Bostonその1。

このブログ記事は、2001年に大学3年生となった僕が、夏休みを利用して2度目にチャレンジした米国ボストンでの短期留学での経験について書いています。2度目の留学を決意するに至ったのは最初の留学である「留学時代の体験:Santa Barbara編」での経験から続くものです。その経緯につきましてはぜひ、Santa Barbaraその1。のブログ記事からお読み頂ければ幸いです。

 Santa Barbaraから帰国した僕はそこでの悔しさから、国内で英語学校に通うことと次の夏休みに再び海外での勉強に挑戦することを決意しました。当時高田馬場にあったTOEICスクールにてスコアの向上を図りながら、僕は次の留学先を探し始めました。

 Santa Barbaraで4週間通学したEF International Language Schoolは、クラスの質はおそらくそこまで高かったのではないと思いますが(と言うより、おそらく語学学校のクラスはどこも大差ないでしょう)、その留学生のバランス・多様性は非常に素晴らしく世界中から学生が集まる環境が魅力的だったので、次の留学も別の都市で同じスクールを選ぶことにしました。実際に語学学校を選ぶ際のポイントは、そのクラスの質よりも学生の出身国の多様性の方が遥かに大切です(語学留学は、クラスで学ぶ時間よりプライベートで会話する時間の方がずっと長いためです。アジア人ばかりが在籍するような学校で学ぶことは、効果や経験の価値が薄いかと思います)。

 当時恵比寿にあったEFの東京オフィスを訪れて担当者と話したところ、ボストン校が校舎の雰囲気も良くおススメだと推薦されました。最初の留学先が米国だったため英国などの選択肢も頭の片隅にはありましたが、やはり世界の先頭を走る米国で学ぶことの価値、そしてハーバードやMITが立地し世界に冠たる学問の都であるボストンでの経験を選ぶことにしましたが、この選択は今でも人生の大きな財産になったと言えるものです。最初の留学ではホームステイを選択したため、ボストンでは校舎と一体となっている学生寮での滞在を選びました。通常のコースではなくクラスのコマ数が少ないサマーコースのプログラムを選択したのは、クラス内で学ぶよりもクラス外の時間が大切であることを前回に学んでいたからだったかも知れません(笑)

 父が航空会社のマイレージを大量に持っていたのもあり、留学は「無料の特典航空券が取れるタイミングという条件」となりました。既に6月に差し掛かっており夏休み中の米国行き特典航空券を予約することが難しい時期に差し掛かっていましたが、何とか8月出発、9月帰国のボストン往復航空券を見つけることができ、留学期間はそれに合わせた1ヶ月となりました。しかし困ったことに、語学学校の入校可能日に到着する航空券は予約出来ず(学生寮に入れるのはプログラム開始の前土曜日)、その前の水曜日に到着するフライトしか取れないと言う状況でした。父は「土曜日までホテルにでも泊まっておけば良いだろう」と言って、「とにかく無料航空券で行け」と言ったきり後は放置でしたし、僕も前回の留学で米国で自由に動き回るための経験は積んでいたため、ホテルはボストンに着いてから探せば良いだろうと水曜日から土曜日までの滞在先も確保せずに、僕はボストン行きのフライトに乗り込むことになります(母は「海外に行くのに泊まる場所もないなんて!」と、父に向かって若干キレていたのをかすかに覚えています笑)。

 成田空港からサンフランシスコへ飛び、空港から見る5ヶ月振りのSFの風景に懐かしさを感じながら、たまたま仕事でSF空港にいた父と軽く食事をして、僕はボストン行きの国内線フライトに乗り込みました。国内線とは言えそこは広大なアメリカ合衆国を西から東へ横断するフライト、サンフランシスコからボストンへの飛行時間は5時間を超える距離です。成田〜サンフランシスコ乗り継ぎ〜ボストンのルートはトータルで20時間くらいはかかったでしょうか、現地時間で既に日も落ちた夕刻に、僕はボストン空港に到着しました。

<ボストン空港のヒルトンホテルより>

 まだ滞在先も予約していなかったのでどうしようかと思いましたが、時間もすでに遅かったため最初の1泊はやむを得ず空港近くにあるヒルトンホテルへ行く事にして、翌日にダウンタウンにあるリーズナブルなホテルへと移ることにしました。何しろ知り合いもまだいないボストンで3泊ものヒマな時間があります(苦笑)空港から電話で最初の1泊の予約を確保してホテルのシャトルバスにてヒルトンへ向かい、ホテルで木曜日と金曜日の夜に滞在するダウンタウンのホテルを探して電話にて予約を入れました。当時はまだオンラインでの予約はまだそこまで普及しておらず、まだまだガイドブックと電話が頼りになる時代でした。最初の留学の時ですら語学学校の出迎えサービスの利用を禁じられた僕でしたので、3日も早く到着した僕を語学学校まで案内してくれるスタッフなどいるはずもなく(苦笑)それでも夏休みのボストン留学前に僕のTOEICスコアは800点に達していたため、移動や予約、ある程度の日常会話に困ることはすでにありませんでした。この事は、英語だけを勉強するなら日本国内でも十分に可能だと言う事を意味します。逆に、なんの基礎もないまま海外に1年や2年滞在、または海外の大学を卒業しても、驚くほどに英語が話せるようにならない人が沢山います。学習に大切なのは場所や環境よりむしろ、本人の意思です。

<ダウンタウンのミルナーホテル>

 空港近くで1泊した翌日、僕はバスと地下鉄を乗り継いでダウンタウンにあるリーズナブルなホテルへ移動しました。バスルームにドアもないようなホテルでしたが、大学生が1人で滞在するには贅沢なくらいだったかも知れません。しかしダウンタウンに移動してもまだ友達もおらずやる事も無かった僕は、とりあえず1人でボストン市内観光へ繰り出しました。市内一高い高層ビル、ジョン・ハンコック・タワーの展望台(当時は一般人が入れた)や落ち着いた雰囲気のショッピングスポットがあるニューベリー・ストリート(Newbury St.)、瀟洒な住宅が立ち並ぶビーコン・ヒル(Beacon Hill)や中心部の広場ボストン・コモン(Boston Common)を散策し、夕飯はホテル近くのチャイニーズのファストフードで済ませました。

<ジョン・ハンコック・タワー>

<展望台よりケンブリッジ方向を望む>

<ニューベリー・ストリート>

<アメリカではポピュラーな中華のファストフード>

 翌日は父の会社の取引先で日本人が経営する現地旅行会社へ挨拶に行きましたが、スタッフが全員日本人女性であったことが印象に残っています。海外へ出て行くのはやはり女性の方が積極的なのは、今も変わっていないのかも知れません。その会社のオフィスはHarvardを1駅越えたPorter Squareと言う場所にあったのですが、そのビルは日本人経営の旅行会社の他にも日本の食材を売るスーパーや日本食のレストランが集まっていて、本当に小さな小さな日本人コミュニティが存在していました。米国ではチャイナタウンやコリアタウンは数多くあれど、日本人が町レベルでコミュニティを形成している場所は多くはありません(LAにはリトルトーキョー、SFにはジャパンタウンがありますが、町の半分くらいがコリアタウンと化しています)。あまり大きな日本人コミュニティを作らずどちらかと言えば現地に溶け込んで生活するのが日本人移住者の特徴ですが、それでも国籍や出身国とその繋がりと言うものは完全には消えないのだと言う事を理解させる場所でもありました。

<ボストンの地下鉄・ストリートカーの愛称は”T”>

 1人で3泊を消化した土曜日、ようやく学校の学生寮に入ることができるようになった僕は地図を頼りにスーツケースを引きずりながら、T(ボストンの地下鉄・ストリートカー)にて語学学校へ向かいます。続きは次回のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Bostonその②。へ続く

Santa Barbaraその18。SBでの経験がくれたこと

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 サンタバーバラでの最後の1週間、僕らは英語の勉強よりも「カリフォルニアを最後まで満喫すること」に気持ちが傾いて行きました。良いことも悪いこともある日々でしたが、それらが全て「かけがえのない思い出であり経験」だと言うことを、共通に感じていたからだと思います。放課後はそれまであまり散策しなかったサンタバーバラのミッションや市役所、ビーチなどを毎日訪れました。今思えば、僕らは真面目過ぎる留学生だったかも知れません(笑)

<サンタバーバラの市役所は街のシンボル>

<町外れにある”Santa Barbara old mission”>

 サンタバーバラでの最後の水曜日の放課後、僕とマユミとナギサはサンタバーバラの近くにソルバングという綺麗な町がある事を聞き、翌日の午前中のクラスはサボって(笑)その町へ一泊二日の小旅行をすることに決めました。スピード違反が片付いたばかりにも関わらず懲りもせずに僕は再び国際免許証なしでレンタカーを借り、サンタバーバラから片道一時間ほどの場所にあるソルバングへと、今度は速度に気をつけながら(苦笑)向かいました。

<ソルバングは北欧を模した小さな町>

 当日の思いつきでレンタカーを借りて飛び出したためホテルも予約しませんでしたが、町外れの小さいながらも素敵なモーテルに飛び込んだところ、部屋は一泊たったの40ドルでした。夕飯を町の小洒落たレストランで取り夕飯後は部屋でお酒を飲みながら、最後の語らいの時間を楽しみ、翌朝は北欧を模して作られたソルバングの町やオールドミッションを散策して、昼頃にサンタバーバラへと帰着しました。クラスへ戻るとクラスメイトに”You skipped your class!”(あなた、クラスをサボったわね!)とからかわれましたが、このショートトリップも最後にまた一つ仲間たちと時間を過ごすことが出来た、とても大切な思い出です。

<飛び込みで宿泊した町外れの素敵なモーテル>

 そして最後のクラスの前日、僕はボルツに「最後に一緒に遊びに行こう」と誘われていたのですが、当時ボルツとアグネスが大ゲンカをしている最中で(その理由も、アグネスが僕の夕飯は作ったのにボルツの分は作らなかったと言う、何とも下らないものでしたが…苦笑)、アグネスが横から現れて「そいつと一緒に行く必要はない」とクギを刺し、間に挟まれた僕は何も言えずに”I can’t choose…”と困り果てた事を覚えています。最初から最後まで、僕はアグネスの舎弟であったのは間違いありません(笑)

<語学学校のクラスメイトたちと最後の記念撮影>

 そして語学学校での最後のクラスを終えた金曜日、クラスで記念撮影をして学校とお別れをした僕らにアンドレアを加えた仲間たちは、町のイタリアンレストランで最後のランチを一緒に食べたあと、サンタバーバラの町を散策して、バスディーポでそれぞれのバスに乗ったのが1カ月を共に過ごした仲間たちとのお別れとなりました。それぞれが日本の各地に散っていたためその後当時の仲間との再会は叶っていませんが、第2の故郷で思い出を共有した仲間たちの名前や顔はもちろん、その声まで20年経った今でも、ハッキリと思い出すことができます。

<最後の授業後にアンドレアと>

<サンタバーバラのバスディーポが最後の別れの場>

 そして1か月滞在したステイ先を離れサンフランシスコへ向かう際に、腰の手術をしたためベッドから動けなかったカレンは最後に僕を呼んで、「あなたのお別れパーティーを開けなくてごめんなさい。あなたは本当に素晴らしい青年だったわ。次に来る時にはこの家にいつでも泊まってね、お金はいらないわよ」と言ってくれました。もう少し英語が話せたらちゃんとしたお礼が言えたはずでしたが、僕は”Thank you, I enjoyed.”と言うのが精一杯でした。この時も懐の深いホストマザーとアメリカ合衆国と言うオープンな国に対する感動を覚えたと同時に、英語が話せない自分の情けなさを再認識した事を深く覚えています。カレンの母親がボルツと共に(笑)サンタバーバラの空港まで送ってくれましたが、ボルツが最後に”Next year!”(また来年!)と言った事も、最後まで彼らしいなと笑った良き思い出です。

<小さな空港でタクシーに乗る事から始まった留学生活>

<サンフランシスコを1人で巡りながら色々な事を考えた>

 その後2日間サンフランシスコで思い出の場所を1人で巡る間、そして帰りの飛行機の中で僕が考えた事はと言うと、

「このまま終わる訳にはいかない。英語を話せるようにならなければいけない。世界で通用する人間になりたい」

と言う悔しさと、新しい人生の目標でした。帰国した僕は次の夏休みでのリベンジに向けて、英語学校に通いながら狂ったように英語力の向上に取り組んで行くことになります。それはまさに日本にいながら英語漬けの日々を送る毎日で、週3回の英語クラスの出席に加えて通学の電車内では単語の暗記とリスニング、毎日カフェでTOEICテキストに取り組み、大学の講義中も英語のテキストを開き(笑)、娯楽も海外ドラマのDVDを英語字幕で見ると言う徹底振りでした。サンタバーバラからの帰国直後に英語学校で受けた診断テストでのレベルはTOEIC560程度でしたが、二か月後に初めて受けた本試験では650、その翌月のテストではスコア800に達することが出来たのは、サンタバーバラでの悔しさがあったからこそです。1か月と言う短い期間でしたが、そこでの経験はその後の人生を完全に変えるほどにショックでありながらも刺激的なものであり、それまでは理由もなく義務としてしの勉強しかしたことが無かった僕に、人生の目標前向きな姿勢を生まれて初めて与えてくれたものです。今でも僕は、サンタバーバラは自分が生まれ変わることが出来た第2の故郷であると思っています。

 よく「英語力の向上に最も効果が薄いのが短期留学だ」と単純に主張する人がいます。「その期間の英語力の向上」だけ見れば、それは嘘ではないかも知れません。たかだか1〜2か月の短期留学で英語力が劇的に向上することはあり得ないでしょう。ですが、その短期留学を無駄と思うのか、その後の糧とするのかはその留学した本人次第であり、2年留学しても海外の大学を卒業しても、驚くほどに英語が話せない人も沢山います。大切なことは海外に滞在した期間の長さではなく、その経験を生かしてどれだけ自分で頑張れるか、すべてその後の本人次第です。そして海外へ出ると言う機会がない限り、英語力の必要性を実感する機会はなかなか得るのが難しいものです。その意味でも僕は、例え短期であっても海外で生活をして、異文化の違いと英語の必要性を実感すると言う経験は必要不可欠なものだと思います。僕が米国に滞在した期間はトータルでも4か月にも満たないものですが、それでもその経験をきっかけとして、今ではネイティブスピーカーと英語で議論したり海外で英語でケンカをすることも出来るようになりました。「短期留学は無駄である」と言う主張は本質的なポイントが抜け落ちている、余りに単純な間違いであることを僕は指摘しておきたいと思います。経験に「無駄なこと」など一つもありません。初めから「無駄だ」と思ってしまえば、その時点で成長はゼロです。何事も「実際にやってみる」ことで初めて、そこに何らかのきっかけや価値が生まれます。

 サンタバーバラから帰国して4か月の間に僕のTOEICスコアは200点以上向上し、日常会話はある程度こなせるようになった大学3年の夏、僕はボストンにて再び海外での生活にリベンジしました。それはサンタバーバラでの悔しさに対するリベンジであり、英語を少しは身につけた僕の最初の挑戦でもありました。サンタバーバラでの経験が人生の転機とすれば、ボストンでの経験は僕にとって飛躍をもたらすものとなります。今でも関係の続く貴重な出会いとその財産については、次回より「留学時代の体験:Boston編」にてご紹介したいと思います。

To be continued.

Bostonその1。に続く

Santa Barbaraその17。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 ロサンゼルスからサンタバーバラへの帰り道で国際免許証不所持のままパトカーにスピード違反で捕まった僕は、気力を振り絞ってやっとの思いでサンタバーバラへと帰着しました。(追記:カリフォルニア州でも州法上、日本人は日本の免許証だけで運転することが許可されているようですが、このような事態に備えて、あるいは州をまたいで運転することに備えてやはり翻訳文の所持は推奨されます)

 雨が降りしきるなかメンバー全員をそれぞれのステイ先に送り届けたものの、「もう声も出ない」という気分でした。今なら全く気にならないと思いますが、当時はまだ英会話もロクにままならない青二才で、どうやってベンチュラの裁判所に出頭して、何をすれば良いのか…。頭には不安しかありませんでしたが、何しろ疲れ切っていたので、眠れなかったという記憶はありません(苦笑)

<スピード違反で捕まったスポーツタイプの車>

 翌朝はレンタカーを返却しなければならなかったため車で登校しましたが、毎朝アグネスと登校することが日課になっていたため、2人でその車にて学校へ向かいました。アグネスに「昨日パトカーに捕まってさ…」などと話した記憶はあるのですが、今思えばスピード狂だったアグネスが捕まったと言う話は聞かなかったので、僕はよほど運が悪かったのでしょう(笑)

 確かにアメリカでは、日本のように早く走っている車が捕まるのではなく、パトカーがフリーウェイに入って、前にいる車が例え5マイルでも制限速度を超えていれば、その車が捕まります。地下鉄の無賃乗車もそうですが(例えばロサンゼルスの地下鉄は改札がない「信用乗車方式」ですが、出口に警官がいることがあり切符を持っていないと高額な罰金となります)、取り締まりに高額の罰金と見せしめ的な心理を利用するあたりは、欧米のやり方は全てをキッチリやろうとする日本とは考え方が異なるかも知れません。こうした社会システムの違いを知ることも、海外における貴重な経験となるものです。

 アグネスと学校にたどり着いた僕は、学校の受付スタッフに泣き付きました。”Can you help me?” “I was caught by a patrol car yesterday…”などと英語で説明する必要があったのはある意味で良い勉強であったのかも知れませんが、スピード違反のチケットをスタッフに見せると、”Oh, you were driving too fast.”と笑われたことを覚えています。

 わずか1か月の滞在でこれだけコミュニケーションが取れるようになったのはある意味では留学が大成功だったと言えるのかも知れませんが、その時はそんな事を思う余裕はなく、ただ必死でした(泣)「ベンチュラの裁判所に来いって言われたんだけど、今週末には日本に帰国しないといけない」と相談したところ、”Meet principal.”(校長に相談して)と言われたので、僕は以前に噛み付いた校長に対して、今度は泣き付く事となり…(笑)

<スピード違反の舞台となったVenturaの位置>

 校長室を訪れ事情を説明すると、校長はベンチュラの裁判所へ電話で確認したあと、「裁判所に行かずにチケットを処理する方法は2つ、check(小切手)を郵送するか、クレジットカードで支払うかね、ただしカードで払う場合は値段が上がるわね」と僕に伝えました。「チェック…トラベラーズチェックで払えるの?」と聞くと、「違うわよ、銀行のチェックよ」と言われてしまい…(当たり前ですが。笑)「どちらで払うか、明日教えてね」と言われてその日は保留となりましたが、何しろ早く安全にこの問題を処理したい僕の選択はクレジットカード一択でした。2001年当時でもアメリカでは既にスピード違反の罰金までカードで払う事が出来る社会でしたので、旧態依然とトラベラーズチェックを持ち歩いていた当時の日本と比べると、少なくとも15年は進んでいたと言えるでしょう。兎にも角にも翌日に校長室を訪れた僕は校長にカード番号を託して、何とか裁判所への出頭を逃れることができたのです。

<良いことも悪いこともてんこ盛りであったEF Santa Barbara>

 駐車違反スピード違反、しかも国際免許証不携帯と、初めての、しかもわずか1か月の短期留学でこれだけやらかす留学生も珍しいかとは思いますが、良い思い出も悪い経験も含めて、今の成長した自分があります。その意味ではかなり無鉄砲ではありましたが、1ヶ月間のサバイバルは日本では体験することが難しい良き修行であり、その後の更なる挑戦を可能にしてくれたかけがえのない日々であったと思います。今後の日本と世界を担う若者にはぜひ学生のうちに海外へ飛び出して、幅広い見識と逞しさを身につけて欲しい、そして日本という私たちの母国を深く理解し考える機会を持って欲しいと願うばかりです。短期であれ長期であれ、そうした日常では経験出来ない特別な機会を与えてくれるのが留学なのだと、みなさまにお伝え出来れば幸いです。

 永らく書き連ねて来たサンタバーバラでの経験も、間もなく最終章を迎えます。結びは次回のブログにて書いて行きたいと思います。

To be continued.

Santa Barbaraその18。へ続く

Santa Barbaraその16。

 ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 前日にコリアタウンで夕食を楽しみ、2つのベッドルームを持つゴージャスな部屋を満喫した僕らは、翌朝にナギサとホテルのロビーで待ち合わせをしました。(2ベッドルームと聞くともの凄く豪華に聞こえますが、4人でシェアしたので1人当たりはそこまで目が飛び出るほどではありません。海外のホテルは「一部屋一泊」あたりのレートなので、人数が多いと割安に泊まれます)。メインのロビーで待っていたのですが約束の時間になっても現れず、当時は海外対応の携帯も持っていなかったためどうしたものかと思い始めた際にハタと気がつきました。「これだけのホテルだと、もしかして他にもロビーがあるんじゃないか」と。案の定、ホテルの別のサイドに行ってみるとやはり別のロビーらしき空間があり、そこでナギサを見つけることが出来ました。

<ハリウッドにて。>

 その日はちょうどミチコの誕生日だったため、ナギサはホールのケーキを買って来てくれました。どこで食べようかと思ったら当然、「ロサンゼルスなんだから、ビバリーヒルズのど真ん中の公園で食べよう!」と言う、これまたセレブのモノマネみたいなことを思いつきました(もっとも、本物のセレブは公園でケーキなど食べないでしょうけど…苦笑)。ビバリーヒルズの公園でミチコの誕生日を祝い、ロサンゼルスのシンボルであるハリウッドのチャイニーズ・シアターを訪れ、ハリウッドサインを遠くから記念に写真に収めた僕らは、ロサンゼルスの最終目的地であるサンタ・モニカへと向かいました。

<ビバリーヒルズの公園にて誕生日を祝う>

 ロサンゼルスと言えばビバリーヒルズサンタ・モニカのイメージが強いですが、実はこの3つはそれぞれに独立した市であり、行政区分上は別の都市です。もっともそれもまとめて「ロサンゼルス」を形成しているのは間違いないことでもありますが(ディズニーランドや成田空港が千葉県にあるのと同じようなものでしょう)。陽光きらめき人々が日光浴やローラースケートを楽しむはずのサンタ・モニカに到着した時にはあいにくの雨…でしたが、サンタ・モニカにはロデオドライブとは異なり、庶民でも手の届くアメリカのブランドショップやモールが集まっていたため、ようやくショッピングを楽しむことが出来ました(笑)その後レストランで夕食を食べた僕らは、日が落ちたハイウェイをサンタ・バーバラへ戻って行ったのですが…

<雨のサンタ・モニカ。この雨が更なる悲劇を誘発する>

 雨は強くなり、あまり周囲の見通しが良くない中で僕は一番左側の追越し車線を(アメリカは右側通行のため、1番流れの早いのは左側の車線)周りのスピードに合わせて制限速度を超えた速度で走っていた時です。バックミラーに、急に赤と青の光が写りました。そう、パトカーに後ろにつかれてしまっていたのに気づかなかったのです(汗)「やばい!」と思って速度を落として右側の車線に移りましたが、もちろん手遅れです。しばらくソロソロと走っていましたがとうとうサイレンを鳴らされてしまった僕は、車を路側帯へと止めざるを得ませんでした。

 さて、ここで1つ、普通に捕まるよりもさらにヤバい状況があったのです。スピード違反で捕まったのはしょうがないとしても、それよりも焦ったのは「国際免許証を持っていない」という絶望的な事実でした…。止めた車に警官が近づいて来たとき、メンバーの全員はもう言葉すら発する事が出来ませんでした。運転が出来るのは僕1人だけ、その人間が免許を持っていなければどうなるのか…。まさに「血の気が引いた」「顔面蒼白」という表現がピッタリの、絶望的な気分と絶体絶命の状況です…

 警官がやって来て、当然ですが免許を見せるように言われましたが、ある訳がありません。追い詰められた僕はとりあえず、トランクから日本の免許証を取り出し、破れかぶれでそれを見せてみたのですが…

当然ながら警官は読めるはずもなく、

Officer : What’s this?(何だこれは?)

Me : Japanese driving license(日本の免許です)

Officer : Don’t you have a California license?(カリフォルニアのライセンスは?)

Me : I don’t have it…(持っていません…)

となり、警官は僕にパトカーへ来いと促しました…

 「終わった…このままジェイル(拘置所)に連れて行かれるだろう…」と覚悟を決めましたが、残されたメンバーと車はどうなるんだろう…と言う心配もあり、自分にはどんな処分が下るのか、と言う恐怖もあり…

 警官は僕をパトカーへ入れると、隣に座り僕の情報を記録し始めました。「身長は?」「体重は?」「目の色は?」「国籍は?」「滞在先は?」などと聞かれ、日本の単位で回答したので少しやり取りが混乱した部分もありましたが(アメリカは長さや重さの単位がインチやフィートなど特殊。ただ、身長をセンチメートルで答えたあとに、”Do you know how tall it is?”などと聞き返したのを覚えていて、おそらくマズいを越えてしまって観念していたのか、意外な冷静さはあったのかも知れません苦笑)、免許証番号の欄には”NONE”(なし)と記入されたことを今でも覚えています。ひと通り記入すると、スピード違反の切符を渡されて「Courthouse(裁判所)に出頭しろ」と言われました。

 「やっぱり大変なことになった」と勝手に決めつけながら恐る恐る「サンタ・バーバラの裁判所ですか?」と尋ねると、「違う、Ventura(ベンチュラ)の裁判所だ」と言われます…(捕まった地点がベンチュラと言う場所だったので、当然そこへ出頭となるのですが、色々と聞き返すだけの気の強さがあったのは今思うと不思議です。そして、Venturaという地名がもう忘れられません笑)。

 「このまま裁判所へ連れて行かれるんだな」と覚悟をした瞬間に、意外なことが起きました。警官が、「今日は雨で視界が悪く危ないから、安全に運転して帰るように」と言うのです。

 「え!?運転して帰っていいの??(免許無いんだけど)」と尋ねると、「もう行っていい、気を付けろよ!」と言うのです。「何が何だか分からないけど、今日のところは解放されるのだ」ということを理解し、今度は安堵でまた血の気が下がるのを感じました。

 実はかなり後になって知ったのですが、国際免許証と言うものはあくまで日本の免許証原本のただの翻訳文であり、法的に有効であるのはあくまで「日本の免許証」なのです。ですのでハワイ州やグアムでは日本の免許証だけで運転することが許可されていますし、サンタバーバラのレンタカー会社も車を貸してくれたと言うことです。逆に言えば、国際免許証だけで車を貸してくれるレンタカー会社は世界のどこにもありませんし、国際免許証のみを所持して運転することは違法になります。知らずにやっていながら運が良かったと言えますが、ギリギリ「違法」ではなかったと言うことなのでしょう。ただそうは言っても現地の警察官が原本を読めなければ、もちろん警察署へ連れて行かれる可能性はあります。法的義務がないにも関わらずハワイ州やグアムでも国際免許証の所持が「推奨」されているのはそのためです。みなさまは「絶対に」真似をしないでください(苦笑)特に、英語でのコミュニケーションがままならないと、連行される可能性は倍増します。

<免許センターに申請すればすぐに発行される国際免許証はあくまで免許証の「翻訳証」>

 このようにして、初めての留学の最後の週末に、最大のトラブルかつ最大のピンチが待ち受けていました。今思えばこれも、とても良い経験であり様々な教訓と知識となったものだと思えるのですが、「コートハウス(裁判所)へ来い」と言われていたので、この問題を処理し終えるまでは生きた心地がしませんでした(苦笑)「裁判所」と聞くと日本では相当に深刻なイメージになりますが、アメリカでは裁判所は意外にも身近な存在であり、スピード違反の罰金なども裁判所で支払います。こうしたアメリカにおける裁判所の位置付けを知ることが出来たことだけでも、この経験は決してマイナスばかりではなかったと「今では」(笑)思います。

 その後のスピード違反の処理とサンタバーバラで過ごした最後の日々につきましては、また次回のブログにてご紹介したいと思います。

 みなさまも、ぜひ世界に飛び出して様々な経験を実際にされてみて下さい。良いことも悪いことも、その全てが自らの世界を必ず広げてくれます。

To be continued.

Santa Barbaraその17。に続く

Santa Barbaraその15。

 ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 ユンが僕らのステイ先から韓国へ帰国したその週末、僕は近しい仲間たちとロサンゼルスで最後の週末を過ごす予定になっていました。1番近いロサンゼルスがなぜ最後の週末まで持ち越されたかと言うと、近しいメンバーの1人だったナギサがこの週末にロサンゼルスで友人と会う約束をしていたため、他の目的地(サンフランシスコ・サンディエゴ)を先に回したためです。ナギサとは2泊目のホテルで合流し、帰りは一緒にサンタバーバラへ戻る約束をして、旅の当初のメンバーは僕とナツコ、マユミ、ミチコの4人となりました。いま思えば、同一行動するならこのくらいの人数が最適なのかも知れませんが、留学中は何かと色々な人間が集まってしまうものなのかも知れません(苦笑)

 金曜日の最後のクラスを終え、クラスメイトでもあったユンとは最後に記念撮影をしてお別れとなりました。もう少し僕が英語が話せたら、連絡先を聞いたりその後もやり取りを出来たと思うのですが、残念ながらその時はまだそこまで出来るようにはなっていませんでした。ですがこの時のサンタバーバラでの悔しさ・情けなさが、その後の僕が頑張れるようになった原動力であり今の全ての原点であるのは間違いありません。英語は上手くは話せませんでしたが、短くとも人生の転機だったと言える貴重な日々であったのだと思います。

<ユンと最後に撮影した写真。英語力の低さを痛感したことは大切な経験だった>

 3度目の週末ともなれば小旅行の手配も慣れたもので、レンタカーはスクールから予約を入れてもらい、ホテルは自分で電話をかけて予約をしました。(←語学学校のコーディネーターは頼りにならないことはサンディエゴで学んだので…)1泊目はユニバーサルスタジオ・ハリウッドに近いモーテル、2泊目は最後の週末の記念に、歴代のアメリカ大統領も宿泊したと言う “Biltmore Los Angeles” に宿泊することにしました。日本の免許証を見せればサンタバーバラではレンタカーを借りられると言う悪知恵もしっかり付いていて(苦笑)、5人乗りのスポーツタイプのセダンをレンタカーし、ロサンゼルスへと向かいました。この悪知恵が後に自分を窮地に追い込むことになります。(お読みの皆さまは「くれぐれも」真似をしないでください。汗)

<スポーツタイプのセダンは目線が低く運転し辛かった>

<1泊目はユニバーサルスタジオに近いモーテル>

 金曜日の午前中のクラスを終えた僕ら4人は、まずモーテルにチェックインをしたあとにハリウッドの「ロデオ・ドライブ」へとショッピングへと向かいました。いま思えばハリウッドのセレブがスーパーカーで乗り付けて買い物をするロデオ・ドライブで、モーテルに宿泊するような一般庶民の留学生が買えるようなものはほとんどないのですが、観光的なノリも半分くらいでバックパックを背負ったようなカジュアルな格好で出かけてしまいました。本当にお上りさん丸出しだったかと、今は恥ずかしくもあります(苦笑)ミチコは記念にとカバンを一つ購入していましたが他のメンバーは結局何も買うこともなく、映画「プリティ・ウーマン」の舞台となった “Beverly Wilshire Hotel – Beverly Hills” を外から見学し、ビバリーヒルズの超高級住宅街の中をブラブラとドライブしたあと、ロデオ・ドライブ近くのイタリアンレストラン「プレゴ」にてディナーを取りました。本当に、知らないと言うのは恐ろしいことで…「プレゴ」の2階では何やら貸切りでのセレブなパーティーが開かれていましたが、そんなレストランにカジュアルな服装で入った挙句にメインディシュのみを頼んでシェアをすると言う、全く持って若気の至り的な、知らないから出来たような身分不相応な半日を過ごして、その日はモーテルへと帰ることになります。

<ロデオ・ドライブにて。>

 翌日はユニバーサルスタジオ・ハリウッドを夕方まで満喫しました。ロサンゼルスと言えばディズニーランドも有名ですが、当時はまだ日本にはUSJも存在しなかった時代、ディズニーランドは東京とあまり変わらないと言うウワサも手伝って僕らの選択はユニバーサルスタジオ一択となりました。ウォーターワールドとジュラシックパーク・ライドでずぶ濡れになりつつも、カリフォルニアの乾いた空気と暖かな日差しの下でユニバーサルスタジオを満喫した僕らは、ロサンゼルスでも名門ホテルである “Biltmore Los Angeles” へと向かったのですが…

<ユニバーサルスタジオは当時はまだ日本には無かった>

 ここでメンバーの誰も経験したことのない壁が待ち受けていました、”Valet Parking” です。「バレー・パーキング」とは、ホテルの車寄せに自家用車で乗り付けると、係員がカギを預かって駐車場へと持って行ってくれるサービスのことです。映画のワンシーンでセレブがよくやっている、スマートにカギだけ渡してホテルへと入って行くこのサービスを、免許を取ってまだ数年の日本の大学生が経験したことなどあるはずもなく…(汗) あたふたと荷台から荷物を出し、何も分からないままカギを渡すと車を出す時の連絡の仕方を説明されたのですが、完全に舞い上がっていた僕らはチップすら渡すことが出来ませんでした。カジュアルな服装の子供みたいなアジア人がビニールバッグを背負ってロサンゼルスの名門ホテルのバレーパーキングへやって来た姿は、恐らく大層滑稽な光景だったことでしょう(苦笑)僕らにとっては良い勉強だったかも知れませんが、身の程知らずとはまさにこのことだったかと思います。

<Valet Parkingは日本人にはハードルの高いサービス(写真はフロリダにて)>

<ビルトモア・ホテルにて富裕層の“フリ”(笑)>

 その後ゴージャスな部屋に大層はしゃいだ僕らは夕飯はどうしようかと言う話になったのですが、ガイドブックでコリアタウンがある事を知った僕は「夕飯はコリアンBBQ(焼肉)にしよう!」と安易に思いつきました。いま思えば、アメリカのチャイナタウンやコリアタウンがどんな場所かも知らなかった僕らは、何とかバレーパーキングから車を取り出し(チップはまた渡し忘れた記憶が…)、車でコリアタウンのある住宅街へと向かいました。コリアタウンに差し掛かるとハングル表記の看板が現れ始め、「もうすぐだー」とはしゃいだのは一瞬で…。中心部付近に着いているはずにも関わらず、まばらに商店があるだけで薄暗い町を目の当たりにした僕らは(既に陽は落ちていた)、車から降りて歩き回ることは非常に危険だと言うことを明らかにみな察した空気になっていました(汗)「歩き回るのは危ないから、駐車場のある店に入るしかない」と考えた僕らは焼肉へのこだわりを捨て、駐車場が目の前にあるレストランへと車を止め、そそくさと店内へと駆け込みました。

<コリアタウンは住宅街なので基本的に暗い>

 思えばまだ日本人は韓国のことをほとんど知らなかった当時、「韓国料理」というものを食べるのは初めての経験でした。幸いなことにレストランには料理の写真が大きく貼り出されていたので、カルビ(と思われるもの)、トッポギなどいくつかの料理を頼んでシェアしたのですが、まだ辛い食べ物に慣れていなかった僕らはその辛さに驚きました。唇が痛くなるのを感じつつも初めての韓国料理を美味しく楽しんだ僕らが、ロサンゼルスに息づくコリアタウンの文化と状況も知ることができたのは、今思えば良い経験だったのだと思います。

 レストランで食事を終えたあと外に出ると、メンバーの一人が道路の反対側に小さな商店があるのを見つけ、飲み物などを買いたいと言い出しました。僕は正直、「信号を越えるだけでも歩くのは危ないんじゃないか」とは思ったのですが、素早く動けば大丈夫だろうと思い小さなリスクを伴うわずかなアドベンチャーに挑戦しました。(道の反対側へ渡っただけです。笑)幸いなことに暴漢に襲われることもなく車に無事に帰り着いた僕らは車で夜のハリウッドの方向へ向かったのですが、とある繁華街を通過した時に、ロサンゼルスで夜に出歩くのは危険だと言う雰囲気を感じ取り、車から降りることなくホテルへと帰ることにしました。

 アメリカはどこの街も同じですが、夜に徒歩で歩き回るのは非常に危険です。特に人気のないダウンタウンや住宅街を、夜に一人で歩くのは自殺行為とも言える行動です。幸いなことに車で移動していた僕らは、コリアタウンや繁華街を車で通過することでそう言った雰囲気を肌で感じることも出来ました。アメリカはやはり車社会、車で移動できると言うことにはアメリカでは様々なメリットがありますが、翌日の夜にサンタバーバラへ帰る途中に無免許運転の代償(正確には無免許ではなく国際免許証不所持)も味わう事になります。続きは次回のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその16。へ続く

“imperfect”であることを、受け入れてみよう

 本日の記事は、ちょっと抽象的な内容です。あまり現実的な実の無い「心の持ちよう」のようなところもございますので、興味のある方のみお読みください(笑)。

 僕はこれまでの人生で酸いも甘いもジェットコースターのように経験して来た中で、幸せに生きるコツとはきっとこうだろうといま考えることは、人間とはimperfect(不完全)な存在であることを受け入れる勇気を持つことかなと思っています。そもそも僕らは「ヒト」という名の動物の1種であり神様ではありませんので、完璧であることを求めずに人生を楽しんでも良いのだと考えると、色々なことが楽になり上手くいくことも増えるのかなと思います。こういう表現をすると人間の尊厳を侮辱しているように聞こえるかも知れないので誤解の無いようにしておくと、向上心はもちろん必要ですが、「自分は理想的な姿になれる/なるべき」と考えてしまうと、自らの人生や社会は狂い始めるのではないかという、ある種の提起のようなものとお考えください。

 近年はコンプライアンスだの環境保護だのと、私たちを「締め付ける」ものがどんどん増えています。もちろんこれらは必要なことであり、その行動を個人がサボればどこかで誰かが傷つきますので、概念としては誰もが持っていなければならないものです。一方で、その概念のために自らを追い込んで傷つけるのであれば、そもそもの目的を最初の段階で裏切ってしまい、本末転倒ではないかなとも思うのです。「人や社会に優しくするためには、まず自分に優しくしよう」とでも表現できるでしょうか。

 現代人は近代社会が求める合理性の中で、機械のように正確に生きて、ミスをしないことが要求されるようになってしまいました。しかしながら、そもそも私たちはベースが生物ですので、自らの意思だけで正確に完璧に生きることは事実上不可能なのであり、むしろ完璧を求める理想こそが逆に合理性を欠いていると僕は考えています。また、機械のような合理性を追求した人間の能力は、残念ながら120%の実力を発揮する「人の欲求」をベースにした行動は越えることが出来ないものです。好きなことをやっている人には、どれだけ優秀な人でも勝つことは決して出来ません。人間や社会はこれまで、そのような「人の欲求」の力のおかげで発展してきました。資本主義とはまさに、この原理を究極に利用したものです。

 現代人は情報伝達が発達した社会の中で「こうすべきだ」とか「この方が良い」、「こんな素晴らしい人がいる」というメッセージを、毎日無意識に、かつほぼ強制的に浴びせられて生きています。しかし、そもそも人間は機械ではなく生き物であり、生まれながらにして個々に違う存在である以上は、誰かが考える「パーフェクト」とは自分にとっては「パーフェクトではない」こともありますし、その逆ももちろんあるでしょう。お金をたくさん稼げば幸せな人もいれば、趣味に没頭した方が幸せな人もいます。1人でいる方が良い人もいれば、社会に貢献して初めて幸せを感じる人もいます。

 完全に僕の個人的な想定でしかない話ではあるのですが、僕は人間の50%は動物としての欲で構成されていると考えています。食べる、寝る、子孫を残すといった動物としての3大欲求は、私たちは絶対に否定できない感覚であるからです。

 そして、その他の50%の部分の中に、人としての「理性」と「人間特有の欲求」があると僕は考えています。ここは動物であれば考えることのない「ルール」や「モラル」であったり、「承認欲求」や「達成欲」、「自己実現」などがここの概念に相当します。

 歴史を振り返ってみれば、ヒトという動物が食物連鎖の頂点に立ったのはこの「理性」を使って自らの「動物としての欲」を最大化してきたからに他ならないでしょう。つまり人間が言う合理性とは、その目的自体は自分たちの「生物としての欲」を最大化するためのものだったと言えます。単純に表現するなら、もっと安定的にご飯を食べて、もっと効率的かつ楽に安全に仕事をして、もっと健康に生きて長生きしてもっと自らの子孫をたくさん増やしたい、これが人間が社会に求めて来たことです。そしてこの「理性」を活用する副作用として同時に発生したのが、動物として生きるためには必要なかったはずの「人間特有の欲求」です。動物としての欲求と人間特有の欲求を明確に区別するために、ここではそれぞれを「生活欲」と「理性欲」と仮称をつけて、別個のものとして定義してみたいと思います。

 なぜこのような区別をしてみたかと言えば、現代資本主義は近日、その元来の目標を失っていると言われているからです。これまで私たちは動物としての「生活欲」を最大化するために合理性を追求してきたのですが、現在は特に先進国や新興国を中心にここがほぼ限界に達した(つまり、ほとんどの人は食べることには困らなくなった)ため、目標を失った先進国のビジネスは次の稼ぎ頭として、人としての「理性欲」の最大化をビジネス目標に変えてしまったと言われます。つまり具体的には、食べ物や物流、エネルギーといった産業ではこれ以上の発展が望めないことから、エンターテインメントやゲーム、不動産投資に金融、ITや仮想現実などの実態のないものから旅行に至るまで、「生きるためには必要なかったもの」でより大きな資本を形成しようとするようになりました。

 これはある意味でのバブル経済のようなもので、生きていくために求められる合理性(生活のための労働)とのバランスを取るため(息抜き)以上の「理性欲」は、本来は人間には必要なかったものです。この「理性欲の最大化」を目指して極限まで競争を強いるようになった現代社会が、格差社会との形で「生活欲まで後退」させる結果となっているのが、21世紀のいまのIT化社会と言えます。人間の欲求が社会を発展させて来た原動力であるのは疑いようのない事実ですが、これ以上追及する必要のない「理性欲」を追及しているのは、実態のないバブルのような価値を追求しているようなものかも知れません。人が幸せに、平和に生きていくのに必要なもの以上の何かを、社会は実現する必要が本当にあるのかどうかは、地球環境も限界を迎えつつあるいま、今後議論される必要があるテーマであるはずです。生活欲を改善する技術やビジネスは価値あるテクノロジーと呼べますが、ただ理性欲を増幅させるだけのものは社会の革新ではない、とは言えないでしょうか。理性欲の増幅と極度の格差社会によって人の生活や幸せが脅かされるようになったいま、人は「本来目指すべきところ」を明確にして、経済成長の取捨選択をして、人類にとって本当に大切なもののバランスをコントロールして行く必要に迫られています。

 地球環境を守って持続的に発展する必要(SDGs)とは、結局は私たちが幸せに生きるため、つまり「生活欲を満たすことが目的」であるはずです。ところが現代社会では、その理念だけが1人歩きして、なぜか理性欲を満たすための道具にすり替えられている部分があるのではないでしょうか。途上国ではまだまだ生活欲を満たせていない人が多くいる段階で先進国が理性欲を満たしているのであれば、それはただの偽善と言うほかに表現が見当たりません。自動車やスマートフォン、高速の移動手段など、エネルギー消費の節約が先に求められる分野は見過ごされてしまっているように見えます。例えば、私たちの国はIT化とEV化を進めたクリーンな場所だ、とどれだけ言っても、生産に大量のCO2を排出するバッテリーをもし他国から輸入していたら意味がありません。産業が国際分業をする世界となった以上、国家単位でのエネルギー管理やCO2排出規制には、もはやなんの意味もないのです。

 化石燃料の規制云々といった途上国には受け入れられない考え方から脱却し、原子力など必要なものを現実的に活用しながら、エネルギー問題を根本から適切に解決し環境負荷の少ないエネルギーを確保するためには、損得を越えた投資が国境を越えた世界レベルで行われるべきであると僕は考えています。地球環境がこれだけ悲鳴を上げる中でも、まだ「全体よりも個が大切にされるべき」という「20世紀には」新しい発想だった概念が、こうした地球的課題の解決を妨げているような気がしてなりません。全ての個がその権利を100%実現することは、社会では不可能なことです。現代社会はまさに、この考え方のバランスがズレてしまっていると言えます。

 20世紀中盤に生み出されたリベラリズムとは究極的には「自分中心主義」であり、「理性欲の追及主義」であったと言えるでしょう。人が理性欲のみを追及して規律や社会性を放棄すれば、それは争いの絶えなかった動物としての時代への逆行と何が異なるのでしょうか。世界にはまだまだ普通に生きるための生活欲を実現できていない人もいるのだから、人が手に入れられる資源は、そうした課題の解決へと割り当てられるべきでしょう。

 人に「自由でなければならない」「個性が尊重されなければならない」とイデオロギーによって理性欲の追及を強制し無限競争を誘発することで、人は逆に不幸になっている可能性があります。経済発展が進み人はより健康に、より自由に、より幸せになったと言われますが、富裕層中心に押し上げられた数字を見て「社会は発展した」と、果たして断言して良いものでしょうか。バブルのように生み出され続けている理性欲経済のマネーを生活欲の達成に配分できていれば、こうした数字はもっと良くなっていたはずとは言えないでしょうか。

 現代人はこうした理性欲経済の中で常に自己実現を求められ、限界まで競争を煽られ続けた結果、心を病んで自殺してしまうこともあります。理想的な自分を目指さなくとも良いのだ、人間らしくても良いのだという「インパーフェクトが許容される社会」の方が、もっと人や地球に優しいのではないかと僕は考えています。

 「人はどうあるべきか」を考えた哲学者は最後には自己矛盾に到達して、自殺する結果となって来ました。理性欲の無限増幅がインターネット上で匿名で無限に発信され続けている状況に対しては、一定の規制が必要になるでしょう。インターネットによる無限競争社会は、弱肉強食の世界でただ動物が殺し合っているのとあまり変わりありません。少なくとも、匿名での発言は禁止されるべきでしょう。人は結局は動物であり完璧な存在ではありませんので、完璧な自由を与えても使いこなせないのは、ある意味で当たり前の結果と言えます。「完全な自由ほど苦しいものはない」というのが、僕のこれまでの個人的な経験でもあります。

 米国での「保守派」と「リベラル」の対立による社会分断は、深刻を極めています。お互いが自身を「パーフェクトである」と信じて疑わないところに、妥協や話し合いの余地が発生しないという最大の問題が存在していると僕は考えています。人は相互にインパーフェクトであることを認めて、だからこそお互いを許し合う寛容性を備えて初めて、こうした対立や争いも収束を迎えることが出来るでしょう。人間は神様ではないのだから、人が唱える論理が完璧になることはあり得ません。理想を目指すことには意義があるが、自分が理想を代表すると自認することは、ただの勘違いです。結論として、理性欲の追及こそが理想であり完璧に正しいと誤認されてしまったところにこそ、宗教対立や格差社会に至るまでの現代社会の問題の原点があります

 理性欲の追及にはブレーキもかけて、協調と寛容、相互理解のある平和な社会が実現されることを僕は願っています。理想や価値観の押し付けこそが問題であるとの認識を持って、個人が利己を追及しすぎないような仕組みや価値観を新時代の基準として社会が受け入れられるよう、個人として出来ることを今後も行っていきたいと思います。

 私たちは、不完全でも良いのではないでしょうか。そうすれば、相手を許すこともできるようになるでしょう。

We are all different and imperfect, because we are all human beings.

Santa Barbaraその14。

 ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 サンタ・バーバラでの留学生活も半分が過ぎ、週末に各地へ旅行を楽しむ(様々なトラブルも経験しつつ…)など、英語力の低さから来る不自由さもありつつも、少しずつアメリカでの生活や習慣にも慣れて、自立した充実した日々を送ることができるようになって来ていました。

 アメリカに滞在して3週目のある日、僕は21歳の誕生日を迎えました。日本でももちろん誕生日は家族に祝ってもらっていましたが、その年はサンタ・バーバラに滞在中であったため、なんとな〜く誕生日を迎えるだけだろうと思っていたのですが…

 誕生日を迎えたその当日、夕飯を食べて部屋に戻った僕をホストマザーのカレンが呼びに来たので、「何だろう?」と思いながらダイニングルームへ行くとそこにはホストファミリーとハウスメイトが集まっていて、”Happy Birthday!”とサプライズで全員でお祝いをしてくれたのです。ケーキにはキャンドルが添えられており、みんなでバースデーソングを歌ってくれました。それまで僕はこのように誕生日をサプライズで祝ってもらった事が無かったので、感動の余り少しウルッとしてしまったのですが、アグネスにはなぜか”He misses his family.”(彼は日本の家族が恋しいんだよ)と勘違いされてしまい、それを聞いたカレンは「あなたがこの家にいる間は、私があなたの母親よ」と言ってくれました。ケーキを食べたメンバーたちは各々それぞれの部屋に戻って行きましたが、僕はこの時「アメリカではそれぞれが自立した生活をしていて家族の結びつきが強くないように見えるが、実はそれが全てではなく、家族の記念日を祝うことなどを大切にしているのだ」と言うことを初めて知りました。日本人から見たら家族の関係が薄いように見えるアメリカですが、それは決して家族を大切に考えていないと言うことではなく、単純に習慣ややり方が異なるだけで、家族を大切に思う気持ちは変わらないのだと知ることが出来たのは、アメリカを正しく理解することが出来たと言う意味で、とても貴重な経験となりました。

 普段、夕飯のあと他のハウスメイトたちは食べ終わったあとのお皿を洗わずにシンクに放置していたので、僕は見かねてたまにそれを洗ったりしていたのですが、ある日たまたまそれを見たカレンが、” Oh, Shintaro! You shouldn’t have!” 直訳:そんなことしなくても良かったのに!=意味:本当にありがとう!)と言った事を僕は覚えています。国や習慣が異なったとしても他人を思いやったり協力する気持ちは共通に通じ合うものであり、カレンは僕が日本に帰国する際に「あなたは本当に素晴らしい青年だった。またいつでも遠慮なく泊まりに来てね!お金はいらないわよ!」と言ってくれました。僕はアメリカに到着した際は「とんでもない家に来てしまった」と勘違いをしましたが、それが真実ではなく「アメリカにはアメリカのやり方と習慣があり、家族や他人を思いやる気持ちは日本と変わらずちゃんとあるのだ」と言うことを正しく知ることが出来たので、ただ何でも世話をしてもらうよりも価値のあった、本当に最高のホームステイだったと今では思っています。

<カレンは当時はまだ30代だったと思います>

 その週の週末は、ハウスメイトのユンが留学期間を終え韓国へ帰国する事になっていました。そのためカレンは、ユンの送別ホームパーティーをするから、僕に対して”You can invite a couple of your friends.”と言ったのですが、僕は”a couple of”(2~3人)と言うニュアンスがピンと来なかったため、”How many people can I invite?”と聞き返したところ、カレンは再び”A couple of.”と、ハッキリ何人とは言いませんでした。僕は困ってユンに「ユンは何人の友達を連れて来るの?」と聞いたところ、ユンは「私は友達を選ぶことは出来ないから、全員の友達を招待するわよ!」と言ったため、僕はますます困り果ててしまいました…

 「いったい何人まで連れて来て良いんだ?」と思ったのですが、ユンは「全員連れて来る」と言ったので、そこまで友達が多くもなかった僕もとりあえず全員に声を掛けてみたところ、日本人4人が参加したいと言ったので、4人を連れて行ったのですが…

<ホームパーティーにて撮影した”Big Family”(笑)>

 送別ホームパーティーの当日、僕が4名の日本人を連れて帰宅すると、家の中には、人…人…人…(汗)どうやらユンは10人程度の韓国人を連れて来たようで(このあたりが、理性よりも情が優先である韓国人らしいなと思います笑)、アグネスも5~6人のブラジル人を連れて来ており、”a couple of”と全員に言ったであろうカレンが想定していたホームパーティーの規模を、どう考えても越えていました…(汗)カレンとボーイフレンドのスティーブ、息子とその従兄弟、娘のミシェル、ミシェルの本当の父親(元の旦那と現在のボーイフレンドが一同に集まるのも凄まじいな…と思いましたが…)、日本人5人、韓国人約10人、ブラジル人約7人、そこにハウスメイトのクリストフと居候のボルツを加えた約30名が平屋建ての家に集結し、家の中はもはやカオスを極めましたが、カレンとスティーブは特に気にする様子もなくバーベキューで様々な料理をどんどん出してくれました。家に入りきれなかったのか、韓国人たちの一部は家の前の道路で話し込んでいましたが、家の中でも音楽に合わせて踊ったり、初対面の留学生同士が会話を楽しむなど、華やかなパーティーとなりました。僕が滞在した家はおそらくアメリカの中でも相当にオープンな家庭だったのかと思いますが、日本ではあり得ないようなカオスなパーティーを喜んで開催してくれたカレンを見て、自分が非常に良い経験をしていること、アメリカ人は個人主義であるだけではなく懐がとても深く寛大であることを知り、様々な「異なるもの」を許容できるアメリカと言う国に留学したことは僕にとっては本当に貴重な経験で、人生の宝物となった思い出です。

<韓国人は多すぎて家の前の道路で話し込んでいた>

 パーティーは深夜11時過ぎまで続き、各々が帰宅する頃には交通手段もすでに無くなっていたため、僕は友人の帰宅手段の確保に追われました(苦笑)マユミはたまたま同じ家に滞在していた韓国人が車で来ていたので乗せてもらえたのですが、あと3人…。ここでミシェルの父親がタクシーの運転手であることに気付き、ナツコの送迎を彼に頼んでみたところ、送ってもらえる事になりました。(なぜ初対面だったその日に、彼の仕事が運転手と知っていたのだろうと今考えると不思議に思うのですが、初めて会話した時の”I’m Michelle’s father.”と、タクシーを出してもらえるか聞いた時の”Yeah, I’m ready.”というやり取りは覚えていますので、きっと仕事の話も自己紹介の流れで聞いていたのでしょう。簡単な英語とは言え、逆境に鍛えられて(笑)少しは話せるようになっていたのかも知れません。)

 まだあと2人分必要…と思っていたら、どこからか突然カレンの母親と名乗る人物が現れ(どうやら近くに住んでいたようです)、「私が車で送って行くわよ」と言ってくれました。ですが2人とも帰り道が分からなかったので僕も同乗し(なぜかボルツもついて来ました…笑)、2人の家まで(しかもボルツが助手席に座ったので後部座席から)道案内をして送り届け、事なきを得ました。余談ですが、僕はこのときすでにサンタ・バーバラでタクシー運転手ができるんじゃないかと思うくらいに、土地勘が(必要に迫られて)鍛えられていました(笑)

 この留学で僕は上手く英語を話すことは出来ませんでしたが、様々な貴重な出会いがあり、様々な経験を重ね、個人主義だと思っていたアメリカ人の優しさや親切にも触れ、アメリカの習慣や生活スタイルから考え方に至るまで正しく知る事もでき、「英語を勉強しなければいけない。英語をちゃんと話せるようになりたい。」と言うその後の目標を持つことも出来ました。ありとあらゆる事が僕にとっては最高の経験であり、最高の思い出です。

 その週末のロサンゼルスへの旅行の帰り道にこの留学での最大のピンチが訪れることになりますが、それもその時に経験出来て良かったのだと、今では思います。みなさまもぜひ日本を飛び出して、読んだり聞いたりでは分からない他国の「本当の姿」に触れていただければと思いますし、僕はこの仕事を通じてそのお手伝いが出来れば本当に幸いです。また、他の国の姿を知ることで、これまで見えなかった「日本の本当の姿」も、初めて知ることが出来るものだと思います。

 初めての留学だったサンタ・バーバラでの体験も終盤へと入って行きます。続きはまた次のブログにてご紹介出来ればと思います。

To be continued!

Santa Barbaraその15。に続く

Common Sense(常識)は、もう理由にならない

 “common sense” は日本語で言う「常識」を表す表現で、それぞれの単語が表すように”common”(共通の) “sense”(感覚)と言う、私たちが普通は「正しいこと」と信じている事柄です。ですが、常識は必ず正しい、本当にそうでしょうか。僕は個人的には、常識と言われていることはまず先に疑ってみる事にしています

 この「常識を疑ってみる」と言うことは実はとても大切です。何故なら、疑うことを忘れてしまえば、人は特定の考え方に縛られコントロールすらされてしまうからです。そしてその常識を信じている限りは、それ以上の改善が全く望めません。「常識だから」と考えることは実は、考える事を放棄すると言う点においてマイナスでしか無いのです。

 例えば、「新聞の情報だから正しいはず」、「テレビが放送しているのだからみんながそう思っている」、「instagramでみんながシェアしているから人気だ」、本当にそれは正しいでしょうか。新聞の記事を書いているのもテレビの番組を製作しているのも、instagramの投稿の「流れを作っている」のも、実はただの同じ人間です。つまりこれらの情報は実は「正しいこと」ではなく、あくまで「彼らの意見」や「作られた人気」でしか無い訳です。こうした意見を「正しい」と盲目的に信じてしまうことは、実は大変危険なことです。

 分かりやすい例を、日本は歴史の中でちゃんと経験しています。第二次世界大戦に邁進する日本政府や軍部に対して、その正当性を疑う人は圧倒的に少数でした。それは新聞やラジオなどのメディアも含めて「戦争をするのが正しいのだ」と信じてしまった、あるいは信じさせられてしまったからです。まさに日本中がマインドコントロールされてしまったが故に起きてしまった悲劇でした。

 ところが一方で、「戦争で日本は悪いことだけをしたのだ」と言う常識を反対に信じることも実は大きな間違いです。もちろん戦争自体が悪である事は疑いもない事実ですが、悪いことだけを行なっていたならなぜ、中国・韓国を除いたアジアのほとんどの国が親日的なのでしょうか。特に日本の植民地支配が長期化した台湾が世界一の親日国である事は全く説明がつきません。

 このカラクリはと言うと、台湾は確かに長らく日本の植民地として統治下にありましたが、その中には悪いことと良いことの両方があった事を、台湾人が客観的にちゃんと理解をしているからです。日本の統治により自由が奪われたり過酷な労働を強いられたマイナスの側面があった一方で、教育制度やインフラが整備され人々の生活が向上し、台湾が近代化するキッカケとなったのもまた事実です。その両面をしっかり合理的に理解しているからこそ、今の台湾の親日的な人々があります。

 他の例では、東南アジア諸国は日本の植民地となる以前は長らく欧米諸国の統治下にありました。欧米諸国の植民地支配と言うものは日本のそれよりも遥かに熾烈なものであり、現地の生活を向上させることなくただただ搾取を続けるだけのものでした。そこに日本がやって来た結果そうした欧米諸国による支配が追い出された訳ですから、東南アジアではそれは結果的にプラスに働いた面もあったのです。日本の敗戦後にはインドネシアには旧宗主国であったオランダが戻って来ましたが、現地に残った日本兵はその再侵略に対して現地の人々と共に戦ったそうです。現地では今でもこの方々のお墓がしっかりと守られています。

 このような事を書いているとまるで戦争や植民化を正当化しているかのように聞こえるかも知れませんが、そう言うことでは決してありません。僕は戦争には絶対に反対です。植民化も今後は絶対に許されてはいけません。ここで述べたいのはあくまで、物事には必ず表と裏、あるいはそれ以上の多面性が必ずあり、一つの側面のみが「正しい」訳では決してないということです。一つの内容を盲目的に信じてしまうと、それは逆に宗教対立に代表されるような衝突や紛争に必ず通じます。一つの内容を正しいと信じるのではなく、様々な観点から物事を柔軟に見てみて、良い点と悪い点の両方をしっかり把握することが大切です。そのような視点を持ててこそ、私たちは異なる文化や宗教を初めて受け入れることができます。これは今後の日本と世界には必ずなくてはならない姿勢です。

 このように、一般に「正しい」と信じられているものほど、実は逆に疑ってみる必要があります。新聞、テレビ、SNS、学校教育、教科書…本当にそれは、正しいと言えますか? これらを作っているのも人間であり、必ず何らかの意図がそこには入っています。 例えそれが事実のみで構成されていたとしても、その事実を取捨選択すれば、印象と言うのは操作出来てしまいます。こうした情報を「絶対に正しい」と盲目的に信じてしまうことが、実は最も危険なのです。意見や発想は常に多様である必要があります。一つの絶対的な正解など存在しません。

 同様に、多数の人が「正しい」と言っているからといってそれが正しいとも限りません。人間はあくまで人間、神さまではありません。人間が動物である限りは、何かが「絶対に正しい」と言うことはあり得ません。例え世界の70億の人が「正しい」と言っても、あなたが「間違っている」と思うのであれば、それは試しに変えてみる価値が十分にあります

 実際に、人間の歴史は1人の天才が全てをひっくり返した事が何度もあります。重力の概念を発見したニュートン、アメリカ大陸に初めて辿り着いたコロンブス(天才とは少し違う気もしますが…)、近年で言えば、誰もが最初は「何だこれは」としか思えなかったスマートフォンの概念を創造したスティーブ・ジョブズなど、これらの1人の天才はそれまでの世界の常識をたった1人の行動で完全にひっくり返しました。70億が正しく1人が間違っていると言う保証は、実はどこにも存在しないのです。1人の方が圧倒的に正しかった例は、歴史上にもいくらでも存在します。逆に言えば、あなたが常識に固執している限り、新しい発想や発見に辿り着く可能性はゼロだと言うことです。これでは人間には何の進歩もありません。

 この「常識を疑う感覚」を養うためには、海外へ行ってみることが非常に有効です。何故なら自分が常識だと思っていた事が、海外では常識では無い事が多々あるからです。それは良い意味での自分の考え方を崩すことでもあります。更に言えば、英語を使って外国人と話すことが出来ればその幅ははるかに広がります。必ず自分が当たり前だと考えていた事が「良い意味で」裏切られることを身をもって体感できるからです。これ以上の自分を改善できるチャンスはどこにもありません。また、今後はどんどん情報が氾濫することで、どの情報が正しいかすら把握することが難しくなって行きます。そうした中から正しい情報を見分けるためにも、多くのものや情報に触れ、異なった見方や環境を体感し、物事をもう一度多角的に見直してみることで「常識を疑う」「言われていること、書かれていることをすぐに信じない」力を養う必要があります。もう、特定の思想が世界を引っ張って行く時代は、終わったのです。これからは世界の一人ひとりが、何が正しいかを「自分で」考え判断して行かなければなりません。これまでのやり方や常識が実は間違っていたなら、それはすぐに変える必要があります。

 どうも僕の経験した限りでは、「出来る方法を考える」方より「出来ない理由を探す」方が多いような気がします。これまでのやり方とは、これまでの常識とは、果たしてそんなに大切なのでしょうか。これまで上手くいったから、はあくまで過去の話であり、世界や社会の変化の中ではそれに応じて「変えるべきことは何としてでも変える」のが正しい姿のはずです。

「常識では…」、「普通は…」、「我が社のやり方は…」、「この国では…」という言い訳を使う進歩のない人には、こう言ってみるのはどうでしょうか。

「何ですか、それ。どこで食べられるんですか。」

「グローバリゼーション」の概念を更新しよう

 「グローバル化」が盛んに謳われるようになってもう相当の年月が経ちますが、今でも一般に信じられている「グローバル化を達成する事が大切だ」という昔ながらの概念は、本当に正しいと言えるのでしょうか。本日はこの「常識」に一石を投じてみたいと思います。

 僕は個人的な考えとして、「これまでのグローバリゼーションには失敗の側面がかなりあった」と思っています。英語ビジネスを展開する人間がこんな事を言うことに驚かれる方がほとんどかと思いますが、その理由をご説明したいと思います。

 まず始めに述べたい事は「全てのグローバリゼーションの要素が失敗であったのではない」と言う事です。グローバル化が進んだことは基本的にはポジティブな点が多かったと思っています。それは主に経済的な分野とITテクノロジーによる距離感の短縮、そして英語が共通語として定着した事により、世界の人々が相互に接触し理解しようとする機会が増えたという点においてです。

 経済がグローバル化した事に関してはもちろん、ローカルなビジネスが生き残れなくなったと言う一見ネガティブに見える側面もありますが、僕はその点も含めてポジティブであったと考えています。なぜならビジネスとは、「より良いサービスや商品が勝ち残る姿こそが正しい」からです。例えば農作物ならば、関税によって守られていた旧態依然としたスタイルや既得権益が貿易の自由化によって消滅することは、消費者の観点からは完全にポジティブと言えます。また自由化によって競争を迫られることで、そのビジネスが大きく改善することもよく見られるケースです。分かりやすい例では、日本には高級果物や和牛があります。コスト競争力や安さでは外国産には勝てないと言う状況は、逆に高品質な果物や世界的なブームにもなっている”Wagyu” を生み出す結果となりました。アジア各国では日本のイチゴが1パック5,000円と言うような値段で売られていることもあります。1粒あたり400〜500円と言う事は、現地ではイチゴ1粒が一回の食事かそれ以上の値段と言う計算になりますが、それでも売れていると言うのだから驚きです。また、もはや英単語ともなった”Wagyu” はステーキの本場であるアメリカでも最高の牛肉と言う評価を受けており、アメリカ産和牛やオーストラリア産和牛まで生産される有様です(種が和牛であれば現地でそれをWagyuと呼んでも良いようです。苦笑)

<和牛はもはや “Wagyu” と言う英単語になった>

 また国内では、AmazonなどのITジャイアントの上陸により小売店のビジネスが存続の危機にありますが、これも長期的な考え方をすれば正しい流れであると言えます。社会とは常に進化するものであり、旧来のビジネスがいつまでも生き残れることはあり得ません。逆にいつまでも生き残っていればそれは何らかの既得権益が裏で守られていると言う意味であり、それは消費者にとってはマイナスでしかありません。誰だって良いものを、より多くの選択肢から、出来るだけ早く、可能な限り安く購入したいのは当然のことであり、こうした環境が生まれることは社会にとっては間違いのない「進歩」であると言えます。ビジネスを営む以上は、時代が求めるものに合致しなくなった商売が淘汰されることは社会全体で考えれば「ポジティブなこと」です。ビジネスとは常に新しい工夫が求められるのが当然であり、常に生まれ変わり続ける、そうあるべきものです。残酷に聞こえるかも知れませんが、それが資本主義の大原則です。資本主義とは100%完璧な社会システムではありませんが、「それでも資本主義は、人類がこれまで生み出した中では最も優れた社会システム」です。資本主義に対するアンチテーゼとして現れた社会主義や共産主義が歴史上失敗に終わった事は、みなさまもおそらく教科書で学んだことでしょう。その100%完璧ではないが現時点ではベストではある資本主義の欠点を補うために生み出されたのが社会保障などのセーフティネットですが、これを可能な限り小さく出来る社会=個人が自立している社会が、動物の一種である人間が現時点でたどり着くことができる限界かつ最適な社会と考えられます。難しい理論に聞こえるのであれば、「努力や勤勉、挑戦は報われるべきだ」と考えればシンプルです。これらが報われなくなった瞬間に、人には怠惰と欲望のみが残る事になります。

 内容が一部被ってしまいますが、ITによる世界の距離感の短縮も、総合的に考えればポジティブと考えられます。今ではインターネットにより世界中の情報を瞬時に知ることができるようになり、インターネットの通話機能を使用すれば世界中に無料で電話をかけることも出来ます(通信量は掛かりますが国際通話料と比較すれば微々たるものでしょう)。オンラインで世界中の人間とチャットや議論をすることができますし、それは文化の相互理解や新しい価値観に気付く事を可能にするものです。またそれを国内に居ながらにして疑似体験することを可能にするVR技術の開発も進んでいます。世界中の「異なる価値観やアイディア」に触れることで、私たちは自分の国をより良く、より迅速に改善出来るようになったと言えるでしょう。さらにはAIやロボットが人の仕事を奪うと言う批判もありますが、人が単純労働から解放される事で、社会には新しい価値やアイデアが生まれやすくなる可能性もあります。こうした技術はグローバルな技術交流、部品供給や分業体制によってその発展が効率的に加速されています。例えばiPhoneであれば、設計やOSとCPUの開発は米国Appleですが、CPUの製造を可能にしているのは台湾TSMCの微細化技術、通信モデムチップは米国Qualcomm、ディスプレイのOLEDは韓国Samsung電子や中国BOE、カメラのイメージセンサーはSONY(カメラモジュール化をLGが担当することもあり)、コンデンサーなどの電子部品は日本の村田製作所や京セラ、メモリーはDRAMは韓国SamsungやSK Hynixと米国Micron Technology、フラッシュメモリーは日本のキオクシア(旧東芝メモリ)や韓国Samsung, SKなどが供給し、台湾のFoxconnやPegatronが組み立てを請け負って、その工場は実は中国やインドにある、と言った具合です。そもそもDRAMやNANDといったメモリーの製造過程で、その製造装置や部品、素材は米国Applied Materialsからだけでなく日本の東京エレクトロンや信越化学工業、ヨーロッパのASMLなどから韓国や台湾へ供給されており、スマートフォンとはその製造に国境を越えた何百社もが関わっている、非常に多国籍な製品であると言えます。近年では、ビジネスが国内で完結することの方が珍しくなりました。

<iPhoneとは複数の国の技術による「合作」>

 もちろん上記のようなポジティブな影響は全て、世界の人々が英語を「世界の共通語」として利用するようになったからに他なりません。共通語が無ければ国家間の関係とは常に1対1でしか成り立たないことになりますので、世界に言語が100あると仮定すればそれぞれの言語の専門家全てが必要となってしまいます。それに対して1つの共通語があることは全てのコミュニケーションをより円滑に、より便利に、より効率的にすることを可能にしますので世界全体としての大きなメリットがあり、不必要な無理や無駄が解消されることにも通じます。もちろん複数の国の人間が同時に話し合い意見を調整することも可能になります。これは「共通語」があって初めて出来るようになった事です。「世界が英語に支配される」と警鐘する人がちらほらいますが、それが100%真実ではありません。ほとんどの国ではオリジナルの母語が使用される状況に変わりはありませんし(例外はありますがあくまで「例外」です)、英語を話すことと各国・各文化のアイデンティティを守ることは決して矛盾しません。むしろ他文化を知ることで初めて、自国のアイデンティティを確認する事が出来るようになるとも言えます。英語を話すようになったらその場所のアイデンティティが消滅したと言う例は、一部の例外を除いてほとんど確認されていません。同じ英語を話す西欧諸国同士ですら、アメリカとイギリスとオーストラリアの文化やアイデンティティは全く異なるものです。

 では、これだけグローバル化による良い側面があったにも関わらず、なぜ「グローバリゼーションには失敗も多かった」と僕が考えるかと言うと、それは「グローバリゼーションによる行き過ぎ」が明確になりつつあるからです。

 分かりやすい例としては移民の問題があります。グローバリゼーションにより世界の国境の壁が低くなったことは良い側面もあったのですが、残念ながら「移民」と言う貧しい地域から裕福な地域への一方的な人の流れを生み出してしまいました。(そうではない優秀な移民も多数いますので、あくまで「一般論」です。)僕は個人的に、各国の人間はその生まれ育った地域を改善するための努力をすべきものだと考えています。戦争や紛争による「難民」は批判できませんが、ただ裕福な地域へ移りたいが、自分は変化も努力もしたくないと言う身勝手な移民には賛成できません。それは混乱を極めるヨーロッパを見れば明らかなことであり、「人の移動を自由にした」結果貧しい地域から一部の都市への一方的な人の移動が発生しており、パリやロンドンに貧困層がなだれ込んだ結果それらの都市の治安は悪化し、地域の文化の良さが損なわれ、元からにそこにいた人々の不満を招き、それが失業者の増加、差別意識の拡大、テロリズムの発生、ナショナリズムの激化、そして更なる移民との衝突と、悪循環を繰り返すばかりの結果となっています。富が配分されるどころか一部の地域が一層豊かになり、貧しい地域はさらに貧しくなると言う逆効果も生み出してしまいました。もともと「理由があって存在していた国境」を消滅させた事は、理想のみを夢みて副作用を考慮しなかった結果の失敗であったと言わざるを得ないでしょう。

<移民排斥デモは過激化の一途を辿る>

 また国家に限らず、全ての地域を画一化しようとする試みも悪影響しか生まないと考えられます。例えば日本国内では全国に新幹線と高速道路が整備された結果、地方にあったエネルギーやビジネス、人材が全て東京に吸われる結果となり、地方経済はもう虫の息と言える状況です。これは本来、地方は地方の特色を生かして発展させるべきであったところを、全ての地域が東京と同じインフラ、東京と同じ箱物、東京と同じ生活を求めた結果の失敗であり、新幹線や高速道路自体が悪かった訳ではありませんが、全国が東京化すればその地域の特色や魅力が失われ、その状況においては東京に勝てる要素は一切なくなるのが当然であり、それなら若者が東京へ行きたいと考えるのは至極当然の結果です。地方は「東京と同じになること」を求めるのではなく、「東京にはない魅力を磨く」事に気付くべきと言えます。近年では一部その点に気づいた地域も見られるようになり、農村の原風景や古民家を活用したビジネスが成功する事例も多くなって来ました。地方の発展とは本来、そうあるべきものです。地域の特色と伝統を守りそれを生かすことが、長い目で見たときにその地域の利益となるはずです。

 同じことがグローバリゼーションにも言えます。世界中のレストランがマクドナルドになり世界中のカフェがスターバックスになれば、こんなにつまらない世界はないでしょう。マクドナルドやスターバックスはそれはそれで価値のあるものではありますが、地域性・文化性をその国が失ってしまえば、全ての活力と人材はアメリカに吸われるだけの結果となることでしょう。当然ですが、マクドナルドとスターバックスしかない国や地域へ旅行をしようと考える人などほぼ存在しません。地域性を失うことは結果として、その地域から人がいなくなり、訪れる人もいなくなり、経済が立ち行かなくなりお金が落ちることも無くなります。地域性を消滅させることはニューヨークや東京のような場所以外にとっては自殺行為以外の何者でもありません。地域性や伝統を重んじることは、全ての国と地域にとって非常に大切な事であると言えるはずです。

 またグローバリゼーションとはこれまで、「特定の思想を他文化に押し付ける」ことでもありました。いくら西洋社会が現時点でまだ最も発展しているとは言え、私たちが不完全な人間という存在である限りは、特定の思想が100%正しいと言う保証は100%あり得ません。西洋社会がその思想を持って世界を標準化しようとした結果生み出されたのがテロリズムであり、テロリズムが悪である事は疑いのない事実ではありますが、本来その原因は特定の考え方を他文化や他宗教に強要しようとした事が原点と言えます。「1つの思想こそが理想である」と考えるのではなく、「自分と他人は異なっているのが当たり前である」ことを全ての世界市民が理解をしない限りは、世界から戦争や紛争、テロリズムが無くなることは決してないでしょう。

<テロリズムとは特定の思想を強要した結果の宗教戦争>

 身近な例に話を移すなら、日本の調査捕鯨に対する民間団体のテロ行為は最たる例です。そもそも鯨の生態系が破壊されたのは欧米諸国の乱獲が原因であり、その状況を生み出した立場から他国に急に捕鯨禁止を要求するのは非常におかしな話です。生態系を守ること自体は正しいと言えますが、もしそれが生態系に影響を与えない範囲内で行われているものであるならば、「鯨は賢い生き物だから食べるべきではない」と言う主張には合理性が無く偽善でしかありません。それは逆に言えば「賢くない生き物なら殺しても構わない」と言う主張であり、「賢いかそうでないか」によって生殺与奪を決定することは人間という生き物のエゴでしかありません。オーストラリアでは「人に害があるから」と言う理由でカンガルーが虐殺されていますが、一方で「鯨は捕獲するな」と言うのであればそれは人間の身勝手な欲望でしかないことは明確です。環境や生態系の保護と言う明確な理由がない限りは「他国の文化に他国が口を出すべきではない」とするのがあるべき姿と言えます。

 結論として、グローバリゼーションの最大の失敗と言うのは、「地域や文化の多様性を殺して1つの理想による画一化を図ろうとしたこと」です。元々異なる場所を無理矢理一体化すればその中で衝突が起こるのは当然の結果であり、特定の思想を押し付けることもやはり衝突と反発を招くだけのことです。経済や技術がグローバル化しても、地域性や文化とは画一化してはならないものですし、その点に関してはグローバル化を追い求めてはならないものです。地域性、文化そして伝統を維持することで初めて「その地域にしかない魅力」が生まれ、その事が最終的にはその地域の持続的な発展にも繋がります。全てを世界基準にすれば良いと言うものでは決してありません。

 全ての人が異なるお互いを理解し尊重すること、つまり「違いを受け入れること」で初めて、戦争や紛争、テロリズムは減少するものであると僕は考えています。そしてそのような「真の多様性を実現すること」と「共通語を話して他文化を理解すること」は決して矛盾することではなく、むしろ相互の違いを理解し尊重するために必要な事であると思います。

 日本にも多くの外国人が移り住んで来る時代となりました。それは人口が減少する国では避けられない事なのかも知れませんが、日本人は日本人としてのアイデンティティを失う事なく、それと同時に異なる文化も受け入れる事が出来る平和な国となる事を願うばかりです。そして私たちが日本人として生まれた以上はその母国と文化を大切にし、少しでもより良い日本の実現を目標に努力して行くことが私たち1人ひとりに課せられた使命であるはずです。(国のために働けと言う意味ではありません。より良い社会を実現するために、マナーを守ったり違いを尊重するなど、自分に出来る範囲のことをしましょうと言う趣旨です)。そして世界のモデルとなれるような日本を実現することで、世界の多くの国々へと貢献することも忘れてはなりません。

<平成天皇は最後の誕生日に「我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」と述べたそうです>

SSEAは英語と世界の多様な文化や価値観をお伝えすることで、そうした多様な社会と平和を実現できる日本と世界を創造することを目指しています。そして英会話を学ばれる方お1人おひとりに、そのストーリーの主役を務めて欲しいと願っています。

人気の高いラーメン屋ほど「お支払いは現金のみ」が合理的であるのはなぜか

 海外の人と触れ色々なことを比較する中で感じるのは、日本人は「マネーの話に恐ろしく疎い」という点です。その是非はまたいつか触れるとして、今後の子供たちはやはりそのような知識も必須になって来ますし、世界を相手に戦っていくには避けられないスキルでもありますので、本日のブログ記事はあまり英語やコミュニケーションとは関係はないようにも見えますが、日本人として無意識に常識として信じてしまっていること、あるいはそう錯覚させられてしまっていることを「常識の殻を破る一歩」として書いてみたいと思います。この気づきの一部は僕も、海外での経験から日本を見たときに初めて辻褄が合ったものです。

 キャッシュレス全盛にも思われる今のIT化時代、クレジットカードや電子マネー、バーコード決済が使えないなんて合理的でない、単純にそう思ったことは無いでしょうか。僕も20年前に米国でスピード違反で捕まった際に、その罰金の支払いがクレジットカード1枚で済んだことに感動を覚えて「アメリカはやっぱり何でも進んでいる」、そう思ったものです。

 しかしながら最近、様々な知識も増え以前よりもっと多角的な方向からものごとを考えられるようになって、改めて新しい気づきとして逆の方向へ考え直したことがあります。日本でもコロナ禍もありキャッシュレスや非接触の導入が当然との空気も漂う中でも、「人気のあるラーメン屋さんほど、実は現金しか使えない」という事実から学んだことです。

 これは消費者側から見れば単純に「不便だ」「時代遅れ」としか見えないかも知れませんが、そのようなお店ほど本当は価値が高い事には、実はれっきとした合理性があります。「人気が高い事にあぐらを書いている殿様商売だ」と感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、自らビジネスを興してみたからこそ僕がいまハッキリ言えることは、「現金しか使えないラーメン屋ほど、商品の価値が高く訪れるべき店であるのは間違いない」ということです。

 この理由を理解するためにはまず「日本の金融事情」と「ラーメン屋と言うビジネスモデル」の2つを、その構造や競争環境も含めて理解する必要があります。

 まず日本という国の金融事情からひも解いて行くことにしましょう。「日本の金融手数料は高い」という話は、経済やマネーに詳しい方ならどこかで耳にした事があるかも知れません。銀行の振り込み手数料もそうなのですが、まずは消費者にとって身近である「クレジットカード」の仕組みを例にして順に見て行きたいと思います。ここの原則は、QRコード決済や電子マネーでも基本的には同じです。 

 現金を使ってもクレジットカードを使っても「支払額は同じはずだ」、そう思っている方がほとんどかと思いますが、実は仕組みとしてはまったくそうではありません。クレジットカードは消費者は年会費を除いて手数料なしで使用できる決済手段ですが、では誰がその手数料を負担しているかと言えば「クレジットカード加盟店」、つまり支払いを受け付けている店舗や組織になります。つまりクレジットカードは「無料で使用できるものではない」のであり、そこにはしっかりと支払いごとに金融手数料コストが発生しているのです。カード会社も民間企業であり、システムや広告に多額の投資をして従業員には国内平均よりもかなり高額な給与を支払っていますので、その使用にコストが発生するのは、よく考えて見れば当然と言えば当然です。

 この「加盟店が負担する手数料」は個別の契約にもよりますが、一般的に海外では2%程度であるところ、日本では「平均で決済額の3%強」と言われており、零細加盟店なら4%~5%に上ることもあります。決済金額に対するこの一定の割合の決済手数料はカード会社の収入となり、その手数料を差し引いた金額が後から加盟店に払い戻されるのが、近年シェアを拡大しているQR決済を含む、一般的な「キャッシュレス決済」の仕組みです。さらに、この一定の手数料とは別に、決済回数に応じた取扱い手数料が設定されている事もあります。加えて、加盟店にはオンライン決済を行うための機器の導入あるいはリース費用、その機器をオンラインにしておくための通信コストなども必要となって来ますので、キャッシュレス決済を行った場合の加盟店の最終的な負担割合(ここでは、現金決済と比較した際の損失割合)は、最低でも5%から、場合によっては10%近くにもなります。

 例えば、ある飲食店で800円の決済を行うと仮定してみましょう。飲食店の場合、この「800円」という価格には様々なコストが含まれていて、原材料費や調理のための光熱費はもちろん、店舗の家賃や従業員の人件費、事業にまつわる広告費や税金までを総合的に計算して、それで飲食店にも最低限の利益が残るように価格を設定します。もちろんお店にもよるかと思いますが、特にお酒を伴わない外食に関しては、最終利益で売上高の10%を見込めるレストランはそう多くはないでしょう。あのマクドナルドでさえ、ハンバーガーではほとんど利益がなく、収益の大半は実は飲み物とフライドポテトからと言われています。ここでもし800円の飲食の利益率がお店側で10%に設定されていたとして、現金で支払われる場合はお店は80円の利益を得る事となりますが、これがクレジットカードで決済された場合は利益はほぼゼロとなり加盟店としては働き損であるばかりか、キャッシュレス決済はその支払いが後日に入金される仕組みであるため、下手をすれば「ただカード会社に1ヵ月程度、利息なしでお金を貸すためだけに食事を提供した」ことになります。ですので飲食店の多くが食べ物だけではなく「飲み物を勧めて来る」のは、利益率の高い飲み物で収益率を整えるためにやむを得ないことだと考えられますし、欧米ではレストランでは飲み物を最低1杯はオーダーするべきとの文化があるのは、マナーの話を越えて、ビジネスモデルの裏にある利益率が影響をして来たのは間違いないでしょう。それは欧米の消費者からはレストランに対する敬意であると同時に、そうしてもらえなければそもそも外食産業とは「成立できない」のです。

 みなさまもレストランを訪れた際に「ランチではクレジットカードは使えません」と言われたり、「カード利用は3,000円以上からになります」と言われた経験が、1度はあるのではないでしょうか。「同じレストランなのに、なぜ場合によって違うのか」と思われるかも知れませんが、不思議に思った時にはレストラン側の視点から考えてみてください。これは金融手数料の仕組みを考えれば非常に自然な結果であり、少額の決済をカード払いにされてしまった場合、利益率の薄いビジネスはもうその商品を提供する意味そのものが無くなってしまうのです。そして皮肉なことに、利益率が薄いことは消費者に負担を押し付けないという経営努力の裏返しでもあります。

 僕が以前にモロッコを訪れた際には次のような経験がありました。お土産屋さんでカード払いをしようとしたところお店の店員さんの態度が急変して、「カード払いなら値段は5%アップになる」と言うのです。若かりし僕は当時は「そんなバカな」と思ったものですが、今になってよくよく考えてみれば当然のことでもあり、そのお店の定価には本当に、現金払いを前提とした最低限の利益しか入っていなかったのでしょう。その際は結局現金払いとしましたが、実は同様の例は日本にもあります。税金や公共料金の支払いをカードで支払おうとすれば、国税や都税の支払いサイトでは税額に加えて「決済手数料」が上乗せされる仕組みになっています。税金とは必ず決まった額を集めなければいけないことから結果的にこうなるのですが、いずれにしても真実としては金融決済コストとは「無料ではない」のであり、カード払いやキャッシュレス決済で現金と同じ価格を支払っているように消費者の立場では感じても、実はその価格には「手数料のためのコスト」もあらかじめ上乗せされています。そのため逆に考えれば、現金とカード払いで価格が同じ場合は「金融決済の分の余分なコストはあらかじめ価格に入っているのだから、現金払いをした人は純粋に少し無駄な費用を払っている」と考えることもできます。

 日本では「キャッシュレス決済が進まない」と声高に言われていますが、その根本的な原因は「日本人の現金信仰意識」とか「高齢者が多いから」とか、そのような精神論的な話では実は全くなく、この「金融決済手数料が他国に比べて高い」ことが最大の原因です。他国ではカード決済でもコストの上昇幅がトータルで2%程度に抑えられる場合もある一方で、日本ではこのキャッシュレス決済による損失額の割合が最大で10%近くにもなります(決済事業者との契約条件やビジネス環境にもよりますが、決済回数の少ない零細加盟店ほど手数料の利率が高くなると考えるのが妥当です)。これは国内の金融決済システムや銀行にも構造的な問題があり、キャッシュレス決済の決済手数料に留まらず、それが加盟店に入金される際には「銀行間送金手数料」も最終的に必要になるからとも言われます。近年この「銀行間送金手数料」はなんと半世紀ぶりにようやく引き下げられたものの、それでも根本的な問題は同じままであり、日本社会では見えないところで国民全員が金融事業者と銀行を社会インフラとして無意識かつシステム的に支えてしまっており、この高額な決済手数料と銀行間送金手数料が、加盟店のキャッシュレス決済導入を妨げている原因となっています。この環境はビジネスの視点から見ると、キャッシュレス決済を導入することにデメリットが多すぎて「加盟店は合理的なメリットを見いだせない」状況と言えます。

 さて、金融の話が長くなってしまいましたが、ようやくここでラーメン屋の話へ入って行きたいと思います。なぜ人気のラーメン屋ほどキャッシュレス決済を導入しないのかと言えば結論は非常にシンプルで、「ほとんどが零細業者である人気ラーメン店がキャッシュレス決済を導入すれば、競争に簡単に負けるから」です。これは「ラーメン屋というビジネスはコストパフォーマンスを極限まで追求したものである」ことに大きく関連しています。 

 みなさまもだいたいイメージをお持ちだと思いますが、人気のある高級ラーメン屋でもその基本的な価格は1杯1,000円未満に抑えられていることが一般的です。そしてラーメン屋ではこの低価格でラーメンを作るのに、信じられないほどの時間と手間、多くの材料が注ぎこまれていて、ラーメンとはコストパフォーマンスでは他の料理の追随を許さないほどに価値のある食べ物と言えます。多くの材料費がかかる料理で、他のコストを抑えると同時に販売量を確保する必要もあることから、店舗は1人または2人といった超少人数で業務を回していることが多く、食べたらすぐに出て行ってもらうことで回転率を確保する必要もあります。ラーメン屋で「1人1杯は必ず注文を」「小さなお子さまのご入店はお断りします」という貼り紙をご覧になったことがある方がいらっしゃるかも知れませんが、これは極限まで回転率を高めて効率的に販売量を確保する必要がある競争環境を考えると、もちろん良い気持ちにはなりませんが、理解できる部分があるのも確かです。そうした「極限の効率性」を維持しなければ、ラーメン店とはビジネスそのものが「環境的に成立しない」からです。

 さて、みなさまももうお察しかも知れませんが、このような「極限の経営努力」が求められる競争の激しいラーメン業界でキャッシュレス決済を導入しないことは、彼らにとっては「完全に合理的」なのです。国内ではキャッシュレス決済により最大で10%程度のコストが上乗せされてしまうため、単価が1,000円未満のラーメン屋では現在の価格設定では単純に赤字になってしまうか、価格そのものを値上げする必要が出て来てしまいます。ご存じのようにコストパフォーマンスを極限まで高めて競争しているビジネスですので、10%の値上げはそのまま「競合店に負けて店をたたむしかない」ことを意味します。

 そのため、おいしいラーメンで集客したいとの考えで経営をしているラーメン屋であればあるほどキャッシュレス決済にコストをかける合理的な理由はまったくなく、もしそのコスト分の余裕があるなら、むしろもっと質の高い材料を使ってラーメンを作ることで、お店の価値をより高めようとするはずです。これが僕が「お支払いは現金のみであるラーメン屋ほど、美味しいラーメンを作れるはずだ」と考える理由であり、そこには精神論やカルチャーの問題ではないラーメン業界特有の「合理的かつ明確な理由」があり、もちろんラーメン屋さんの個々のポリシーや信念の問題でもなく、経済合理性に照らした「マネーの取り扱い方」に理由が存在しています。「どんな人気店でも10年経てば飽きられる」とまで言われるラーメン業界で、キャッシュレス決済という「無駄なコスト」を店舗がかける理由は、どこにもないのです。僕が自分ならどちらを選ぶかを「消費者の立場」から考えてみても、クレジットカードで払えるけど味はまあまあで900円のラーメンより、現金しか使えなくても同じ900円で「これは美味しい!」と感動できるようなラーメンを提供するお店を必ず選ぶのは間違いありません。

 ただしこの「キャッシュレス決済はビジネスにとってメリットがない」ケースは特定のビジネスモデルに限った話であり、高い取扱い手数料をかけてでもキャッシュレス決済にした方が合理的にメリットがあるビジネスも、たくさん存在します。たとえばECの店舗やオンラインビジネスはそもそも現金を受け取るための実店舗を持ちませんので、専用の支払い場所を設けて人間を置いておくよりはすべてオンライン決済にしてしまった方が、むしろ商品やサービスを安く提供できるでしょう。商品を全て定価で売っていて利益率が高いコンビニなども同様で、利益率がそもそも高いこと、どこも同じ商品を売っていて差別化ができないため支払い利便性も大切であること、膨大な量の現金の入出金や運搬に逆にコストがかかることから、現金の取り扱いを減らす方がより効率的なサービスや商品を提供できるでしょう。単価が高い高級レストランや高級品を販売するお店も同様で、1回で大きな利益を出せることや高額な現金を持ち歩く人は少ないことから、やはりキャッシュレス決済にした方が合理的なメリットが大きくなると考えられます。

 なぜかイメージ優先で消費者にとってどちらが便利かとの視点からだけで語られがちな「現金かキャッシュレス決済か」の問題ですが、僕としてはむしろこのように冷静に「どちらの方がマネーや商品の価値に大きなメリットをもたらすか」という合理的な計算をベースとして総合的に考えてみるべきかなと思います。そのような視点を持つことで、少なくともラーメン屋さんのように「本当に価値のあるもの」をより確実に選ぶことができるようになるでしょう。

 日本人は真面目な民族性であることと、他者の話を受け入れやすい集団的な性格であることから、「何事も完璧でなければならない」「便利にしないことは怠慢だ」「新しいテクノロジーは良いはずだ」「そうするのは時代の流れだ」と精神論的な視点で考えがちですが、他国へ行ってより多角的な例を見てものごとを考えると、「本当に合理的なこととは実はそうではなく、最終的に残るマネーの問題として捉えるべき」ということに気づかされる事があります。僕が海外で気づいたこととは、全てが完璧であることは無駄なコストを生むだけであり、実は損失の方が大きいという点です。ビジネス用語にも「選択と集中」という言葉もありますが、僕としては必要なものとそうでないものを冷静に仕分けて価値付けや優先順位付けを行うと言う「完璧を目指さないことの合理性」により、日本の社会や経済はもっと良くなるのではないかなと思っています。

 まったく種類の異なる話にはなるのですが、かつて「世界一の品質」を誇った日本のソーラーパネルが、なぜ世界のマーケットで敗北する結果となったかを振り返ってみたいと思います。10年以上前とかなり昔の話にはなるのですが、当時日本のソーラーパネルの発電効率は世界一で、他国のメーカーの追随は許さないほど優れていました。

 では、なぜそのような素晴らしい商品がシェアを失ったかと言えば単純で、消費者に合理性を提供できなかったからです。日本のソーラーパネルが最高品質を誇った時代、競合メーカーであった海外メーカーはこう考えました。「80%の発電効率でも、価格が50%なら勝てるだろう」。

 これが完全に合理的にマーケットにヒットして、日本製のソーラーパネルは世界の市場で駆逐されることとなりました。よく考えれば単純な話で、効率80%のパネルを2枚購入すれば価格は同じ、しかし総発電量は160%になるのです。この競争において、高品質だけど価格が高すぎるパネルを買う人はいません。単純に「オーバースペックで高いだけ」になってしまったのです。

 このように、完璧を目指さないことによって合理性が高まるケースはいくらでもあります。例えば、僕が米国ロスアンゼルスを訪れた当時、市内を走るメトロにはなんと「改札がありませんでした」。

これは「信用乗車方式」と呼ばれるもので、海外の地下鉄や鉄道には結構あるパターンなのですが、全てをチェックしなくても乗客は一定の割合でチケットを買うだろうとの「信用」をベースに、買わずに乗車する乗客分の損失は最初から諦めることと引き換えに、自動改札機や係員、システム構築を省略することでコストを大幅にカットする方式です。「そんなことをしたら誰も払わないだろう」と感じるかも知れませんが、そこはちゃんと対策も施してあり、「稀に」出口に警察官が立っていて、チケットを持っていない乗客は高額な罰金を課される仕組みになっています。米国ではスピード違反の取り締まりも「一番速く走る車を捕まえる」のではなく、たまたま前にいた車が「少しでも速度超過したら捕まえる」ような感じになっていて、完璧な結果を実現するよりも人間の心理を利用して全体を「ある程度」抑制する方式によって、最終結果を合理化・効率化して社会の損失を減らしているのだなあと感じました。ロサンゼルスのメトロの出口で僕がその取り締まり警察官に遭遇した時、僕がちゃんと切符を買って持っており捕まることはなくホッとしたのは、必要ありませんが強調しておこうと思います(笑)(最初から1日券を買ったので、運もあったとは思いますが…)

 また、近年ではアフリカへの中国企業の進出が目覚ましいと言われていますが、中国製の商品の品質は良くなって来ているとはいえ、一部を除きまだまだみなさまが持っているイメージ通りであるのもまた真実かと思います。これは技術が追いついていないことや社会の怠慢といった要素もゼロではないのでしょうが、実は「低品質で良いのだ」とビジネスとして意図的に割り切っている部分があるのではないかと僕は考えています。

 先日、アフリカでまだ開通もしていない中国製の橋が崩落したとのニュースがあり驚いたのですが、アフリカの人々はそれでも「ああ、中国製だからね。壊れたらまた作れば良いのさ」と笑いながら言っているのです。おそらく先進国の価値観では理解が難しいかも知れませんが、まだ発展途上であるアフリカではそれこそが合理的なのであり、アフリカには「100年壊れない橋」はまだ必要なく、むしろ10年も持たない橋であっても初期投資を抑えてとにかく建設することで、今後の発展の基礎を少しでも早く整える方が総合的には合理的なのです。中国のビジネスは、発展途上国の顧客にとって必要なことを先進国のビジネスよりもちゃんと理解していると言えるのかも知れません。いずれにしても、相手のニーズを理解しないまま自らの価値観を持ち込んでも、ビジネスとして成功しないことは様々な結果が証明しているかなと思います。

 さて、最終的にラーメンの話からだいぶ遠ざかってしまいましたが、本ブログの最終的な趣旨は「常識に捉われると、合理性は見えなくなることがある」という点です。私たちには無意識のうちに「正しいと信じてしまっていること」がありますので、その価値観を一度裏切らせることで、私たちは価値観をリセットし続けて行く必要があるのかなと思います。過去の成功体験は忘れて、そもそも生まれながらにして「人間そのものが不完全な存在であること」も変数として計算に加味し、自らの価値観や経験は完璧では無かったことを認める勇気を持って、相手の立場から物事を考えて見たときに、より正確な何かが再び見つかるものなのかも知れません。いつまでも子供のような冒険心や探究心を持っていることも、実は有効かも知れませんね(笑)

 正しさの基準そのものを考え直すことで、あなたの周りの世界や人生は、少し良い方向へ変えられるかも知れません。そうした価値観の基準そのものを変えてみるために、ぜひ一度、世界へ出かけてみませんか。

2つの”equality”:「機会の平等」と「結果の平等」

 みなさまこんにちは。最近は文字ばかりの記事になってしまい恐縮なのですが、本日は僕が組織を運営するにあたって常に悩みどころともなっている「機会の平等」(Equality of Oppotunitiy)と「結果の平等」(Equality of Outcomes)について、書いてみたいと思います。

 最初に結論のようなことを書いてしまうと、「平等」に関する問題には、完全な解決方法と言うものは、実は存在しません。そもそも「何を平等と考えるか」によって、大切にすべきことが変わってしまいますし、上記した「機会の平等」と「結果の平等」は、実は必ず相互に矛盾する(includes a mutual contradiction)存在だからです。つまり、私たちが平等な環境を実現するための取り組みというのは、実はこの「機会の平等と結果の平等の間の、どこでバランスを実現するのか」について、人々が自らの属性の利益を追求するための駆け引きとして行っているに過ぎません。どちらかの平等を追求すれば、もう一方の平等は損なわれる。残念ながら、それが人間が形成している社会と言えます。

 一般的には、私たちは「機会の平等」を尊重すべきだとほとんどの人が認識しています。国籍や宗教、ジェンダーや年齢に囚われず、全ての人が等しく機会を与えられるべきである。この概念だけを1つの視点から見た時には完全に正しいように見えるのですが、その裏には、ネガティブな副作用も隠されています。しかし、その副作用やネガティブな側面については、残念ながら昨今のメディアや学問で「主流の意見として」取り上げられることはほぼありません。

 僕自身も組織を運営していますので、機会の平等が限りなく実現されるような仕組みを社内に導入しています。日本人だけでなく、欧米を中心に多くの国籍のメンバーが働いていますので、出自やジェンダー、年齢ですら区別を付けずにチャンスがあるような「能力評価」のシステムにしています。頑張って結果を出した人こそがその分評価され報われる姿を日々確認できていますし、その新しい組織のあり方には一定の満足を感じています。日本でもようやく欧米型の「ジョブ型雇用」を取り入れる大企業も現れ始めましたが、SSEAという組織には少なくとも、従来の日本企業とはまったく異なった価値観と企業文化が存在しているのは間違いありません。幹部の半数が外国人ですし、その中には女性もチームの一員として参加しています。「頑張れば、出自や性別、年齢に関わらず、誰でも報われる」、それを当たり前のことにしたいし、そうすべきであるというのが、ここまでの組織作りの大前提として大切にして来た事でもあります。

 一方で、機会の平等を尊重するためなら「結果の平等はないがしろにしても良いか」ともし聞かれるとしたら、それもまた違うのかなと考えています。

 議論の余地はもちろんありますが、ものすごく単純に分けて考えるのであれば、これまで欧米社会、特に米国は機会の平等の実現を追求して来たのに対し、日本社会はどちらかと言えば「結果の平等」を大切にして来たように思えます。日本ではメンバーシップ型雇用(終身雇用:Lifetime Employment)によってほぼ全ての社員が退職までの生活とその後の年金を保証され、主に年齢と就業年数によって昇進が決められ(年功序列:Seniority System)、悪い言い方をすれば「頑張っても頑張らなくても、結果はあまり大きくは変わらない」のが、これまでの日本社会でした。みなさまも、まったく仕事をしているように見えない課長や部長を、どこの会社でも見かけたことがあるかと思います。極端に言えば、これまでの日本の社会では「真面目に頑張る人ほど、損をする状態になってしまっていた」ことを、日本企業で勤務したことがある方なら誰もが実感して来たのではないでしょうか。

 この点は海外と日本の社会を比較すれば、多くの側面で違いを確認することが可能です。近年は国内では「格差が広がった」と、まるでこの世の終わりかのようにネガティブに報道するケースが目につきますが、その状況を加味してもなお、日本はまだまだ他国と比べれば「他国と比較することが馬鹿馬鹿しいくらいに、圧倒的に格差が小さい社会」です。格差が広がること自体が良いのか悪いのかは後半で再度触れますが、事実としては日本ほど格差が小さすぎる社会は、世界広しと言えども、極端な福祉制度を持つ北欧くらいかも知れません。米国の投資銀行の駐在員として日本に滞在した日本支社のCEOが帰国時に述べた感想が

「日本は世界で最も大きな規模の社会主義国だ」

だった、との笑い話は冗談ではなく、社会制度や規制によって、本当に社会主義に近い状況に結果的になっていることを象徴したひと言だったのかと思います。少なくとも、海外から見ればそのように見えるのが日本の社会制度です。

 例えば、日本ではなぜか「学歴は大切なのか」という話題がたびたびメディアで繰り広げられますが、こんなことを真剣に議論するのは日本人だけではないかと思います。残念ながらこの点は国内メディアも井の中の蛙になっている(正確には、メディアだけでなく日本では読み手がそれを求めているからこそ、そのような趣旨の記事や番組が増える)と感じるのですが、日本人が学歴云々を議論する間にも、海外では日本以上の超学歴社会が繰り広げられており、大卒と高卒では人生は天と地ほどに変わってしまいます。欧米ではさらに、大卒どころか修士や博士の学位を取得することも当たり前のように推奨されており、大卒でも高卒でも平均年収の差が1.5倍にもならない日本社会は、世界の中ではむしろ「異常なほど格差を認めない社会」となっています。欧米ではスチューデントローンを組んで、借金をしてでも大学を卒業して働きながら返済して行くのが当然ですし、社会に出たあとでも、年間で1000万円の学費にも達する大学院へ戻るために数年間は働いて貯金をし、さらに高度な学歴取得を目指して人生設計を組み立てるのが普通です。

 また、日本の税の仕組みや社会保険なども、例外に漏れずに日本人の価値観を反映したものとなっています。所得税に関して言えば累進課税が設定されているので、例えば頑張って働いて年収が1,000万円に到達すると、その収入の約半分は税金と保険料で消えてしまいます(所得税や住民税だけではなく、健康保険料なども収入に応じて増減するため)。一見とても公平なように見えるのですが、ここでは頑張った結果は報われるべきという「機会の平等」よりも、収入が多い人はその分を他人に還元すべきとの「結果の平等」が優先されているのが、今の日本社会です。収入の半分を失うために、昼夜を問わずに必死に働いて何かを努力しようとする人が、果たしているのでしょうか。日本人はよく「集団のために生きている民族」と海外から揶揄されることがありますが、これは国民性だけではなく社会制度そのものもこうした目的を達成するための設計となっていることを、私たちも正確に知っておく必要があるでしょう。結果の平等を尊重する社会とは、反対に言い換えれば「努力を搾取している社会」でもあります。歴史上で社会主義や共産主義が失敗に終わって来たのは、結果の平等を追及すると誰も努力をしなくなり、社会と人間そのものが腐ってしまうからです。残念ながら人間とは、競争が無ければ怠惰になり腐る生き物であることは、すでに歴史が証明しています。

 さて、ここまで書いて来た内容を読んで「単純に日本を批判している」とお感じになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、実はそのような意図でこの記事を書いているのではないことを、一度立ち戻って確認しておきたいと思います。ここまで書いて来たことはあくまで比較対象としての「事実の羅列」であって、僕の意見や考えとは異なることです。むしろ冒頭でも述べた通り、「機会の平等を一方的に追求することには、罠もある」というのが、ここで本当に明らかにしたいことでもあります。

 先日、「ジョブ型雇用は実は欧米ではもう時代遅れのものなのに、日本は今から導入しようとしている」と書かれた記事がありました。これはまさに僕も同じことを感じています。ジョブ型雇用で、つまり能力のみを絶対かつ唯一の評価基準として組織を運営しても、そもそも人間には感情があり機械の部品ではないので、結果的には上手く行かないと、ここまでの組織作りの経験で僕も理解して来たことでもあります。ですのでSSEAでは、あくまで機会の平等を基本原則としながらも、結果の平等が損なわれ過ぎないよう、「バランスを取るための決定」も忘れないようにしています。純粋な弱肉強食だけではやはり、組織や社会は良いバランスでは成長しないと感じているからです。そのためSSEAではビジネス原則を基本としながらも、多くの企業では一般的に(どれだけ包み隠しても)絶対の正義とされている「利益第一主義」や「売上至上主義」は敢えて排除し、顧客満足と従業員のウェルビーイングを利益よりも先にまず実現すべきことに据えています。そこはおそらく、SSEAという組織が利益の最大化自体を組織のパーパスとせず、社会貢献をその存在価値としているからこそ可能なのかなと思います。欧米型の考え方やシステムを取り入れつつも、そもそもアメリカとヨーロッパとオーストラリアで既に相互にまったく異なっている価値観やシステムを常に比較し、日本の良いところも加えながら、「ベストミックス」して新しい組織の在り方を生み出すことをマネジメントの前提としています。いかに米国が世界の最先端であっても、米国のビジネスをコピーすることはここでは全く望んでいません。むしろ、米国を上回る良いものを実現するべきだと考えています。

 現在の米国での「社会分断」(Social Segregation)の深刻さはたびたびニュースで取り上げられていますが、それでも日本で普通に生活する方々がその深刻さを本当の意味で理解することは、非常に難しいことなのではないかなと思います。この社会分断の原因には「弱肉強食社会での階層化」が根底にあり、機会の平等を追求したいリベラル主義と、宗教に基づいた「古き良き」伝統的な価値観を維持したい保守的な中間層が、相互に話し合うことすらもはや不可能になってしまうくらいに対立を深めてしまった結果であると言えます。AなのかBなのか、白なのか黒なのかという、2択のどちらかを双方が「絶対正義」と考え、その選択を迫るような価値観が強まった結果、今のアメリカではおよそ人口の半分の人が「2030年までにアメリカは内戦に陥る」と感じているそうです。それが実際に武器を使った姿の内戦になるかどうかは分かりませんが、機会の平等を絶対の理念として追及して来た結果、米国は社会に大きすぎる格差と階層、対立・紛争と不理解を副作用として誘発して、社会がバランスを取るための機能を失ってしまっているように見えます。相互に対する理解や思い遣りを欠き、ただひたすらに相手を否定すること自体を目的とする前提の姿勢と議論では、社会がより良い姿を実現する事は不可能と言えるでしょう。格差が異常なまでに小さく、妥協や集団生活を重んじる日本人の価値観はその対極にあることから、日本人がこのような「社会分断と格差の現実」を本当の意味で理解し実感することは、ほぼ不可能なのではないかと思います。

 ただ、ここで確認しておきたいもう1つの事実は、これは本当に「残酷な社会の真実」だと思うのですが、「分断された社会や格差は、一部の既得権益や富裕層、国の経済や資本家にとっては、むしろポジティブ」だという点です。近年に「伸びている」企業や経済、あるいは国家では一部の大企業や資本家と富裕層の利益だけが物凄い勢いで増えていることがほとんどであり、こうした「経済の先導役」がいて初めて、国際競争に勝ち抜き経済や平均所得が向上するのが現実です。中国では「富めるものから先に豊かになれ」として社会の格差を容認した鄧小平による改革開放が現在の経済発展のきっかけとなり、米国であればGAFA、韓国であれば財閥企業(特に経済の20%を占めるサムスン電子)、台湾であれば世界の半導体の中心プレーヤーともなった台湾積体電路製造(TSMC)などのIT関連企業、シンガポールや香港であれば富裕層による金融と投資が経済を支えていますが、これは「国民全員が豊かになった」とのイメージとは全くに異なる姿の「発展」であり、どの国家や地域でも日本とは比較できないような深刻な格差問題と社会分断を抱えていますが、そうした面は国内で報道の場にあがることは非常に稀です。社会の上位10%~20%に富が集中する方が社会の平均値は素早く上昇するのですが、逆に考えればそれは社会の80%を形成する「苦しい庶民」の犠牲と、そこからの搾取によって成立している「平均値という名前の数字上の発展」でもあります。日本以外の国の経済の「平均値」を考えてみても、実は何も参考にならないことは、直接その国の人々と触れてみれば、よく分かることです(平均値は富裕層や大企業が一気に押し上げているものであり、その「平均値で生きている人」は、格差社会には多くは存在しません)。まだまだ中間層が社会の最も大きなウェイトを占める日本人はとにかく格差にアレルギーがありますが、経済成長(平均値の底上げ)を達成するためには「格差社会の方が優れている」のもまた、知っておかなければならない残酷な現実です。

 当然こうした「格差社会」には、多くの犠牲が内包されています。富裕層が超高級車やプライベートジェットで豪遊する一方で、中間層を含む庶民は病院で満足な医療も受けられないのもまた米国社会であり、金融や投資で豊かな地域では、肉体労働のような社会の厳しい職務を負担し、その生活が向上する可能性は与えられていない「奴隷のような労働力」が社会を支えています。「機会の平等を尊重して豊かになった社会」(平均値が押し上げられた社会)とは、必ずしも美しいことばかりではないのです。必ず勝者と敗者に分けられて、同じ人間とは思えないくらいの立場の違いを受け入れるか、感情的に受け入れられなければ、社会分断と治安の悪化を副作用として誘発する。残念ながら、格差社会で競争に敗れることとなるほとんどの人間は機会の平等を論理的に受け入れて大人しく平和に暮らすことを受け入れないので、社会分断と治安悪化は、機会の平等という美しい響きの単語とセットで、必ずやって来ます。こうした「機会の平等を追及することの裏に存在する現実」も、私たちは未来の社会を描く際には知っておかなければならないでしょう。

 さて、僕の中で「機会の平等と結果の平等のどちらを尊重すべきか」という宿題については、残念ながらまだ答えが出ていません。というよりは、ハッキリとした答えは絶対に見つからない問題なのだろうということが、既に分かってしまっている、と言う方が正しいかなと思います。

 機会の平等と結果の平等は必ず相互に矛盾しますので、どちらか一方を追及するのではなく、どこにその理想的なバランスがあるのかを探し続けるのが僕の課題の1つかなと考えています。チャンスが平等にあり、頑張ったことが報われるべきというのは組織や社会の最低条件ですが、一方でそこに、人の生命や幸せといった基本的人権に対する犠牲があってはならないとも感じます。

 運の良いことに、SSEAには国籍も価値観も文化も、もともとバラバラであった多様なメンバーが集結しています。その多様性の中でバランスを取ることで、どこに理想的なバランスがあるのか、その永遠に答えは出ないであろう宿題に今後も取り組んで行ければと僕は考えています。

 また、いま僕がこうしてメディアに書かれている情報をいったん疑い、ゼロベースから物事を考えるようになったのは、やはり英語が話せるようになり、多くの外国人と直接触れ合って来たおかげかなと、常に実感しています。みなさまにもぜひ、少しでも英語を身に付けて、オンラインからの「情報」では分からない本当の世界の姿を、「経験」として発見していただければ幸いです。

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モロッコと西サハラ

2005年の2月、僕は貯まりに貯まった有休を使ってモロッコを約1週間かけて周りました。初めてのアフリカ、そして初めてのイスラム教の国の旅でしたので、期待と不安の入り混じった旅行でしたが、これまで見たことのない文化圏への旅行は非常に刺激的で貴重な経験だったと思います。今日はその旅の中で初めて知ることになった、「西サハラ問題」についてご紹介したいと思います。

<英語ガイド兼ドライバーのハリディと、砂漠の要塞アイトベンハッドゥ。ハリディは腰が悪いらしく、長い運転がいつも辛そうでした>

モロッコでは専用の英語ガイド兼ドライバーと共に、マラケシュ、アイトベンハッドゥ、ワルザザート、トドラ渓谷、エルフードと周り、メルズーガの丘からサハラ砂漠を眺め、最後にフェズ を訪れ、カサブランカからトランジットで経由したパリに一泊して帰国しました。モロッコは旧フランス圏なので公用語はフランス語で、英語はあまり通じません。また古都であるマラケシュやフェズの旧市街(メディナ)はまさに迷宮で、現地ガイドなしでは迷って出れなくなってしまいますので、英語のできるガイドは本当に頼りになりました。

<トドラ渓谷と水を飲むラクダ。モロッコ南部は大部分が砂漠地帯で、オアシスは本当に貴重です>

旅の中盤、ワルザザートからトドラ渓谷へ向かう途中の小さな町を過ぎた丘の上で、ハリディ(英語ガイド兼ドライバー)が、「ここは眺めが良いから、写真を撮ったら良い」と言って車を止めました。丘の上から写真を撮っていた僕は、反対側の丘の斜面に書かれた大きなアラビア文字があることに気がつきました。「あれは何て書いてあるの?」とハリディに尋ねると、彼は「西サハラは我々の領土だ」と書いてあるのだと教えてくれました。その時に「西サハラ」と言う地名を初めて聞いたのですが、何だか政治的に微妙な問題である臭いがしたので、僕はそれ以上尋ねることはしませんでした。後でモロッコのガイドブックを見てみると、確かにモロッコの隣に「西サハラ」と載っていましたが、そこは国ではなく、かと言ってモロッコ領でもない、空白地帯のような扱いとなっていました。

<立ち寄った小さな町の丘に書かれたアラビア文字。「西サハラは我々の領土だ」と書かれています>

西サハラとはモロッコの西側に位置する地域で、人口は約27万人(2004年)、住民の大多数はサハラウィー人、アラブ人やベルベル人で遊牧民も数多く生活しています。1969年まではスペイン領の一部でしたが現在の帰属は未確定で、亡命政権であるサハラ・アラブ民主共和国とモロッコ王国が領有を主張しており、国連の「非自治地域リスト」に1960年代以来掲載されています。1975年にスペインが領有権を放棄すると、1976年にモーリタニアとモロッコが分割統治を開始しましたが、一方で西サハラの独立を目指すポリサリオ戦線が武力闘争を開始し、1976年にアルジェリアで亡命政権「サハラ・アラブ民主共和国」を樹立しています。1979年にモーリタニアはポリサリオ戦線と和平協定を締結し西サハラ領有権を放棄しましたが、同年モーリタニアが放棄した領域をモロッコ軍がすぐに占領し、現在に至るまで独立をめぐる問題が続いています。モロッコによる領有権の主張は大多数の国から認められておらず、アフリカ・中南米・南アジア諸国を中心に約80か国がサハラ・アラブ民主共和国を国家として承認していますが、欧米や日本などの先進諸国はモロッコとの関係上からサハラ・アラブ民主共和国を国家として承認しておらず、国連にも加盟できていません。モロッコは国王の相次ぐ西サハラ訪問やインフラ整備などにより西サハラの実効支配を既成事実化し、サハラ・アラブ民主共和国の独立を妨害しています。サハラ・アラブ民主共和国は1982年にアフリカ統一機構(現在のアフリカ連合)に加盟しており、一方でモロッコがアフリカで唯一アフリカ連合に加盟していないのは、サハラ・アラブ民主共和国の加盟に反発して脱退したためです。そのためサハラ・アラブ民主共和国はアフリカ連合のみの加盟、モロッコは国連のみの加盟となっています。

<アフリカ・西サハラ・モロッコの地図>

モロッコ旅行も終盤に差し掛かり、パーキングエリアでコーヒー休憩を取っていた時に、ハリディが僕の持っていた「地球の歩き方」の地図を見せてくれと言いました。彼は西サハラがモロッコと分離されている地図を見て、「この地図は間違っている。西サハラはモロッコの領土だ。この地図が分離して載せていると言うことは、日本政府が西サハラをモロッコ領だと認めていない証拠だ。」と言いました。僕らは西サハラに関する知識はほとんどありませんでしたし、政治的に微妙な話題なので、「自分たちはその事は良く知らないんだ。西サハラについて教えてくれ」と言うと、彼はフランス語訛りの聞き取り辛い英語で西サハラについて語り始めたのです。長い話でしたし、聞き取れない部分もかなりありましたが、「モロッコは西サハラを自分たちの領土として道路などのインフラを整備したし、学校を作ってモロッコの税金で教育を行っているのに、国際社会が西サハラをモロッコ領と認めないのはおかしい」といった内容で、穏やかな語り口ながらもその言葉はとても強く、興奮を押し殺しているかのような様子で話していました。日本では当時は愛国心やナショナリズムを示すことは悪いことだと言う空気があった時代でしたので、彼が強く主張する様子は僕らにとってはとても新鮮な体験だったことを思い出します。

日本にも多くの領土問題がありますし、海外の人々とこうした内容の話をする機会がまたあるかも知れませんが、領土問題にはそれぞれの立場と言い分があり、全てを客観的に理解することは難しい事だと思います。そうした際に、問題に対する十分な知識なく話をすることはとても危険な事なのでしょう。日本にいるとどうしても目が内向きになりがちですが、世界に存在する様々な問題に興味を持つことは大切であると感じた経験でした。無知であることは時にその国の人々を傷つけることにもなります。そうならないためにも、日本のこと、世界のこと、これからもしっかり理解して行きたいと思います。

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「育てる」ときに大切だと思うこと

 しばらくぶりのブログ投稿になります。今日は「育てる」と言うトピックについて、書いてみたいと思います。

 日々多くの生徒さまに接しながら感じることなのですが、「その方の力をどうやったら伸ばしてあげられるか」と思い悩むのは、教育に携わる方のみならず、子供をお持ちの全ての親御さまや、企業や組織で社員や後輩の育成に携わる方まで、多くの人々が「難しい」と感じることなのではないかと思います。本日は僕が「人を育てる」ことについて「欠けてはならない」と思うことを2つ挙げてみたいと思います。

最初に結論をシンプルに箇条書きしてしまえば、この2つは英語教育に限らず、必ず必要なことなのではないかと思っています。

A:相手の成功体験を作ることで「自信とやる気の土台を作ってあげる」こと

B:相手に教える行為が「自分のためではなく、相手の利益になっている」こと

 まず「自信とやる気を作ってあげる」ことですが、これは人生の全てにおいて、もっとも大切な基礎であると僕は考えています。英語に関して言えばもちろん「単語」や「文法」、「発音」や「スピーキング力」など、スキルとして指導しなければならないことは限りなくたくさんあるのですが、そのステップに進む以前に、まず学習される方に「モチベーション」が無ければ、どれだけ内容が素晴らしい指導でも時間や費用の無駄になってしまうものかなと考えています。モチベーションとは動機、つまり「何かを頑張るための目的」です。

 「帝王学」という学問がありますが、これは将来に大きな組織のリーダーとなるためにはとにかくまず「揺るがない自信」を醸成することが大切と考え、幼少期にはとにかく褒めることや成功体験を積み上げることで、大人になったときに困難なことがあっても崩れてしまわない強さと自己に対する自信をまず作り上げることを目的としているように思えます。そして帝王学の基礎はまず「幼少期」にありますので、何より子供とは「まず自らの親に認められる」ことに全てがあり、そのステップをクリアすると次は「友だちや先生に認められること」となります。日本にも「三つ子の魂百まで」とのことわざがありますが、人生の70%以上は、実は生まれた直後の家庭での体験に左右されるものかも知れません。

 ですので僕が子育てをされる親御さまにまずお勧めしたいのは、否定による教育を重視しすぎないと言うことです。もちろん、一定の負荷をかけることで耐性を持たせることも必要なのですが、これに偏ってしまうと、スキルは一見は身についているように今は見えても、将来に自信が持てずに自我が崩壊してしまいます。「良く出来たことは手放しで褒めて、悪いことをしたら叱る」、この両方がバランス良く存在して初めて、褒めることと叱ることは相互に効果を発揮できます。

(誤解を招かないように強調しておくと、これまでの否定が中心の教育では上手く行かないから、何があっても叱らず、悪いことをしても無理矢理ただひたすら褒めれば良い、ということも明らかな間違いです。英語では甘やかすことを”spoil”と言いますが、spoilの本来の意味は「ダメにすること」との意味であり、褒めることを良しとする欧米社会においてさえ、甘やかすことは虐待であるとの価値観が存在していることは言語そのものが証明しています。あくまで「正しい価値観を伝え、それが達成されたときだけ褒める」ことが必要です。)

 また、この「成功や達成を認めてあげることの重要性」は子育てに限らず、全ての「育てること」において共通に必要なことではないかなと思います。人は他者に認められて初めて、至らない点を呑み込むこともできます。これは人間の「自我」の存在を考えればむしろ科学的かつ合理的なことであり、アメリカでは人事のマニュアルにまで記載されている内容だと聞いています。努力を促すためにはただ否定するのではなく、まずは「認めてあげる」という作業が最初に必要です。人に認められているという「自信」があって初めて、人間は自らの欠点を受け入れて改善したり、自らの気持ちに余裕を持ってマナーやルールを守ったりすることが出来るようになるためです。ですので、自信を崩すような言い方や教育は、どのように指導内容が素晴らしいものでも、どれだけ言っていることが正論でも、その前の段階でまったく効力を得ることができません。

 次に「育てることは、自分のためであってはならない」という点です。私たちはみな人間ですので、教えられている側は必ずどこかで「この人は自分のためにそう言ってくれているのか、ただ自分の面子や利益のためなのか」を感じ取っています。

 例えば、将来は「良い大学に行った方が良いに決まっている」ことを相手に伝えるとして、それが「本人の利益を考えてそう言っているのか」、それとも「親としての面子や自己満足のためなのか」、あるいは「塾や先生の実績や利益にしたいだけなのか」によって、同じ内容でもまったく効果が変わってしまいます。人間とは不思議なもので、まったく同じ言葉や文章からでも、その他の要素、例えば日頃の行いや話し方、表情や指導している人のヒストリーなどから、「相手が自分の利益を重視しているのか、それとも単純に相手の利益のために言っているだけなのか」を総合的にかつ本能的に判断するものです。

 ですので、相手に何か改善や努力を促したいのであれば、まず「それが本当に相手にとって利益になるのかどうか」、「そもそも、その相手にとっての利益や幸せとは何なのか」から、まず考え直してみる必要があるのではないでしょうか。価値観や幸せの定義とは世代によって、個人によっても違うものですので、自分の考えや成功体験がその「育てたい」相手にとって、本当に同じような利益であるとは限りません。その世代やその相手の性格など、「育てる相手の視点」から本当の利益とは何かを理解して、その利益を実現するためのサポートを提供してあげることが教育なのかなと、僕は考えています。つまり主役は育てる側であってはならず、あくまで「育てられる人の未来」であるべきです。

 日本人とはその歴史的な背景や民族性から「当初より強固なアイデンティティを備えている」と、世界の様々な人間を観察して来た結果として僕は感じています。それはつまり「否定されても揺るがない強さと自信」であるため、日本では体育会のようなしごき文化で指導を行っても、大半の人はポジティブな面を得ることが出来たのではないかと思います。定義の議論はさておき、日本という国は少なくとも他国に侵略を受けた経験が無く、文化的アイデンティティが強固に守られ続けて来ました。国が出現した時から王族が一度も変更されていない歴史を持っているのは、世界広しと言えども日本は世界で唯一の存在です。これまで「本質的に」「文化的に」否定された経験が薄いからこそ、少しのことでは揺るがないアイデンティティを維持していると言えるでしょう。

(話は脱線しますが、太平洋戦争の後に米国は日本を「支配」せず文化的アイデンティティも否定しなかったことは、直前まで戦っていた敵国だったにも関わらず、(米国の利益にも叶ったとは言え)どこまでも冷静で秀逸な判断だったと思います。)

 この点に関しては良い点と悪い点、メリットとデメリットが存在しています。自信があること自体は基本的にポジティブに作用しますので、逆境に負けずに耐える力、冷静に目標に向かって感情をコントロールする力、余裕があり他者に親切に出来たり異質なものを比較的容易に受け入れる受容性などは、ナショナリズムを離れて客観的に比較した場合でも他国より優れているように感じます。この点はまさに「アイデンティティが強固である」賜物ではないかと思います。

 一方で「育てる」という観点から見た場合に、否定されても揺るがない経験に慣れてしまっていることから、「否定することは普通で、耐えられない方がむしろ悪い」という暗黙の思い込みを常識として文化に内包してしまっています。これまで、国内のほとんどが日本人で、同質的な文化を維持している場合に限ってはそれでも良かったのですが、経済や情報がグローバル化し、国内でもより多様な価値観への対応が迫られるようになった現代社会では、これまでの「育て方」はまったく通用しなくなって来ています

 現代社会はインターネットで常に海外の情報と繋がっており、人は常に「自らと海外の人々」を無意識に比較し競争する環境に置かれていますので、これまでのように否定を中心とした育て方では「成功体験が最終的には得られない」状況となってしまいました。シンプルな例えだと、これまで日本では「プロ野球選手になればほぼ頂点」だったものが、現在では「メジャーリーグの選手はほとんどの人が国内のトップ選手より稼いでいる」と言ったことを、誰もが当たり前のように知るようになったというようなことです。国境のハードルが下がった結果、世界のどの国でも人々の競争相手は「国内ではなく全世界」に変わったと言えます。

 経済においても「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とまで言われた1980年代と比較して、世界の競争環境はまったく異なるものとなりました。日本が世界経済の中心だった時代なら、日本のやり方で、日本でトップを取れば、それはそのまま最高の結果だったと言えたのかも知れませんが、今では違います。少子高齢化が進んだ日本の環境では、言い方は悪いですが、今後の若者は「退役世代を支えると言うハンディキャップを背負わされた状況で」グローバル化された世界の強者たちとの競争に挑まなければなりません。残念ながら、国内で勝てれば勝ち組という時代は、30年ほど前にもう終わったのです。果たして、私たちが今後の将来世代にしてあげられることは、なんでしょうか。

 少なくとも今後の現役世代を「育てる」時には、こうした世界の強者と戦っても揺るがないだけの「自信とアイデンティティ」を作り出すことが求められます。また、価値観が多様化して周囲の人間も日本人とは限らなくなった以上、これまでのような否定を中心とした育て方では、大人になった時に周囲とのコミュニケーションに支障を来たし、最悪の場合はパワーハラスメントで組織を追われるといった結果になり兼ねません。私たちが将来世代の幸せを本気で願うのであればなおさら、私たちが育てる世代には「世界基準で勝ち抜くための育て方」が求められています。それはこれまで私たちが達成してきたことの何十倍もの努力と工夫、そして「これまでには無かったレベルでの育て方」が必要となるでしょう。今の日本社会、特に人を育てる親世代や管理職世代には、「価値観の抜本的な転換」が求められています。

  SSEAでは、未来の社会を担う方々を育てるお手伝いが出来ればと考えております。価値観の転換は世代に限らず、社会の全ての方々がそれぞれの役割に従って身に付けなければならないことではないでしょうか。

 ただ、私たちにはそのための希望がしっかりと見えています。これまで日本人が培ってきた「強固なアイデンティティ」と「他者に奉仕する精神」は、人を育てるという作業に関しては無類の強みを発揮できる下地でもあるからです。今後の将来世代が確固たる自信を持って、幸せに生きて行くためのお手伝いを実現出来たなら、それが私たちが存在する意義なのではないかと考えています。私たちは今後も、未来を創るための仕事をしていきます。

We can change the world.

Fly to the world, realize the next one and open your future.

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「英語を勉強して良かった」1番大切な理由

「英語って、何のために勉強するの?」

皆さんが英語や英会話を学ばれる理由は様々だと思います。「旅行をもっと楽しみたい」「留学やホームステイに行きたい」「受験のシステムが変わる」「仕事で英語が必要だ」「就職や転職で有利になる」「外国人と話してみたい」「外国人の友達や恋人が欲しい」「もうすぐ東京オリンピック!」「シェアハウスに入居したら周りがみんな外国人」…その目的、動機は人によって千差万別でしょう。きっかけや目的が何であれ、英語を身に付ける事はその方々にとっては必ず何らかのプラスになるはずです。僕に至っては、大学時代に父に「学生のうちに留学くらいしておけ」と言われたのがきっかけです(笑)もちろんそれ以前からTOEICくらいは受けないと…と思って単語を覚える程度はしていましたが、本格的に背中を押してくれたのはその父の一言だったのは間違いありません。詳しくは留学時代の体験 「Santa Barbaraその1。」のブログからお読み頂ければ幸いですが、何しろ僕はそのようなきっかけでロクロク会話の経験もないまま留学へ出発し、現地で打ちのめされ自分の情けなさを痛感し、そこから必死に英語の勉強を始めることとなりました。

きっかけはこのような情けないものですが、とにもかくにもその後英語を身につけた事で、次の留学では海外に多数の友人ができ、その後9.11直後の超氷河期の就職活動を勝ち抜き、海外旅行へ行っても不自由なく行きたい所へ行き、やりたい事をやり、食べたい物を食べ、相手を怒らせるまで値切り(笑)、時には英語でケンカをする事も出来ます。今ではネイティブと英語で議論してもそう簡単には負けません。そして何より、いまこうして英語を教えると言う仕事を立ち上げる事も出来ました。まさにあの時の父のひと言が、僕にとってはかけがえのない一生ものの財産となりました。恥ずかしくて口では伝えられませんが、僕はその時の父のアドバイスに、本当に深く深く感謝をしています。日本語しか話せなければコミュニケーションが取れるのはせいぜい1億人と少しですが、英語と言う「世界の共通語」でコミュニケーションが取れる人の数は、少なく見積もっても世界の半分、約35億人に上るでしょう。つまり僕の世界は父のおかげで35倍の広さになったのです。世界を自由自在に旅をして、35億の人々と会話ができ、様々な知識や経験を得て無限の魅力と出会うことが出来る。こんなに素晴らしい事は無いと思います。

しかし、僕が「英語を身に付けて良かった」と思う1番大切な理由は、実は上記したような事ではありません。僕にとっては世界を知ることで、「日本のことを初めて正しく知ることができた」と言うことが、もっとも大切な事だったといま思えることです。

実は僕は若い頃は、いつか日本を出て行きたいと思っていました。こんな経済が低迷し、刺激的な事が少なく、政治家や官僚は悪事ばかりを働き、過労死するほど働かなければならない国に住むのは不幸だと勘違いをしていました。ただ僕がこのように思っていた事は実はそれほど稀なケースではなく、実際に日本の若者は他国の若者と比べて自分たちを幸せだと感じていない、と言う調査データが出ています。つまり日本人、特に若者は日本に生まれた事を「幸せでない」と思ってしまっているのが現状なのです。それは実は大きな勘違いなのですが、残念ながらそれが勘違いだと気付くチャンスや方法が日本の若者にはないのかも知れません。それは日本の教育政策の失敗と、マスメディアがネガティブな内容ばかりを批判的に報道する偏向的な姿勢、そして何より、若者が内向的にならざるを得ない英語教育のレベルの低さに大きく起因しています。

僕は英語が話せるようになってから、色々な国の友人と話をしたり、中々行く事が出来ないような場所にも行けるようになり、個人的に旅行が好きだった事もあり世界各地の様々な場所へ行き、様々な現状や問題を自らの目で見て感じる事が出来ました。そしてその中で、初めて気付くことが出来たのです。「自分は何て恵まれた国に生まれ育ったのだろう」と言うことに。

<これだけの大都市にも関わらず、東京の空は青い。アジアからの観光客は、まず空の色が違う事に驚くそうです。アジアやヨーロッパの大都市の空が青い事は、近年ほとんど無くなりました>

世の中面白いもので、日本に生まれて日本しか見た事がなかった時は、実は日本のことは何も分かっていなかったのです。世界に飛び出して他国と日本を比べた時に初めて、日本は世界の中でもズバ抜けて幸せな国だと気付きました。治安が良く女性が夜に繁華街や住宅街を1人で歩いても何も問題がなく、町は清潔で人々は勤勉で礼儀正しく親切、カフェでバッグを席に残してトイレに行っても盗む人もおらず、電車にスマホを忘れてもかなりの確率で戻って来ます。サービスのクオリティは世界のトップと言えるほど優れており、仕事を探そうと思えば労働者の数より求人の数の方が多い、賃金の水準もバブル期のように世界トップでは無いにしろ、先進国に相応しい十分に裕福な生活を送ることができ、ほとんどの国民が海外旅行を楽しめ、日本のパスポートを見せればビザも免除され疑われることもほとんどありません。世界のトップを争う技術や医療環境も存在し、選挙権も表現の自由も当たり前のように与えられている。自然に恵まれ美しい景色と文化的な財産を持ち、水資源に困るどころか水道の水をそのまま飲むことまで出来る。首都である東京都市圏は人口ベースでも経済ベースでも世界最大の都市で、世界中の料理を楽しめ、世界中のエンターテイメントや芸術がやって来て、手に入らないものの方が珍しく、ありとあらゆる種類の娯楽を楽しむことができ、把握仕切れないほどの新スポットが次々と生まれ、ニューヨークと世界一を争う事が出来るくらい刺激と新しさに満ちあふれています。高品質で新鮮な食材があふれていて、美味しいものがいくらでもあり、和食は世界的にも最も価値のある料理の1つとして世界遺産にもなりました。高級な食べ物でなくてもクオリティが高く、安くて美味しいものが沢山あります(安くても美味しい、と言うのは他国では非常に稀なことです)。アニメや漫画と言ったサブカルチャーは世界中の若者を魅了して日本好きの外国人がどんどん増えていて、逆に海外へ行けば日本人だと言うだけで親切にされたり礼儀正しく扱われる。これだけ恵まれている国は世界のどこにもありません。日本より進んでいる国はおそらく、アメリカぐらいのものでしょう。そのアメリカですら、全ての面で日本より優れている訳ではありません。

<イタリア・ナポリのメインストリート。経済状況が悪化しゴミの回収がままならないそうです>

先進国が集まるヨーロッパでさえ失業率が10%を超える国が続出し、10人に1人は仕事がありません。多くの国は砂漠化と水資源の確保に苦しみ、水道水を安心して飲めるなどと言う国はほとんどなく、移民の受け入れに問題があった国では差別や貧困が蔓延し治安も悪化しています。パリやロンドンでテロが頻発しているのは皆さまもおそらくニュースでご覧になった事があるかと思います。発展途上国では水不足に水質汚染と大気汚染が深刻化しており、他のどの先進国を見ても発展途上国を見ても、日本のように何一つ不自由がない国は1つもありません。

日本人は自らが築いて来た文化、歴史、経済や自然環境にもっと誇りを持っても良いと、僕は思います。これだけ素晴らしい国は見つける事が不可能だ、と言っても決して過言ではないと思います。逆に日本を知る外国人の方が、日本の事をよく分かっていたりします(苦笑)ただ、それは残念ながら、日本にいたら分からないこと、世界へ出てみて初めて気付くことです。その意味で、僕は英語を身に付ける事ができて本当に良かったと思い、もっと日本の良さを世界に発信したい、そして日本の皆さまにも、私たちの住む国のことをより良く知って頂けたら、と思います。そして私たちは恵まれているからこそ、もっと世界に貢献する事も忘れてはならないと感じます。

そのためにも、僕は今後も日本の英語教育を変えると言う目標に挑戦し続けたいと思います。そして日本の未来を創って行く若者に、ぜひ世界に飛び出して見識と経験を広げ、今後の日本をより良くして行って欲しいと願うばかりです。皆さまが世界を知り日本を知る、そのお手伝いが少しでも出来たら幸いです。

Learning the world means learning your own country. Find and love the country where you have grown up. Contribute to and improve your home country and the world.

“Find the world. Find Japan again!”

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Santa Barbaraその12。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

Santa BarbaraからSan Diegoに日が暮れてから到着し、歩き回るのも不安を覚えケーキで夕飯を済ませた僕らは、翌日は国境を越えてアメリカに隣接するメキシコの町・Tijuana(ティファナ)を目指しました。メキシコへは国境を車で越えてそのまま入ることも出来るのですが、ほとんどのレンタカー会社はメキシコへのレンタカーでの入国を許可していない(カナダはレンタカーでも入れるそうです。この辺りが治安や安全性の差なのでしょうか…)ため、僕らは国境の近くまで車で向かい、駐車場に車を停めて、徒歩でメキシコへと入国する事にしました。サンディエゴから南下するフリーウェイに入ったのは良かったのですが…どこがアメリカ国内の最後の出口か分からず走っていたため、うっかり最後の出口を通り過ぎてしまい…あろう事か、国境の検問所が目の前に見えて来てしまいました(汗) 「ヤバい!車で国境まで来ちゃったぞ、どうする!?」と車内は一時、軽くパニックに陥りました。何しろレンタカーでのメキシコ入国は禁止な上(おそらく入る事は出来るでしょうが、保険などは一切効かず何かあれば大変な事になるでしょう)、僕は国際免許証も持っていない状態です…(だって、カリフォルニアのレンタカー会社は日本の免許証だけで車を貸してくれたから…笑)

<フリーウェイの検問所。車で通過できる>

どうしようかとソロソロと国境の検問所に近づいていた時…左端に”Return to U.S.A.”の文字が!幸運なことに、Uターンレーンが設けられていました!今考えると、そりゃそうですよね…間違えて国境まで来て戻れないんじゃ、検問所だって困るでしょう(苦笑)かくしてUターンして最寄りの出口でフリーウェイを降りた僕らは国境近くの駐車場に車を停め、徒歩で国境を目指しました。

<鉄格子の回転扉をくぐればそこはもうメキシコ>

アメリカからのティファナ(メキシコ)入国は非常に簡単で、ただ鉄格子の回転扉をくぐればそこはもうメキシコです。特にパスポートを見られることも、荷物検査も税関も何もありません。ティファナに長期滞在する場合や、ティファナ以遠のメキシコへと進む場合はイミグレーションオフィスを訪れて入国手続きが必要なようですが、ティファナに短期滞在するのみであれば、何の申請も必要ありませんでした。アメリカ側からメキシコに不法入国する人はきっといないのでしょう…海で囲まれた日本に育った僕にとっては、歩いて国境を渡るというのはこれが初めての経験でした。アメリカに来る前からずっとティファナに行ってみたいと思っていた僕は1人ワクワクしていたのですが…国境を越えて町の雰囲気がメキシコになるにつれ、他の5人の女の子の顔が徐々に引きつって行くのが分かりました…カリフォルニアから徒歩数分でも、そこはまさにメキシコ。そしてティファナは、アメリカから気軽に訪れることができる観光地である一方で、メキシコからアメリカへ不法入国する不法移民が集まり、麻薬を運ぶブローカーが暗躍する最前線の基地でもあります。ガイドブックにも「メインストリートであるレボルシオン通りから決して外れないように」とありました…

<ティファナは観光地と犯罪の前線基地という2つの顔を持つ町>

レボルシオン通りは賑やかで、僕らは地元のスーパーを覗いてみたり、メキシコの名産物である銀細工のショッピングなどを楽しみ、他の5人の緊張も少しずつ和らいで来たようでした。そこでちょうどランチタイムとなったのですが、そこで僕らは初めて気づいたのです。「果たして、ここで何かを食べる事は安全なのかどうか」という問題に…

<賑やかなレボルシオン通りにはお土産屋さんやレストランが並ぶ>

特にドイツ人のアンドレアは慎重で、「私はメキシコでは絶対何も口にしない」と言いました。他のメンバーも抵抗があったようなので、僕らはアメリカにもあるファストフードのチェーン店で、コーラなど安全そうな飲み物だけを飲むことにしました。今でこそメキシコ観光はポピュラーになり衛生状態も改善されて来ましたが、当時のメキシコはまだ食べ物を口にするのも危険だ、というイメージでした。しかし後ほど「その選択は正しかった」という事がサンタバーバラに帰着後に判明する事になります…

<メンバーがタコスを食べたお店>

その後も散策や買い物を楽しんだ僕らは、遅くなる前にアメリカへ戻ることにしたのですが、帰り道の途中でタコス屋を見つけた何人かのメンバーが、「やっぱりタコスくらい食べておきたい」と言ったので、彼女たちはお店でタコスを食べたのですが、強い意志を持つアンドレアと、唯一のドライバーで万が一にも体調を崩せないと考えた僕は、2人で外で待つことにしました。その後再び合流しアメリカへ再入国しようと検問所にたどり着くと…出る時は何のチェックもなかったのに、アメリカ入国には厳しい審査を待つ人の長蛇の列が出来ているのです…現在でもトランプ大統領はメキシコとの国境に壁を作る、と主張していますが、正にアメリカとメキシコの間に存在する経済格差や不法移民、麻薬の密輸などの問題をまざまざと実感させる現実でした。メキシコとアメリカの間には小さな川があるのですが、その橋を渡る際にマユミが「みんなあの川を命がけで越えるんだろうね」と言ったことを覚えています。国が陸路で繋がっている、というのは世界では一般的ですが、日本人の僕らにとってはある意味、初めて「国境」という現実を見た瞬間だったのではないかと思います。

<国境を不法移民は命がけで越えて行きます。アメリカ入国は厳しい入国審査>

何とかアメリカへ再入国した僕らは、駐車場の脇にあったアウトレットモールでのショッピングを楽しみましたが、僕は体調をキープしなければならなかったため、ベンチで休憩する事にしました。その後車にてサンディエゴの町へと戻った僕らは、夕飯にバーベキューを楽しみ、夜の遊園地やショッピングを楽しみ、サンディエゴ旅行の2日目を終えたのですが、ホテルへ帰ると駐車場が満車となっていたので、フロントのスタッフにどうしたら良いかと尋ねたところ、夜の間はホテル前の路上に駐車しても大丈夫だと言うので、車を路上に停めて就寝したのですが、これが日本に帰国後にちょっとした騒動に発展することになります。続きは次のブログにてご紹介したいと思います。

<夕飯はアメリカンなバーベキュー>

To be continued.

Santa Barbaraその13。へ続く

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高速鉄道の「お見合い席」に注意

2009年の9月、僕らは夏季休暇を利用してポルトガルを約10日間ほどかけて周りました。なぜポルトガルを選んだかという理由がまた単純なのですが、当時マスターカードのCMで、「○○○、何ユーロ。△△△、何ユーロ。□□□の思い出、Priceless。お金で買えない価値がある。買えるものはマスターカードで。」というものがあったのを覚えている方はいらっしゃいますでしょうか。そのCMの舞台にポルトガルが使用されていて、何となく行ってみたくなったという、何とも単純と言うか影響されやすいと言うか、そんな動機でした(笑)思い返すと、モロッコに行った時の理由も同じCMだったような…(笑)

とにもかくにも、このような単純な動機から始まったポルトガル周遊旅行で、リスボン・オビドス・ナザレ・アルコバサ・エヴォラ・ポルト・シントラなどをバスと鉄道で移動しながら周りました。ヨーロッパは公共交通機関が発達している代わりに、古くからの町は道が狭く駐車場も少ないので、レンタカーより鉄道での旅が良いですね、風情もありますし。いつかはレンタカーも使ってみたいと思っています。

ポルトガルは「バカリャウ」と呼ばれる、タラを塩で漬けた食材が有名ですが、何とも塩辛く僕の口には若干合いませんでした…。旅の中盤から食傷気味になって、とうとうステーキしか注文しなくなった記憶が(苦笑)1番美味しいと思ったのはイワシの塩焼きでした…、ポルトガルの食事はしつこくないので、比較的食べやすいとは感じましたが。

<バカリャウのグリルとバカリャウのグラタン>

<後半はステーキばかり注文…イワシの塩焼きは日本で馴染みのある味(笑)>

ポルトガルは世界遺産こそ多くは無いかも知れませんが、オレンジの屋根と白の壁で統一された町並みは美しく、古い小さなお城や修道院を改装した「ポサーダ」と呼ばれるホテルに宿泊したり、独特な小さな教会や修道院を巡ったり、ポートワイン(一次発酵の途中でブランデーを加えて発酵を止めるためとても甘く、好みは分かれるそうです)で有名なポルトのワイナリーを訪れたり、オビドスやシントラなど小さくて美しい町や村も魅力的で、中々に充実した旅になりました。

旅行も後半に入り、僕らはエヴォラからバスでリスボンへ戻り、そこからポルトガル第2の都市であるポルトへ向かいました。ポルトへはポルトガルの高速鉄道「アルファ・ペンドゥラール」(略称AP。最高速度は220キロくらい)を利用して、約3時間の旅です。

<世界遺産ジェロニモス修道院とリスボンの町並み>

<オビドスの小さな町と、シントラのペーニャ宮殿。シントラの文化的景観は世界文化遺産に登録されている>

<ドウロ川を挟んで見るポルトの町並みと、ポートワインの試飲が出来るワイナリー>

リスボンに到着し、僕らはAPの切符を購入しようとしたのですが、お昼過ぎに着いたにも関わらず空席は夕方の便まで無いと言うのです…本数が少ないからでしょうか…。帰りのAPはネットで予約しておいたのですが、行きはエヴォラから戻る時間が読めなかった事もあり予約していなかったのが災いしてしまいました。まあ、当日中に着けば良かったのでしょうがないと思い、スーパーでショッピングなどをして時間を潰したのですが、この待ちに待ったAPの3時間が、この旅行では最悪と言える時間だったかも知れません…

ヨーロッパの高速鉄道の座席は、日本の新幹線のように全て進行方向を向いてはいないことが多く、たいていの場合車両の後ろ半分が前向きで、前半分は後ろ向きで、中央の席は向かい合う「お見合い席」になっていて、座席は固定なので向きを変えることができません。日本の新幹線みたいに可動式の座席にすれば良いのにとは思うのですが、ヨーロッパの高速鉄道は途中で進行方向が変わったりするので(大きな駅が行き止まり方式なので、前向きに入って行って出て行くときは反対に進むしかない)、可動式にすると混乱を招くといった事情があるのかも知れません。ですが、時速200キロ、300キロで走る高速鉄道に後ろ向きで座るのって、結構キツいですよね。僕は昔、新幹線でボックス席にして後ろ向きに座ったら乗り物酔いした記憶があります(苦笑)やっぱり日本の新幹線は、少なくとも実用性においては世界最高水準と言えると思います。

かくして待ちに待ってAPに乗り込むと、取れていた座席は後ろ向きの、しかも「お見合い席」だったのです…。知らない人と向き合って3時間過ごすだけでも悲惨と言えますが、APのお見合い席は足元が狭く、さらに欧州人は身体が大きいので、足が思いっきりこちらに伸びて来ていて、お互いの足が重なって座るしかないので全く足を動かすことが出来ません…。長時間待っていて疲れているのに、リラックスするどころか身体は全く動かせず、在来線を高速化したせいなのか乗り心地も悪く揺れるので、後ろ向きの座席で酔って気分が悪くなり、この状態で3時間を過ごした僕らはポルトに到着した時はもうボロボロで食欲もない状態に…。やぱりスケジュールをしっかり決めて事前に予約をしておくべきだったと、後悔の嵐だったことは言うまでもありません…。

<ポルトガルの高速鉄道Alfa Pendular>

帰りは通常の前向きの座席だったのでそこそこ快適でしたが、なにしろ「お見合い席」は最悪だと思いました。フランスのTGVやドイツのICEが同じ状況かどうかは分かりませんが(ICEには乗った事がありますがお見合い席や後ろ向きではなかったので…)、何しろ後ろ向きに座るだけでもかなり不快ですので、高速鉄道の座席は早めに予約しておくことをお勧めします…。

海外旅行に行くと、日本で当たり前のように利用しているサービスがいかにきめ細かく出来ているのか実感される方も多いと思います。僕らが住んでいる国がどれだけ恵まれている場所なのかを知るという意味でも、海外へ出て様々な経験をすることは本当に貴重だと思います。ですがみなさんが高速鉄道にお乗りになる際は、「お見合い席」だけはやはり避けたほうが良いと思います(苦笑)

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“Amazing Grace”と言う歌の意味とその背景

おそらく皆さまも一度はどこかで耳にしたことがあるであろう曲、”Amazing Grace”(アメイジング・グレイス)ですが、この曲は実はキリスト教の賛美歌であると言うことをご存知でしょうか。恥ずかしながら僕もつい先日までは知りませんでした(苦笑)本日はこの曲が持つその意味と、この曲が生まれた背景から僕が考えたことを書いてみたいと思います。

    <AMAZING GRACE (Hayley Westenra)>

“Amazing Grace”は「素晴らしいグレースさん」と言う意味ではもちろんありません。ここで使われている”Grace”とは「神の恵み」「恩寵」の意味であり、日本語に訳すと「すばらしき神の恩寵」となります。神の恵みに感謝することを歌うこの曲は、イギリスの牧師であるJohn Newtonによって1772年に作詞されました。彼がこの曲を作詞するに至った背景には、彼が牧師となる前に行なっていた過去の行いと、それに対する後悔の念が大きく関係しています。

<John Newtonの肖像画>

John Newtonは実は、当初は船乗りとして黒人奴隷貿易によって富を築いていた商人でした。当時の奴隷に対する扱いは想像を絶する家畜以下のものであり、多くの奴隷は輸送中の非衛生的な環境の中でその命を落としたと言われています。彼はそのような罪深いビジネスに従事して富を得ていましたが、1748年のある日、彼の船が嵐により浸水し、沈没の危機に瀕しました。彼はクリスチャンとして育ったものの、救いを求めて本当に心の底から神に祈りを捧げたのは、この時が初めてのことでした。
船は運良く沈没を免れ彼は生き延びることとなりますが、この日を境に彼の考え方は大きく転換し、「奴隷貿易を行なっていたような罪深い自分にも、神は赦しを与えた」ことに対して深く感謝をするようになります。その後もしばらくは奴隷貿易に従事し続けたものの飲酒やギャンブルなどを控えるようになり、1755年にはついに船を降りることを決断し、その後勉学と多額の献金を行い、彼のその経験を伝える事ができるよう牧師へと転身したのです。

こうした後悔の気持ちと、それを赦した神への感謝を述べるために作詞されたのが、今では広く知られることとなった”Amazing Grace”です。”amazing”(驚くべき)の単語が使用されたことからも、彼にとって神の赦しは驚くべきほど深いものだったのでしょう。当初彼が作詞したオリジナルの歌詞には次のように綴られています。

<Amazing Grace(オリジナルの歌詞)>

Amazing grace! how sweet the sound
That saved a wretch like me!
I once was lost but now am found
Was blind, but now I see.

‘Twas grace that taught my heart to fear.
And grace my fears relieved;
How precious did that grace appear,
The hour I first believed.

Through many dangers, toils and snares.
I have already come;
‘Tis grace has brought me safe thus far,
And grace will lead me home.

The Lord has promised good to me,
His word my hope secures;
He will my shield and portion be,
As long as life endures.

Yes,when this flesh and heart shall fail,
And mortal life shall cease;
I shall possess, within the vail,
A life of joy and peace.

The earth shall soon dissolve like snow
The sun forebear to shine;
But,God who called me here below,
Will be forever mine.

<アメイジング・グレイス(日本語訳)>

驚くべき恵み なんと甘美な響きだろう
私のように悲惨な者を救って下さった
かつては迷ったが、今は見つけられ、
かつては盲目であったが、今は見える

神の恵みが私の心に恐れることを教え、
そして、これらの恵みが恐れから私を解放した
どれほどすばらしい恵みが現れただろうか、
私が最初に信じた時に

多くの危険、苦しみと誘惑を乗り越え、
私はすでに辿り着いた
この恵みが、ここまで私を無事に導いてくださった
だから、恵みが私を家に導くだろう

神は私に良い事を約束して下さった
彼の言葉は私の希望の保障である
彼は私の盾と分け前になって下さる
私の命が続く限り

そう、この体と心が滅び、
私の死ぬべき命が終わる時、
私は、来世で得るものがある
それは、喜びと平和の命である

地上はまもなく雪のように白くなり、
太陽は光を失うだろう
しかし、私を御許に召して下さった神は、
永遠に私のものになる

このように、”Amazing Grace”とは、過去の自らの過ちを悔い改め、それを許してくれた神に感謝の祈りを捧げた賛美歌なのです。そして人が過ちを犯したならそれを悔い改め、自らを律して正しく生きて行くべき事を、彼はその賛美歌の歌詞へと込めました。

話が全くそれますが、僕は誰かに「人は何のために生きているのか」と聞かれた時は、こう答える事にしています。

「人は、幸せになるために生きている。人生を楽しむために生きている。」

なぜなら、幸せではない人生、楽しくない人生はウソだと思うからです。人も生き物である以上、その欲望から完全に逃れることは出来ません。食欲、性欲、睡眠欲と言った動物が本能として備えている欲に加えて、「美味しいものを食べたい」「旅行に行きたい」「物を手に入れたい」「他人とコミュニケーションが取りたい」「人に理解されたい」「もっと多くのことを知りたい」と言った、知恵や知識があるからこそ生まれる、人間ならではの欲もあります。僕は一応(というか日本人の大部分は)仏教徒になるかと思いますが、仏陀のように欲を完全に捨てることは、おそらく僕には無理だと思います。

しかし一方で、人間にはその欲を抑えたり他人を思いやると言う「理性」や「倫理観」、「社会性」も同時に備わっています。これは人間がその進化の過程で知恵と同時に培って来た、生命体では人間のみが持つ能力です。人間にはその知恵ゆえの欲望がある一方で、それを制したり反省する知恵もあるのが私たち「人間」と言う生き物と言えます。

宗教もこうした歴史の過程で、人が自らを律したり、生きるべき道を示したり、時に自らの過ちを認め悔い改めるために生まれて来た概念と言えます。僕は特定の宗教を深く信仰するタイプではありませんが、宗教の考え方やその背景にある事実を知ることは「人がどのように生きるべきか」「社会はどうあるべきか」と言う事を考えるきっかけを与えてくれるものです。

<世界にある様々な宗教は人々を導くためのもの>

“Amazing Grace”を聴いたりその歌詞や誕生の背景を知ることで、「人は時には過ちを犯すことが必ずある。そうした際には、その過ちを認め悔い改め、その先にある人生に生かしていくべきだ。」と言うことを、僕はまた1つ知ることができました。皆さまもこの心に染み渡るメロディーを耳にした際は、人には人間のみがもつ「欲」と「理性」が両方とも存在し、それをどのようにバランスを取るべきなのか、そして「人はみな幸せになるために生きている」が、そのためには「過ちは悔い改め正しく生きて行く必要がある」と言うことを、思い出してみて下さい。

We must make mistakes sometimes, as long as we are human being. But we should not give up improving ourselves and realizing our happiness.

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本気の留学ならアメリカに行くべき10個の理由

一言で「留学」と言っても、中高生のホームステイ体験から超一流大学でのMBA取得まで、その内容は様々です。英語を学ぶのが目的なのであれば、英語圏の国ならどこへ行っても良いだろうと思うかも知れません。また、近年ではフィリピンやフィジーといった格安で語学留学できる国も人気です。(ただし、フィリピンやフィジーでは英語は「公用語」であり、「母国語」ではありません。)

ですが、本気で様々な実力を養いたいのであれば、僕は留学先はアメリカを選ぶべきと考えます。それはホームステイであっても、語学留学であっても、大学院への進学であっても同じです。今日は僕がそのように考える10個の理由について、ご紹介したいと思います。

①研究のレベル

まず、大学・大学院へ留学するのであれば、世界の研究の最先端を走っているのは間違いなくアメリカです。ここで幾つかのデータをご紹介したいと思います。

【世界大学ランキング2018(THE)】

1位 オクスフォード大学(イギリス)

2位 ケンブリッジ大学(イギリス)

3位 スタンフォード大学(アメリカ)

3位 カリフォルニア工科大学(アメリカ)

5位 マサチューセッツ工科大学(アメリカ)

6位 ハーバード大学(アメリカ)

7位 プリンストン大学(アメリカ)

8位 インペリアル・カレッジ・ロンドン(イギリス)

9位 シカゴ大学(アメリカ)

10位 ペンシルバニア大学(アメリカ)

1位と2位がイギリス…なら、イギリスが良いんじゃない?と思われるかも知れませんが、もう少ししっかりと全体像を見ると違うことが見えて来ます。上位20校の大学の数を国別に見てみると、

アメリカ 15校

イギリス 4校

スイス  1校

と、アメリカの大学が圧倒的に多いことが分かります。更に、海外の大学で学ぶ価値のある分野の1つである経営学修士(MBA)に限って見てみると、

【Financial Times MBA Ranking 2018】

1位 Stanford Graduate School of Business(アメリカ)

2位 Insead(フランス・シンガポール)

3位 University of Pennsylvania: Wharton(アメリカ)

4位 London Business School(イギリス)

5位 Harvard Business School(アメリカ)

6位 University of Chicago: Booth(アメリカ)

7位 Columbia Business School(アメリカ)

8位 Ceibs(中国)

9位 MIT: Sloan(アメリカ)

10位 University of California at Berkeley: Haas(アメリカ)

2・4・8位以外は全てアメリカの大学で、総合ランキングで1位と2位のオクスフォードやケンブリッジは10位以下です。更に、The Economistのランキングでは上位10校は全てアメリカの大学が占めています。

また、もう1つ、海外で学ぶ価値があると考えられる理工系、特にコンピューターサイエンスや宇宙科学の分野は、分野毎に見ることが難しいので、次のような指標を見てみてください。

【世界の国際特許出願件数 国別ランキング2019】

1位 中国     59,005件

2位 アメリカ   57,723件

3位 日本     52,665件

4位 ドイツ    19,329件

5位 韓国     19,085件

6位 フランス    7,929件

7位 イギリス    5,774件

8位 スイス     4,607件

9位 スウェーデン  4,189件

10位 オランダ    4,033件

近年1位は中国となりましたがこの数字の中には基幹技術ではないものが多いためここでは割愛します。アメリカが世界の重要な技術のほとんどを占めている状況は過去半世紀に渡り変化しておらず、その次に続くのは大学ランキングでは全く名前の出てこなかった日本で、この点も長らく変化していません。つまり日本では、研究開発は大学よりも民間企業を中心に行われていることが分かります。英語圏で2番目に名前の出てくるイギリスの出願数はアメリカの10分の1にとどまり、傾向としてむしろ上位3か国とその他の国の差は年々拡大しつつあります。近年日本の技術力低下を叫ぶ風潮がありますがあくまでそれは一部の情報分野と商業ベースで見た偏向的な視点であり、世界の基礎研究と基幹技術の90%以上は未だ日米で占められています

<半導体の製造も基幹技術は欧州1社以外は日米の技術の寡占>

また、あくまで大学の研究開発のみを指標として見るのであれば、この様な数字もあります。

【ノーベル賞(自然科学分野)の2000年以降の受賞者数】

1位 アメリカ 59人

2位 日本   16人

3位 イギリス  10人

4位 フランス  7人

5位 ドイツ  6人

6位 イスラエル  5人

※ 以下、人数が少ないため省略

以上のように、物理・科学・工学・医学でもアメリカでの研究は群を抜いていて、技術分野で次に続いているのは日本である事が分かります。つまり、日本より研究が進んでいる、あるいは日本では勉強が難しい自然科学分野を勉強するなら、やはりアメリカのみが選択肢と言うことになります。

②学生のレベル

①で見てきた研究開発のレベル以上に大きな要素と考えられるのが、集まって来る学生のレベルと多様性です。移民国家で様々な人種が混在しながらも、人口が3億2千万を超え、そこに世界中から各国のトップの学生が殺到するアメリカの学生のレベルと多様性は、他の国とは比較にならないと言っても過言ではありません。英語圏の国々の人口を見てみても、

アメリカ    3億2,300万人

日本(※参考) 1億2,700万人

イギリス    6,400万人

カナダ      3,600万人

オーストラリア 2,400万人

ニュージーランド 476万人

アメリカの人口は他の英語圏の国々よりも圧倒的に多いことが分かります。その数は日本の3倍イギリス比では5倍にも上ります。当然、競争は熾烈を極めており、トップ大学のレベルはそれに比例して高くなります。

また、外国人留学生の数を見ても、

アメリカ      975,000人

イギリス      312,000人

オーストラリア   348,000人

カナダ      19,5000人

とアメリカが群を抜いており、MBAランキングなどを考慮すればその質も他国とは比較出来ないと考えられます。つまり数を見ても質を見ても、アメリカに集まる学生のレベルと多様性は圧倒的と言えるのです。例え英語学習のみが目的の語学留学だったとしても、米国の大学への進学を目指す質の高い学生との交流は、大きな刺激や経験となることでしょう。

③イノベーションは常にアメリカから始まる

上記した数字以上にアメリカの凄さを象徴しているのは、「イノベーション」が常にアメリカから始まるという点です。これは金融のメソッドから新しいコンピューターソフトウェアの開発、宇宙工学の研究や開発に留まらず、電気自動車に代表されるテスラ・モーターズや民間宇宙開発の先頭を走るスペースXのようなベンチャー企業、世界で初めて「LCC」と言うカテゴリーを具現化し、世界の空の旅を身近なものにしたサウスウエスト航空、自動運転車やハイパーループのような社会的実験、州ごとに法律や規制が異なり、州政府に一定の裁量権が与えられている地方自治のあり方のような社会制度の仕組みに至るまで、新しい技術や発想のほとんどがアメリカで誕生しています。

身近な例で言えば、AppleのiPhoneや検索サイトのGoogle、SNSのFacebookはその象徴的な例と言えるでしょう。初めてスティーブ・ジョブズがiPhoneを発表した時、正直僕は「こんなボタンも無くて入力がしずらい携帯電話が売れるのか」と思いました。しかしいつの間にか、iPhoneが創造した「スマートフォン」と言うデバイスはもはや生活の全ての基準となり、近年の若者はスマホのせいでPCを使わなくなったとまで言われています。実は、iPhoneを分解してみると、大半の部品は日本製、あるいは日本製の製造装置を使って作られています。日本の技術がなくては製造すら出来ないかも知れないのが実はiPhoneなのですが、重要なのはそこではなく、「スマートフォン」と言う発想を生み出し世界の基準の全てを変えたのが、たった1人の天才によって成し遂げられたと言う点です。日本には技術はあったが発想がなかった、そこが決定的な差になったのが現実で、こうした新しい、他人が考えなかった発想=イノベーションがほとんどアメリカで生まれていると言う事実を、私たちは認識する必要があるでしょう。また同時に、「なぜイノベーションはアメリカでばかり生まれるのか」についても知らなければなりませんが、そのためにはやはり、まずアメリカと言う社会を肌で感じ、何が他の国と違うのかを考える必要があります。人種の多様性による産物なのか、教育レベルの高さ故なのか…ただ、人種が多様で教育水準が高いだけの国なら他にもたくさんありますので、それとは異なる、自由な発想を生む何らかの下地があると考えるべきでしょう。そうした環境の中へ留学に行く事こそが特別な経験と言えます。その意味で、アメリカで勉強する事の意味は、他の国でのそれとは全く違うことなのです。

④留学の目的は学位だけでなく人脈と経験

留学と言えば勉強すること、とは限りません。実際、MBAを取るためにアメリカの大学を選ぶ理由はその学位の名声よりむしろ、世界中から集まる超一流の人材と触れ合う経験と、そこでのみ築くことが可能な高レベルでの人脈作りだと言われています。

学校で勉強する、というのはあくまで机上の空論です。もちろんMBAのプログラムでは実際のビジネス環境や成功例を取り上げて勉強しますが、そのクラスにおいても実は大切な要素はそのクラスに集まっている学生の質です。世界中の一流企業からのトップ人材が集まるプログラムの中で議論したり他国の状況を学んだりするからこそ価値があるのであって、逆に言えば一定の地域からの留学生しか集まらない環境は、あまり参加する価値があるとは言えません。アメリカは世界のトップだからこそ世界中から一流のトップ人材が集まるのであり、逆に言えば一流の人材であればあるほど、アメリカ以外の大学を選択しません。つまり本当の一流の人材と触れ合い刺激と経験を獲得すること、その環境によってのみ作り出される高いプログラムや教育環境の質、そしてそこで築かれる最高の人脈は、アメリカにのみ存在すると言っても決して過言ではないのです。
これは何もMBAに限った事ではなく、例え英語の学習のみが目的の語学留学であっても、基本的な環境は類似しています。向上心が高い人材なら当然、質の高い学生が集まる国での勉強を選択しますし、語学学校にはアメリカの大学への進学を目指す1流の学生も多数在籍しています。そうした学生と出会い、触れ合う事で受けることの出来る刺激と経験は、きっと他のどの場所よりも貴重なものとなり、あなたの向上心や目標を高めてくれることでしょう。

⑤世界の縮図アメリカ

アメリカと言う国は、おそらく世界で最も多様性のある国です。世界中から人が集まる場所ですので、人種・国籍・宗教・バックグラウンドから信念や哲学・考え方に至るまで、ありとあらゆる「異なるもの」が1つの国の中に混在しています。良い人もいれば悪い人もいて、大富豪もいれば貧しい人もいる、世界のすべての宗教が存在し、もしかしたら世界の全ての国の出身者がいるかも知れません。当然、差別や争い事もあり、人種差別、宗教対立、保守とリベラルの意見の対立、貧富の差の拡大など、世界のあらゆる問題がアメリカ国内に同じように存在しています。そしてそれに人々がどのように取り組んでいるか、と言う点も知る事が出来るでしょう。

つまり、それは良くも悪くも「世界の縮図」なのであり、世界を感じて理解を深めるのにはこれ以上の場所はおそらくないでしょう。日本ではあまり感じることが出来ない「他人と自分は異なっている」という事が当たり前のように存在する、それは今後の国際社会、そして外国人観光客や労働者の増加が見込まれる日本が、いま一番学ばなければいけないことです。「異なる人間とどう共存するか」は、アメリカの良い所も現状の問題点も両側面を自分の目で見て感じることで、初めて現実の問題としてしっかりと考え直すことが出来るのではないでしょうか。

⑥フロンティア精神とチャレンジスピリット

イノベーションのほとんどがアメリカで起こっている背景にある要素の1つは、アメリカ建国の歴史にあるのかも知れません。それはよく「フロンティア精神」「チャレンジスピリット」と言う言葉で表現されます。

アメリカへ最初に移民をした西洋人は、当初は各国のカトリック達が入植しましたが、それに続いたのはイギリスで宗教的に迫害を受けていたピューリタン達でした。彼らは自分たちが生活できる新天地を求めて、まだ良く知られていなかった未開の地である北米大陸へと、船で大西洋を横断して渡りました。おそらくそれは、当時は命がけの挑戦であったことでしょう。その後もアメリカの人々は、合衆国の建国、イギリスからの独立、西部フロンティアの開拓、南北戦争による奴隷の開放と、挑戦の歴史を歩んで来ました。もちろんその過程でネイティブアメリカンの土地を奪ったり虐殺したという負の歴史もありますが、負の歴史を全く持たない国など、世界には存在しないでしょう。

こうした「挑戦の歴史」の中で培われてきたのが、おそらくリスクを恐れず挑戦すると言う「フロンティア精神」なのかも知れません。もともと国家のない場所に、自由と平等と言う理念と星条旗の元に、様々な人種や国籍の人々が1つになる事を目指して築き上げたのが、アメリカ合衆国と言う国家です。(本当に自由と平等が達成されているか、についてはもちろん議論の余地はあります。)つまり、様々な人種も環境も異なる人々が共通の理念の下で国家を形成しているのがアメリカであり、「昔からそこに住んでいたから自然と成立した国家」とはその誕生の過程が全く異なっています。一つの理念=目標を達成するために既存の考え方や特定の文化から抜け出し、新しい発想で理念を達成しようとして来た「挑戦の歴史」が、今もiPhoneやGoogleと言ったイノベーションを起こす下地の要素の1つとなっているのは十分な可能性と言えるのではないでしょうか。こういった「既存の文化や発想に捉われない」「目標・理念のためにリスクを恐れず挑戦する」と言った姿勢が、政治や経済においてアメリカを世界のトップへと押し上げてきたという経緯を私たちは知る必要があり、そうした自由な発想と創造力を今後は自分たちも養って行かなければなりません。そのためにも、日本の多くの若者に、アメリカで英語や学問・技術、そして「アメリカ合衆国」と言う国について学んで欲しいと願うばかりです。

⑦日本で学べる事は日本で

「英語や学問は海外で勉強するほうが良い」と思いますか?実はそれは正解でもあり不正解でもあります。

例えば、海外で1年間ワーキングホリデーをした人間と、日本でコツコツと2年間英会話を自力で勉強した学生を比較すると、「国内で学んだ学生の方が英語が上手だ」という事が良くあります。ワーキングホリデーとはその名が示す通り「休暇」です。現地でアルバイトをしたとしても、仕事で使うフレーズは毎日お決まりの、英会話のごくごく一部に過ぎません。カフェや農場でアルバイトをしても自分で英語を勉強する努力が無ければ、おそらくちゃんとした「会話」をすることなく遊んで帰って来るだけの結果になるでしょう。英語の勉強だけなら日本でも十分にできます。要は本人の意識と努力次第です。

また、技術系に関して言えば、日本が研究のトップを走っている分野もたくさん存在します。そうした技術を身につけたいのであれば、海外の名もなき大学に入って母国語でない言語で技術を学ぶより、その分野で研究成果を上げている日本の大学や企業へ入る方が遥かに良いでしょう。

留学は何でもとにかく海外に行けば良い、と言うものではありません。留学の目的をはっきりとさせ、日本では学べない知識や経験を学びに行くものです。ただ「海外に行ってみたい」というのが動機の留学の多くは失敗に終わります。日本で学ぶべきことは日本で、日本で取得すべき学歴は日本で取得した上で、プラスアルファで日本で学べないことを学びに行く必要があります。もしカナダ人になりたいのであればカナダの大学に入って現地で就職し、カナダ国籍の取得を目指せばそれで良いと思います。もしフランス人になりたいのであればフランスで同じようにすれば良いでしょう。ですが、「日本人として」国際感覚や技術を身につけたいのであれば、まず日本でやるべきことをやり、その上で高い志をもって留学へ出発しましょう。そして、高い志があるのであれば、ぜひ世界のトップを肌で感じてみてはいかがでしょうか。

⑧社会の「未来」を学ぶ場所

アメリカは良くも悪くも、世界で最も進んでいる国です。イノベーションや先端技術、金融の新しいメソッドが次々と生まれる一方で、様々な社会問題や人格障害、悲惨な犯罪が最初に発生するのもアメリカです。つまりアメリカを知るという事は、良い点も悪い点も「自分とその国の将来を考えること」でもあるのです。アメリカでこう言う問題が起こっている。いつか日本でも起こるだろう。じゃあその時、自分たちはどのように取り組んだらよいか、そう言ったお手本として、あるいは反面教師として、良くも悪くも自分たちの未来を考え学ぶことができる国と言えます。

日本にはアメリカより優れている側面もたくさんあります。いくつかの技術や製造業の質、社会の安定性や治安などは単純に比べれば日本の方が優れているでしょう。しかし、アメリカは全体的に日本の15年先を走っていると考えて下さい。もしかするともっと前を走っているかも知れません。アメリカで発生する問題は、次は日本でも発生します。例えば、電子産業はまずアメリカで発達しましたが、その主導権は1980年代以降日本に移り、そして2000年代になると韓国へ、現在は中国へと移行しつつあります。中国の後はインドや東南アジアに移るかもしれません。その間にアメリカは産業構造を変革し、金融やサービス業、最先端のITビジネスやベンチャー企業を発達させて来ました。アメリカではすでに、宇宙開発さえも民間企業に移行しつつあります。日本はまだ、それを追いかけている状況です。追いつくことが出来るかどうかは誰にも分かりません。しかし、後ろからも追われている以上、日本も未来について学び、社会や産業を進化させて行かなければなりません。「日本より前を走っている国がある」、その国を研究して追いかけない理由はどこにもないのです。

⑨「平等」とは何かを考える

アメリカは「平等」とは程遠い国だ、そう思いますか? 確かに、貧富の差は激しく、大富豪がプライベートジェットで移動する一方で、貧しい暮らしに困る人も多いのは事実でしょう。

では、貧富の差が少なく、国民がみな同じような水準で暮らしていれば、それは本当に平等と言えるのでしょうか。僕はそれはおかしいと思います。頑張ったら報われて、努力しなければ結果は付いて来ない、社会はそうあるべきだと思います。もちろん、生まれつきの貧富の差で有利不利はあるでしょう。しかし少なくとも、「機会」は全員に開かれている、それがアメリカという国です。頑張って勉強すれば奨学金がもらえますし、創意工夫でビジネスを起こせばゼロからだって成功できる。そのような「機会の平等」があるからこそ、努力の差によって貧富の差が生まれるのがアメリカと言えます。実は、アメリカは貧富の差が大きいと言いますが、アフリカ諸国のように仕事も食べ物もない、という訳では決してありません。貧困層向けの職業訓練やボランティアのサポートなど、社会のセーフティネットはちゃんと存在します。「恵まれない環境に生まれたから貧乏だ」、と愚痴を言うのは簡単ですが、チャンスは実は誰にでもある。愚痴を言う時間があるならその時間を努力に使えば良いだけの事です。平等とは誰もが同じように暮らすことではないのだ、むしろ全員が同じであることの方が異常なのかも知れないと気付かされます。

「頑張ったら、報われる。頑張らなければ、当然報われない。自分の人生は、実は全て自分次第である。」こんな簡単なことですが、意外と気づかないものです。特に貧富の差が比較的小さい日本では。頑張っても頑張らなくても結果があまり変わらない国というのは、実は非常に危険な状態なのかも知れません。頑張ってもあまり報われない国であれば、頑張る人が減って行き、優秀な人材は海外へ流出して国の成長エネルギーは徐々に失われてしまうでしょう。アメリカでは初の黒人大統領も誕生し、大企業の女性CEOも数え切れないほどです。果たして日本とアメリカで、平等を達成している国はどちらでしょうか。「平等とは何か」、アメリカではそれを考え直す機会も得ることができると思います。

⑩帰国後のキャリア形成

留学はいつか終わるもの、留学に行くのであれば当然、留学後の進路やキャリアを考える必要もあります。留学に行って現地で就職し、日本に戻らないつもりであればそれはそれで良いでしょう。

しかし残念ながら、現実はそんなに甘くはありません。現地の国籍を持っていなければ当然、「外国人」として現地で働くことになります。当然、現地のネイティブより出世したり同等の待遇を手に入れることは、相当に難しいことです。同じ能力なら、現地の人間の方が高く評価される。残念ですが当然と言えば当然です。現地で就職したけど、次の契約をもらうことが出来なかった。当然、労働ビザは切れてしまいます。そうなると、現地のネイティブと結婚する以外には日本に帰国するしかありませんが、帰国してからの就職も困難を極めます。例えば、日本の大学に入学せず海外の名もなき大学に入って卒業した場合、日本の企業ではそれは大卒の資格としてみなされません。つまり「高卒扱い」となり、大卒総合職としての就職はほとんど不可能になります。海外の大学を卒業したけどロクな就職ができなかったというのは、残念ながら非常によくあるケースです。

また、近年よく耳にする「世界大学ランキング」を鵜呑みにするのは現実とはかけ離れています。世界大学ランキングはあくまで欧米基準の物差しで、英語で書かれた論文のみを評価対象とし、さらに自然科学分野を圧倒的に重視したアカデミックなランキングであり、それは社会や企業での評価とは必ずしも一致しないものです。ここでこの「世界大学ランキング」と矛盾する、もう一つのランキングをご紹介したいと思います。

【世界の大学就職力ランキング2018(QS)】

① スタンフォード大学(アメリカ)
② カリフォルニア大学ロサンゼルス校(アメリカ)
③ ハーバード大学(アメリカ)
④ シドニー大学(オーストラリア)
⑤ マサチューセッツ工科大学(アメリカ)
⑥ ケンブリッジ大学(イギリス)
⑦ メルボルン大学(オーストラリア)
⑧ オクスフォード大学(イギリス)
⑨ カリフォルニア大学バークレー校(アメリカ)
⑩ 清華大学(中国)
⑪ ニューヨーク大学(アメリカ)
⑫ コロンビア大学(アメリカ)
⑬ プリンストン大学(アメリカ)
⑭ 東京大学(日本)
⑮ 北京大学(中国)
⑮ トロント大学(カナダ)
⑯ スイス連邦工科大学(スイス)
⑰ ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(イギリス)
⑱ コーネル大学(アメリカ)
⑲ エール大学(アメリカ)
⑳ 香港大学(香港)
㉑ シカゴ大学(アメリカ)
㉒ ペンシルバニア大学(アメリカ)
㉔ ウォータールー大学(カナダ)
㉕ ミシガン大学(アメリカ)
㉖ 早稲田大学(日本)
㉗ 復旦大学(中国)
㉘ エコール・ポリテクニーク(フランス)
㉙ インペリアル・カレッジ・ロンドン(イギリス)
㉚ カールスルーエ工科大学(ドイツ)
㉚ シンガポール国立大学(シンガポール)
(中略、以下日米の大学のみ記載)
㉜ ノースウェスタン大学
㉞ デューク大学
㊸ ブラウン大学
㊼ パデュー大学
㊸ ジョージア工科大学
㊺ 慶應義塾大学(日本)
(以下、主要大学のみ記載)
ボストン大学(51位)
京都大学(53位)
東京工業大学(57位)
南カリフォルニア大学(59位)
ジョンズ・ホプキンズ大学(64位)
ワシントン大学(64位)
カリフォルニア工科大学(73位)
大阪大学(76位)
アリゾナ州立大学(81位)
ペンシルバニア州立大学(87位)
名古屋大学(90位)

このランキングは各大学の卒業生を、政治やビジネスのリーダーから、ジャーナリスト、科学者、文学やアートの分野に至るまで、①「雇用者の評判」、②「卒業生の成功指標」、③「雇用者とのパートナーシップ」、④「雇用者と学生の関係」、⑤「卒業生の就職率」の5つの要素を基に、世界の大学がどれだけ社会の中で評価されているかを指標化したもので、皆さまがお持ちのイメージと近い「現実的なランキング」と言えるでしょう。世界大学ランキングでは全く低評価を受けている日本からも、上位50位以内に東京大学・早稲田大学・慶應義塾大学がしっかりとランクインしています。ボストン大学やカリフォルニア工科大学もアメリカでは「一流大学」と呼ばれる優秀な大学ですが、世界基準で見ても日本の一流大学の後塵を拝し、それが日本基準になればその評価はさらに低いものになることは容易に想像できます。州立大学レベルの学位は就職活動では「その他の大学」のカテゴリーに分類されてしまうでしょう。日本で正当に「一流の学歴」と評価されるには、少なくとも東京大学より上位にランキングされているアメリカの8大学(スタンフォード、UCLA、ハーバード、MIT、UCバークレー、ニューヨーク、コロンビア、プリンストン)での「実用的な学位」(経済学、経営学、法律、自然科学分野など)が必要となって来ます。それが「日本における現実の評価」と言えます。

また、MBAを取りに行く際も注意が必要です。MBAとは「経営学修士」との名前が示す通り、企業の経営について学ぶ学位です。つまり経営マネジメントに携わるレベルの人間だけが必要な学位であり、そうした優秀な人材が学びに行くべき大学は上記したMBAランキングの上位20校程度ということになります。「MBAさえ持っていれば評価される」と言う訳ではありません。「どこの大学のMBAを持っているか」まで、キッチリ人事担当者に評価されます。名もなき大学のMBAを取って帰って来ても、「なんでそこの大学のMBAを取ったの?」、「そもそもあなたにMBAの資格が必要だったの?」と言う反応しか返って来ないでしょう。つまり、下手をすると「自分が分析できていない」と言うマイナス評価にしかならないのです。ですので、MBAを取るなら最低条件はアメリカの大学(とその他数校)かつ、日本人が知っている上位校のみが評価対象なのが現実でしょう。

「留学に行って知識や経験を深めたい」と言う志は非常に素晴らしいものであり、当スクールでは可能な限りそのお手伝いをさせて頂ければ幸いと考えております。しかし、目的意識のない長期の海外渡航や日本の慣習を考慮していない留学については、ご本人のためにもあまりお勧めできません。留学をしたからにはその結果を求められてしまうのも留学です。行ったから無条件に評価されると言うものでは決してありません。「どこの国に、何のために行って、その後どうするか」と言う点について、しっかりと目標を定めて努力する必要があります。そして、留学して一番多くの事を学べ、最も評価される国はアメリカであるのは間違いありません。「本気で留学するなら」僕はやはりアメリカをお勧めしたいと思います。英語や留学、将来のキャリア形成にご興味のある方は、ぜひ一度、当スクールへご相談ください。その生徒さまに最も合った留学のスタイルと事前準備をご提案し、お手伝いをさせて頂けましたら幸いです。

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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海外で怪我をする(台湾編)

2007年の9月、僕は台湾の友人に誘われて約10日間の台湾周遊旅行に行くことにしました。昔ボストンに留学した際に台湾人の友達が出来たのですが、その友人が大学院を卒業したあと、2006年に来日して日本の語学学校で日本語を1年間勉強した際に、その子を通じて台湾人の友人が沢山出来ました。日本語を勉強していた友人ばかりなので日本語で会話出来ますし、何でも通訳してくれるので困ることは何もありません。みんな優しく親切な友人ばかりで、ぜひ自分の家にと言って泊めてくれますし、家族の方々にもとても暖かく迎えて頂きました。台湾の人たちは親日的な人が多く町の人もみんなフレンドリーですし、この国に友人が出来たことはすごく幸せなことで、本当に良い出会いに恵まれたと思います。

この旅行では台北を中心に、九份、基隆、烏来、淡水、三峡、鶯歌、そして台湾中部の人気の観光地である日月譚(リーユエタン)を巡りました。移動は友人たちが運転してくれたので、本当に快適な旅です(台湾は日本とは逆の右側通行なのに加えてオートバイが非常に多く、慣れない日本人が運転するのは困難です)。旅行も半分が過ぎた日月譚からの帰り道に、僕らは客家(ハッカ)の人たちが住む内湾(ネイワン)という小さな町に立ち寄りました。客家と言うのは漢民族の中でも中原発祥の中華文化を守ってきた正統な民族で、そのルーツを辿ると古代中国の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多く、多くの家に古代からの族譜があり祖先信仰が強く風習を頑なに守ってきたため、移住先では住民から“よそ者”とされ「客家」と呼ばれることになった人々で、今でも独特の言語と文化を受け継いでいて、内湾はそうした人たちが集まっている町だそうです。町は日本のガイドブックに載っているような有名な観光地ではないものの台湾では人気の場所のようで、メインストリートは沢山の人で賑わっていて、お土産屋さんやレストランも沢山あり、台湾の友人が連れて行ってくれなければ訪れる事は出来なかったであろう貴重な所でした。しかしこの小さな町で、旅慣れた僕にとっても初めての経験となる事件が起こります…

内湾のメインストリート

町には名所の一つとして立派な吊り橋があり、メインストリートを散策したあとその橋を渡って夕飯にしようということになりました。「せっかくだから、橋の上で皆で記念写真を撮ろう」と思っていたのですが…橋をみんなで渡り始めたその時、何を思ったのか、1人が急に走り始めたのです。実は彼女は極度の高所恐怖症で、怖いので下を見ないで走り抜けてしまおうとしたらしいのですが…

「おいちょっと待て皆で写真を…」と思っていた僕は慌てて追いかけようとしたのですが、当時27歳だった僕は久しく走ると言う行動をしておらず、情けない事に足がもつれて転倒してしまったのです…もう若い時のように体が思い通りについて来る年齢ではなかったようで…(さすがに20代後半でこれは情けないですが、皆さんも気をつけて下さい。体はいつか言うことを聞かなくなる時が来ます…)転倒した時は痛いと言うよりまず恥ずかしいと言う感情が先に来ました。なんてカッコ悪いんだろうと思いましたが、立ち上がった時に恥ずかしいでは済まなかった事に気付きました。転倒の仕方が悪かったようで足を捻っていて、立ち上がった瞬間に激痛が走りました。僕が転倒したので驚いて戻って来たので写真は撮れたものの、歩くのもままならないほど酷く捻ってしまい、激痛を押し殺して夕飯に向かいましたが皆について行くことが出来ず1人どんどん遅れてしまいます。台湾の友人が1人気付いて一緒にゆっくり歩いてくれましたが、その激痛具合に軽傷ではないことはすぐに分かり、正直「骨が折れたのかも…」と思うほどでした。怪我の具合が心配でその後は客家料理の夕食も友人との会話もまったく楽しむことが出来ず、落ち込んだ気分のまま台北に帰り着いた僕は、夜も深くなっていたので友人に頼んで薬局へ行ってもらいました。

客家料理。しっかり味わう余裕はありませんでした…

薬局で靴下を脱いでみると、足はかつて見たことが無いほど膨れ上がっており、僕の気分は更に沈みました。ひょうきんな薬局の店主は湿布薬を持って来て、「これは物凄い効くんだ!明日には治っちゃうだろうね!治らなかったら湿布では治らない状態ってこと!」などと陽気にサラッと言ったのを聞き、僕の不安は更に更に深まりました…。翌朝に腫れが引くのを祈って眠りましたが朝起きても足の様子には全く変化がなく、その日は台南に行く計画でしたがさすがの僕も病院に行かないとマズいと判断し、友人に頼んで病院へ連れて行ってもらう事になってしまったのです…

まず病院に行く前に旅行保険の確認をしました。病院によっては保険会社が治療費を立て替えてくれる所もありますが、日本のコールセンターに問い合わせたところ台北には提携している病院がなく、実費で支払いをして日本で請求をすることになりました。(旅行保険を請求する時は病院に行く前にまず一報する事をお勧めします。事後請求だと保険が降りない可能性もあります。)健康保険制度がしっかり整っている日本ではイマイチ実感出来ませんが、医療費は実費で支払うとかなりの高額になります。日本は3割負担ですので少なくともその3倍以上、国によっては更に高額な所もあります。実費負担も不安でしたが足の状態はそれ以上にずっと不安で、大きな総合病院に連れて行ってもらい診察を受けると医師はレントゲンで判断すると言いました。レントゲン撮影を終えて医師が写真を見ている時に、僕の緊張はピークに達しました…折れているのか…大丈夫なのか…

レントゲンを見た医師は僕が日本人だから漢字が分かるだろうと思ったのか、紙を取り出し、そこに「没問骨」と書きました。「没」と「骨」という字を見た僕は血の気が引くのを感じたのですが、友人がすぐに「骨は大丈夫」と教えてくれました。「没」は中国語で「無い」と言う意味なんですね…骨折は免れたものの重度の捻挫とのことで、医師は足首を固定した方が良いと言い、巻き付けたらカチカチに固まるバンドを巻くことになりました。費用も2万円弱で収まり事なきを得ましたが、足を固定してしまったので歩くことが出来ず、友人に車椅子を借りてもらい、その後の旅行は車椅子で押されて周るということに…台湾人の友人はみんな車椅子を押そうとしてくれましたが、僕はあまりの申し訳なさに言葉がありませんでした…台北101では車椅子で訪れたため料金が障害者割引になり、エレベーターも待たずに優先的に乗せてもらうことに(苦笑)かくしてこの台湾旅行の後半はほとんどを車椅子の上で過ごしました。有名な士林夜市の人混みも車椅子で移動しましたので、周りからは大層奇妙なグループに見えたことと思います(苦笑)

坂で有名な九份は、車椅子と松葉杖には厳しい場所…
友人は夜市の人混みもずっと車椅子を押してくれました。左足は靴を履けない状態…

こうして台湾の友人に徹底的にお世話になった旅行は終わりました。空港では出国の際も日本に入国の際も、空港職員に押されて特別レーンでの優先審査でした。イミグレーションに並ばないという経験は、後にも先にもこの時だけです(苦笑)空港に迎えに来てくれた両親は車椅子に乗って出て来た僕を見て大層驚きましたが…(笑)足をキツく固定し過ぎたのか僕の足は帰国の頃には紫色に染まり、翌日すぐに日本の病院で診察を受けました。完治までは3〜4週間を要したと思います。

こうして海外で怪我をして病院へ行き、保険を請求したことで分かった事がいくつかあります。怪我をした際はまず保険会社に一報しなければならないこと、旅行保険で一定以上の金額を請求すると、次の旅行の際は保険に入り難くなることなど…(保険に入る際に「以前に○万円以上の保険金を申請したことは無い」という欄があります。この時はギリギリ基準額以下でしたが…)

もし病院のないような僻地で怪我をしてヘリコプター搬送をされたりすると、何百万という請求が来るそうです。近年は多くのクレジットカードに海外旅行保険が付帯していますが、保障金が十分で無かったり審査が厳しかったりしますので、やはり海外旅行の際は保険に入ることをお勧めします。もちろん、怪我をしない様に慎重に行動することがまず大事だというのが、この旅行の教訓だったのですが…(苦笑)

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Santa Barbaraその11。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

サンタバーバラでの留学生活も2週間が過ぎ、現地での生活や簡単な英語にも慣れて来ていました。学校の授業も発言は出来ないものの先生が言っている事は何となく(半分は推測でしたが)分かるようになり、授業ではスピーチをしたりもするようになりました。(レベル6のクラスなので周りの学生は何も見ずにペラペラとスピーチする中、僕は事前に書いた原稿を見ながら読んでいただけでしたが…)

ハウスメイトでクラスメイトでもあった韓国の大学生のユンは、クラスで自分の通う梨花女子大学(Ewha/イファ女子大学:韓国の女子大の最高峰。最近では朴槿恵前大統領の側近の娘が不正入学した大学としても話題に上りました…)についてスピーチをしていたのを聞いて、韓国は日本よりも更に学歴が重要な受験競争社会なのだと、その時に初めて知った事を思い出します。

ある日、学校で文法のテストがあり、前日の夜ユンが僕に「勉強してる~?」と聞いて来たので、全く勉強していなかった僕は「いや、全く(笑)」と答えたのですが、翌日のテスト(前置詞の後ろに動詞が来る場合は動名詞にする、と言う、日本の大学生には非常に簡単な内容)で僕がユンよりも高い点数を取ったため、ユンはクラス内で(もちろん冗談ですが)「彼にはダマされた!ウソつきよ!彼は私のハウスメイトで、昨日の夜に全然勉強してないって言ってたのに!」と笑いながらクラスメイトに言い触らして回り、スピーキングの下手な僕は反論出来ずにただ苦笑するしかありませんでした(苦笑) 日本の英語教育が文法と読解に偏っているため、聴き取れないし話せないけど問題は解けるという典型的な例だったかと思います。

<クラスルームにて。日本人は少なく、ドイツ、スイス、ブラジル、韓国、台湾などの留学生がいました>

その週の週末、僕らは車を借りてサンディエゴへと向かいました。学校までレンタカー会社のスタッフが迎えに来てくれ、空港の近くにあるオフィスにミチコと向かったのですが、予約されていた車は確かに6人乗りだったのですが、前に3人、後ろに3人座るという、日本でいう普通の5人乗りセダンの定員が前に増えただけの車でした。「これで片道4時間以上かかるサンディエゴまで6人で行くのはちょっと…(汗)」と思っていたところ、ちょうど先週にサンフランシスコへ行った際に借りたような7人乗りのミニバンが返って来たので、値段を聞いてみると6人で割れば1人10ドル程度しか変わらなかったため、ミチコと相談の上ミニバンに変更し、学校で残りの4人を拾ってサンディエゴへと向かいました。

日本人5人にドイツ人1人、という偏ったメンバー構成だったものの、その頃には他のメンバーも簡単な英語は話すようになり、アンドレアともコミュニケーションが取れていたのは前週との大きな違いでした。車がロサンゼルス近郊に差しかかると道が渋滞し始めたため、僕らはフリーウェイをいったん降りて、トイレ休憩を取る事にしました。

とあるハンバーガー店を見つけ車から降りると、メンバーは全員、真っ直ぐにトイレに向かってしまいました。実はアメリカでは、例えファストフード店であっても、トイレだけを利用するのはルール違反に近い行動です。”For Customers Only”(当店のお客さま専用)が徹底されており、近年は何か買わなければトイレの鍵も開けてくれないお店が大半です。さすがにマズいと僕は思い、やむを得ずハンバーガーを一個購入し食べていると、戻って来たメンバーの1人が(悪気は無かったのだとは思いますが)「あれ~、なんで1人でごはん食べてるの~?」と言って来ます…

「いや、お前らがみんなトイレに直行したから…」と喉まで出かかりましたがこらえたところ、他のもう1人が「私たちが、トイレを使ってたからじゃない?」と気づいてくれ、ああ、今回は普通に旅行出来そうだ…と少しホッとしたことを覚えています。

その後車は順調に走り、サンディエゴの町へと差し掛かったのですが、ここで男のメンバーが1人だけ、という場合だから起こった、ある種特有の問題が発生しました。他のメンバーは、地図を見てくれてはいたのですが、どこを走っているか分からない…これは女の子には仕方のないことかも知れませんが、ナビゲーションシステムもなかった当時、ナビが出来るメンバーがいないと言う状況に、サンディエゴに到着して初めて気づいたのです…

やむを得ず適当にフリーウェイを降りて、ストリート名から現在地を特定したところ、目的地をかなり通り過ぎていたことが判明しました。そこからは、自分で地図を暗記してしばらく走り、赤信号の際にまた地図を見る…ということを繰り返しましたが、ホテルの場所も住所しか情報がなかったため場所の特定に手こずり、何とかホテルに到着した時には、辺りはすっかり暗くなっていました。夕飯を食べたかったのですがホテルの周りには適当なレストランがなく、あまり歩き回ると治安の心配もあったため、夕飯はホテルのカフェでケーキのみ、になってしまいました。

<ホテルのカフェで夕飯にケーキを食べる>

もう今日は早く寝よう…と決めたのですが、チェックインをしてみると、6人に対して2部屋しか予約されていないことが判明し、追加料金を払ってもう1部屋利用は出来ましたがツインルームはもうないと言われてしまい、、語学学校のアクティビティのコーディネーターって、何ていい加減なんだ…とこの時痛感しました…。そもそも語学学校アクティビティのコーディネーターって、生徒のアクティビティのない平日は何の仕事をしているのでしょうか…

<サンディエゴにて宿泊したホテル。リトルイタリーという町の外れにありました>

マユミがある日ボソッと、「あの仕事でお給料もらえるんだから、いいよね…」、とつぶやいていたのを、僕はいまだに覚えています(苦笑) そう言えば毎日17時になると、「僕の仕事はもう終わりなんだ!」と言って、それ以上話も聞いてくれなかった事を思い出します…。みなさんも留学される際は、学校が用意しているアクティビティは当てにせず、自力で行動される事をお勧めします。アクティビティがあると書かれていても、人数が足らないから中止などという事も日常茶飯事です。全く違う場所の話ですが、僕がボストンに留学した時にアクティビティのコーディネーターはどこにいるかと尋ねたところ、「今は夏休みでいないよ」と当たり前のように言われ、受付のスタッフと散々口論したこともあります…。同じコース料金を払っているのに、いるべきスタッフが今はいない、代わりもいないとは、一体どう言うことかと…

欧米は契約社会、契約が全てだと言いますが、それならパンフレットにいると書かれたスタッフがいなければ、それは契約違反のはずですが…訴訟社会のアメリカですので、1度試しに訴訟をして確かめてみたいものです。まあ、おかげで自力で行動して問題解決を迫られる事が大半になり、結果的に様々な経験を積めたことは、逆に幸いだったのかも知れませんが(笑)

海外へ行くと、日本人のサービス精神や職業倫理がいかに素晴らしいかを、逆に確認してしまうことがあります。皆さんもぜひ海外に出て、逆に日本の良さも再確認して頂ければ、と僕は思います。

話がだいぶそれましたが、翌日僕らはメキシコのティファナを目指します。そしてサンタバーバラに帰着したあと、そこがいかに危険な場所だったかを知ることになります。続きはまた次回のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその12。へ続く

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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Santa Barbaraその10。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

サンタ・バーバラでの初めての週末に、サンフランシスコへのデコボコ団での旅行で散々な苦労をし、帰宅後丸一日を寝て過ごした僕は翌日から再び語学学校のクラスに出席しました。

語学学校の廊下でマユミと遭遇すると、彼女は開口一番、「サンフランシスコ、大変だったんだって? みんなが凄い(僕が)しっかりしてた、って言ってたよ」、と話しかけて来ました。僕がしっかりしていたと言うより、「とんでもないメンバーが何人か混じっていた」のが正しかったと思いますが、マユミはマユミで大変な週末を過ごしたらしく、(彼女は以前にサンフランシスコに滞在していた経験があったので、僕らに同行せずホストファミリーとラスベガスへ行った)、「私はストリップに行きたいって言ったのに、ホストファミリーは全然話を聞いてくれなくて、ダウンタウンから離れたカジノにこもってずっとギャンブルに熱中してキャーキャー言っててさ…」と不満そうに話していました。(※ ストリップ:誤解を招く響きですが、ラスベガスの有名なホテルが集まるメインストリートのことです。)

<ラスベガスのストリップ。Venetian、Mirage、Bellagio、Millageなど有名ホテルが並びます>

1週間ほど後の話ですが、マユミが滞在していたホストの家はヒスパニック系だったらしく、家の中ではスペイン語ばかり飛び交っていて英語で上手くコミュニケーションが取れず、とうとう我慢出来なくなり彼女は泣きそうになりながら僕と一緒に学校の校長室へ行き、「ホストファミリーを変えて欲しい」と訴えたのですが、校長は「なんで?」と言うので、「ホストファミリーがスペイン語しか話さない」と言うと、校長は不思議そうに、「それの何が問題なの?」と返して来ます…

とてもおかしな話に聞こえるかも知れませんが、移民国家であるアメリカやオーストラリアでは実はよくあるケースで、行ってみたらホストマザーが日本人だったとか、インド系のホストで食事が毎日カレーだった、などと言う話もあります。向こうではホームステイで生徒を受け入れるのは「空き部屋を貸すビジネス」的な側面もあり、ホストファミリーには当たり外れがあるのが現実です。ただし、そう言ったケースを「外れ」と思うのは日本人のホームステイに対する過剰な期待と先入観にも原因があり、そういったケースも現地の文化の1部であり現実なのだと捉え、多民族が暮らす国の現状や、ホームステイの生徒をホストが受け入れている理由や事情を知ることも良い勉強だと捉えるべきなのかな、と今では思います。語学学校にとってホームステイはあくまで「滞在場所の提供」であり、必ずしも現地のネイティブの家に滞在出来るという保証はありません。

とにもかくにも僕も反論し、「僕らは高額な費用をかけてアメリカに英語の勉強に来たのだから、ホストファミリーは英語を話すべきだ!」と強く言ったのですが、校長は「そうね、考えておくわ」と言ったきり、結局最後までうやむやにされてしまっていました。マユミも最後の方には諦めて、自力で留学生活を充実させようとしていたのは、留学生として褒められるべき姿勢だったと言えるでしょう。

僕は語学学校の新入生歓迎のクラブパーティの際にマユミとサンディエゴへ一緒に行く約束をしていたので、その週末は身近な仲間とサンディエゴ、そして隣町であるメキシコのティファナを訪れる計画を練りました。僕が唯一自力で仲良くなった外国人であるドイツ人のアンドレアも一緒に行きたいと言ってくれたので、メンバーは僕とマユミ、ナギサ、ナツコ、ミチコとアンドレアの6人となりました。厄介なメンバーが入らなかったのは大いに良かったのですが、アメリカで運転が出来るメンバーは僕1人であったため、「どうやって行く?」と一応聞いてはみましたが、みんなやはり車が良いとの意見になり、車でサンディエゴへと向かう事になります。

<サンディエゴ旅行のメンバーたち>

ホテルは学校のアクティビティのコーディネーターであるダンが予約を入れてくれ、車はミチコのホストマザーが予約をしてくれました。実はサンタバーバラに留学に行く前に父親に、「アメリカで運転をしないように」、と言われており、国際免許証も持たずに現地へ行ったのですが、何故か現地では日本の免許証を見せれば車をレンタル出来たので、僕もサンフランシスコの惨劇を切り抜けたと言う過信から抵抗もなく運転を引き受けてしまいました。(実は国際免許証と言うのは免許証の「翻訳文」と言う位置付けで、有効なのはあくまで「日本の免許証原本」であるため、留学生に慣れているサンタバーバラのレンタカー会社はだいたい、日本の免許証を見せると車を貸してくれました。ですので逆に、国際免許証だけで車を貸してくれる会社はありません。)

こうして滞在2週目の週末は、サンディエゴとティファナへの旅へと続いて行きます。そこにも幾つかのトラブルが待ち受けていましたが、続きは次のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその11。へと続く。

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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Santa Barbaraその1。

 このブログ記事の一番最初に載っている写真は、アメリカ西海岸にあるサンタ・バーバラという小さな町のメインストリートです。スペイン風のコロニアルな建物が並び、ヤシの並木がとても美しいこの町は、僕が初めての留学で滞在した、とても思い出深い大切な場所です。今日はその時の事を書きたいと思います。

<Santa Barbaraのメインストリート。ロサンゼルスから北へ150kmほどの場所にあります>

 僕が初めて留学したのは2001年の2月、大学2年生の時でした。今では短期の語学留学なんて、中学生・高校生から経験する時代ですが、当時の僕にとっては本当に大冒険でした。1人で海外へ出たのも初めてでしたし、英語も全く話せませんでした。留学生はだいたい、留学先の空港に降り立つと留学先の学校のスタッフが迎えに来ていて滞在先まで連れて行ってくれる(有料で結構高い)のですが、旅行会社に勤める僕の父は、「住所が分かっているんだから、そんなサービスに頼らず自分の力で行け」、と命令し、父の会社を通じて申し込んだため拒否権もなかった僕は滞在先の住所だけを頼りに、一人でホームステイ先の家を目指しました。

 同じくらいの年齢の日本人の若者をサンタ・バーバラの小さな空港で見て「この人も留学生じゃないかな」と思っていたら、(おそらくホストファミリーだったであろう)迎えの人に連れられて行ったのですぐに孤立した僕はその小さな空港からタクシーに乗り、ステイ先の家に向かう車内で「はじめまして、僕の名前は赤澤信太郎です」と英語で何と挨拶するか、頭の中で繰り返し練習しました。そしてたどり着いたのが、この家です。

<ホームステイで滞在した家>

 車を降りると、ホストマザー(当時30何歳くらいだったでしょうか)が出てきたので、僕は緊張しながら「ハウドゥ・・・」(How do you do. と言いたかった。日本の学校で教えられていたこの一言は、堅苦しすぎて実はあまり使われない表現だと、後から知った…)と言いかけた瞬間、「Oh, △☆○&%×$!!」(分からなかった)と先制攻撃を受けてしまい、僕は完全に出鼻をくじかれました。相手の言っていることが分からないことは恐怖なのだと、初めて知った瞬間でした。ホストマザーは家の中を説明してくれましたが、何を言っているのか全く分かりません

 ルームメイトも出てきて挨拶したのですが、彼の出身国の単語の発音がまた難易度が高く、「I’m from Belgium.」と…。僕はパニック状態で、「ベルジャン?ベルジャンてどこの国?アフリカにそんな国あったっけ?(汗)」、と混乱しているのを見たルームメイトは、「ああ、コイツ全く英語出来ないんだな」、と悟ったようでした。とにかくその時のことで僕が覚えているのは(理解できたことは)、ホストマザーが言った「ここはあなたの家よ、自由にしてね!私はボーイフレンドとデートがあるから忙しいの!」ということだけでした…

 日本人はホームステイと聞くと、ホストファミリーが親切で、町を案内してくれて、食事をみんなで食べて…という感じで想像しがちですが、アメリカの現実は違いました。しばらくすると家からは誰もいなくなり、放置されて何をしていいのやら分からない僕は時差ボケもあり、とりあえず寝るしかありませんでした。起きると夕食の時間帯にも関わらず、家には誰もいません。キッチンへ行くと、何やらパンとソーセージが置いてあります。

もしかして、これでホットドッグを作って夕飯を食べろってこと!?

と僕は初日からいきなり強烈すぎるカルチャーショックを受け、早くも現実から逃避したくなったのですが、このホットドッグを食べた後に、更なる追い打ちが…。それが日系ブラジル人である、アグネスとの出会いです。

<同じ家に滞在したハウスメイトたち>

 一番右側の子がアグネスです。たくましい体型に金髪にガングロ(顔黒は当時の言い方)にジャージ…写真では肉の骨を持っていますが、その時は牛乳に浸したシリアルを食べながら廊下を歩いていました…。その時の恐怖も忘れられません。当時の日本の渋谷でも、ここまで強烈な子はいなかったんじゃないでしょうか…。その後、僕は彼女に色々と助けられる事になるのですが、何しろ最初はただ「怖い」の一言で、本当にとんでもない家に来てしまったと思いました。その続きの話は、またの機会にご紹介したいと思います。

 こんなカルチャーショックも、今では最高の思い出です。みなさまも英語を勉強して、色々な体験をしに海外へ出かけてみませんか?

to be continued.
Santa Barbaraその2。へ続く。

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