロサンゼルスと言えばビバリーヒルズサンタ・モニカのイメージが強いですが、実はこの3つはそれぞれに独立した市であり、行政区分上は別の都市です。もっともそれもまとめて「ロサンゼルス」を形成しているのは間違いないことでもありますが(ディズニーランドや成田空港が千葉県にあるのと同じようなものでしょう)。陽光きらめき人々が日光浴やローラースケートを楽しむはずのサンタ・モニカに到着した時にはあいにくの雨…でしたが、サンタ・モニカにはロデオドライブとは異なり、庶民でも手の届くアメリカのブランドショップやモールが集まっていたため、ようやくショッピングを楽しむことが出来ました(笑)その後レストランで夕食を食べた僕らは、日が落ちたハイウェイをサンタ・バーバラへ戻って行ったのですが…

<雨のサンタ・モニカ。この雨が更なる悲劇を誘発する>

 雨は強くなり、あまり周囲の見通しが良くない中で僕は一番左側の追越し車線を(アメリカは右側通行のため、1番流れの早いのは左側の車線)周りのスピードに合わせて制限速度を超えた速度で走っていた時です。バックミラーに、急に赤と青の光が写りました。そう、パトカーに後ろにつかれてしまっていたのに気づかなかったのです(汗)「やばい!」と思って速度を落として右側の車線に移りましたが、もちろん手遅れです。しばらくソロソロと走っていましたがとうとうサイレンを鳴らされてしまった僕は、車を路側帯へと止めざるを得ませんでした。

 さて、ここで1つ、普通に捕まるよりもさらにヤバい状況があったのです。スピード違反で捕まったのはしょうがないとしても、それよりも焦ったのは「国際免許証を持っていない」という絶望的な事実でした…。止めた車に警官が近づいて来たとき、メンバーの全員はもう言葉すら発する事が出来ませんでした。運転が出来るのは僕1人だけ、その人間が免許を持っていなければどうなるのか…。まさに「血の気が引いた」「顔面蒼白」という表現がピッタリの、絶望的な気分と絶体絶命の状況です…

 警官がやって来て、当然ですが免許を見せるように言われましたが、ある訳がありません。追い詰められた僕はとりあえず、トランクから日本の免許証を取り出し、破れかぶれでそれを見せてみたのですが…

当然ながら警官は読めるはずもなく、

Officer : What’s this?(何だこれは?)

Me : Japanese driving license(日本の免許です)

Officer : Don’t you have a California license?(カリフォルニアのライセンスは?)

Me : I don’t have it…(持っていません…)

となり、警官は僕にパトカーへ来いと促しました…

 「終わった…このままジェイル(拘置所)に連れて行かれるだろう…」と覚悟を決めましたが、残されたメンバーと車はどうなるんだろう…と言う心配もあり、自分にはどんな処分が下るのか、と言う恐怖もあり…

 警官は僕をパトカーへ入れると、隣に座り僕の情報を記録し始めました。「身長は?」「体重は?」「目の色は?」「国籍は?」「滞在先は?」などと聞かれ、日本の単位で回答したので少しやり取りが混乱した部分もありましたが(アメリカは長さや重さの単位がインチやフィートなど特殊。ただ、身長をセンチメートルで答えたあとに、”Do you know how tall it is?”などと聞き返したのを覚えていて、おそらくマズいを越えてしまって観念していたのか、意外な冷静さはあったのかも知れません苦笑)、免許証番号の欄には”NONE”(なし)と記入されたことを今でも覚えています。ひと通り記入すると、スピード違反の切符を渡されて「Courthouse(裁判所)に出頭しろ」と言われました。

 「やっぱり大変なことになった」と勝手に決めつけながら恐る恐る「サンタ・バーバラの裁判所ですか?」と尋ねると、「違う、Ventura(ベンチュラ)の裁判所だ」と言われます…(捕まった地点がベンチュラと言う場所だったので、当然そこへ出頭となるのですが、色々と聞き返すだけの気の強さがあったのは今思うと不思議です。そして、Venturaという地名がもう忘れられません笑)。

 「このまま裁判所へ連れて行かれるんだな」と覚悟をした瞬間に、意外なことが起きました。警官が、「今日は雨で視界が悪く危ないから、安全に運転して帰るように」と言うのです。

 「え!?運転して帰っていいの??(免許無いんだけど)」と尋ねると、「もう行っていい、気を付けろよ!」と言うのです。「何が何だか分からないけど、今日のところは解放されるのだ」ということを理解し、今度は安堵でまた血の気が下がるのを感じました。

 実はかなり後になって知ったのですが、国際免許証と言うものはあくまで日本の免許証原本のただの翻訳文であり、法的に有効であるのはあくまで「日本の免許証」なのです。ですのでハワイ州やグアムでは日本の免許証だけで運転することが許可されていますし、サンタバーバラのレンタカー会社も車を貸してくれたと言うことです。逆に言えば、国際免許証だけで車を貸してくれるレンタカー会社は世界のどこにもありませんし、国際免許証のみを所持して運転することは違法になります。知らずにやっていながら運が良かったと言えますが、ギリギリ「違法」ではなかったと言うことなのでしょう。ただそうは言っても現地の警察官が原本を読めなければ、もちろん警察署へ連れて行かれる可能性はあります。法的義務がないにも関わらずハワイ州やグアムでも国際免許証の所持が「推奨」されているのはそのためです。みなさまは「絶対に」真似をしないでください(苦笑)特に、英語でのコミュニケーションがままならないと、連行される可能性は倍増します。

<免許センターに申請すればすぐに発行される国際免許証はあくまで免許証の「翻訳証」>

 このようにして、初めての留学の最後の週末に、最大のトラブルかつ最大のピンチが待ち受けていました。今思えばこれも、とても良い経験であり様々な教訓と知識となったものだと思えるのですが、「コートハウス(裁判所)へ来い」と言われていたので、この問題を処理し終えるまでは生きた心地がしませんでした(苦笑)「裁判所」と聞くと日本では相当に深刻なイメージになりますが、アメリカでは裁判所は意外にも身近な存在であり、スピード違反の罰金なども裁判所で支払います。こうしたアメリカにおける裁判所の位置付けを知ることが出来たことだけでも、この経験は決してマイナスばかりではなかったと「今では」(笑)思います。

 その後のスピード違反の処理とサンタバーバラで過ごした最後の日々につきましては、また次回のブログにてご紹介したいと思います。

 みなさまも、ぜひ世界に飛び出して様々な経験を実際にされてみて下さい。良いことも悪いことも、その全てが自らの世界を必ず広げてくれます。

To be continued.

Santa Barbaraその17。に続く

Santa Barbaraその15。

 ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 ユンが僕らのステイ先から韓国へ帰国したその週末、僕は近しい仲間たちとロサンゼルスで最後の週末を過ごす予定になっていました。1番近いロサンゼルスがなぜ最後の週末まで持ち越されたかと言うと、近しいメンバーの1人だったナギサがこの週末にロサンゼルスで友人と会う約束をしていたため、他の目的地(サンフランシスコ・サンディエゴ)を先に回したためです。ナギサとは2泊目のホテルで合流し、帰りは一緒にサンタバーバラへ戻る約束をして、旅の当初のメンバーは僕とナツコ、マユミ、ミチコの4人となりました。いま思えば、同一行動するならこのくらいの人数が最適なのかも知れませんが、留学中は何かと色々な人間が集まってしまうものなのかも知れません(苦笑)

 金曜日の最後のクラスを終え、クラスメイトでもあったユンとは最後に記念撮影をしてお別れとなりました。もう少し僕が英語が話せたら、連絡先を聞いたりその後もやり取りを出来たと思うのですが、残念ながらその時はまだそこまで出来るようにはなっていませんでした。ですがこの時のサンタバーバラでの悔しさ・情けなさが、その後の僕が頑張れるようになった原動力であり今の全ての原点であるのは間違いありません。英語は上手くは話せませんでしたが、短くとも人生の転機だったと言える貴重な日々であったのだと思います。

<ユンと最後に撮影した写真。英語力の低さを痛感したことは大切な経験だった>

 3度目の週末ともなれば小旅行の手配も慣れたもので、レンタカーはスクールから予約を入れてもらい、ホテルは自分で電話をかけて予約をしました。(←語学学校のコーディネーターは頼りにならないことはサンディエゴで学んだので…)1泊目はユニバーサルスタジオ・ハリウッドに近いモーテル、2泊目は最後の週末の記念に、歴代のアメリカ大統領も宿泊したと言う “Biltmore Los Angeles” に宿泊することにしました。日本の免許証を見せればサンタバーバラではレンタカーを借りられると言う悪知恵もしっかり付いていて(苦笑)、5人乗りのスポーツタイプのセダンをレンタカーし、ロサンゼルスへと向かいました。この悪知恵が後に自分を窮地に追い込むことになります。(お読みの皆さまは「くれぐれも」真似をしないでください。汗)

<スポーツタイプのセダンは目線が低く運転し辛かった>

<1泊目はユニバーサルスタジオに近いモーテル>

 金曜日の午前中のクラスを終えた僕ら4人は、まずモーテルにチェックインをしたあとにハリウッドの「ロデオ・ドライブ」へとショッピングへと向かいました。いま思えばハリウッドのセレブがスーパーカーで乗り付けて買い物をするロデオ・ドライブで、モーテルに宿泊するような一般庶民の留学生が買えるようなものはほとんどないのですが、観光的なノリも半分くらいでバックパックを背負ったようなカジュアルな格好で出かけてしまいました。本当にお上りさん丸出しだったかと、今は恥ずかしくもあります(苦笑)ミチコは記念にとカバンを一つ購入していましたが他のメンバーは結局何も買うこともなく、映画「プリティ・ウーマン」の舞台となった “Beverly Wilshire Hotel – Beverly Hills” を外から見学し、ビバリーヒルズの超高級住宅街の中をブラブラとドライブしたあと、ロデオ・ドライブ近くのイタリアンレストラン「プレゴ」にてディナーを取りました。本当に、知らないと言うのは恐ろしいことで…「プレゴ」の2階では何やら貸切りでのセレブなパーティーが開かれていましたが、そんなレストランにカジュアルな服装で入った挙句にメインディシュのみを頼んでシェアをすると言う、全く持って若気の至り的な、知らないから出来たような身分不相応な半日を過ごして、その日はモーテルへと帰ることになります。

<ロデオ・ドライブにて。>

 翌日はユニバーサルスタジオ・ハリウッドを夕方まで満喫しました。ロサンゼルスと言えばディズニーランドも有名ですが、当時はまだ日本にはUSJも存在しなかった時代、ディズニーランドは東京とあまり変わらないと言うウワサも手伝って僕らの選択はユニバーサルスタジオ一択となりました。ウォーターワールドとジュラシックパーク・ライドでずぶ濡れになりつつも、カリフォルニアの乾いた空気と暖かな日差しの下でユニバーサルスタジオを満喫した僕らは、ロサンゼルスでも名門ホテルである “Biltmore Los Angeles” へと向かったのですが…

<ユニバーサルスタジオは当時はまだ日本には無かった>

 ここでメンバーの誰も経験したことのない壁が待ち受けていました、”Valet Parking” です。「バレー・パーキング」とは、ホテルの車寄せに自家用車で乗り付けると、係員がカギを預かって駐車場へと持って行ってくれるサービスのことです。映画のワンシーンでセレブがよくやっている、スマートにカギだけ渡してホテルへと入って行くこのサービスを、免許を取ってまだ数年の日本の大学生が経験したことなどあるはずもなく…(汗) あたふたと荷台から荷物を出し、何も分からないままカギを渡すと車を出す時の連絡の仕方を説明されたのですが、完全に舞い上がっていた僕らはチップすら渡すことが出来ませんでした。カジュアルな服装の子供みたいなアジア人がビニールバッグを背負ってロサンゼルスの名門ホテルのバレーパーキングへやって来た姿は、恐らく大層滑稽な光景だったことでしょう(苦笑)僕らにとっては良い勉強だったかも知れませんが、身の程知らずとはまさにこのことだったかと思います。

<Valet Parkingは日本人にはハードルの高いサービス(写真はフロリダにて)>

<ビルトモア・ホテルにて富裕層の“フリ”(笑)>

 その後ゴージャスな部屋に大層はしゃいだ僕らは夕飯はどうしようかと言う話になったのですが、ガイドブックでコリアタウンがある事を知った僕は「夕飯はコリアンBBQ(焼肉)にしよう!」と安易に思いつきました。いま思えば、アメリカのチャイナタウンやコリアタウンがどんな場所かも知らなかった僕らは、何とかバレーパーキングから車を取り出し(チップはまた渡し忘れた記憶が…)、車でコリアタウンのある住宅街へと向かいました。コリアタウンに差し掛かるとハングル表記の看板が現れ始め、「もうすぐだー」とはしゃいだのは一瞬で…。中心部付近に着いているはずにも関わらず、まばらに商店があるだけで薄暗い町を目の当たりにした僕らは(既に陽は落ちていた)、車から降りて歩き回ることは非常に危険だと言うことを明らかにみな察した空気になっていました(汗)「歩き回るのは危ないから、駐車場のある店に入るしかない」と考えた僕らは焼肉へのこだわりを捨て、駐車場が目の前にあるレストランへと車を止め、そそくさと店内へと駆け込みました。

<コリアタウンは住宅街なので基本的に暗い>

 思えばまだ日本人は韓国のことをほとんど知らなかった当時、「韓国料理」というものを食べるのは初めての経験でした。幸いなことにレストランには料理の写真が大きく貼り出されていたので、カルビ(と思われるもの)、トッポギなどいくつかの料理を頼んでシェアしたのですが、まだ辛い食べ物に慣れていなかった僕らはその辛さに驚きました。唇が痛くなるのを感じつつも初めての韓国料理を美味しく楽しんだ僕らが、ロサンゼルスに息づくコリアタウンの文化と状況も知ることができたのは、今思えば良い経験だったのだと思います。

 レストランで食事を終えたあと外に出ると、メンバーの一人が道路の反対側に小さな商店があるのを見つけ、飲み物などを買いたいと言い出しました。僕は正直、「信号を越えるだけでも歩くのは危ないんじゃないか」とは思ったのですが、素早く動けば大丈夫だろうと思い小さなリスクを伴うわずかなアドベンチャーに挑戦しました。(道の反対側へ渡っただけです。笑)幸いなことに暴漢に襲われることもなく車に無事に帰り着いた僕らは車で夜のハリウッドの方向へ向かったのですが、とある繁華街を通過した時に、ロサンゼルスで夜に出歩くのは危険だと言う雰囲気を感じ取り、車から降りることなくホテルへと帰ることにしました。

 アメリカはどこの街も同じですが、夜に徒歩で歩き回るのは非常に危険です。特に人気のないダウンタウンや住宅街を、夜に一人で歩くのは自殺行為とも言える行動です。幸いなことに車で移動していた僕らは、コリアタウンや繁華街を車で通過することでそう言った雰囲気を肌で感じることも出来ました。アメリカはやはり車社会、車で移動できると言うことにはアメリカでは様々なメリットがありますが、翌日の夜にサンタバーバラへ帰る途中に無免許運転の代償(正確には無免許ではなく国際免許証不所持)も味わう事になります。続きは次回のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその16。へ続く

Santa Barbaraその14。

 ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 サンタ・バーバラでの留学生活も半分が過ぎ、週末に各地へ旅行を楽しむ(様々なトラブルも経験しつつ…)など、英語力の低さから来る不自由さもありつつも、少しずつアメリカでの生活や習慣にも慣れて、自立した充実した日々を送ることができるようになって来ていました。

 アメリカに滞在して3週目のある日、僕は21歳の誕生日を迎えました。日本でももちろん誕生日は家族に祝ってもらっていましたが、その年はサンタ・バーバラに滞在中であったため、なんとな〜く誕生日を迎えるだけだろうと思っていたのですが…

 誕生日を迎えたその当日、夕飯を食べて部屋に戻った僕をホストマザーのカレンが呼びに来たので、「何だろう?」と思いながらダイニングルームへ行くとそこにはホストファミリーとハウスメイトが集まっていて、”Happy Birthday!”とサプライズで全員でお祝いをしてくれたのです。ケーキにはキャンドルが添えられており、みんなでバースデーソングを歌ってくれました。それまで僕はこのように誕生日をサプライズで祝ってもらった事が無かったので、感動の余り少しウルッとしてしまったのですが、アグネスにはなぜか”He misses his family.”(彼は日本の家族が恋しいんだよ)と勘違いされてしまい、それを聞いたカレンは「あなたがこの家にいる間は、私があなたの母親よ」と言ってくれました。ケーキを食べたメンバーたちは各々それぞれの部屋に戻って行きましたが、僕はこの時「アメリカではそれぞれが自立した生活をしていて家族の結びつきが強くないように見えるが、実はそれが全てではなく、家族の記念日を祝うことなどを大切にしているのだ」と言うことを初めて知りました。日本人から見たら家族の関係が薄いように見えるアメリカですが、それは決して家族を大切に考えていないと言うことではなく、単純に習慣ややり方が異なるだけで、家族を大切に思う気持ちは変わらないのだと知ることが出来たのは、アメリカを正しく理解することが出来たと言う意味で、とても貴重な経験となりました。

 普段、夕飯のあと他のハウスメイトたちは食べ終わったあとのお皿を洗わずにシンクに放置していたので、僕は見かねてたまにそれを洗ったりしていたのですが、ある日たまたまそれを見たカレンが、” Oh, Shintaro! You shouldn’t have!” 直訳:そんなことしなくても良かったのに!=意味:本当にありがとう!)と言った事を僕は覚えています。国や習慣が異なったとしても他人を思いやったり協力する気持ちは共通に通じ合うものであり、カレンは僕が日本に帰国する際に「あなたは本当に素晴らしい青年だった。またいつでも遠慮なく泊まりに来てね!お金はいらないわよ!」と言ってくれました。僕はアメリカに到着した際は「とんでもない家に来てしまった」と勘違いをしましたが、それが真実ではなく「アメリカにはアメリカのやり方と習慣があり、家族や他人を思いやる気持ちは日本と変わらずちゃんとあるのだ」と言うことを正しく知ることが出来たので、ただ何でも世話をしてもらうよりも価値のあった、本当に最高のホームステイだったと今では思っています。

<カレンは当時はまだ30代だったと思います>

 その週の週末は、ハウスメイトのユンが留学期間を終え韓国へ帰国する事になっていました。そのためカレンは、ユンの送別ホームパーティーをするから、僕に対して”You can invite a couple of your friends.”と言ったのですが、僕は”a couple of”(2~3人)と言うニュアンスがピンと来なかったため、”How many people can I invite?”と聞き返したところ、カレンは再び”A couple of.”と、ハッキリ何人とは言いませんでした。僕は困ってユンに「ユンは何人の友達を連れて来るの?」と聞いたところ、ユンは「私は友達を選ぶことは出来ないから、全員の友達を招待するわよ!」と言ったため、僕はますます困り果ててしまいました…

 「いったい何人まで連れて来て良いんだ?」と思ったのですが、ユンは「全員連れて来る」と言ったので、そこまで友達が多くもなかった僕もとりあえず全員に声を掛けてみたところ、日本人4人が参加したいと言ったので、4人を連れて行ったのですが…

<ホームパーティーにて撮影した”Big Family”(笑)>

 送別ホームパーティーの当日、僕が4名の日本人を連れて帰宅すると、家の中には、人…人…人…(汗)どうやらユンは10人程度の韓国人を連れて来たようで(このあたりが、理性よりも情が優先である韓国人らしいなと思います笑)、アグネスも5~6人のブラジル人を連れて来ており、”a couple of”と全員に言ったであろうカレンが想定していたホームパーティーの規模を、どう考えても越えていました…(汗)カレンとボーイフレンドのスティーブ、息子とその従兄弟、娘のミシェル、ミシェルの本当の父親(元の旦那と現在のボーイフレンドが一同に集まるのも凄まじいな…と思いましたが…)、日本人5人、韓国人約10人、ブラジル人約7人、そこにハウスメイトのクリストフと居候のボルツを加えた約30名が平屋建ての家に集結し、家の中はもはやカオスを極めましたが、カレンとスティーブは特に気にする様子もなくバーベキューで様々な料理をどんどん出してくれました。家に入りきれなかったのか、韓国人たちの一部は家の前の道路で話し込んでいましたが、家の中でも音楽に合わせて踊ったり、初対面の留学生同士が会話を楽しむなど、華やかなパーティーとなりました。僕が滞在した家はおそらくアメリカの中でも相当にオープンな家庭だったのかと思いますが、日本ではあり得ないようなカオスなパーティーを喜んで開催してくれたカレンを見て、自分が非常に良い経験をしていること、アメリカ人は個人主義であるだけではなく懐がとても深く寛大であることを知り、様々な「異なるもの」を許容できるアメリカと言う国に留学したことは僕にとっては本当に貴重な経験で、人生の宝物となった思い出です。

<韓国人は多すぎて家の前の道路で話し込んでいた>

 パーティーは深夜11時過ぎまで続き、各々が帰宅する頃には交通手段もすでに無くなっていたため、僕は友人の帰宅手段の確保に追われました(苦笑)マユミはたまたま同じ家に滞在していた韓国人が車で来ていたので乗せてもらえたのですが、あと3人…。ここでミシェルの父親がタクシーの運転手であることに気付き、ナツコの送迎を彼に頼んでみたところ、送ってもらえる事になりました。(なぜ初対面だったその日に、彼の仕事が運転手と知っていたのだろうと今考えると不思議に思うのですが、初めて会話した時の”I’m Michelle’s father.”と、タクシーを出してもらえるか聞いた時の”Yeah, I’m ready.”というやり取りは覚えていますので、きっと仕事の話も自己紹介の流れで聞いていたのでしょう。簡単な英語とは言え、逆境に鍛えられて(笑)少しは話せるようになっていたのかも知れません。)

 まだあと2人分必要…と思っていたら、どこからか突然カレンの母親と名乗る人物が現れ(どうやら近くに住んでいたようです)、「私が車で送って行くわよ」と言ってくれました。ですが2人とも帰り道が分からなかったので僕も同乗し(なぜかボルツもついて来ました…笑)、2人の家まで(しかもボルツが助手席に座ったので後部座席から)道案内をして送り届け、事なきを得ました。余談ですが、僕はこのときすでにサンタ・バーバラでタクシー運転手ができるんじゃないかと思うくらいに、土地勘が(必要に迫られて)鍛えられていました(笑)

 この留学で僕は上手く英語を話すことは出来ませんでしたが、様々な貴重な出会いがあり、様々な経験を重ね、個人主義だと思っていたアメリカ人の優しさや親切にも触れ、アメリカの習慣や生活スタイルから考え方に至るまで正しく知る事もでき、「英語を勉強しなければいけない。英語をちゃんと話せるようになりたい。」と言うその後の目標を持つことも出来ました。ありとあらゆる事が僕にとっては最高の経験であり、最高の思い出です。

 その週末のロサンゼルスへの旅行の帰り道にこの留学での最大のピンチが訪れることになりますが、それもその時に経験出来て良かったのだと、今では思います。みなさまもぜひ日本を飛び出して、読んだり聞いたりでは分からない他国の「本当の姿」に触れていただければと思いますし、僕はこの仕事を通じてそのお手伝いが出来れば本当に幸いです。また、他の国の姿を知ることで、これまで見えなかった「日本の本当の姿」も、初めて知ることが出来るものだと思います。

 初めての留学だったサンタ・バーバラでの体験も終盤へと入って行きます。続きはまた次のブログにてご紹介出来ればと思います。

To be continued!

Santa Barbaraその15。に続く

Santa Barbaraその13。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

前日にメキシコのTijuana(ティファナ)からSan Diegoへと戻った僕らは夕飯にアメリカンなBBQを楽しみ、夜の遊園地やショッピングを楽しんでホテルに戻ると、ホテルの駐車場が満車になっていました。フロントのスタッフに「どこに車を駐車したら良いか」と尋ねると、「朝まではホテル前の路上に駐めておいても大丈夫だ」と言ったのでそうしたのですが…。朝6時頃、早めに起きて車の様子を見に行くと、周りにたくさん駐まっていた車が一台もいなくなっていました。「あれ、やっぱりマズかったかな」と思いましたが、特に駐車違反の切符や貼り紙などもなかったため、空いていたホテルの駐車場に車を移し、一安心したのですが…

<アメリカの駐車ルールの標識。厳守しないと必ず違反を取られる>

(この標識は「水曜日の正午12時から午後2時は駐車禁止(道路清掃のため)」との意味。逆に言えばそれ以外の時間は駐車可能。アメリカでは警察が非常に頻繁に駐車状況をチェックしている。)

日本に帰国してからの話ですが、サンタ・バーバラから3月に帰国した僕のクレジットカードに、レンタカー会社から6月の日付で謎の請求が来たのです。「6月なんてアメリカにいるはずがないのに、いったい何の請求なのか、間違いではないのか?」とクレジットカード会社に調べてもらったところ、クレジットカード会社から、「レンタカーを借りていた間に駐車違反をしていたようで、その請求がレンタカー会社を経由して来たようです」との回答が…(汗)その添付資料にはしっかりと”Parking-Violation”(駐車違反)と書かれていました…。アメリカで長時間、路上に車を駐めたのはこのサン・ディエゴの1回だけでしたので、この際に駐車違反を取られたのはほぼ間違いないでしょう(泣)もちろん自分でしっかり確認しなかったのが悪いのですが、「くそー、ホテルのスタッフにダマされた!」と、泣く泣く罰金を払うことになりました。まあ、そのおかげで、駐車違反は英語では”Parking-Violation”と言うのだと学びましたが…。2度と忘れることのない英語表現の1つで、その時のクレジットカード明細は今でも記念にとってあります(苦笑)アメリカは駐車違反はもの凄く厳しくチェックしていますので、皆さんも路上駐車には気をつけてください。必ずその道ごとに駐めて良い時間や規則が書いてあります。

何しろその時は駐車違反をしたことに気づかなかったため、朝にホテルを出発した僕らはサン・ディエゴのSea Worldやオールドタウンを観光し、その夜にサンタ・バーバラへと帰着しました。

<朝食はカフェにて大きなホットドッグ。まだトラブルに気づいていない>

<サン・ディエゴのSea Worldはあいにくの雨天で寒かった>

「やれやれ、今回は先週と違ってトラブルの少ない平和な旅だった」と思ったのですが、翌日に語学学校に行った際にまたまた事件が発覚します。マユミが、同じ家に滞在していて同じ週末にサン・ディエゴとティファナを訪れたハウスメイトから「病院に一緒に来てくれ」と言われているが、理由が分からないと言うので彼と話してみたところ、彼も英語が堪能ではなかったのですが、何やらお腹をさすりながら、”liver, liver…”と言っているのです。「リバー…何か、肝臓がどうとか言ってるよ」、とマユミに伝えたところ、「ええっ!?」と驚きつつ、何がなんだか分からないまま、彼に病院へと連れて行かれたのです…。

そう、彼はティファナで非衛生なものを食べて、あろうことか肝炎(A型かB型か詳細は不明)に感染してしまい、「同じくティファナで食事をしたマユミも検査を受けた方が良い」と言いたかったのです(汗)幸いなことにマユミは肝炎には感染していませんでしたが、病院で注射などを受け、その夜は「自分もメキシコで物を食べてしまった」という不安と恐怖でずっと泣いていたそうです…。肝炎に感染したハウスメイトも彼女の部屋に謝りに来たそうですが、彼は肝炎に感染してしまった訳で、「もしティファナでしっかり食事をしていたらもしかしたら自分たちも…」と考えると、ゾッとしました…(汗)「絶対何も口にしない」と言ってくれたアンドレアに感謝しなければいけません(苦笑)

<レボルシオン通りの入口にて。ガイドブックに掲載のない場所で食事してはいけない(2001年基準)>

このように、一見無事に終わったかに見えたサン・ディエゴ&ティファナ旅行は、帰った後に色々とトラブルが判明することとなりましたが、こうしたトラブルも今思うと貴重な経験だったのかと思います。アメリカとメキシコの国境で今でも続いている問題を肌で感じ、今は違うかも知れませんが発展途上国でむやみに食べ物を選んではいけないと言う教訓も得ることが出来ました。それと、アメリカでの路上駐車のルールも(苦笑)

<ティファナは今でもアメリカとメキシコが交わる、不法入国や麻薬密輸の最前線>

とにもかくにも、健康だけは何とか守ってサンタバーバラへ帰ることが出来た僕らは、最後の週末はロサンゼルスへと車で向かうこととなりますが、そこでこの留学中、最大のピンチが僕を襲うことになります。続きはまた次のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその14。へ続く

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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Santa Barbaraその12。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

Santa BarbaraからSan Diegoに日が暮れてから到着し、歩き回るのも不安を覚えケーキで夕飯を済ませた僕らは、翌日は国境を越えてアメリカに隣接するメキシコの町・Tijuana(ティファナ)を目指しました。メキシコへは国境を車で越えてそのまま入ることも出来るのですが、ほとんどのレンタカー会社はメキシコへのレンタカーでの入国を許可していない(カナダはレンタカーでも入れるそうです。この辺りが治安や安全性の差なのでしょうか…)ため、僕らは国境の近くまで車で向かい、駐車場に車を停めて、徒歩でメキシコへと入国する事にしました。サンディエゴから南下するフリーウェイに入ったのは良かったのですが…どこがアメリカ国内の最後の出口か分からず走っていたため、うっかり最後の出口を通り過ぎてしまい…あろう事か、国境の検問所が目の前に見えて来てしまいました(汗) 「ヤバい!車で国境まで来ちゃったぞ、どうする!?」と車内は一時、軽くパニックに陥りました。何しろレンタカーでのメキシコ入国は禁止な上(おそらく入る事は出来るでしょうが、保険などは一切効かず何かあれば大変な事になるでしょう)、僕は国際免許証も持っていない状態です…(だって、カリフォルニアのレンタカー会社は日本の免許証だけで車を貸してくれたから…笑)

<フリーウェイの検問所。車で通過できる>

どうしようかとソロソロと国境の検問所に近づいていた時…左端に”Return to U.S.A.”の文字が!幸運なことに、Uターンレーンが設けられていました!今考えると、そりゃそうですよね…間違えて国境まで来て戻れないんじゃ、検問所だって困るでしょう(苦笑)かくしてUターンして最寄りの出口でフリーウェイを降りた僕らは国境近くの駐車場に車を停め、徒歩で国境を目指しました。

<鉄格子の回転扉をくぐればそこはもうメキシコ>

アメリカからのティファナ(メキシコ)入国は非常に簡単で、ただ鉄格子の回転扉をくぐればそこはもうメキシコです。特にパスポートを見られることも、荷物検査も税関も何もありません。ティファナに長期滞在する場合や、ティファナ以遠のメキシコへと進む場合はイミグレーションオフィスを訪れて入国手続きが必要なようですが、ティファナに短期滞在するのみであれば、何の申請も必要ありませんでした。アメリカ側からメキシコに不法入国する人はきっといないのでしょう…海で囲まれた日本に育った僕にとっては、歩いて国境を渡るというのはこれが初めての経験でした。アメリカに来る前からずっとティファナに行ってみたいと思っていた僕は1人ワクワクしていたのですが…国境を越えて町の雰囲気がメキシコになるにつれ、他の5人の女の子の顔が徐々に引きつって行くのが分かりました…カリフォルニアから徒歩数分でも、そこはまさにメキシコ。そしてティファナは、アメリカから気軽に訪れることができる観光地である一方で、メキシコからアメリカへ不法入国する不法移民が集まり、麻薬を運ぶブローカーが暗躍する最前線の基地でもあります。ガイドブックにも「メインストリートであるレボルシオン通りから決して外れないように」とありました…

<ティファナは観光地と犯罪の前線基地という2つの顔を持つ町>

レボルシオン通りは賑やかで、僕らは地元のスーパーを覗いてみたり、メキシコの名産物である銀細工のショッピングなどを楽しみ、他の5人の緊張も少しずつ和らいで来たようでした。そこでちょうどランチタイムとなったのですが、そこで僕らは初めて気づいたのです。「果たして、ここで何かを食べる事は安全なのかどうか」という問題に…

<賑やかなレボルシオン通りにはお土産屋さんやレストランが並ぶ>

特にドイツ人のアンドレアは慎重で、「私はメキシコでは絶対何も口にしない」と言いました。他のメンバーも抵抗があったようなので、僕らはアメリカにもあるファストフードのチェーン店で、コーラなど安全そうな飲み物だけを飲むことにしました。今でこそメキシコ観光はポピュラーになり衛生状態も改善されて来ましたが、当時のメキシコはまだ食べ物を口にするのも危険だ、というイメージでした。しかし後ほど「その選択は正しかった」という事がサンタバーバラに帰着後に判明する事になります…

<メンバーがタコスを食べたお店>

その後も散策や買い物を楽しんだ僕らは、遅くなる前にアメリカへ戻ることにしたのですが、帰り道の途中でタコス屋を見つけた何人かのメンバーが、「やっぱりタコスくらい食べておきたい」と言ったので、彼女たちはお店でタコスを食べたのですが、強い意志を持つアンドレアと、唯一のドライバーで万が一にも体調を崩せないと考えた僕は、2人で外で待つことにしました。その後再び合流しアメリカへ再入国しようと検問所にたどり着くと…出る時は何のチェックもなかったのに、アメリカ入国には厳しい審査を待つ人の長蛇の列が出来ているのです…現在でもトランプ大統領はメキシコとの国境に壁を作る、と主張していますが、正にアメリカとメキシコの間に存在する経済格差や不法移民、麻薬の密輸などの問題をまざまざと実感させる現実でした。メキシコとアメリカの間には小さな川があるのですが、その橋を渡る際にマユミが「みんなあの川を命がけで越えるんだろうね」と言ったことを覚えています。国が陸路で繋がっている、というのは世界では一般的ですが、日本人の僕らにとってはある意味、初めて「国境」という現実を見た瞬間だったのではないかと思います。

<国境を不法移民は命がけで越えて行きます。アメリカ入国は厳しい入国審査>

何とかアメリカへ再入国した僕らは、駐車場の脇にあったアウトレットモールでのショッピングを楽しみましたが、僕は体調をキープしなければならなかったため、ベンチで休憩する事にしました。その後車にてサンディエゴの町へと戻った僕らは、夕飯にバーベキューを楽しみ、夜の遊園地やショッピングを楽しみ、サンディエゴ旅行の2日目を終えたのですが、ホテルへ帰ると駐車場が満車となっていたので、フロントのスタッフにどうしたら良いかと尋ねたところ、夜の間はホテル前の路上に駐車しても大丈夫だと言うので、車を路上に停めて就寝したのですが、これが日本に帰国後にちょっとした騒動に発展することになります。続きは次のブログにてご紹介したいと思います。

<夕飯はアメリカンなバーベキュー>

To be continued.

Santa Barbaraその13。へ続く

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Santa Barbaraその11。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

サンタバーバラでの留学生活も2週間が過ぎ、現地での生活や簡単な英語にも慣れて来ていました。学校の授業も発言は出来ないものの先生が言っている事は何となく(半分は推測でしたが)分かるようになり、授業ではスピーチをしたりもするようになりました。(レベル6のクラスなので周りの学生は何も見ずにペラペラとスピーチする中、僕は事前に書いた原稿を見ながら読んでいただけでしたが…)

ハウスメイトでクラスメイトでもあった韓国の大学生のユンは、クラスで自分の通う梨花女子大学(Ewha/イファ女子大学:韓国の女子大の最高峰。最近では朴槿恵前大統領の側近の娘が不正入学した大学としても話題に上りました…)についてスピーチをしていたのを聞いて、韓国は日本よりも更に学歴が重要な受験競争社会なのだと、その時に初めて知った事を思い出します。

ある日、学校で文法のテストがあり、前日の夜ユンが僕に「勉強してる~?」と聞いて来たので、全く勉強していなかった僕は「いや、全く(笑)」と答えたのですが、翌日のテスト(前置詞の後ろに動詞が来る場合は動名詞にする、と言う、日本の大学生には非常に簡単な内容)で僕がユンよりも高い点数を取ったため、ユンはクラス内で(もちろん冗談ですが)「彼にはダマされた!ウソつきよ!彼は私のハウスメイトで、昨日の夜に全然勉強してないって言ってたのに!」と笑いながらクラスメイトに言い触らして回り、スピーキングの下手な僕は反論出来ずにただ苦笑するしかありませんでした(苦笑) 日本の英語教育が文法と読解に偏っているため、聴き取れないし話せないけど問題は解けるという典型的な例だったかと思います。

<クラスルームにて。日本人は少なく、ドイツ、スイス、ブラジル、韓国、台湾などの留学生がいました>

その週の週末、僕らは車を借りてサンディエゴへと向かいました。学校までレンタカー会社のスタッフが迎えに来てくれ、空港の近くにあるオフィスにミチコと向かったのですが、予約されていた車は確かに6人乗りだったのですが、前に3人、後ろに3人座るという、日本でいう普通の5人乗りセダンの定員が前に増えただけの車でした。「これで片道4時間以上かかるサンディエゴまで6人で行くのはちょっと…(汗)」と思っていたところ、ちょうど先週にサンフランシスコへ行った際に借りたような7人乗りのミニバンが返って来たので、値段を聞いてみると6人で割れば1人10ドル程度しか変わらなかったため、ミチコと相談の上ミニバンに変更し、学校で残りの4人を拾ってサンディエゴへと向かいました。

日本人5人にドイツ人1人、という偏ったメンバー構成だったものの、その頃には他のメンバーも簡単な英語は話すようになり、アンドレアともコミュニケーションが取れていたのは前週との大きな違いでした。車がロサンゼルス近郊に差しかかると道が渋滞し始めたため、僕らはフリーウェイをいったん降りて、トイレ休憩を取る事にしました。

とあるハンバーガー店を見つけ車から降りると、メンバーは全員、真っ直ぐにトイレに向かってしまいました。実はアメリカでは、例えファストフード店であっても、トイレだけを利用するのはルール違反に近い行動です。”For Customers Only”(当店のお客さま専用)が徹底されており、近年は何か買わなければトイレの鍵も開けてくれないお店が大半です。さすがにマズいと僕は思い、やむを得ずハンバーガーを一個購入し食べていると、戻って来たメンバーの1人が(悪気は無かったのだとは思いますが)「あれ~、なんで1人でごはん食べてるの~?」と言って来ます…

「いや、お前らがみんなトイレに直行したから…」と喉まで出かかりましたがこらえたところ、他のもう1人が「私たちが、トイレを使ってたからじゃない?」と気づいてくれ、ああ、今回は普通に旅行出来そうだ…と少しホッとしたことを覚えています。

その後車は順調に走り、サンディエゴの町へと差し掛かったのですが、ここで男のメンバーが1人だけ、という場合だから起こった、ある種特有の問題が発生しました。他のメンバーは、地図を見てくれてはいたのですが、どこを走っているか分からない…これは女の子には仕方のないことかも知れませんが、ナビゲーションシステムもなかった当時、ナビが出来るメンバーがいないと言う状況に、サンディエゴに到着して初めて気づいたのです…

やむを得ず適当にフリーウェイを降りて、ストリート名から現在地を特定したところ、目的地をかなり通り過ぎていたことが判明しました。そこからは、自分で地図を暗記してしばらく走り、赤信号の際にまた地図を見る…ということを繰り返しましたが、ホテルの場所も住所しか情報がなかったため場所の特定に手こずり、何とかホテルに到着した時には、辺りはすっかり暗くなっていました。夕飯を食べたかったのですがホテルの周りには適当なレストランがなく、あまり歩き回ると治安の心配もあったため、夕飯はホテルのカフェでケーキのみ、になってしまいました。

<ホテルのカフェで夕飯にケーキを食べる>

もう今日は早く寝よう…と決めたのですが、チェックインをしてみると、6人に対して2部屋しか予約されていないことが判明し、追加料金を払ってもう1部屋利用は出来ましたがツインルームはもうないと言われてしまい、、語学学校のアクティビティのコーディネーターって、何ていい加減なんだ…とこの時痛感しました…。そもそも語学学校アクティビティのコーディネーターって、生徒のアクティビティのない平日は何の仕事をしているのでしょうか…

<サンディエゴにて宿泊したホテル。リトルイタリーという町の外れにありました>

マユミがある日ボソッと、「あの仕事でお給料もらえるんだから、いいよね…」、とつぶやいていたのを、僕はいまだに覚えています(苦笑) そう言えば毎日17時になると、「僕の仕事はもう終わりなんだ!」と言って、それ以上話も聞いてくれなかった事を思い出します…。みなさんも留学される際は、学校が用意しているアクティビティは当てにせず、自力で行動される事をお勧めします。アクティビティがあると書かれていても、人数が足らないから中止などという事も日常茶飯事です。全く違う場所の話ですが、僕がボストンに留学した時にアクティビティのコーディネーターはどこにいるかと尋ねたところ、「今は夏休みでいないよ」と当たり前のように言われ、受付のスタッフと散々口論したこともあります…。同じコース料金を払っているのに、いるべきスタッフが今はいない、代わりもいないとは、一体どう言うことかと…

欧米は契約社会、契約が全てだと言いますが、それならパンフレットにいると書かれたスタッフがいなければ、それは契約違反のはずですが…訴訟社会のアメリカですので、1度試しに訴訟をして確かめてみたいものです。まあ、おかげで自力で行動して問題解決を迫られる事が大半になり、結果的に様々な経験を積めたことは、逆に幸いだったのかも知れませんが(笑)

海外へ行くと、日本人のサービス精神や職業倫理がいかに素晴らしいかを、逆に確認してしまうことがあります。皆さんもぜひ海外に出て、逆に日本の良さも再確認して頂ければ、と僕は思います。

話がだいぶそれましたが、翌日僕らはメキシコのティファナを目指します。そしてサンタバーバラに帰着したあと、そこがいかに危険な場所だったかを知ることになります。続きはまた次回のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその12。へ続く

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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Santa Barbaraその10。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

サンタ・バーバラでの初めての週末に、サンフランシスコへのデコボコ団での旅行で散々な苦労をし、帰宅後丸一日を寝て過ごした僕は翌日から再び語学学校のクラスに出席しました。

語学学校の廊下でマユミと遭遇すると、彼女は開口一番、「サンフランシスコ、大変だったんだって? みんなが凄い(僕が)しっかりしてた、って言ってたよ」、と話しかけて来ました。僕がしっかりしていたと言うより、「とんでもないメンバーが何人か混じっていた」のが正しかったと思いますが、マユミはマユミで大変な週末を過ごしたらしく、(彼女は以前にサンフランシスコに滞在していた経験があったので、僕らに同行せずホストファミリーとラスベガスへ行った)、「私はストリップに行きたいって言ったのに、ホストファミリーは全然話を聞いてくれなくて、ダウンタウンから離れたカジノにこもってずっとギャンブルに熱中してキャーキャー言っててさ…」と不満そうに話していました。(※ ストリップ:誤解を招く響きですが、ラスベガスの有名なホテルが集まるメインストリートのことです。)

<ラスベガスのストリップ。Venetian、Mirage、Bellagio、Millageなど有名ホテルが並びます>

1週間ほど後の話ですが、マユミが滞在していたホストの家はヒスパニック系だったらしく、家の中ではスペイン語ばかり飛び交っていて英語で上手くコミュニケーションが取れず、とうとう我慢出来なくなり彼女は泣きそうになりながら僕と一緒に学校の校長室へ行き、「ホストファミリーを変えて欲しい」と訴えたのですが、校長は「なんで?」と言うので、「ホストファミリーがスペイン語しか話さない」と言うと、校長は不思議そうに、「それの何が問題なの?」と返して来ます…

とてもおかしな話に聞こえるかも知れませんが、移民国家であるアメリカやオーストラリアでは実はよくあるケースで、行ってみたらホストマザーが日本人だったとか、インド系のホストで食事が毎日カレーだった、などと言う話もあります。向こうではホームステイで生徒を受け入れるのは「空き部屋を貸すビジネス」的な側面もあり、ホストファミリーには当たり外れがあるのが現実です。ただし、そう言ったケースを「外れ」と思うのは日本人のホームステイに対する過剰な期待と先入観にも原因があり、そういったケースも現地の文化の1部であり現実なのだと捉え、多民族が暮らす国の現状や、ホームステイの生徒をホストが受け入れている理由や事情を知ることも良い勉強だと捉えるべきなのかな、と今では思います。語学学校にとってホームステイはあくまで「滞在場所の提供」であり、必ずしも現地のネイティブの家に滞在出来るという保証はありません。

とにもかくにも僕も反論し、「僕らは高額な費用をかけてアメリカに英語の勉強に来たのだから、ホストファミリーは英語を話すべきだ!」と強く言ったのですが、校長は「そうね、考えておくわ」と言ったきり、結局最後までうやむやにされてしまっていました。マユミも最後の方には諦めて、自力で留学生活を充実させようとしていたのは、留学生として褒められるべき姿勢だったと言えるでしょう。

僕は語学学校の新入生歓迎のクラブパーティの際にマユミとサンディエゴへ一緒に行く約束をしていたので、その週末は身近な仲間とサンディエゴ、そして隣町であるメキシコのティファナを訪れる計画を練りました。僕が唯一自力で仲良くなった外国人であるドイツ人のアンドレアも一緒に行きたいと言ってくれたので、メンバーは僕とマユミ、ナギサ、ナツコ、ミチコとアンドレアの6人となりました。厄介なメンバーが入らなかったのは大いに良かったのですが、アメリカで運転が出来るメンバーは僕1人であったため、「どうやって行く?」と一応聞いてはみましたが、みんなやはり車が良いとの意見になり、車でサンディエゴへと向かう事になります。

<サンディエゴ旅行のメンバーたち>

ホテルは学校のアクティビティのコーディネーターであるダンが予約を入れてくれ、車はミチコのホストマザーが予約をしてくれました。実はサンタバーバラに留学に行く前に父親に、「アメリカで運転をしないように」、と言われており、国際免許証も持たずに現地へ行ったのですが、何故か現地では日本の免許証を見せれば車をレンタル出来たので、僕もサンフランシスコの惨劇を切り抜けたと言う過信から抵抗もなく運転を引き受けてしまいました。(実は国際免許証と言うのは免許証の「翻訳文」と言う位置付けで、有効なのはあくまで「日本の免許証原本」であるため、留学生に慣れているサンタバーバラのレンタカー会社はだいたい、日本の免許証を見せると車を貸してくれました。ですので逆に、国際免許証だけで車を貸してくれる会社はありません。)

こうして滞在2週目の週末は、サンディエゴとティファナへの旅へと続いて行きます。そこにも幾つかのトラブルが待ち受けていましたが、続きは次のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその11。へと続く。

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Santa Barbaraその9。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

道に迷うわチャンさんとコミュニケーションは取れないわで散々苦労してサンフランシスコにたどり着いた僕らでしたが、部屋割りは当然男性2人と女性4人ということになり…僕は部屋でチャンさんと2人きりの時間を過ごすことになりました。疲れていたので、二言三言会話しただけで寝てしまいましたが…。女性陣は女性陣で、誰がヒデコさんと同じベッドで寝るかで揉めたそうでした。

翌朝、ユニオンスクエアでRと待ち合わせた僕らはまずチャイナタウンに向かいました。Rは相変わらず日本語で女の子としか会話しません。一方のチャンさんはと言うと、ヒデコさんに話しかけるのですが、ヒデコさんは嫌がって話そうとしません…歳が近いのだから上手くコミュニケーションを取ってくれれば良かったのですが…結局僕がチャンさんの担当になって行きました。

チャイナタウンで飲茶ランチをして、ケーブルカーでフィッシャーマンズワーフへ向かう頃には雨が降りはじめ、デコボコ団には暗い空気が漂い始めました。それぞれが違う方へ歩こうとするので、僕はチャンさんの相手をしながら、そっちじゃない、あっちだ、などと徐々にガイド的な役割をしなければならず…フィッシャーマンズワーフではチャンさんが突然、高価なカメラを品定めし始め他のメンバーが文句を言い始めたので、僕はチャンさんにこんな所でカメラを買わないでくれと説得するハメに。お店の人を少し怒らせてしまったもののなんとかピア39まで辿り着いた所で、今度はRが無神経にも僕に向かって、「なんだ、サンフランシスコってこんなもん?つまんねー」と吐き捨てます…

<雨のサンフランシスコ>

俺はお前のガイドじゃねーよ」と1人チャンさんの相手をしながら苦労していた僕は怒りが限界に達して、ビア39で一時解散することにしました。Rはナツコに「マイシスター!一緒に行こうぜ!」と去って行き、チャンさんとヒデコさんはそれぞれ1人でどこかへ行ってしまいました。僕は残った2人としばしの休息タイムを過ごし、数時間後に集合してダウンタウンに戻って夕食を食べたのですが、Rが前日に行ったというレストランのマズさと言ったらありませんでした…

Rは翌日は友達と会うから別行動となり、ユニオンスクエアで別れてモーテルへ戻り、サンフランシスコの初日が終わりかけた頃、ナギサが少しずつ僕を助けてくれるようになって来たのが唯一の救いでした。モーテルに戻るとチャンさんが部屋でみんなで一緒に飲もうと提案して来ました。しかしみんな疲れていたのか、誰も応じようとしません…しょうがない、また僕が付き合うか…と諦めかけた時、ナギサが私も付き合うよと言ってくれたため、3人でしばし韓国の話などをして過ごしました。

<グランドハイアットのラウンジからの眺望>

翌朝ナギサが「女の子たちはショッピングしたいって言ってるよ」と耳打ちしてくれたので、ダウンタウンで解散することにしたのですが、その頃にはチャンさんも味方は僕1人と悟ったのか一緒に行こうと言って来たため、彼と2人でショッピングしたあと、グランドハイアットホテルの展望ラウンジで(チャンさんのみ)お酒を飲みながら時間を過ごしました。

<ゴールデンゲートブリッジにてチャンさんと>

午後は車でゴールデンゲートブリッジを訪れましたが、その頃にはチャンさんも自分が運転するとは言わなくなっていました。その後対岸の小さな町サウサリートを散策して夕食を食べ、ツインピークスから夜景を楽しんだ僕らはRと合流して、夜中の運転でサンタバーバラへ戻ったのですが、途中Rが運転していた時にまたアクシデントが…

休憩しようとしたのかフリーウェイを降りたのですが、周囲には何も無く諦めた時…、Rが「フリーウェイの入口が見つからない」と騒ぎ始めました。「何やってんだコイツ…」と思いましたが精魂尽き果てていた僕は放っておいたのですが、追い詰められたRはとんでもない行動に出たのです。

「出口から(逆走して)入るしかねーべ」と言うのです…

みんな「うそー!?」という反応していましたし僕も本気かコイツと思いましたが、ハンドルを握るRは「しょうがねーべ」と言って…

本当に出口を逆走し始めたのです…

対向車が来たらもちろん正面衝突、警察に見つかれば捕まる暴挙でしたが、運良くフリーウェイに戻り、Uターンして本線に戻れはしましたが…「コイツとは2度と行動は共にしない」と僕は心に誓いました…

こうしてトラブルだらけのサンフランシスコ旅行は幕を閉じましたが、朝にサンタバーバラに到着して全員を家に送り届けた僕はもう1日ベッドから起き上がることが出来ませんでした。今でこそ良い思い出ですが、後にも先にもこれだけ悲惨な旅行は記憶にありません…ただ車を運転出来るとみんなに思われた僕は調子に乗って、翌週はサンディエゴ、翌々週はロサンゼルスへと車を走らせることになります、そこにまたトラブルがあるとは思わずに…

続きはまた次のブログにて

To be continued.

Santa Barbaraその10。へ続く

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Santa Barbaraその8。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

初めての留学も1週間が経ち、金曜の午前中のクラスを終えた僕らは、レンタカーでサンフランシスコへ向かうことになりました。メンバーは、僕、ナツコ、ナギサ、ミチコ、ヒデコさん、チャンさんとRの、大所帯かつデコボコな7人でした。このデコボコ日本人6人と韓国の大学の先生と言う組み合わせがまた最悪で、ミチコが出発前に、「チャンさんが日本語では話さないで欲しいと言っている」とみんなに言うのです。確かに1人だけ韓国人で孤立してしまうのは分かりますし、留学に来ているのだから英語で話すべきなのは分かりましたが、何しろ僕らは英語初心者なうえに日本人同士なので、英語で全てのコミュニケーションを取ることにムリがあります…特にRは全く英語を使おうとせず(正確には能力もありませんでしたが)、お構いなしに日本語で恋バナに花を咲かせ始め、チャンさんが段々不機嫌になって行くのを感じた僕はどうしようもなくただ黙っているしかなかったのですが…

<チャンさんは韓国の大学の英語教師>

運転はまずチャンさんが担当し、疲れたら僕とRが変わることになりました。しかしサンタバーバラの町中から早くもアクシデントが始まります。チャンさんは韓国では同じ右側通行なのだから運転は大丈夫だろうと思っていたのですが、右折の赤信号に止まったまま動こうとしません…(アメリカは信号が赤でも安全なら右折して良いと言う)交通法規の違いを知らずに、後ろの車からクラクションを鳴らされてしまっているのですが、彼は赤なので何が悪いのかと混乱するばかり…さあ、この交通法規の違いを英語で説明するのが大変です。僕はつたない英語で何とかチャンさんに理解させたのですが、他の日本人は一切英語を話そうとせず、僕はこのグループの組み合わせに無理があったと猛烈に後悔しましたが今更どうしようもなく、1人でチャンさんと奮闘する羽目に…後ろで呑気に日本語で恋バナをしているRには特に頭に来ましたが、もちろんアクシデントは1回で済むはずはありません

サンタバーバラからサンフランシスコへはほとんど一本道なので最初は3人で交替するだけで良かったのですが、サンフランシスコに近づくにつれて、「誰が道を知っているんだ?」という疑問が湧いて来ました。僕は地図を持っていましたが、チャンさんは地図も見ずに走り続けたかと思いきや、サンフランシスコの手前で突然フリーウェイを下りてしまい…そして…そう、道に迷ってしまいました…あたりがちょうど暗くなる頃に…

とりあえずガソリンスタンドに車を止めて会議を始めたのですが、チャンさんと話すのは僕1人…Rは無責任に僕に向かって、「おい、頼むよ、あいつ(チャンさん)全然話を聞かないんだよ」などと言って来ます…
「それはお前が英語で話さないからだろ」と僕は心の中で思いましたが、僕はもうこいつらと話しても無駄だと思い、ガソリンスタンドのスタッフに「ここはサンフランシスコか?」と聞いたところ、「ここはサンノゼだよ」と…どうやらチャンさんは違う町でフリーウェイを下りてしまったようでした…

<サンノゼとサンフランシスコの位置関係>

全てを英語で話すのに疲れた僕は、チャンさんに地図を持たせ自分で運転することにしました。刻々とモーテルのチェックイン締め切りが迫る中、メンバー全員が異国の地での迷子に沈黙していたのは逆に救いだったのかも知れません…何とかフリーウェイに戻り、地図を見ながら1時間ほど走ったでしょうか、僕らは締め切りの直前にモーテルにたどり着きました。サンタバーバラから8時間はかかったかも知れません…

<宿泊した町はずれのモーテル>

Rは別のホテルを予約していたためモーテルで別れましたが、翌日ユニオンスクエアで待ち合わせになってしまいました。彼と別れたあと車で周りを走り、何とか見つけたお店で夕飯に食べたタイ料理が何とも美味しかったというかホッとしたというか…しかし翌日からも僕はチャンさんとRとヒデコさんとの間で振り回されることになります。続きはまた次回のブログにて…

To be continued.

Santa Barbaraその9。へ続く

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Santa Barbaraその7。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

新入生歓迎のクラブパーティの翌日、僕は語学学校の初日のクラスに臨んだのですが…レベル6というのは7段階あるクラスの上から2番目で、他の生徒はみな間違いだらけの文法ながら流暢に英語が話せガンガン発言する中、僕は先生の発する単語が所々聴こえる…といった状態で、当然発言など出来ませんでした。”Please underline…”というフレーズが聴き取れるようになるまで丸々一時間を要し、この先のクラスが不安なまま初日のクラスを終えました。

<Vicky達とランチに行ったチャイニーズレストラン>

午前中のクラスが終わると、昨夜に知り合ったVickyや他の日本人たちが一緒に中華のランチを食べると言うので僕も参加したのですが、そこで週末はどうするという話になり、何人かの仲間でサンフランシスコへ行こうという話になったため、翌日学校のアクティビティのコーディネーターであるダンに相談してみることにしました。

<サンフランシスコ旅行のデコボコメンバー>

この時のメンバーは僕と、ナツコ、ナギサ、中華のランチで知り合った奈良の大学生のミチコ、ミチコと同じ家に滞在していた韓国の大学の先生チャンさん、僕と同じクラスに入った村田製作所に勤めるヒデコさんという中年の女性…と、なんともデコボコなメンバー構成だったのですが、この韓国のチャンさんとのコミュニケーションが何とも大変でした。彼はサンフランシスコへレンタカーで行くことを主張し譲りません。サンタバーバラからサンフランシスコへは車で片道6〜7時間もかかるうえに(約540km:東京~神戸間に匹敵する距離です…)、坂が多い町で駐車場が少なく、車で動くには不向きな町なので(訪れた経験のあった)僕は散々反対したのですが、結局押し切られてしまいました。韓国は年長者が絶対の文化なのに加えてアメリカと同じ右側通行なので、運転に根拠の無い自信があったのかも知れません…。ダンにその意向を伝えると彼はレンタカーと町はずれのモーテルを予約してくれたのですが、そのモーテルには20時までにチェックインしなければならず、昼まで授業を受けた後に本当にたどり着けるのか、英語力から来るコミュニケーション不足も手伝って僕はこのグループでの旅に猛烈な不安を覚えたところに、このデコボコ団に更なる混乱をもたらす奴が現れます…

<7人乗りのレンタカー>

ダンとの話を終え帰宅しようとした所に現れたのは…そうあの世田谷の留年大学生Rです…
「おう、週末はどこ行くんだ!?」
と聞かれ、僕は既に嫌な予感がしていました…誰かがサンフランシスコへ行くんだよと答えるとRは図々しく、
「俺もサンフランシスコ行くんだよ!一緒に行こうぜ!」
と持ちかけて来ました。僕らは英語でチャンさんと散々揉めてレンタカーとモーテルの手配をして来たのだし、お前は1人なんだからこの場合、「俺も混ぜてくれ」の間違いでは無いのかと僕は心の中で思いましたが、断る訳にもいかず誰かがOKしてしまい、この超自己中心的なRと話を聞かないチャンさんとその他デコボコ団をまとめるのに僕は嫌と言うほど苦労させられることになったのです…その続きは次の機会にご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその8。へ続く

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Santa Barbaraその6。

ここでは僕が2001年の春に初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、「Santa Barbaraその1。」からお読みください。

語学学校でクラス分けテストを終えると、その夜は地元のクラブ「zero」での新入生歓迎パーティーがあったのですが、夜はバスもないため、移動手段のない生徒は参加出来ません。僕は帰宅すると、アグネスが「パーティーに行こう」と誘って来ます。寝不足だった僕は夜遊びに抵抗があったのですが、アグネス様の誘いを断われる訳もなく、夜のクラブでのパーティーに参加することになりました。

アグネスはバッチリ濃いめのメイクに強い香水を身につけ、気合い十分と言う感じに僕はまず圧倒されました。「これが欧米のクラブパーティーなのか」と、日本ですらろくろくクラブには行かない僕は、貴重な体験に少しワクワクしていました。

しかし…インターナショナルなクラブパーティーは僕の予想の遥かに上を行っていました。生徒は南米出身者がラテンのノリで踊り狂っていて、ビール瓶を割る音がダンスフロアからガッシャンガッシャンと聞こえて来ます…とても日本人が入って行けるノリではなく、日本人の新入生は入り口で固まって中を覗くのが精一杯の状態…

その固まった新入生の中に、1人、台湾人の女の子がいました。彼女はVickyと言う子で、やはりダンスフロアに参加出来ずに様子を伺っていました。する事の無かった僕は彼女に話しかけてみることにしました。

<クラブパーティーは南米のノリ>

僕の出来る英語と言えば、”Where are you from?”とか、”What’s your name?”とか、頑張っても”Do you have a boyfriend?”ぐらいのものでしたが、彼女も新入生で英語が上手くは無かったのを覚えています。すると彼女は紙にペンを出して、福山雅治(誰だったかは忘れた)など日本の有名人の名前を漢字で書き始めました。前日にハウスメイトのユンと話した時も感じたことですが、こちらは何も知らないのに、向こうは日本の事を良く知っている、と驚きを感じました。

兎にも角にも筆談でコミュニケーションを取っているうちに、何人かの新しい日本人とも話すことが出来ました。特にマユミとナギサの2人とはこの留学中、週末などを旅行で一緒に過ごす事になります。
マユミが「誰か一緒に、サンディエゴに行かない?」と言ったので、サンディエゴの隣町、メキシコのティフアナに行きたかった僕は一緒に行く約束をしました。ダンスには参加出来なかったものの、新しい仲間とつたないコミュニケーションを楽しんだ僕は、アグネスが帰るまでクラブパーティーを楽しむことが出来ました。

<アグネス、ヴィッキーと新入生たち>

帰りの車の中でアグネスが、「お前は日本人と日本語しか話さない」と言って来たので、僕は台湾人と英語で話したんだと反論しました。思えばアグネスに反論出来るくらい、英語にも慣れて来ていました。それも全て、アグネスにパーティーに引きずり出されたおかげだったのかも知れません。

翌日、Vickyや他の日本人たちとランチをして、最初の旅行で大変な思いをしたサンフランシスコへの週末旅行へと進んで行きます…続きはまた次の機会に。

Santa Barbaraその7。へ続く

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レンタカーが、パンクした。

2006年の10月から11月にかけて、僕は会社を退職して少し休暇を取り、2001年に初めての留学で滞在したアメリカ西海岸の小さな町サンタバーバラに、6週間ほど滞在することにしました。今日はその滞在中に休日旅行でサンフランシスコを訪れた際のトラブルについて書きたいと思います。

滞在はホームステイで、僕のルームメイトはセバスチャンというフランス人だったのですが、そのセバスチャンにThanks Givingの翌日からの休日を利用してサンフランシスコへ仲間と行くから、一緒に行かないかと誘われました。僕はセバスチャンと非常に親しかったのでもちろんOKしたのですが、何と全員合わせると10人以上のグループになると言います。そんな大勢で一緒に行動出来るかな…とは思いましたが、なるようにしかならないだろう、と成り行きに任せることにしました(苦笑)

Thanks Givingの翌日、ダウンタウンのバスディーポに集まったのは、フランス人、ベルギー人、ドイツ人、トルコ人、韓国人、日本人、そして誰の知り合いなのか地元のアメリカ人を含む多国籍軍でした。アメリカ人の車1台に乗り切れる訳もなく残り2台をレンタカーする予定だったらしいのですが、何と予約をしておらずレンタカー会社には車が1台もありません…本当にたどり着けるかな(苦笑)と思いましたが、3時間ほど待ってようやく返却された車2台を借りることが出来ました。1台をトルコ人2人、もう1台を僕とセバスチャンが運転することになりました。僕らの車は韓国のKIAというブランドの小さな車だったのですが、3台で高速に入るとアメリカ人とトルコ人の運転の荒さが尋常ではなく、僕らの小さな車はエンジンの大きさからとても付いて行けず、いきなりはぐれてしまいました。かくして僕とフランス人2人、韓国人の女の子の4人での旅が始まったのです。

<レンタカーのKIAと多国籍軍>

サンフランシスコでは他の車と合流したり、はぐれたりしながら観光しましたが、基本的には僕とセバスチャン、フランソワ(フランス)、ジェニファー(韓国)の4人(と時折ベルギー人のステファニー)での行動になりました。観光は充実していて色々な思い出が出来ましたが、最後サンタバーバラへ帰る日は残念ながら雨に降られてしまいました。そしてこの雨のハイウェイでの帰路にてかつて経験した事もないトラブルが起こります。

<左からジェニファー、ステファニー、セバスチャン、フランソワ。多国籍軍は最後までまとまりませんでした>

サンフランシスコで他の車たちと別れ、サンタバーバラへ帰る高速道路を僕は運転していたのですが、ちょうど半分くらい来たあたり(SF-SB間は車だと約6~7時間)で、車が突然ガタガタと揺れ始めました。その揺れはかなり激しくハンドルも右に左に取られる感じがしたので、僕は経験が無いながらも薄々「タイヤがパンクした(got a flat tire)」のだと気付きました。高速を降りて車を止めると、見事に右前のタイヤがペチャンコに…付近は真っ暗で助けを求めようにもガソリンスタンドひとつ見当たりません。途方に暮れた僕らは相談した結果、スペアタイヤに交換しようと言う結論になったのです…

セバスチャンがタイヤの交換の経験があったので、スペアタイヤをトランクから出してジャッキアップまでは出来たのですが、タイヤのナットが固くどうしても外す事が出来ません。灯りもなくデジカメの液晶の明かりで照らしながら雨の中格闘しましたが、どうにもならず途方に暮れていると、ジェニファーが通りかかった1台の車に助けを求めました。親切なアメリカ人のおじさんは僕らがタイヤが交換できずにいることを知ると手伝ってくれ、僕に運転席でブレーキを踏む(Step on the brake!)ようにと言いました。そうして格闘すること15分、なんとかおじさんの助けでタイヤを交換することができ、親切なおじさんはお礼を言う間も無く行ってしまいました。かくして僕らは交換したタイヤでそろそろと走りながら、サンタバーバラへ帰り着くことが出来たのです。

翌日レンタカーを返却する際に、頭に血が上りやすい僕はカウンターで散々クレームを付けました。寒くて暗い雨の高速でタイヤを交換したんだと言うと、彼らは交換したタイヤを見て申し訳ないと言ったあと、レンタカー代は半額にすると言いましたが、次からパンクした際はロードサービスに電話したら良いと言うのです。しかしナビも付いていなかった当時、550キロはあろうかと言うSF-SB間(東京~神戸間に匹敵する距離です…)のどこにいるか分からないと言ったら、果たして彼らは何時間以内に来てくれたのでしょうか…親切に手伝ってくれたアメリカ人のおじさんにお礼を出来なかったのが悔やまれます…それ以前に、パンクするようなレンタカーを扱わないで欲しいと思います、Enterprise Rent-A-Car…(アメリカでは割と大手で1番安いのですが、もう使う気になれません…)

皆さんもパンクした際にロードサービスに電話をする際に必要なこの単語、ぜひ覚えてください。

We got a flat tire! 「タイヤがパンクした!」

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Santa Barbaraその5。

ここでは僕が初めての留学で滞在したアメリカ西海岸の小さな町、サンタ・バーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方は、Santa Barbaraその1。からお読み下さい。

滞在3日目。前日に深夜までアグネスたちと夜遊びをした僕はアラームが鳴っても起きることができず、クリストフの”Could you stop the alarm!?”(アラームを止めてくれ!)の一言で目を覚ましました。もちろん寝不足ですが、この日は初めて学校へ登校する日でした。眠い目をこすりながらキッチンへ行くと、ホストマザーのカレンがコーヒーを入れてくれ、「今日は学校の初日だから、私が車で連れて行くから」と言いました。僕は前日にアグネスと一緒に登校する約束をしていたのでそう伝えると、彼女も一緒に乗って行けば良いと言ってくれました。アグネスと車に乗り込み学校へ向かって出発すると、ユンが1人バス停に向かって歩いていたので、彼女も乗せてあげたら…とは思ったのですが英語の下手な僕は言い出すことが出来ず、そのままアグネスと2人で学校へ向かいました。

学校に到着すると、新規の入学生はロビーで入学手続きを待っていたのですが、そこで一度目にしたことのある日本人を発見しました。彼の名はR(彼の名誉のため本ブログではこう呼びたいと思います)と言い、ロサンゼルスからサンタバーバラへのフライトで同じ飛行機に乗っていて、サンタバーバラの空港で話しかけてみようかと迷っているうちに出迎えのホストファミリーに連れて行かれた男でした。何しろアメリカに着いて日本語に全く触れていなかった僕は、藁をもつかむ思いで彼に話しかけたのです。「あの、飛行機で一緒でしたよね」と言うと彼はぶっきらぼうに、「ああ、そうですね」と答えました。「どこから来たんですか」と続けて尋ねると、彼は自慢げに「東京の世田谷でございます」と言いました。「世田谷ってわざわざ強調する必要、あるのか?」と、僕はちょっと嫌な感じの奴だなと思いましたが、何しろ日本語に飢えていた僕はしばらく彼と話すことにしました。週末は何をしていたのか尋ねると、「何もすることなくてさー、家の中でタバコ吸ったら外に追い出されちゃってさー」などと言い、「あたりまえだろ、許可も取らずに吸ったのか?」と僕は内心呆れました。さらに話を進めると彼は23歳であることが分かり、どこの大学へ行っているのか尋ねると「成城大学の3年でございます」と言ったので僕はうっかり、「23歳で3年生?」と突っ込んでしまうと彼は怒って、「うっせーな!2ダブだよ!(2年留年している)」と吐き捨てました。どうやら高いであろう彼の安っぽいプライドを傷つけてしまったようでした(笑)。

こんな日本人しか留学に来ないのかと若干ガッカリしながら教室に移動して、僕ら新入生はレベル分けのための入学テストを受けました。その後学校のスタッフがお昼ご飯を買いに近くのスーパーへ連れていってくれたのですが、その時ちょうど雨が少し降って来ました。傘を持っていなかった僕はそのまま歩いていると、小さな日本人の女の子が親切に傘に入れてくれました。彼女の名はナツコと言い大阪の大学でフランス語を専攻している子でした。「良かった、良い日本人もいるんだな。この子と友達になれば良いや」と思って僕は大分ホッとしたのですが、お昼を食べた後のクラス分け発表で小さな事件が起こります。クラスは7段階で、下の方のクラスはほぼ全員が日本人なんて所もあったのですが、僕のクラスの所にはなんと Level 6 と書いてあるのです…「ああ、下から2番目…じゃない!上から2番目!?全然話せないのに!?」と僕は愕然としてしまいました。いきなりレベル7に入る新入生はいなかったので、新入生としては1番レベルの高いクラスに入ってしまったのです…実はこれは日本人に良くあるケースで、ヒアリングとスピーキングは全くできないのに文法とリーディングが得意なので、実力とかけ離れた点数が取れてしまうと言う…かくして僕は実力に分不相応なレベルの高いクラスに入って授業を受けることになってしまいました…。

<一緒に入学した新入生。半分くらい日本人だった気がします>

クラス発表が終わりオリエンテーションを受けて、初日の学校は終わりでした。僕はもうRのことは忘れて(笑) ナツコと他の日本人や外国人たちと帰宅するためバスディーポに向かって歩き始めたのですが、その中に1人のドイツ人の女の子がいました。彼女の名はアンドレアと言い、この留学で僕が唯一、自分の力で仲良くなった外国人だったかも知れません。どういうきっかけで彼女と会話を始めたのか定かではないのですが、僕が下手くそな英語で、前日バスを降りられず”Help me~”だったんだよと言うと彼女は大笑いして、僕に親しみを感じてくれたようでした。このバスの失敗談で彼女と仲良くなれましたので、今思うと週末のドタバタも無駄ではなかったのかなと思います。アンドレアのルームメイトは日本人でその時一緒に歩いていたのですが、彼女は全く英語ができず、アンドレアにどうやって家に帰るつもりなのか聞いて欲しいと僕に行ってきました。「レベル6、頼むよ!」などと言われ若干ムッとしましたが、アンドレアは歩いて帰ると言ったのでそう伝えると、その子は右も左も分からずアンドレアにただついて帰って行きました。補足するとその子はその後も英語を全く話そうとせず、ルームメイトであるアンドレアとトラブルになり、それがホストファミリーとのトラブルに発展し、とうとうホスト先の家を追い出されて退廃的なモーテル暮らしをすることになります。2~3週間後にその子に再会した際は、この時のような失礼なテンションは影をひそめ、げっそりやつれて別人のようになっていました…。アンドレアから事の成り行きを聞いていたので同情はしませんでしたが、英語を話さなければ留学は必ずしも華々しいものではないという典型的な事例だったかと思います。

<唯一自力で仲良くなったアンドレアと学校のソファーにて>

ナツコとバスディーポで別れて帰宅した僕はクリストフとテストの話になり、クラスはどうだったと聞かれたのでレベル6に入ってしまったというと彼はもの凄く驚いて、”Level 6!? Are you level 6!?”と何度も聞き返していました(苦笑)。それもそのはずで、英語がペラペラなクリストフは実はレベル5で、僕より下のクラスだったのです。日本人はテストだけは得意だというパターンを思いっきり証明してしまいました。同じく英語がペラペラだったユンでさえ、僕と同じクラスだったのですから、その後僕がどれほどクラスで貝になったかご想像に難くないかと思います(苦笑)

その日の夕飯を食べた後、僕はアグネスに連れられて新入生歓迎のクラブパーティーへと、2日連続の夜遊びに出かけることになります。続きはまたの機会にご紹介したいと思います。

To be continued.

Santa Barabaraその6。へ続く

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Santa Barbaraその4。

ここでは僕が初めての留学で滞在したアメリカ西海岸の小さな町、サンタ・バーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方は、Santa Barbaraその1。からお読み下さい。

滞在2日目、ダウンタウンに2往復し疲れ果てて昼寝をした僕は夕飯の時間に目を覚ましました。「まさか今日もホットドッグじゃないだろうな…」と思いつつ廊下へ出ると、ちょうどアグネスと、初めて見るアジア系の女の子と遭遇しました。彼女の名前はユンと言い、韓国の女子大の最高峰である梨花女子大学(Ewha/イファ女子大学)の学生で、アグネスのルームメイトでした。歳はたしか23歳で、僕より2つ年上だったと思います。(脱線しますが、梨花女子大学は日本で言うと、お茶の水女子大の優秀さと、フェリス女学院や聖心女子大、白百合女子大のようなお嬢様大学のブランドイメージを併せ持つ、最強の女子大だそうです。ユンはその事を誇りに思っているようで、授業のスピーチでも話していました)

「この家にはいったい何人留学生がいるんだ…」(実際には彼女が最後で、居候のボルツと僕を含めて5人)と思っているとアグネスがユンに、「日本から来た新しいやつだよ」と紹介してくれました。ユンは僕に挨拶をすると、僕がどこの大学に行っているのか尋ねて来たので、僕が早稲田大学だと答えると、アグネスに向かって“Wow, he is one of the smartest students in Japan!”(彼は日本の最も優秀な学生の1人よ!)と言いました。アグネスは「だから何?」みたいな反応をしていましたが(笑)僕が下手くそな英語で、”You know well about Japan.”と言うと、彼女は「もちろんよ、トウダイ、ワセダ、ケイオウでしょ?」「私の日本人の友達はワセダを卒業して、東京三菱銀行で働いているわよ」と話してくれました。この時僕は初めて、「(当時はですが)日本人はアジアの国のことはほとんど知らないのに、向こうは日本のことを良く知っている」ということに気が付きました。ユンは優しい穏やかな性格の子で、そのあと僕とアグネスの夕食を作ってくれました。(おそらく初めての留学ではなかったのだと思いますが)ユンは英語も上手で、母親が働きに出ていて家で一人で過ごしていた小さな娘のミシェルと、“Michell, do you want to play with me!?”と言ってよく遊んであげていて、僕はただただ「すごいなあ…、それに比べて自分は…」と感心するばかりだったことを覚えています。

<右から、アグネス・クリストフ・ユン・ボルツ、2列目は、左がホストマザーのボーイフレンドのスティーブ・ホストマザーのカレン、最前列が小さな娘のミシェルと若かりし頃の僕です。他にもう1人小学生の息子もいました。アメリカってもう家の中がカオス状態ですよね(笑)>

夕飯を終えて部屋に戻ると、ルームメイトのクリストフは携帯で何やら話しながら爆笑していました。クリストフは長期の留学生だったので現地の携帯電話を持っていて、「ずっとアメリカにいたら、あんな風に電話でペラペラ喋れるようになるのだろうか…」と僕はいつも思いました。彼が電話を終えたあと少し語学学校の話になり、僕が「どうやって学校に行くの?」と聞くと、彼は自分の車を持っているからそれで行くんだと言いました。彼は確か26歳くらいで、その歳になっても欧米では長期留学や勉強が続けられることを、僕は驚いて日本とはずいぶん事情が違って羨ましいと感じたのを覚えています。明日からやっと学校だな、なんかもう1週間は経ったみたいな気分だ…早めに寝ようかなと思っていると、アグネスが部屋を訪ねて来て僕のことを呼びます。なんと、今からボーリングに行くから一緒に来いと言います(笑)「今から!?明日は学校の初日だし、もう夜の9時すぎじゃん!」と思ったのですが情けない僕はやはり断ることが出来ず、かくしてボルツと3人でまたまた夜の町に繰り出すことになったのです(苦笑)ちなみに、ユンは週末の旅行で疲れたからと言ってちゃんと断ったとか。そりゃそうですよね(苦笑)

<ルームメイトのクリストフはベルギー人。いつも家のパソコンを占領し、当時流行ったアメリカのコメディドラマ「フレンズ」を見ては爆笑していました>

まあ、夜とは言えボーリングなら平和なもんだろうと思っていたのですが、アメリカのボーリング場は日本のそれとは似ていて非なるものでした。ボーリング場の中にお酒を飲めるバーがあって、みんなお酒を飲んでいます。最初はただ平和にボーリングをしていましたが(やはり、2人とももの凄く下手でしたが。笑)、突然ボーリング場が暗くなり、大音量でミュージックが流れ始め、みんなお酒を飲んで踊りながらボーリングをしています…実際は暗いのでもうボーリングどころではなく、ほぼ日本でいうところのクラブのような状態です。「アメリカに着いてまだ学校にも行っていないのに、早くもとんでもない夜遊び不良生活に巻き込まれてしまった…(汗)」。アグネスの外見のインパクトも手伝って内心「なんだかヤバい…いいのか、これで?」と戸惑いの方が正直大きかったのですが、英語も出来ないしアグネスの車で来ているのでもちろん帰ることもできず、ただただ流されて行く自分がそこにいるだけでした(苦笑)。途中でボルツが「バーに行って一緒に飲もう」と言って僕をバーに連れて行きました。アグネスを放置してるけど、いいのか?と思いながらバーで30分以上過ごしたでしょうか…、当時僕は21歳の誕生日の前でカリフォルニアではまだ飲酒が出来ず、オレンジジュースでボルツの話をただただ聞いていた(喋れないし、聞き取れないし、さらにクラブ状態なので音も聞こえないので、正確に表現すると「ただうなずいていた」)のですが、ボルツは酔っているのでもう何が何だか分からない状態に(苦笑)タイミングをみてボルツに「そろそろ戻った方が良くない?」と言って何とか連れ戻し(これだけでも当時の僕には大仕事です…)、またしばらくボーリング?をして、家に帰り着いたのはもう深夜1時半を過ぎた頃でした…「どうしてユンとクリストフが断ったのか」分かった気がしました…繰り返しますが、前日に米国に着いてまだ学校にも行っていません(笑)。部屋に戻る直前にアグネスは“Do you want to go to school with me?”と言ってくれました。もちろん僕が断れるわけもなく(苦笑)

<アグネスと2ショット。毎朝一緒に学校へ行き僕はずっと彼女の「舎弟」状態でした(笑)>

すべては僕が英語を話すことも、自分の意思を伝えることも出来なかったのが原因ですが、不良生活に引き込まれたと思うと同時に、どこかそれまで感じていた絶望的な孤独感を忘れている自分がいました。とにもかくにも、日本とはいろんな意味で(笑)全く異なる生活と仲間に囲まれて、その夜に少し留学生活に期待と前向きな気持ちを持ち始めることが出来たのは、今思うとすべてアグネスに救われたからだと思います。続きは、またの機会にご紹介したいと思います。

To be continued.

Santa Barabaraその5。へ続く

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Santa Barbaraその3。

ここでは僕が初めての留学で滞在したアメリカ西海岸の小さな町、サンタ・バーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方は、Santa Barbaraその1。からお読み下さい。

滞在2日目、ダウンタウンでホームシックになり暗い気持ちでステイ先の家に戻って来た僕は、家の前で車の運転席に座るアグネスに遭遇しました。”What are you doing?”とアグネスに聞かれた僕は家に帰るところだと答えると、彼女は”Do you want to come with us?”と、どこへ行くのかも説明せずに言って来ます。(説明しても僕が英語を理解出来ないと思ったのかも知れませんが…)正直、ダウンタウンへの往復で精神的に打ちのめされた僕は人と関わるのが怖くなり1人になりたい気分だったのですが、断ることも出来ずに戸惑っていると、アグネスは一緒に来いと言いました。そして僕は半ば無理矢理に、さっきまでいたダウンタウンに再び連れ出される事になったのです…

<Santa Barbaraのダウンタウンは静かで落ち着いた雰囲気>

車に乗ると助手席には初めて見る白人の男性が座っていました。彼の名はボルツと言うラトビア人で、実は僕と同じ家に滞在していたのですが、僕が彼の聞き慣れない名前や国の名前を分からないといった表情をしていると、パスポートを見せて教えてくれました。ですが彼は学校には行っていないと言うのです。「いったい彼は何者なんだろう…そしてアグネスは留学生なのにどうして車を持っているのだろう…」と不思議に思いましたが、英語力のない僕はそれ以上突っ込んでは聞く事が出来ませんでした…。後から分かったのですが、彼は語学学校でのコースを終了したにも関わらず勝手にステイ先に滞在し続けていたのが問題になり、追い出された家からアグネスが連れて来て、僕らのステイ先の家のリビングに(当然部屋はないので)居候していたのです。僕がステイしていた家は相当にオープンなホストだったと思います…(笑)

<リビングのソファーで居候していたボルツ>

アグネスは車を走らせるとすぐにフリーウェイに入りましたが、外見に劣らず運転の荒さも尋常じゃありません。車は凄く小さかったのですが速度を140キロまで上げ、右から左から猛烈な勢いで他の車を追い越して行きます…僕は顔が引きつるのを感じました。「カリフォルニアの日本人留学生が交通事故で死亡」なんてニュースになってしまうかも…と日本の家族や友達の顔が目に浮かびましたが、何とか無事にダウンタウンに到着しました。バスでは約30分の距離ですが、フリーウェイを使ったとはいえ、わずか10分足らずのドライブでした…

ダウンタウンで車を止め(アグネスはこの時、カリフォルニアで路上に駐車して良い所、時間制限のある所、駐車禁止の場所や取締りが厳しい事などを教えてくれました。アメリカの生活について、僕は彼女から普通はすぐには分からない事を沢山教わったと思います)店に入るとそこはビリヤードの出来るお店でした。そして3人でビリヤードを始めたのですが、何しろ2人共もの凄く下手な上にルールも分かっていないようでした。僕は友達と日本でよくビリヤードに行っていたのでルールなど分かっていて腕も彼女たちよりは大分マシでしたが、英語が出来ないのでルールを説明する事ができず、結局黙ったまま無意味に球を打ち続けるという時間を過ごすことに…。「言葉が通じないって、何て不便なんだ…」、と身に染みて思いました。
ビリヤードを終えるとアグネスは「どこか行きたいところがあるか?」と聞いてきたので、僕はとりあえず「(日本から持ってこなかった)タオルを買いに行きたい」と答えました。車で少し町から離れたショッピングセンターに行き、彼女は「ここの店が一番安く買える」と教えてくれました。しかしタオルを買うのは数分で終わってしまい、アグネスは再び「何かしたいことがあるか?」と聞いてきます。今思えば彼女はアメリカに来たばかりで右も左も分からず言葉も出来ない僕を色々気遣ってくれていたのだと思うのですが、時差ボケやカルチャーショック、そして何より自由の全く効かない英語でのコミュニケーションに疲れ果てていた僕は”I want to sleep.”と答えてしまいました…(本当に情けない話ですが、留学生は初めて海外で生活すると、最初のうちは精神的にも体力的にも、もの凄く疲れます。)


<滞在した2人部屋、毎日寝てばかりいました>

アグネスは僕を家で降ろしてくれ、ボルツと2人でまたどこかへ出かけて行きました。僕は昼寝をして、明日からはようやく学校だ…と思ったのですが、夕飯の後にまたまたアグネスに連れ出される事になります(笑)続きはまた次の機会に…


To be continued.
Santa Barbaraその4。へ続く


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Santa Barbaraその2。

ここでは2001年に僕が初めての留学で滞在した、アメリカ西海岸の町、サンタ・バーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方は、Santa Barbaraその1。からお読み下さい。

アグネスと衝撃的な出会いを果たした僕は、彼女のあまりに強烈なインパクトに固まってしまいました。彼女はどう見ても日本人(当時で言う、コギャル)に見えたのですが、英語で僕に話しかけて来ました。ですが僕は英語がほとんど話せなかったので、「あー、えー」と言葉に詰まっていると、アグネスは「ニホンゴ、チョットダケ」と言いました。彼女は日系ブラジル人の3世で、「ワタシノオバアサン、ニホンジン」と日本語で説明してくれました。彼女は日本語が話せるというほどではなかったのですが、それでも僕の英語よりは幾分マシだと彼女も気づいたようで、日本語(と簡単な英単語)で彼女のことを話してくれました。

その時の会話で今でも僕が鮮明に覚えていて、大事にしている言葉があります。アグネスと話していてどうしても英語の部分は聞き取れない所があり、これは日本人の悪いクセでしょうか、僕がただ笑いながら分かったフリをしてうなずいていた時です。アグネスはそんな僕の態度を見透かしたように、彼女の頭を指で指し、”Try to understand. “と言いました。この言葉は忘れることが出来ません。理解する努力を放棄することは、コミュニケーションを放棄すること、それは習慣の異なる外国人と生活する上では最悪だと彼女は教えてくれました。同時に、海外で生活するためには英語を使うことは義務であり、英語が出来ないことは恥ずかしいことなのだと僕は思い知らされました。アグネスは外見はとんでもない不良少女に見えましたが(実際学校でも少々問題を起こしていたようですが…)、親切で面倒見が良く、その後も色々な事を教えてくれました。本来ならば、英語が出来なければ相手にされないのが留学生活の現実ですが、彼女と同じ家に滞在できたことは本当に幸運で、貴重な出会いだったと今は思います。

翌日、朝起きると、ホストファミリーは家にいたのですが、やはり何かをしてくれると言う訳ではなく(不親切に聞こえるかも知れませんが、向こうでは普通です)、やる事も無く英語も話せない僕は家にいる事になんとなく不安を覚え、とりあえずダウンタウンと翌日から通う語学学校を一人で見物しに行く事にしました。ホストマザーに何とかバス停の場所を教えてもらい、地図を片手にバスに乗り込んだのですが、ここでまたひとつ問題が。「バスの降り方が分かりません」。日本のバスには大抵付いている、ストップボタンが無いのです。周りを見てみましたが、ダウンタウンへ向かうバスなので、降りる人がほとんどいません。困った…と思っていると、途中のバス停で乗り込んで来て僕の後ろに座った男性が何やら話しかけて来ました。どうやらお札を小銭に両替してくれと言っているようです。小銭を渡すと彼は前の方に歩いて行き、運賃を払って戻って来ました。どうやらバスでは両替は行っていないようで、小銭の無い人は他のお客さんに頼むんだなあ…と習慣の違いと他人との距離の近さに少し驚いたのですが、僕はちょうどいいので彼にバスの降り方を尋ねてみました。”What should I do, when I get off the bus?”と言ったつもりなのですが、通じませんでした…逆に向こうから、「どこから来たんだ、どこへ行くんだ?」などと尋ねられ、僕がダウンタウンで明日から通う語学学校を探すのだと言うと、「みんなダウンタウンのバスディーポで降りるから大丈夫だ!」と教えてくれたのですが、結局学校の近くでバスを降りることが出来ず、そのまま終点のバスターミナルまで行くハメに…(後ほど、バスを降りるときは壁を這っている線を引っ張るのが停止のリクエストなのだと分かりましたが)、こんな些細なことでも、当時の僕には大きな冒険でした。

<Santa Barbaraのダウンタウンとバスディーポ>

学校からは数ブロック向こうへ行ってしまい、15分ほど歩いて何とか学校を見つけ場所を確認した僕は、お昼を食べにマクドナルドに入りました。日本とは違い、米国ではセットメニューのことを”value meal”などと表記しています。(マメ知識①:「フライドポテト」は実は和製英語、向こうでは”french fry”と呼びます。)セットに番号が付いていたので、”No.1, please”と注文したのですが、その後また知らない単語が返ってきます。”For here or to go?”(マメ知識②:「ここで食べるのか、持ち帰りですか?」の意味で、「テイクアウト」も実は和製英語で通じない事が多々)。とりあえずhereだけ理解できたので”here, here!”と答えると、空のどでかい紙コップだけをドスンと出されました。「なんだこりゃ?」と思ってキョロキョロすると、ジュースなどはドリンクバーになっていて、自分で好きなものを好きなだけ入れるのだと気付きました。一人でハンバーガーを食べていると、同じような年代の若者が英語でワイワイ話しているのが聞こえ、耳に入るのは知らない音ばかり、バスの乗り方もハンバーガーの注文も四苦八苦だった僕はどことなく寂しくなり、雨も降って来たのも孤独感に拍車をかけ、トボトボと家に帰ることにしました。

<通っていた語学学校 EF International Language School Santa Barbara>

滞在2日目、まだ学校のオリエンテーションも受けていないのに早くもホームシックになり帰宅した僕を救ってくれたのは、またも(学校では問題児で有名だった)アグネスでした。続きはまたの機会にご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその3。へ続く

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Santa Barbaraその1。

 このブログ記事の一番最初に載っている写真は、アメリカ西海岸にあるサンタ・バーバラという小さな町のメインストリートです。スペイン風のコロニアルな建物が並び、ヤシの並木がとても美しいこの町は、僕が初めての留学で滞在した、とても思い出深い大切な場所です。今日はその時の事を書きたいと思います。

<Santa Barbaraのメインストリート。ロサンゼルスから北へ150kmほどの場所にあります>

 僕が初めて留学したのは2001年の2月、大学2年生の時でした。今では短期の語学留学なんて、中学生・高校生から経験する時代ですが、当時の僕にとっては本当に大冒険でした。1人で海外へ出たのも初めてでしたし、英語も全く話せませんでした。留学生はだいたい、留学先の空港に降り立つと留学先の学校のスタッフが迎えに来ていて滞在先まで連れて行ってくれる(有料で結構高い)のですが、旅行会社に勤める僕の父は、「住所が分かっているんだから、そんなサービスに頼らず自分の力で行け」、と命令し、父の会社を通じて申し込んだため拒否権もなかった僕は滞在先の住所だけを頼りに、一人でホームステイ先の家を目指しました。

 同じくらいの年齢の日本人の若者をサンタ・バーバラの小さな空港で見て「この人も留学生じゃないかな」と思っていたら、(おそらくホストファミリーだったであろう)迎えの人に連れられて行ったのですぐに孤立した僕はその小さな空港からタクシーに乗り、ステイ先の家に向かう車内で「はじめまして、僕の名前は赤澤信太郎です」と英語で何と挨拶するか、頭の中で繰り返し練習しました。そしてたどり着いたのが、この家です。

<ホームステイで滞在した家>

 車を降りると、ホストマザー(当時30何歳くらいだったでしょうか)が出てきたので、僕は緊張しながら「ハウドゥ・・・」(How do you do. と言いたかった。日本の学校で教えられていたこの一言は、堅苦しすぎて実はあまり使われない表現だと、後から知った…)と言いかけた瞬間、「Oh, △☆○&%×$!!」(分からなかった)と先制攻撃を受けてしまい、僕は完全に出鼻をくじかれました。相手の言っていることが分からないことは恐怖なのだと、初めて知った瞬間でした。ホストマザーは家の中を説明してくれましたが、何を言っているのか全く分かりません

 ルームメイトも出てきて挨拶したのですが、彼の出身国の単語の発音がまた難易度が高く、「I’m from Belgium.」と…。僕はパニック状態で、「ベルジャン?ベルジャンてどこの国?アフリカにそんな国あったっけ?(汗)」、と混乱しているのを見たルームメイトは、「ああ、コイツ全く英語出来ないんだな」、と悟ったようでした。とにかくその時のことで僕が覚えているのは(理解できたことは)、ホストマザーが言った「ここはあなたの家よ、自由にしてね!私はボーイフレンドとデートがあるから忙しいの!」ということだけでした…

 日本人はホームステイと聞くと、ホストファミリーが親切で、町を案内してくれて、食事をみんなで食べて…という感じで想像しがちですが、アメリカの現実は違いました。しばらくすると家からは誰もいなくなり、放置されて何をしていいのやら分からない僕は時差ボケもあり、とりあえず寝るしかありませんでした。起きると夕食の時間帯にも関わらず、家には誰もいません。キッチンへ行くと、何やらパンとソーセージが置いてあります。

もしかして、これでホットドッグを作って夕飯を食べろってこと!?

と僕は初日からいきなり強烈すぎるカルチャーショックを受け、早くも現実から逃避したくなったのですが、このホットドッグを食べた後に、更なる追い打ちが…。それが日系ブラジル人である、アグネスとの出会いです。

<同じ家に滞在したハウスメイトたち>

 一番右側の子がアグネスです。たくましい体型に金髪にガングロ(顔黒は当時の言い方)にジャージ…写真では肉の骨を持っていますが、その時は牛乳に浸したシリアルを食べながら廊下を歩いていました…。その時の恐怖も忘れられません。当時の日本の渋谷でも、ここまで強烈な子はいなかったんじゃないでしょうか…。その後、僕は彼女に色々と助けられる事になるのですが、何しろ最初はただ「怖い」の一言で、本当にとんでもない家に来てしまったと思いました。その続きの話は、またの機会にご紹介したいと思います。

 こんなカルチャーショックも、今では最高の思い出です。みなさまも英語を勉強して、色々な体験をしに海外へ出かけてみませんか?

to be continued.
Santa Barbaraその2。へ続く。

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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