旅行記・英語学習記事

代表講師のブログです。海外での出来事や留学の体験、異文化コミュニケーションや国際関係について書いています。不定期の更新ですが、ぜひお読みください。

留学時代の体験
Santa Barbaraその1。

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海外旅行での体験
高速鉄道の「お見合い席」に注意

レンタカーが、パンクした。

モロッコと西サハラ

フィジーの「木彫りおじさん」

海外で怪我をする(台湾編)

必ず3時間遅れるフライト(ネパール編)

ネパールのストライキ

悪質なタクシーを英語で撃退する(カルカッタ編)

インドの食あたりその2(2011年編)

インドの食あたりその1(2008年編)

スピード違反で捕まった(フロリダ編)

バラナシの「自称ガイド」

本場アメリカのステーキ事情

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経済・未来・テクノロジー
人気の高いラーメン屋ほど「お支払いは現金のみ」が合理的であるのはなぜか

「グローバリゼーション」の概念を更新しよう

イノベーションとは何か

“imperfect”であることを、受け入れてみよう

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異文化理解・コミュニケーション
Common Sense(常識)は、もう理由にならない

2つの”equality”:「機会の平等」と「結果の平等」

八方美人は、実は誰にも優しくない

「育てる」ときに大切だと思うこと

“Amazing Grace”と言う歌の意味とその背景

イギリス=イングランドではない

“I can do it.” “I will do it.” は “I have done it.” ではない。

“Better than Nothing”

ハリネズミのジレンマ

You and I are different. ‐ 異文化を理解すること

お台場に「自由の女神」がある理由

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英語学習
「英語を勉強して良かった」1番大切な理由

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変わり行く大学受験と、今後も変わらないこと

アメリカ英語とイギリス英語の違いを考える必要がない理由

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留学でやってはいけない13のこと

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“imperfect”であることを、受け入れてみよう

 本日の記事は、ちょっと抽象的な内容です。あまり現実的な実の無い「心の持ちよう」のようなところもございますので、興味のある方のみお読みください(笑)。

 僕はこれまでの人生で酸いも甘いもジェットコースターのように経験して来た中で、幸せに生きるコツとはきっとこうだろうといま考えることは、人間とはimperfect(不完全)な存在であることを受け入れる勇気を持つことかなと思っています。そもそも僕らは「ヒト」という名の動物の1種であり神様ではありませんので、完璧であることを求めずに人生を楽しんでも良いのだと考えると、色々なことが楽になり上手くいくことも増えるのかなと思います。こういう表現をすると人間の尊厳を侮辱しているように聞こえるかも知れないので誤解の無いようにしておくと、向上心はもちろん必要ですが、「自分は理想的な姿になれる/なるべき」と考えてしまうと、自らの人生や社会は狂い始めるのではないかという、ある種の提起のようなものとお考えください。

 近年はコンプライアンスだの環境保護だのと、私たちを「締め付ける」ものがどんどん増えています。もちろんこれらは必要なことであり、その行動を個人がサボればどこかで誰かが傷つきますので、概念としては誰もが持っていなければならないものです。一方で、その概念のために自らを追い込んで傷つけるのであれば、そもそもの目的を最初の段階で裏切ってしまい、本末転倒ではないかなとも思うのです。「人や社会に優しくするためには、まず自分に優しくしよう」とでも表現できるでしょうか。

 現代人は近代社会が求める合理性の中で、機械のように正確に生きて、ミスをしないことが要求されるようになってしまいました。しかしながら、そもそも私たちはベースが生物ですので、自らの意思だけで正確に完璧に生きることは事実上不可能なのであり、むしろ完璧を求める理想こそが逆に合理性を欠いていると僕は考えています。また、機械のような合理性を追求した人間の能力は、残念ながら120%の実力を発揮する「人の欲求」をベースにした行動は越えることが出来ないものです。好きなことをやっている人には、どれだけ優秀な人でも勝つことは決して出来ません。人間や社会はこれまで、そのような「人の欲求」の力のおかげで発展してきました。資本主義とはまさに、この原理を究極に利用したものです。

 現代人は情報伝達が発達した社会の中で「こうすべきだ」とか「この方が良い」、「こんな素晴らしい人がいる」というメッセージを、毎日無意識に、かつほぼ強制的に浴びせられて生きています。しかし、そもそも人間は機械ではなく生き物であり、生まれながらにして個々に違う存在である以上は、誰かが考える「パーフェクト」とは自分にとっては「パーフェクトではない」こともありますし、その逆ももちろんあるでしょう。お金をたくさん稼げば幸せな人もいれば、趣味に没頭した方が幸せな人もいます。1人でいる方が良い人もいれば、社会に貢献して初めて幸せを感じる人もいます。

 完全に僕の個人的な想定でしかない話ではあるのですが、僕は人間の50%は動物としての欲で構成されていると考えています。食べる、寝る、子孫を残すといった動物としての3大欲求は、私たちは絶対に否定できない感覚であるからです。

 そして、その他の50%の部分の中に、人としての「理性」と「人間特有の欲求」があると僕は考えています。ここは動物であれば考えることのない「ルール」や「モラル」であったり、「承認欲求」や「達成欲」、「自己実現」などがここの概念に相当します。

 歴史を振り返ってみれば、ヒトという動物が食物連鎖の頂点に立ったのはこの「理性」を使って自らの「動物としての欲」を最大化してきたからに他ならないでしょう。つまり人間が言う合理性とは、その目的自体は自分たちの「生物としての欲」を最大化するためのものだったと言えます。単純に表現するなら、もっと安定的にご飯を食べて、もっと効率的かつ楽に安全に仕事をして、もっと健康に生きて長生きしてもっと自らの子孫をたくさん増やしたい、これが人間が社会に求めて来たことです。そしてこの「理性」を活用する副作用として同時に発生したのが、動物として生きるためには必要なかったはずの「人間特有の欲求」です。動物としての欲求と人間特有の欲求を明確に区別するために、ここではそれぞれを「生活欲」と「理性欲」と仮称をつけて、別個のものとして定義してみたいと思います。

 なぜこのような区別をしてみたかと言えば、現代資本主義は近日、その元来の目標を失っていると言われているからです。これまで私たちは動物としての「生活欲」を最大化するために合理性を追求してきたのですが、現在は特に先進国や新興国を中心にここがほぼ限界に達した(つまり、ほとんどの人は食べることには困らなくなった)ため、目標を失った先進国のビジネスは次の稼ぎ頭として、人としての「理性欲」の最大化をビジネス目標に変えてしまったと言われます。つまり具体的には、食べ物や物流、エネルギーといった産業ではこれ以上の発展が望めないことから、エンターテインメントやゲーム、不動産投資に金融、ITや仮想現実などの実態のないものから旅行に至るまで、「生きるためには必要なかったもの」でより大きな資本を形成しようとするようになりました。

 これはある意味でのバブル経済のようなもので、生きていくために求められる合理性(生活のための労働)とのバランスを取るため(息抜き)以上の「理性欲」は、本来は人間には必要なかったものです。この「理性欲の最大化」を目指して極限まで競争を強いるようになった現代社会が、格差社会との形で「生活欲まで後退」させる結果となっているのが、21世紀のいまのIT化社会と言えます。人間の欲求が社会を発展させて来た原動力であるのは疑いようのない事実ですが、これ以上追及する必要のない「理性欲」を追及しているのは、実態のないバブルのような価値を追求しているようなものかも知れません。人が幸せに、平和に生きていくのに必要なもの以上の何かを、社会は実現する必要が本当にあるのかどうかは、地球環境も限界を迎えつつあるいま、今後議論される必要があるテーマであるはずです。生活欲を改善する技術やビジネスは価値あるテクノロジーと呼べますが、ただ理性欲を増幅させるだけのものは社会の革新ではない、とは言えないでしょうか。理性欲の増幅と極度の格差社会によって人の生活や幸せが脅かされるようになったいま、人は「本来目指すべきところ」を明確にして、経済成長の取捨選択をして、人類にとって本当に大切なもののバランスをコントロールして行く必要に迫られています。

 地球環境を守って持続的に発展する必要(SDGs)とは、結局は私たちが幸せに生きるため、つまり「生活欲を満たすことが目的」であるはずです。ところが現代社会では、その理念だけが1人歩きして、なぜか理性欲を満たすための道具にすり替えられている部分があるのではないでしょうか。途上国ではまだまだ生活欲を満たせていない人が多くいる段階で先進国が理性欲を満たしているのであれば、それはただの偽善と言うほかに表現が見当たりません。自動車やスマートフォン、高速の移動手段など、エネルギー消費の節約が先に求められる分野は見過ごされてしまっているように見えます。例えば、私たちの国はIT化とEV化を進めたクリーンな場所だ、とどれだけ言っても、生産に大量のCO2を排出するバッテリーをもし他国から輸入していたら意味がありません。産業が国際分業をする世界となった以上、国家単位でのエネルギー管理やCO2排出規制には、もはやなんの意味もないのです。

 化石燃料の規制云々といった途上国には受け入れられない考え方から脱却し、原子力など必要なものを現実的に活用しながら、エネルギー問題を根本から適切に解決し環境負荷の少ないエネルギーを確保するためには、損得を越えた投資が国境を越えた世界レベルで行われるべきであると僕は考えています。地球環境がこれだけ悲鳴を上げる中でも、まだ「全体よりも個が大切にされるべき」という「20世紀には」新しい発想だった概念が、こうした地球的課題の解決を妨げているような気がしてなりません。全ての個がその権利を100%実現することは、社会では不可能なことです。現代社会はまさに、この考え方のバランスがズレてしまっていると言えます。

 20世紀中盤に生み出されたリベラリズムとは究極的には「自分中心主義」であり、「理性欲の追及主義」であったと言えるでしょう。人が理性欲のみを追及して規律や社会性を放棄すれば、それは争いの絶えなかった動物としての時代への逆行と何が異なるのでしょうか。世界にはまだまだ普通に生きるための生活欲を実現できていない人もいるのだから、人が手に入れられる資源は、そうした課題の解決へと割り当てられるべきでしょう。

 人に「自由でなければならない」「個性が尊重されなければならない」とイデオロギーによって理性欲の追及を強制し無限競争を誘発することで、人は逆に不幸になっている可能性があります。経済発展が進み人はより健康に、より自由に、より幸せになったと言われますが、富裕層中心に押し上げられた数字を見て「社会は発展した」と、果たして断言して良いものでしょうか。バブルのように生み出され続けている理性欲経済のマネーを生活欲の達成に配分できていれば、こうした数字はもっと良くなっていたはずとは言えないでしょうか。

 現代人はこうした理性欲経済の中で常に自己実現を求められ、限界まで競争を煽られ続けた結果、心を病んで自殺してしまうこともあります。理想的な自分を目指さなくとも良いのだ、人間らしくても良いのだという「インパーフェクトが許容される社会」の方が、もっと人や地球に優しいのではないかと僕は考えています。

 「人はどうあるべきか」を考えた哲学者は最後には自己矛盾に到達して、自殺する結果となって来ました。理性欲の無限増幅がインターネット上で匿名で無限に発信され続けている状況に対しては、一定の規制が必要になるでしょう。インターネットによる無限競争社会は、弱肉強食の世界でただ動物が殺し合っているのとあまり変わりありません。少なくとも、匿名での発言は禁止されるべきでしょう。人は結局は動物であり完璧な存在ではありませんので、完璧な自由を与えても使いこなせないのは、ある意味で当たり前の結果と言えます。「完全な自由ほど苦しいものはない」というのが、僕のこれまでの個人的な経験でもあります。

 米国での「保守派」と「リベラル」の対立による社会分断は、深刻を極めています。お互いが自身を「パーフェクトである」と信じて疑わないところに、妥協や話し合いの余地が発生しないという最大の問題が存在していると僕は考えています。人は相互にインパーフェクトであることを認めて、だからこそお互いを許し合う寛容性を備えて初めて、こうした対立や争いも収束を迎えることが出来るでしょう。人間は神様ではないのだから、人が唱える論理が完璧になることはあり得ません。理想を目指すことには意義があるが、自分が理想を代表すると自認することは、ただの勘違いです。結論として、理性欲の追及こそが理想であり完璧に正しいと誤認されてしまったところにこそ、宗教対立や格差社会に至るまでの現代社会の問題の原点があります

 理性欲の追及にはブレーキもかけて、協調と寛容、相互理解のある平和な社会が実現されることを僕は願っています。理想や価値観の押し付けこそが問題であるとの認識を持って、個人が利己を追及しすぎないような仕組みや価値観を新時代の基準として社会が受け入れられるよう、個人として出来ることを今後も行っていきたいと思います。

 私たちは、不完全でも良いのではないでしょうか。そうすれば、相手を許すこともできるようになるでしょう。

We are all different and imperfect, because we are all human beings.

Santa Barbaraその14。

 ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

 サンタ・バーバラでの留学生活も半分が過ぎ、週末に各地へ旅行を楽しむ(様々なトラブルも経験しつつ…)など、英語力の低さから来る不自由さもありつつも、少しずつアメリカでの生活や習慣にも慣れて、自立した充実した日々を送ることができるようになって来ていました。

 アメリカに滞在して3週目のある日、僕は21歳の誕生日を迎えました。日本でももちろん誕生日は家族に祝ってもらっていましたが、その年はサンタ・バーバラに滞在中であったため、なんとな〜く誕生日を迎えるだけだろうと思っていたのですが…

 誕生日を迎えたその当日、夕飯を食べて部屋に戻った僕をホストマザーのカレンが呼びに来たので、「何だろう?」と思いながらダイニングルームへ行くとそこにはホストファミリーとハウスメイトが集まっていて、”Happy Birthday!”とサプライズで全員でお祝いをしてくれたのです。ケーキにはキャンドルが添えられており、みんなでバースデーソングを歌ってくれました。それまで僕はこのように誕生日をサプライズで祝ってもらった事が無かったので、感動の余り少しウルッとしてしまったのですが、アグネスにはなぜか”He misses his family.”(彼は日本の家族が恋しいんだよ)と勘違いされてしまい、それを聞いたカレンは「あなたがこの家にいる間は、私があなたの母親よ」と言ってくれました。ケーキを食べたメンバーたちは各々それぞれの部屋に戻って行きましたが、僕はこの時「アメリカではそれぞれが自立した生活をしていて家族の結びつきが強くないように見えるが、実はそれが全てではなく、家族の記念日を祝うことなどを大切にしているのだ」と言うことを初めて知りました。日本人から見たら家族の関係が薄いように見えるアメリカですが、それは決して家族を大切に考えていないと言うことではなく、単純に習慣ややり方が異なるだけで、家族を大切に思う気持ちは変わらないのだと知ることが出来たのは、アメリカを正しく理解することが出来たと言う意味で、とても貴重な経験となりました。

 普段、夕飯のあと他のハウスメイトたちは食べ終わったあとのお皿を洗わずにシンクに放置していたので、僕は見かねてたまにそれを洗ったりしていたのですが、ある日たまたまそれを見たカレンが、” Oh, Shintaro! You shouldn’t have!” 直訳:そんなことしなくても良かったのに!=意味:本当にありがとう!)と言った事を僕は覚えています。国や習慣が異なったとしても他人を思いやったり協力する気持ちは共通に通じ合うものであり、カレンは僕が日本に帰国する際に「あなたは本当に素晴らしい青年だった。またいつでも遠慮なく泊まりに来てね!お金はいらないわよ!」と言ってくれました。僕はアメリカに到着した際は「とんでもない家に来てしまった」と勘違いをしましたが、それが真実ではなく「アメリカにはアメリカのやり方と習慣があり、家族や他人を思いやる気持ちは日本と変わらずちゃんとあるのだ」と言うことを正しく知ることが出来たので、ただ何でも世話をしてもらうよりも価値のあった、本当に最高のホームステイだったと今では思っています。

<カレンは当時はまだ30代だったと思います>

 その週の週末は、ハウスメイトのユンが留学期間を終え韓国へ帰国する事になっていました。そのためカレンは、ユンの送別ホームパーティーをするから、僕に対して”You can invite a couple of your friends.”と言ったのですが、僕は”a couple of”(2~3人)と言うニュアンスがピンと来なかったため、”How many people can I invite?”と聞き返したところ、カレンは再び”A couple of.”と、ハッキリ何人とは言いませんでした。僕は困ってユンに「ユンは何人の友達を連れて来るの?」と聞いたところ、ユンは「私は友達を選ぶことは出来ないから、全員の友達を招待するわよ!」と言ったため、僕はますます困り果ててしまいました…

 「いったい何人まで連れて来て良いんだ?」と思ったのですが、ユンは「全員連れて来る」と言ったので、そこまで友達が多くもなかった僕もとりあえず全員に声を掛けてみたところ、日本人4人が参加したいと言ったので、4人を連れて行ったのですが…

<ホームパーティーにて撮影した”Big Family”(笑)>

 送別ホームパーティーの当日、僕が4名の日本人を連れて帰宅すると、家の中には、人…人…人…(汗)どうやらユンは10人程度の韓国人を連れて来たようで(このあたりが、理性よりも情が優先である韓国人らしいなと思います笑)、アグネスも5~6人のブラジル人を連れて来ており、”a couple of”と全員に言ったであろうカレンが想定していたホームパーティーの規模を、どう考えても越えていました…(汗)カレンとボーイフレンドのスティーブ、息子とその従兄弟、娘のミシェル、ミシェルの本当の父親(元の旦那と現在のボーイフレンドが一同に集まるのも凄まじいな…と思いましたが…)、日本人5人、韓国人約10人、ブラジル人約7人、そこにハウスメイトのクリストフと居候のボルツを加えた約30名が平屋建ての家に集結し、家の中はもはやカオスを極めましたが、カレンとスティーブは特に気にする様子もなくバーベキューで様々な料理をどんどん出してくれました。家に入りきれなかったのか、韓国人たちの一部は家の前の道路で話し込んでいましたが、家の中でも音楽に合わせて踊ったり、初対面の留学生同士が会話を楽しむなど、華やかなパーティーとなりました。僕が滞在した家はおそらくアメリカの中でも相当にオープンな家庭だったのかと思いますが、日本ではあり得ないようなカオスなパーティーを喜んで開催してくれたカレンを見て、自分が非常に良い経験をしていること、アメリカ人は個人主義であるだけではなく懐がとても深く寛大であることを知り、様々な「異なるもの」を許容できるアメリカと言う国に留学したことは僕にとっては本当に貴重な経験で、人生の宝物となった思い出です。

<韓国人は多すぎて家の前の道路で話し込んでいた>

 パーティーは深夜11時過ぎまで続き、各々が帰宅する頃には交通手段もすでに無くなっていたため、僕は友人の帰宅手段の確保に追われました(苦笑)マユミはたまたま同じ家に滞在していた韓国人が車で来ていたので乗せてもらえたのですが、あと3人…。ここでミシェルの父親がタクシーの運転手であることに気付き、ナツコの送迎を彼に頼んでみたところ、送ってもらえる事になりました。(なぜ初対面だったその日に、彼の仕事が運転手と知っていたのだろうと今考えると不思議に思うのですが、初めて会話した時の”I’m Michelle’s father.”と、タクシーを出してもらえるか聞いた時の”Yeah, I’m ready.”というやり取りは覚えていますので、きっと仕事の話も自己紹介の流れで聞いていたのでしょう。簡単な英語とは言え、逆境に鍛えられて(笑)少しは話せるようになっていたのかも知れません。)

 まだあと2人分必要…と思っていたら、どこからか突然カレンの母親と名乗る人物が現れ(どうやら近くに住んでいたようです)、「私が車で送って行くわよ」と言ってくれました。ですが2人とも帰り道が分からなかったので僕も同乗し(なぜかボルツもついて来ました…笑)、2人の家まで(しかもボルツが助手席に座ったので後部座席から)道案内をして送り届け、事なきを得ました。余談ですが、僕はこのときすでにサンタ・バーバラでタクシー運転手ができるんじゃないかと思うくらいに、土地勘が(必要に迫られて)鍛えられていました(笑)

 この留学で僕は上手く英語を話すことは出来ませんでしたが、様々な貴重な出会いがあり、様々な経験を重ね、個人主義だと思っていたアメリカ人の優しさや親切にも触れ、アメリカの習慣や生活スタイルから考え方に至るまで正しく知る事もでき、「英語を勉強しなければいけない。英語をちゃんと話せるようになりたい。」と言うその後の目標を持つことも出来ました。ありとあらゆる事が僕にとっては最高の経験であり、最高の思い出です。

 その週末のロサンゼルスへの旅行の帰り道にこの留学での最大のピンチが訪れることになりますが、それもその時に経験出来て良かったのだと、今では思います。みなさまもぜひ日本を飛び出して、読んだり聞いたりでは分からない他国の「本当の姿」に触れていただければと思いますし、僕はこの仕事を通じてそのお手伝いが出来れば本当に幸いです。また、他の国の姿を知ることで、これまで見えなかった「日本の本当の姿」も、初めて知ることが出来るものだと思います。

 初めての留学だったサンタ・バーバラでの体験も終盤へと入って行きます。続きはまた次のブログにてご紹介出来ればと思います。

To be continued!

Santa Barbaraその15。に続く

Common Sense(常識)は、もう理由にならない

 “common sense” は日本語で言う「常識」を表す表現で、それぞれの単語が表すように”common”(共通の) “sense”(感覚)と言う、私たちが普通は「正しいこと」と信じている事柄です。ですが、常識は必ず正しい、本当にそうでしょうか。僕は個人的には、常識と言われていることはまず先に疑ってみる事にしています

 この「常識を疑ってみる」と言うことは実はとても大切です。何故なら、疑うことを忘れてしまえば、人は特定の考え方に縛られコントロールすらされてしまうからです。そしてその常識を信じている限りは、それ以上の改善が全く望めません。「常識だから」と考えることは実は、考える事を放棄すると言う点においてマイナスでしか無いのです。

 例えば、「新聞の情報だから正しいはず」、「テレビが放送しているのだからみんながそう思っている」、「instagramでみんながシェアしているから人気だ」、本当にそれは正しいでしょうか。新聞の記事を書いているのもテレビの番組を製作しているのも、instagramの投稿の「流れを作っている」のも、実はただの同じ人間です。つまりこれらの情報は実は「正しいこと」ではなく、あくまで「彼らの意見」や「作られた人気」でしか無い訳です。こうした意見を「正しい」と盲目的に信じてしまうことは、実は大変危険なことです。

 分かりやすい例を、日本は歴史の中でちゃんと経験しています。第二次世界大戦に邁進する日本政府や軍部に対して、その正当性を疑う人は圧倒的に少数でした。それは新聞やラジオなどのメディアも含めて「戦争をするのが正しいのだ」と信じてしまった、あるいは信じさせられてしまったからです。まさに日本中がマインドコントロールされてしまったが故に起きてしまった悲劇でした。

 ところが一方で、「戦争で日本は悪いことだけをしたのだ」と言う常識を反対に信じることも実は大きな間違いです。もちろん戦争自体が悪である事は疑いもない事実ですが、悪いことだけを行なっていたならなぜ、中国・韓国を除いたアジアのほとんどの国が親日的なのでしょうか。特に日本の植民地支配が長期化した台湾が世界一の親日国である事は全く説明がつきません。

 このカラクリはと言うと、台湾は確かに長らく日本の植民地として統治下にありましたが、その中には悪いことと良いことの両方があった事を、台湾人が客観的にちゃんと理解をしているからです。日本の統治により自由が奪われたり過酷な労働を強いられたマイナスの側面があった一方で、教育制度やインフラが整備され人々の生活が向上し、台湾が近代化するキッカケとなったのもまた事実です。その両面をしっかり合理的に理解しているからこそ、今の台湾の親日的な人々があります。

 他の例では、東南アジア諸国は日本の植民地となる以前は長らく欧米諸国の統治下にありました。欧米諸国の植民地支配と言うものは日本のそれよりも遥かに熾烈なものであり、現地の生活を向上させることなくただただ搾取を続けるだけのものでした。そこに日本がやって来た結果そうした欧米諸国による支配が追い出された訳ですから、東南アジアではそれは結果的にプラスに働いた面もあったのです。日本の敗戦後にはインドネシアには旧宗主国であったオランダが戻って来ましたが、現地に残った日本兵はその再侵略に対して現地の人々と共に戦ったそうです。現地では今でもこの方々のお墓がしっかりと守られています。

 このような事を書いているとまるで戦争や植民化を正当化しているかのように聞こえるかも知れませんが、そう言うことでは決してありません。僕は戦争には絶対に反対です。植民化も今後は絶対に許されてはいけません。ここで述べたいのはあくまで、物事には必ず表と裏、あるいはそれ以上の多面性が必ずあり、一つの側面のみが「正しい」訳では決してないということです。一つの内容を盲目的に信じてしまうと、それは逆に宗教対立に代表されるような衝突や紛争に必ず通じます。一つの内容を正しいと信じるのではなく、様々な観点から物事を柔軟に見てみて、良い点と悪い点の両方をしっかり把握することが大切です。そのような視点を持ててこそ、私たちは異なる文化や宗教を初めて受け入れることができます。これは今後の日本と世界には必ずなくてはならない姿勢です。

 このように、一般に「正しい」と信じられているものほど、実は逆に疑ってみる必要があります。新聞、テレビ、SNS、学校教育、教科書…本当にそれは、正しいと言えますか? これらを作っているのも人間であり、必ず何らかの意図がそこには入っています。 例えそれが事実のみで構成されていたとしても、その事実を取捨選択すれば、印象と言うのは操作出来てしまいます。こうした情報を「絶対に正しい」と盲目的に信じてしまうことが、実は最も危険なのです。意見や発想は常に多様である必要があります。一つの絶対的な正解など存在しません。

 同様に、多数の人が「正しい」と言っているからといってそれが正しいとも限りません。人間はあくまで人間、神さまではありません。人間が動物である限りは、何かが「絶対に正しい」と言うことはあり得ません。例え世界の70億の人が「正しい」と言っても、あなたが「間違っている」と思うのであれば、それは試しに変えてみる価値が十分にあります

 実際に、人間の歴史は1人の天才が全てをひっくり返した事が何度もあります。重力の概念を発見したニュートン、アメリカ大陸に初めて辿り着いたコロンブス(天才とは少し違う気もしますが…)、近年で言えば、誰もが最初は「何だこれは」としか思えなかったスマートフォンの概念を創造したスティーブ・ジョブズなど、これらの1人の天才はそれまでの世界の常識をたった1人の行動で完全にひっくり返しました。70億が正しく1人が間違っていると言う保証は、実はどこにも存在しないのです。1人の方が圧倒的に正しかった例は、歴史上にもいくらでも存在します。逆に言えば、あなたが常識に固執している限り、新しい発想や発見に辿り着く可能性はゼロだと言うことです。これでは人間には何の進歩もありません。

 この「常識を疑う感覚」を養うためには、海外へ行ってみることが非常に有効です。何故なら自分が常識だと思っていた事が、海外では常識では無い事が多々あるからです。それは良い意味での自分の考え方を崩すことでもあります。更に言えば、英語を使って外国人と話すことが出来ればその幅ははるかに広がります。必ず自分が当たり前だと考えていた事が「良い意味で」裏切られることを身をもって体感できるからです。これ以上の自分を改善できるチャンスはどこにもありません。また、今後はどんどん情報が氾濫することで、どの情報が正しいかすら把握することが難しくなって行きます。そうした中から正しい情報を見分けるためにも、多くのものや情報に触れ、異なった見方や環境を体感し、物事をもう一度多角的に見直してみることで「常識を疑う」「言われていること、書かれていることをすぐに信じない」力を養う必要があります。もう、特定の思想が世界を引っ張って行く時代は、終わったのです。これからは世界の一人ひとりが、何が正しいかを「自分で」考え判断して行かなければなりません。これまでのやり方や常識が実は間違っていたなら、それはすぐに変える必要があります。

 どうも僕の経験した限りでは、「出来る方法を考える」方より「出来ない理由を探す」方が多いような気がします。これまでのやり方とは、これまでの常識とは、果たしてそんなに大切なのでしょうか。これまで上手くいったから、はあくまで過去の話であり、世界や社会の変化の中ではそれに応じて「変えるべきことは何としてでも変える」のが正しい姿のはずです。

「常識では…」、「普通は…」、「我が社のやり方は…」、「この国では…」という言い訳を使う進歩のない人には、こう言ってみるのはどうでしょうか。

「何ですか、それ。どこで食べられるんですか。」

「グローバリゼーション」の概念を更新しよう

 「グローバル化」が盛んに謳われるようになってもう相当の年月が経ちますが、今でも一般に信じられている「グローバル化を達成する事が大切だ」という昔ながらの概念は、本当に正しいと言えるのでしょうか。本日はこの「常識」に一石を投じてみたいと思います。

 僕は個人的な考えとして、「これまでのグローバリゼーションには失敗の側面がかなりあった」と思っています。英語ビジネスを展開する人間がこんな事を言うことに驚かれる方がほとんどかと思いますが、その理由をご説明したいと思います。

 まず始めに述べたい事は「全てのグローバリゼーションの要素が失敗であったのではない」と言う事です。グローバル化が進んだことは基本的にはポジティブな点が多かったと思っています。それは主に経済的な分野とITテクノロジーによる距離感の短縮、そして英語が共通語として定着した事により、世界の人々が相互に接触し理解しようとする機会が増えたという点においてです。

 経済がグローバル化した事に関してはもちろん、ローカルなビジネスが生き残れなくなったと言う一見ネガティブに見える側面もありますが、僕はその点も含めてポジティブであったと考えています。なぜならビジネスとは、「より良いサービスや商品が勝ち残る姿こそが正しい」からです。例えば農作物ならば、関税によって守られていた旧態依然としたスタイルや既得権益が貿易の自由化によって消滅することは、消費者の観点からは完全にポジティブと言えます。また自由化によって競争を迫られることで、そのビジネスが大きく改善することもよく見られるケースです。分かりやすい例では、日本には高級果物や和牛があります。コスト競争力や安さでは外国産には勝てないと言う状況は、逆に高品質な果物や世界的なブームにもなっている”Wagyu” を生み出す結果となりました。アジア各国では日本のイチゴが1パック5,000円と言うような値段で売られていることもあります。1粒あたり400〜500円と言う事は、現地ではイチゴ1粒が一回の食事かそれ以上の値段と言う計算になりますが、それでも売れていると言うのだから驚きです。また、もはや英単語ともなった”Wagyu” はステーキの本場であるアメリカでも最高の牛肉と言う評価を受けており、アメリカ産和牛やオーストラリア産和牛まで生産される有様です(種が和牛であれば現地でそれをWagyuと呼んでも良いようです。苦笑)

<和牛はもはや “Wagyu” と言う英単語になった>

 また国内では、AmazonなどのITジャイアントの上陸により小売店のビジネスが存続の危機にありますが、これも長期的な考え方をすれば正しい流れであると言えます。社会とは常に進化するものであり、旧来のビジネスがいつまでも生き残れることはあり得ません。逆にいつまでも生き残っていればそれは何らかの既得権益が裏で守られていると言う意味であり、それは消費者にとってはマイナスでしかありません。誰だって良いものを、より多くの選択肢から、出来るだけ早く、可能な限り安く購入したいのは当然のことであり、こうした環境が生まれることは社会にとっては間違いのない「進歩」であると言えます。ビジネスを営む以上は、時代が求めるものに合致しなくなった商売が淘汰されることは社会全体で考えれば「ポジティブなこと」です。ビジネスとは常に新しい工夫が求められるのが当然であり、常に生まれ変わり続ける、そうあるべきものです。残酷に聞こえるかも知れませんが、それが資本主義の大原則です。資本主義とは100%完璧な社会システムではありませんが、「それでも資本主義は、人類がこれまで生み出した中では最も優れた社会システム」です。資本主義に対するアンチテーゼとして現れた社会主義や共産主義が歴史上失敗に終わった事は、みなさまもおそらく教科書で学んだことでしょう。その100%完璧ではないが現時点ではベストではある資本主義の欠点を補うために生み出されたのが社会保障などのセーフティネットですが、これを可能な限り小さく出来る社会=個人が自立している社会が、動物の一種である人間が現時点でたどり着くことができる限界かつ最適な社会と考えられます。難しい理論に聞こえるのであれば、「努力や勤勉、挑戦は報われるべきだ」と考えればシンプルです。これらが報われなくなった瞬間に、人には怠惰と欲望のみが残る事になります。

 内容が一部被ってしまいますが、ITによる世界の距離感の短縮も、総合的に考えればポジティブと考えられます。今ではインターネットにより世界中の情報を瞬時に知ることができるようになり、インターネットの通話機能を使用すれば世界中に無料で電話をかけることも出来ます(通信量は掛かりますが国際通話料と比較すれば微々たるものでしょう)。オンラインで世界中の人間とチャットや議論をすることができますし、それは文化の相互理解や新しい価値観に気付く事を可能にするものです。またそれを国内に居ながらにして疑似体験することを可能にするVR技術の開発も進んでいます。世界中の「異なる価値観やアイディア」に触れることで、私たちは自分の国をより良く、より迅速に改善出来るようになったと言えるでしょう。さらにはAIやロボットが人の仕事を奪うと言う批判もありますが、人が単純労働から解放される事で、社会には新しい価値やアイデアが生まれやすくなる可能性もあります。こうした技術はグローバルな技術交流、部品供給や分業体制によってその発展が効率的に加速されています。例えばiPhoneであれば、設計やOSとCPUの開発は米国Appleですが、CPUの製造を可能にしているのは台湾TSMCの微細化技術、通信モデムチップは米国Qualcomm、ディスプレイのOLEDは韓国Samsung電子や中国BOE、カメラのイメージセンサーはSONY(カメラモジュール化をLGが担当することもあり)、コンデンサーなどの電子部品は日本の村田製作所や京セラ、メモリーはDRAMは韓国SamsungやSK Hynixと米国Micron Technology、フラッシュメモリーは日本のキオクシア(旧東芝メモリ)や韓国Samsung, SKなどが供給し、台湾のFoxconnやPegatronが組み立てを請け負って、その工場は実は中国やインドにある、と言った具合です。そもそもDRAMやNANDといったメモリーの製造過程で、その製造装置や部品、素材は米国Applied Materialsからだけでなく日本の東京エレクトロンや信越化学工業、ヨーロッパのASMLなどから韓国や台湾へ供給されており、スマートフォンとはその製造に国境を越えた何百社もが関わっている、非常に多国籍な製品であると言えます。近年では、ビジネスが国内で完結することの方が珍しくなりました。

<iPhoneとは複数の国の技術による「合作」>

 もちろん上記のようなポジティブな影響は全て、世界の人々が英語を「世界の共通語」として利用するようになったからに他なりません。共通語が無ければ国家間の関係とは常に1対1でしか成り立たないことになりますので、世界に言語が100あると仮定すればそれぞれの言語の専門家全てが必要となってしまいます。それに対して1つの共通語があることは全てのコミュニケーションをより円滑に、より便利に、より効率的にすることを可能にしますので世界全体としての大きなメリットがあり、不必要な無理や無駄が解消されることにも通じます。もちろん複数の国の人間が同時に話し合い意見を調整することも可能になります。これは「共通語」があって初めて出来るようになった事です。「世界が英語に支配される」と警鐘する人がちらほらいますが、それが100%真実ではありません。ほとんどの国ではオリジナルの母語が使用される状況に変わりはありませんし(例外はありますがあくまで「例外」です)、英語を話すことと各国・各文化のアイデンティティを守ることは決して矛盾しません。むしろ他文化を知ることで初めて、自国のアイデンティティを確認する事が出来るようになるとも言えます。英語を話すようになったらその場所のアイデンティティが消滅したと言う例は、一部の例外を除いてほとんど確認されていません。同じ英語を話す西欧諸国同士ですら、アメリカとイギリスとオーストラリアの文化やアイデンティティは全く異なるものです。

 では、これだけグローバル化による良い側面があったにも関わらず、なぜ「グローバリゼーションには失敗も多かった」と僕が考えるかと言うと、それは「グローバリゼーションによる行き過ぎ」が明確になりつつあるからです。

 分かりやすい例としては移民の問題があります。グローバリゼーションにより世界の国境の壁が低くなったことは良い側面もあったのですが、残念ながら「移民」と言う貧しい地域から裕福な地域への一方的な人の流れを生み出してしまいました。(そうではない優秀な移民も多数いますので、あくまで「一般論」です。)僕は個人的に、各国の人間はその生まれ育った地域を改善するための努力をすべきものだと考えています。戦争や紛争による「難民」は批判できませんが、ただ裕福な地域へ移りたいが、自分は変化も努力もしたくないと言う身勝手な移民には賛成できません。それは混乱を極めるヨーロッパを見れば明らかなことであり、「人の移動を自由にした」結果貧しい地域から一部の都市への一方的な人の移動が発生しており、パリやロンドンに貧困層がなだれ込んだ結果それらの都市の治安は悪化し、地域の文化の良さが損なわれ、元からにそこにいた人々の不満を招き、それが失業者の増加、差別意識の拡大、テロリズムの発生、ナショナリズムの激化、そして更なる移民との衝突と、悪循環を繰り返すばかりの結果となっています。富が配分されるどころか一部の地域が一層豊かになり、貧しい地域はさらに貧しくなると言う逆効果も生み出してしまいました。もともと「理由があって存在していた国境」を消滅させた事は、理想のみを夢みて副作用を考慮しなかった結果の失敗であったと言わざるを得ないでしょう。

<移民排斥デモは過激化の一途を辿る>

 また国家に限らず、全ての地域を画一化しようとする試みも悪影響しか生まないと考えられます。例えば日本国内では全国に新幹線と高速道路が整備された結果、地方にあったエネルギーやビジネス、人材が全て東京に吸われる結果となり、地方経済はもう虫の息と言える状況です。これは本来、地方は地方の特色を生かして発展させるべきであったところを、全ての地域が東京と同じインフラ、東京と同じ箱物、東京と同じ生活を求めた結果の失敗であり、新幹線や高速道路自体が悪かった訳ではありませんが、全国が東京化すればその地域の特色や魅力が失われ、その状況においては東京に勝てる要素は一切なくなるのが当然であり、それなら若者が東京へ行きたいと考えるのは至極当然の結果です。地方は「東京と同じになること」を求めるのではなく、「東京にはない魅力を磨く」事に気付くべきと言えます。近年では一部その点に気づいた地域も見られるようになり、農村の原風景や古民家を活用したビジネスが成功する事例も多くなって来ました。地方の発展とは本来、そうあるべきものです。地域の特色と伝統を守りそれを生かすことが、長い目で見たときにその地域の利益となるはずです。

 同じことがグローバリゼーションにも言えます。世界中のレストランがマクドナルドになり世界中のカフェがスターバックスになれば、こんなにつまらない世界はないでしょう。マクドナルドやスターバックスはそれはそれで価値のあるものではありますが、地域性・文化性をその国が失ってしまえば、全ての活力と人材はアメリカに吸われるだけの結果となることでしょう。当然ですが、マクドナルドとスターバックスしかない国や地域へ旅行をしようと考える人などほぼ存在しません。地域性を失うことは結果として、その地域から人がいなくなり、訪れる人もいなくなり、経済が立ち行かなくなりお金が落ちることも無くなります。地域性を消滅させることはニューヨークや東京のような場所以外にとっては自殺行為以外の何者でもありません。地域性や伝統を重んじることは、全ての国と地域にとって非常に大切な事であると言えるはずです。

 またグローバリゼーションとはこれまで、「特定の思想を他文化に押し付ける」ことでもありました。いくら西洋社会が現時点でまだ最も発展しているとは言え、私たちが不完全な人間という存在である限りは、特定の思想が100%正しいと言う保証は100%あり得ません。西洋社会がその思想を持って世界を標準化しようとした結果生み出されたのがテロリズムであり、テロリズムが悪である事は疑いのない事実ではありますが、本来その原因は特定の考え方を他文化や他宗教に強要しようとした事が原点と言えます。「1つの思想こそが理想である」と考えるのではなく、「自分と他人は異なっているのが当たり前である」ことを全ての世界市民が理解をしない限りは、世界から戦争や紛争、テロリズムが無くなることは決してないでしょう。

<テロリズムとは特定の思想を強要した結果の宗教戦争>

 身近な例に話を移すなら、日本の調査捕鯨に対する民間団体のテロ行為は最たる例です。そもそも鯨の生態系が破壊されたのは欧米諸国の乱獲が原因であり、その状況を生み出した立場から他国に急に捕鯨禁止を要求するのは非常におかしな話です。生態系を守ること自体は正しいと言えますが、もしそれが生態系に影響を与えない範囲内で行われているものであるならば、「鯨は賢い生き物だから食べるべきではない」と言う主張には合理性が無く偽善でしかありません。それは逆に言えば「賢くない生き物なら殺しても構わない」と言う主張であり、「賢いかそうでないか」によって生殺与奪を決定することは人間という生き物のエゴでしかありません。オーストラリアでは「人に害があるから」と言う理由でカンガルーが虐殺されていますが、一方で「鯨は捕獲するな」と言うのであればそれは人間の身勝手な欲望でしかないことは明確です。環境や生態系の保護と言う明確な理由がない限りは「他国の文化に他国が口を出すべきではない」とするのがあるべき姿と言えます。

 結論として、グローバリゼーションの最大の失敗と言うのは、「地域や文化の多様性を殺して1つの理想による画一化を図ろうとしたこと」です。元々異なる場所を無理矢理一体化すればその中で衝突が起こるのは当然の結果であり、特定の思想を押し付けることもやはり衝突と反発を招くだけのことです。経済や技術がグローバル化しても、地域性や文化とは画一化してはならないものですし、その点に関してはグローバル化を追い求めてはならないものです。地域性、文化そして伝統を維持することで初めて「その地域にしかない魅力」が生まれ、その事が最終的にはその地域の持続的な発展にも繋がります。全てを世界基準にすれば良いと言うものでは決してありません。

 全ての人が異なるお互いを理解し尊重すること、つまり「違いを受け入れること」で初めて、戦争や紛争、テロリズムは減少するものであると僕は考えています。そしてそのような「真の多様性を実現すること」と「共通語を話して他文化を理解すること」は決して矛盾することではなく、むしろ相互の違いを理解し尊重するために必要な事であると思います。

 日本にも多くの外国人が移り住んで来る時代となりました。それは人口が減少する国では避けられない事なのかも知れませんが、日本人は日本人としてのアイデンティティを失う事なく、それと同時に異なる文化も受け入れる事が出来る平和な国となる事を願うばかりです。そして私たちが日本人として生まれた以上はその母国と文化を大切にし、少しでもより良い日本の実現を目標に努力して行くことが私たち1人ひとりに課せられた使命であるはずです。(国のために働けと言う意味ではありません。より良い社会を実現するために、マナーを守ったり違いを尊重するなど、自分に出来る範囲のことをしましょうと言う趣旨です)。そして世界のモデルとなれるような日本を実現することで、世界の多くの国々へと貢献することも忘れてはなりません。

<平成天皇は最後の誕生日に「我が国に来て仕事をする人々を、社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています」と述べたそうです>

SSEAは英語と世界の多様な文化や価値観をお伝えすることで、そうした多様な社会と平和を実現できる日本と世界を創造することを目指しています。そして英会話を学ばれる方お1人おひとりに、そのストーリーの主役を務めて欲しいと願っています。

イノベーションとは何か

 “innovation”は日本語では「革新」を表す言葉です。ざっくり一般的に言うと、それまでに無かったアイデアで何かを劇的に、あるいは根本的に変える行動や発明のことを指します。

 では、”innovation” とは完全に新しい概念によるものなのか、と言うと、実はそうではありません。それらは実際は、ほんの些細な「気づき」によって生まれるものです。

 身近なスマートフォンを例に挙げてみましょう。Appleのスティーブ・ジョブズが生み出したiPhoneは、それまでの生活やアイデアを完全にひっくり返したイノベーションであることは間違いありません。「スティーブ・ジョブズは天才だった」と言う人は世界中に数知れず存在します。しかし、ジョブズのアイデアとは実は、本当に小さな発想の転換でした。そしてそれは彼にとっては、実は非常に当たり前の結論だったはずです。

 Appleが2007年に世界初のスマートフォンである初代iPhoneを発表する以前から、類似の製品は僕が大学生であった2000年前後の頃にすでに、日本には存在していました。当時のガラケー(フィーチャーフォン)は既に、インターネットへの接続機能とソフトウェア(アプリ)の追加機能を持っていました。ガラケーにゲームをダウンロードしてプレイしていた方も多かったのではないでしょうか。ネットへの接続機能とソフトウェアの追加機能は、今日のスマートフォンとほぼ同じアイデアです。もちろんカメラも既に搭載していましたし、一部の機種は電子マネー機能すら有していました。ただしそのアプローチはあくまで、「携帯電話にコンピューターの機能を加える」と言うものでした。なぜならその当時の携帯電話は電子機器メーカーではなく、通信キャリア(携帯電話会社)が主導して開発をしていたからです。

 ジョブズが考え出したのはシンプルに、これと逆のアプローチ「コンピューターに携帯電話(通信機能)を追加する」、と言うアイデアです。この逆の発想がそれまでの携帯電話をすべて駆逐する絶対的な差となったのですが、アイデア自体は「完全に新しいもの」ではありません。それまでに存在していた技術に「反対からアプローチした」と言う本当に小さな気づきです。それはAppleと言う「コンピューターの会社」をしていたジョブズにとっては、至って自然な気づきだったに違いありません。ただそれを「1番最初に実行」しただけのことです。しかしこの気づきを「実行した」ことこそが、”innovation”と呼ばれるべきことです。気づくだけなら、遅かれ早かれ何人もの人間が出来たことでしょう。その意味ではジョブズは「天才」ではなく「実行者」だったと僕は考えています。

 Amazonのネットビジネス、SNSのfacebookやtwitterにinstagram、Google検索もすべて同じ事です。彼らはそれまでの社会から得たアイデアを「誰よりも先に実行した」からこそ、イノベーションを起こす事が出来ました。「気づき」は絶対的な差を生むものですが、気づくこと自体はそれらの人間のみに可能だった事では決してありません。気づかなければもちろん何も生まれませんが、それを「先に実行した」ことにこそ真の価値があるものです。

 歴史上の革新は全て、気づいた後の「行動」から生まれたものです。重力の概念はニュートンが「物が落ちるのは、地球が引っ張っているのではないか」という気づきを「研究した」からこそ成立した理論ですし、コロンブスによるアメリカ大陸の発見は「地球を反対に向かって進む」ことを実行した偶然の産物です。宇宙が回っているのではなく地球の方が回っているのだと言う地動説は、ガリレオが研究を進めるはるか以前の紀元前から、「地球が宇宙の中心ではない」と言う説が存在していました。ただそれを立証出来たかどうか、という「行動の差」です。気づくこと以上に、それを実行した事にこそ”innovation”がありました。

 「気づく」ことは簡単なことではありません。常識を疑うことが出来るのは、ごく限られた一部の人間のみに可能なことです。しかし、それに気づくことが出来る人間とは実は1人ではないのです。ただしそれを「最初に実行するのは、歴史上に必ず1人しかいない」と言うことです。この実行を最初に成し遂げた人間にのみ、”innovation” の称号が与えられます。

 気づくだけ、考えるだけでは何も生まれません。そのアイデアが正解であろうが不正解であろうが、実行して初めてそれは価値あるものになります。1つの成功とは10,000の失敗からこそ生まれるものです。

 失敗を恐れず、何事も挑戦してみましょう。世界には「やる」と「やらない」という2つの選択肢しかありません。例えばみなさまが英会話の勉強を「実行して」新しい自分の価値を作り出せたなら、それはみなさまの中の小さな、しかし確実な”innovation”です。どんな変化でも、成功のファーストステップとは最初は本当に小さなもののはずです。しかし初めはわずかな変化であったとしても、それを進めて行くことで最終的なイノベーションとなります。一方で、もし何も行動に移さなければ、当然ですが世の中にもみなさまにも、何の変化も訪れません。イノベーションとはそれまでに無かった事を実行に移すこと、それは前例がないので

「やってみなければ、分からない」

“Do it, or not?”