旅行記・英語学習記事

代表講師のブログです。海外での出来事や留学の体験、異文化コミュニケーションや国際関係について書いています。不定期の更新ですが、ぜひお読みください。

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八方美人は、実は誰にも優しくない

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八方美人は、実は誰にも優しくない

 この記事は一見、英会話の学習には関係なく聞こえるかも知れません。しかしこの内容は国際社会でコミュニケーションを図る上では非常に大切なことで、英会話を学ぶ全ての方に知っておいて頂きたいと僕は考えています。

 国際社会でのコミュニケーション、英語でのコミュニケーションでは、「自らの意思や意見を明確に伝えること」は非常に大切です。日本では「察する事は美徳である」ような風潮がありますが、文化や考え方の異なる外国人とコミュニケーションを取る上でこの考え方は全く通用しないばかりか、意思を伝えないことはコミュニケーション自体を放棄しているとみなされる事もあります。文化として日本の中でそれが美徳であること自体は否定しませんし、国内ではそれで良いと思います。しかし残念ながら、それはあくまで国内の同じ日本人同士でしか美徳にならないことです。外国人とコミュニケーションを取る上では、意思を伝えない事はただの失礼にしか当たりません。

 また同様に、「空気を読んでただ合わせること」も国際社会では軽蔑の対象にしかなりません。それは自分の意思を明確にしない事で「自分だけを都合よく守っている」とみなされるからです。意見を言わないことは自らの身を守るための逃避であり卑怯な行動でしかないのが、考え方や価値観の異なる相手とのコミュニケーションにおける評価であり現実であると言えます。

 このような行動を身近な例で上手く理解するのに役立つ好例が「八方美人」です。誰にも優しく、波風を立てるのが嫌いで、全ての人に親切にして、自らの意思や意見を持たない、または言わずに隠している。このような行動は一見「優しい人、思いやりのある人」のように見えます。しかし歴史の中で「八方美人」と言う表現が生み出されたこと自体が象徴するように、実はこのような行動こそが「全ての相手に最も優しくない」のであり、「実は自分だけを大切にしている欲である」と言えます。

 価値観の異なる国際社会を例に用いなくても、身近な範囲でAさんとBさんの意見や考え方が異なると言う事はいくらでもあります。そうした際に波風を立てるのを避けてAさんにもBさんにも一見優しいような言葉や態度を見せれば、結局のところその人間はどちらからの信用も失います。AさんとBさんに反対のことをその場しのぎで言えばただの嘘つきですし、どちらに対しても意見を示さなければ当然どちらからもその場だけ都合の良い人と評価され、信用されることはまず無いでしょう。これが典型的な「八方美人」の概念です。「全ての人に親切にしよう」とすれば、「全ての人からの信頼を失います」。そしてそれは「全ての人を裏切っていること」と同じです

 厳しいように聞こえるかも知れませんが、英語で外国人とコミュニケーションを取るならば「自らの意見と立場を述べられること」と言うのは最低限の礼儀でありマナーです。「自分自身を持っていない人」と言うのは、国際社会では全く相手にもされません。自らの中身を包み隠さず明確にすることで初めて、その価値観や文化の異なる相手に認められ信用を受けることが出来ます。これは言語のスキルが高い事よりも、遥かに大切なことです。自らの意見や意思がなくただ誰にでも親切に良い顔をしようとすれば、誰からも十分に信用をされることはないでしょう。自らはどのように考えていて、自らはどのような価値観を持っていて、自らはどのような立場で、その考え方に沿ってどのように行動をしているのか。これは英語でのコミュニケーションに限らず、今後の国際社会で異なる価値観と接して行くためには必ず持っていなければならない「強さ」であり「真の親切であり優しさ」であると僕は考えています。

 もちろんその上で、ただ自らの立場に固執して相手を否定すれば良いと言うものでは決してありません。合わせるのではなく「お互いの違いを確認してその違いをまず認め合い」、そのことを認識した上で「どう歩みよって共生出来るのか」を考える必要があります。もちろん相互に必ず譲れないこともあるでしょうし、無理に片方が片方の価値観を強制することは衝突を生むだけです。一定の距離を保って「許容し合う」ことが大切です。

 しかしながら、全ての相手に良い顔をしようとする「八方美人」は、まずその相互の違いを認めると言う段階に辿り着くこと自体を放棄しているのです。それは他人との違いを生みたく無い、認めたくないと言う点において「最終的に自分だけが可愛い」のであり、一見優しいように見えて「全ての相手に対して最高に冷たい」行動となります。「察することが美徳」「空気を読んで合わせる」事を良しと考える日本社会は、それは国際社会では全く通用しない「最も失礼で親切でない行動」であることを理解する必要があるでしょう。

 日本社会の「他人の気持ちを推し量る」こと自体は世界に誇るべき最高に価値あることだと僕は思いますし、人の気持ちや立場に立てないのであればそれはただの自己中心でしかないでしょう。しかしながら人の気持ちを推し量る事が出来るなら、その推し量って理解したことを基にして自分の考えを持って明確に意見を発する事が大切です。「推し量った結果何もしない」ことは結果として、自分だけを大切にして全ての他人を傷つける結果となります。あちらにもこちらにも良い顔をしようとするような国が、他国からみて信頼をされる事はあり得ません。他国の状況や気持ちを推し量りながら、自らの明確な意思と立ち位置を持つことが大切です。

 英話を話すことで「異なる存在を理解しようとする姿勢」「自分がどう考えるかを常に発する能力」を養い、その意思を持って明確に行動を取ることが出来る今後の日本であって欲しいことを私たちは切に願っています。世界にはまだ、解決すべき様々な問題があります。大切な価値観や社会システムを育んでいくことは世界の全員の義務であり、侵略や虐待を見過ごすことは全ての人の共犯となります。時に制裁が必要なことは、親が子供を怒る必要があること、警察官が銃を持っている必要があること(使えと言っているのではありません)、社会に刑罰が必要なことと同じです。常に優しければ、波風を立てなければ良いと言うものでは決してありません。八方美人であること、罪を見過ごすことは、「誰かを不幸にすることを手助けしている」事だと言う事を、私たちは知っておく必要があります。

 「自分の国さえ良ければそれで良い」と言う内向的な考えから脱却し、衝突することを恐れず世界を変えて世界に貢献出来る、そのような日本の更なる成長とその未来を担って行く一人一人のみなさまを、私たちのスクールが少しでもお手伝いが出来たら幸いです。より良い世界を実現することこそが、周り回ってより良く平和な日本を実現することです。見過ごすことや何もしないことはいつか、必ず自らの身にマイナスとなって戻って来ます。

 みなさまは日本と世界の未来に何を望むでしょうか。もし望む未来があるならばぜひ、事なかれ主義や八方美人に逃げることなく「自らの意思を持って意見を発信」してみましょう。例え失敗や意見の衝突があっても、その1万回の失敗と挑戦こそが1つの大きな成果を必ず生み出します失敗が無ければ成功とは絶対に生まれ得ない、僕はそのように考えています。私たちの世界と未来は、私たち一人一人が少しずつ変えることができます。それは全て私たち次第なのであり、同時に全ての私たち一人一人の責任でもあります。それならば目をつぶるよりも、より良い未来と世界を実現する方が良いに決まっています。

日本から世界を変えに行きましょう。主役は、あなた自身です。

Sweet to everybody means not sweet to anybody.

人気の高いラーメン屋ほど「お支払いは現金のみ」が合理的であるのはなぜか

 海外の人と触れ色々なことを比較する中で感じるのは、日本人は「マネーの話に恐ろしく疎い」という点です。その是非はまたいつか触れるとして、今後の子供たちはやはりそのような知識も必須になって来ますし、世界を相手に戦っていくには避けられないスキルでもありますので、本日のブログ記事はあまり英語やコミュニケーションとは関係はないようにも見えますが、日本人として無意識に常識として信じてしまっていること、あるいはそう錯覚させられてしまっていることを「常識の殻を破る一歩」として書いてみたいと思います。この気づきの一部は僕も、海外での経験から日本を見たときに初めて辻褄が合ったものです。

 キャッシュレス全盛にも思われる今のIT化時代、クレジットカードや電子マネー、バーコード決済が使えないなんて合理的でない、単純にそう思ったことは無いでしょうか。僕も20年前に米国でスピード違反で捕まった際に、その罰金の支払いがクレジットカード1枚で済んだことに感動を覚えて「アメリカはやっぱり何でも進んでいる」、そう思ったものです。

 しかしながら最近、様々な知識も増え以前よりもっと多角的な方向からものごとを考えられるようになって、改めて新しい気づきとして逆の方向へ考え直したことがあります。日本でもコロナ禍もありキャッシュレスや非接触の導入が当然との空気も漂う中でも、「人気のあるラーメン屋さんほど、実は現金しか使えない」という事実から学んだことです。

 これは消費者側から見れば単純に「不便だ」「時代遅れ」としか見えないかも知れませんが、そのようなお店ほど本当は価値が高い事には、実はれっきとした合理性があります。「人気が高い事にあぐらを書いている殿様商売だ」と感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、自らビジネスを興してみたからこそ僕がいまハッキリ言えることは、「現金しか使えないラーメン屋ほど、商品の価値が高く訪れるべき店であるのは間違いない」ということです。

 この理由を理解するためにはまず「日本の金融事情」と「ラーメン屋と言うビジネスモデル」の2つを、その構造や競争環境も含めて理解する必要があります。

 まず日本という国の金融事情からひも解いて行くことにしましょう。「日本の金融手数料は高い」という話は、経済やマネーに詳しい方ならどこかで耳にした事があるかも知れません。銀行の振り込み手数料もそうなのですが、まずは消費者にとって身近である「クレジットカード」の仕組みを例にして順に見て行きたいと思います。ここの原則は、QRコード決済や電子マネーでも基本的には同じです。 

 現金を使ってもクレジットカードを使っても「支払額は同じはずだ」、そう思っている方がほとんどかと思いますが、実は仕組みとしてはまったくそうではありません。クレジットカードは消費者は年会費を除いて手数料なしで使用できる決済手段ですが、では誰がその手数料を負担しているかと言えば「クレジットカード加盟店」、つまり支払いを受け付けている店舗や組織になります。つまりクレジットカードは「無料で使用できるものではない」のであり、そこにはしっかりと支払いごとに金融手数料コストが発生しているのです。カード会社も民間企業であり、システムや広告に多額の投資をして従業員には国内平均よりもかなり高額な給与を支払っていますので、その使用にコストが発生するのは、よく考えて見れば当然と言えば当然です。

 この「加盟店が負担する手数料」は個別の契約にもよりますが、一般的に海外では2%程度であるところ、日本では「平均で決済額の3%強」と言われており、零細加盟店なら4%~5%に上ることもあります。決済金額に対するこの一定の割合の決済手数料はカード会社の収入となり、その手数料を差し引いた金額が後から加盟店に払い戻されるのが、近年シェアを拡大しているQR決済を含む、一般的な「キャッシュレス決済」の仕組みです。さらに、この一定の手数料とは別に、決済回数に応じた取扱い手数料が設定されている事もあります。加えて、加盟店にはオンライン決済を行うための機器の導入あるいはリース費用、その機器をオンラインにしておくための通信コストなども必要となって来ますので、キャッシュレス決済を行った場合の加盟店の最終的な負担割合(ここでは、現金決済と比較した際の損失割合)は、最低でも5%から、場合によっては10%近くにもなります。

 例えば、ある飲食店で800円の決済を行うと仮定してみましょう。飲食店の場合、この「800円」という価格には様々なコストが含まれていて、原材料費や調理のための光熱費はもちろん、店舗の家賃や従業員の人件費、事業にまつわる広告費や税金までを総合的に計算して、それで飲食店にも最低限の利益が残るように価格を設定します。もちろんお店にもよるかと思いますが、特にお酒を伴わない外食に関しては、最終利益で売上高の10%を見込めるレストランはそう多くはないでしょう。あのマクドナルドでさえ、ハンバーガーではほとんど利益がなく、収益の大半は実は飲み物とフライドポテトからと言われています。ここでもし800円の飲食の利益率がお店側で10%に設定されていたとして、現金で支払われる場合はお店は80円の利益を得る事となりますが、これがクレジットカードで決済された場合は利益はほぼゼロとなり加盟店としては働き損であるばかりか、キャッシュレス決済はその支払いが後日に入金される仕組みであるため、下手をすれば「ただカード会社に1ヵ月程度、利息なしでお金を貸すためだけに食事を提供した」ことになります。ですので飲食店の多くが食べ物だけではなく「飲み物を勧めて来る」のは、利益率の高い飲み物で収益率を整えるためにやむを得ないことだと考えられますし、欧米ではレストランでは飲み物を最低1杯はオーダーするべきとの文化があるのは、マナーの話を越えて、ビジネスモデルの裏にある利益率が影響をして来たのは間違いないでしょう。それは欧米の消費者からはレストランに対する敬意であると同時に、そうしてもらえなければそもそも外食産業とは「成立できない」のです。

 みなさまもレストランを訪れた際に「ランチではクレジットカードは使えません」と言われたり、「カード利用は3,000円以上からになります」と言われた経験が、1度はあるのではないでしょうか。「同じレストランなのに、なぜ場合によって違うのか」と思われるかも知れませんが、不思議に思った時にはレストラン側の視点から考えてみてください。これは金融手数料の仕組みを考えれば非常に自然な結果であり、少額の決済をカード払いにされてしまった場合、利益率の薄いビジネスはもうその商品を提供する意味そのものが無くなってしまうのです。そして皮肉なことに、利益率が薄いことは消費者に負担を押し付けないという経営努力の裏返しでもあります。

 僕が以前にモロッコを訪れた際には次のような経験がありました。お土産屋さんでカード払いをしようとしたところお店の店員さんの態度が急変して、「カード払いなら値段は5%アップになる」と言うのです。若かりし僕は当時は「そんなバカな」と思ったものですが、今になってよくよく考えてみれば当然のことでもあり、そのお店の定価には本当に、現金払いを前提とした最低限の利益しか入っていなかったのでしょう。その際は結局現金払いとしましたが、実は同様の例は日本にもあります。税金や公共料金の支払いをカードで支払おうとすれば、国税や都税の支払いサイトでは税額に加えて「決済手数料」が上乗せされる仕組みになっています。税金とは必ず決まった額を集めなければいけないことから結果的にこうなるのですが、いずれにしても真実としては金融決済コストとは「無料ではない」のであり、カード払いやキャッシュレス決済で現金と同じ価格を支払っているように消費者の立場では感じても、実はその価格には「手数料のためのコスト」もあらかじめ上乗せされています。そのため逆に考えれば、現金とカード払いで価格が同じ場合は「金融決済の分の余分なコストはあらかじめ価格に入っているのだから、現金払いをした人は純粋に少し無駄な費用を払っている」と考えることもできます。

 日本では「キャッシュレス決済が進まない」と声高に言われていますが、その根本的な原因は「日本人の現金信仰意識」とか「高齢者が多いから」とか、そのような精神論的な話では実は全くなく、この「金融決済手数料が他国に比べて高い」ことが最大の原因です。他国ではカード決済でもコストの上昇幅がトータルで2%程度に抑えられる場合もある一方で、日本ではこのキャッシュレス決済による損失額の割合が最大で10%近くにもなります(決済事業者との契約条件やビジネス環境にもよりますが、決済回数の少ない零細加盟店ほど手数料の利率が高くなると考えるのが妥当です)。これは国内の金融決済システムや銀行にも構造的な問題があり、キャッシュレス決済の決済手数料に留まらず、それが加盟店に入金される際には「銀行間送金手数料」も最終的に必要になるからとも言われます。近年この「銀行間送金手数料」はなんと半世紀ぶりにようやく引き下げられたものの、それでも根本的な問題は同じままであり、日本社会では見えないところで国民全員が金融事業者と銀行を社会インフラとして無意識かつシステム的に支えてしまっており、この高額な決済手数料と銀行間送金手数料が、加盟店のキャッシュレス決済導入を妨げている原因となっています。この環境はビジネスの視点から見ると、キャッシュレス決済を導入することにデメリットが多すぎて「加盟店は合理的なメリットを見いだせない」状況と言えます。

 さて、金融の話が長くなってしまいましたが、ようやくここでラーメン屋の話へ入って行きたいと思います。なぜ人気のラーメン屋ほどキャッシュレス決済を導入しないのかと言えば結論は非常にシンプルで、「ほとんどが零細業者である人気ラーメン店がキャッシュレス決済を導入すれば、競争に簡単に負けるから」です。これは「ラーメン屋というビジネスはコストパフォーマンスを極限まで追求したものである」ことに大きく関連しています。 

 みなさまもだいたいイメージをお持ちだと思いますが、人気のある高級ラーメン屋でもその基本的な価格は1杯1,000円未満に抑えられていることが一般的です。そしてラーメン屋ではこの低価格でラーメンを作るのに、信じられないほどの時間と手間、多くの材料が注ぎこまれていて、ラーメンとはコストパフォーマンスでは他の料理の追随を許さないほどに価値のある食べ物と言えます。多くの材料費がかかる料理で、他のコストを抑えると同時に販売量を確保する必要もあることから、店舗は1人または2人といった超少人数で業務を回していることが多く、食べたらすぐに出て行ってもらうことで回転率を確保する必要もあります。ラーメン屋で「1人1杯は必ず注文を」「小さなお子さまのご入店はお断りします」という貼り紙をご覧になったことがある方がいらっしゃるかも知れませんが、これは極限まで回転率を高めて効率的に販売量を確保する必要がある競争環境を考えると、もちろん良い気持ちにはなりませんが、理解できる部分があるのも確かです。そうした「極限の効率性」を維持しなければ、ラーメン店とはビジネスそのものが「環境的に成立しない」からです。

 さて、みなさまももうお察しかも知れませんが、このような「極限の経営努力」が求められる競争の激しいラーメン業界でキャッシュレス決済を導入しないことは、彼らにとっては「完全に合理的」なのです。国内ではキャッシュレス決済により最大で10%程度のコストが上乗せされてしまうため、単価が1,000円未満のラーメン屋では現在の価格設定では単純に赤字になってしまうか、価格そのものを値上げする必要が出て来てしまいます。ご存じのようにコストパフォーマンスを極限まで高めて競争しているビジネスですので、10%の値上げはそのまま「競合店に負けて店をたたむしかない」ことを意味します。

 そのため、おいしいラーメンで集客したいとの考えで経営をしているラーメン屋であればあるほどキャッシュレス決済にコストをかける合理的な理由はまったくなく、もしそのコスト分の余裕があるなら、むしろもっと質の高い材料を使ってラーメンを作ることで、お店の価値をより高めようとするはずです。これが僕が「お支払いは現金のみであるラーメン屋ほど、美味しいラーメンを作れるはずだ」と考える理由であり、そこには精神論やカルチャーの問題ではないラーメン業界特有の「合理的かつ明確な理由」があり、もちろんラーメン屋さんの個々のポリシーや信念の問題でもなく、経済合理性に照らした「マネーの取り扱い方」に理由が存在しています。「どんな人気店でも10年経てば飽きられる」とまで言われるラーメン業界で、キャッシュレス決済という「無駄なコスト」を店舗がかける理由は、どこにもないのです。僕が自分ならどちらを選ぶかを「消費者の立場」から考えてみても、クレジットカードで払えるけど味はまあまあで900円のラーメンより、現金しか使えなくても同じ900円で「これは美味しい!」と感動できるようなラーメンを提供するお店を必ず選ぶのは間違いありません。

 ただしこの「キャッシュレス決済はビジネスにとってメリットがない」ケースは特定のビジネスモデルに限った話であり、高い取扱い手数料をかけてでもキャッシュレス決済にした方が合理的にメリットがあるビジネスも、たくさん存在します。たとえばECの店舗やオンラインビジネスはそもそも現金を受け取るための実店舗を持ちませんので、専用の支払い場所を設けて人間を置いておくよりはすべてオンライン決済にしてしまった方が、むしろ商品やサービスを安く提供できるでしょう。商品を全て定価で売っていて利益率が高いコンビニなども同様で、利益率がそもそも高いこと、どこも同じ商品を売っていて差別化ができないため支払い利便性も大切であること、膨大な量の現金の入出金や運搬に逆にコストがかかることから、現金の取り扱いを減らす方がより効率的なサービスや商品を提供できるでしょう。単価が高い高級レストランや高級品を販売するお店も同様で、1回で大きな利益を出せることや高額な現金を持ち歩く人は少ないことから、やはりキャッシュレス決済にした方が合理的なメリットが大きくなると考えられます。

 なぜかイメージ優先で消費者にとってどちらが便利かとの視点からだけで語られがちな「現金かキャッシュレス決済か」の問題ですが、僕としてはむしろこのように冷静に「どちらの方がマネーや商品の価値に大きなメリットをもたらすか」という合理的な計算をベースとして総合的に考えてみるべきかなと思います。そのような視点を持つことで、少なくともラーメン屋さんのように「本当に価値のあるもの」をより確実に選ぶことができるようになるでしょう。

 日本人は真面目な民族性であることと、他者の話を受け入れやすい集団的な性格であることから、「何事も完璧でなければならない」「便利にしないことは怠慢だ」「新しいテクノロジーは良いはずだ」「そうするのは時代の流れだ」と精神論的な視点で考えがちですが、他国へ行ってより多角的な例を見てものごとを考えると、「本当に合理的なこととは実はそうではなく、最終的に残るマネーの問題として捉えるべき」ということに気づかされる事があります。僕が海外で気づいたこととは、全てが完璧であることは無駄なコストを生むだけであり、実は損失の方が大きいという点です。ビジネス用語にも「選択と集中」という言葉もありますが、僕としては必要なものとそうでないものを冷静に仕分けて価値付けや優先順位付けを行うと言う「完璧を目指さないことの合理性」により、日本の社会や経済はもっと良くなるのではないかなと思っています。

 まったく種類の異なる話にはなるのですが、かつて「世界一の品質」を誇った日本のソーラーパネルが、なぜ世界のマーケットで敗北する結果となったかを振り返ってみたいと思います。10年以上前とかなり昔の話にはなるのですが、当時日本のソーラーパネルの発電効率は世界一で、他国のメーカーの追随は許さないほど優れていました。

 では、なぜそのような素晴らしい商品がシェアを失ったかと言えば単純で、消費者に合理性を提供できなかったからです。日本のソーラーパネルが最高品質を誇った時代、競合メーカーであった海外メーカーはこう考えました。「80%の発電効率でも、価格が50%なら勝てるだろう」。

 これが完全に合理的にマーケットにヒットして、日本製のソーラーパネルは世界の市場で駆逐されることとなりました。よく考えれば単純な話で、効率80%のパネルを2枚購入すれば価格は同じ、しかし総発電量は160%になるのです。この競争において、高品質だけど価格が高すぎるパネルを買う人はいません。単純に「オーバースペックで高いだけ」になってしまったのです。

 このように、完璧を目指さないことによって合理性が高まるケースはいくらでもあります。例えば、僕が米国ロスアンゼルスを訪れた当時、市内を走るメトロにはなんと「改札がありませんでした」。

これは「信用乗車方式」と呼ばれるもので、海外の地下鉄や鉄道には結構あるパターンなのですが、全てをチェックしなくても乗客は一定の割合でチケットを買うだろうとの「信用」をベースに、買わずに乗車する乗客分の損失は最初から諦めることと引き換えに、自動改札機や係員、システム構築を省略することでコストを大幅にカットする方式です。「そんなことをしたら誰も払わないだろう」と感じるかも知れませんが、そこはちゃんと対策も施してあり、「稀に」出口に警察官が立っていて、チケットを持っていない乗客は高額な罰金を課される仕組みになっています。米国ではスピード違反の取り締まりも「一番速く走る車を捕まえる」のではなく、たまたま前にいた車が「少しでも速度超過したら捕まえる」ような感じになっていて、完璧な結果を実現するよりも人間の心理を利用して全体を「ある程度」抑制する方式によって、最終結果を合理化・効率化して社会の損失を減らしているのだなあと感じました。ロサンゼルスのメトロの出口で僕がその取り締まり警察官に遭遇した時、僕がちゃんと切符を買って持っており捕まることはなくホッとしたのは、必要ありませんが強調しておこうと思います(笑)(最初から1日券を買ったので、運もあったとは思いますが…)

 また、近年ではアフリカへの中国企業の進出が目覚ましいと言われていますが、中国製の商品の品質は良くなって来ているとはいえ、一部を除きまだまだみなさまが持っているイメージ通りであるのもまた真実かと思います。これは技術が追いついていないことや社会の怠慢といった要素もゼロではないのでしょうが、実は「低品質で良いのだ」とビジネスとして意図的に割り切っている部分があるのではないかと僕は考えています。

 先日、アフリカでまだ開通もしていない中国製の橋が崩落したとのニュースがあり驚いたのですが、アフリカの人々はそれでも「ああ、中国製だからね。壊れたらまた作れば良いのさ」と笑いながら言っているのです。おそらく先進国の価値観では理解が難しいかも知れませんが、まだ発展途上であるアフリカではそれこそが合理的なのであり、アフリカには「100年壊れない橋」はまだ必要なく、むしろ10年も持たない橋であっても初期投資を抑えてとにかく建設することで、今後の発展の基礎を少しでも早く整える方が総合的には合理的なのです。中国のビジネスは、発展途上国の顧客にとって必要なことを先進国のビジネスよりもちゃんと理解していると言えるのかも知れません。いずれにしても、相手のニーズを理解しないまま自らの価値観を持ち込んでも、ビジネスとして成功しないことは様々な結果が証明しているかなと思います。

 さて、最終的にラーメンの話からだいぶ遠ざかってしまいましたが、本ブログの最終的な趣旨は「常識に捉われると、合理性は見えなくなることがある」という点です。私たちには無意識のうちに「正しいと信じてしまっていること」がありますので、その価値観を一度裏切らせることで、私たちは価値観をリセットし続けて行く必要があるのかなと思います。過去の成功体験は忘れて、そもそも生まれながらにして「人間そのものが不完全な存在であること」も変数として計算に加味し、自らの価値観や経験は完璧では無かったことを認める勇気を持って、相手の立場から物事を考えて見たときに、より正確な何かが再び見つかるものなのかも知れません。いつまでも子供のような冒険心や探究心を持っていることも、実は有効かも知れませんね(笑)

 正しさの基準そのものを考え直すことで、あなたの周りの世界や人生は、少し良い方向へ変えられるかも知れません。そうした価値観の基準そのものを変えてみるために、ぜひ一度、世界へ出かけてみませんか。

2つの”equality”:「機会の平等」と「結果の平等」

 みなさまこんにちは。最近は文字ばかりの記事になってしまい恐縮なのですが、本日は僕が組織を運営するにあたって常に悩みどころともなっている「機会の平等」(Equality of Oppotunitiy)と「結果の平等」(Equality of Outcomes)について、書いてみたいと思います。

 最初に結論のようなことを書いてしまうと、「平等」に関する問題には、完全な解決方法と言うものは、実は存在しません。そもそも「何を平等と考えるか」によって、大切にすべきことが変わってしまいますし、上記した「機会の平等」と「結果の平等」は、実は必ず相互に矛盾する(includes a mutual contradiction)存在だからです。つまり、私たちが平等な環境を実現するための取り組みというのは、実はこの「機会の平等と結果の平等の間の、どこでバランスを実現するのか」について、人々が自らの属性の利益を追求するための駆け引きとして行っているに過ぎません。どちらかの平等を追求すれば、もう一方の平等は損なわれる。残念ながら、それが人間が形成している社会と言えます。

 一般的には、私たちは「機会の平等」を尊重すべきだとほとんどの人が認識しています。国籍や宗教、ジェンダーや年齢に囚われず、全ての人が等しく機会を与えられるべきである。この概念だけを1つの視点から見た時には完全に正しいように見えるのですが、その裏には、ネガティブな副作用も隠されています。しかし、その副作用やネガティブな側面については、残念ながら昨今のメディアや学問で「主流の意見として」取り上げられることはほぼありません。

 僕自身も組織を運営していますので、機会の平等が限りなく実現されるような仕組みを社内に導入しています。日本人だけでなく、欧米を中心に多くの国籍のメンバーが働いていますので、出自やジェンダー、年齢ですら区別を付けずにチャンスがあるような「能力評価」のシステムにしています。頑張って結果を出した人こそがその分評価され報われる姿を日々確認できていますし、その新しい組織のあり方には一定の満足を感じています。日本でもようやく欧米型の「ジョブ型雇用」を取り入れる大企業も現れ始めましたが、SSEAという組織には少なくとも、従来の日本企業とはまったく異なった価値観と企業文化が存在しているのは間違いありません。幹部の半数が外国人ですし、その中には女性もチームの一員として参加しています。「頑張れば、出自や性別、年齢に関わらず、誰でも報われる」、それを当たり前のことにしたいし、そうすべきであるというのが、ここまでの組織作りの大前提として大切にして来た事でもあります。

 一方で、機会の平等を尊重するためなら「結果の平等はないがしろにしても良いか」ともし聞かれるとしたら、それもまた違うのかなと考えています。

 議論の余地はもちろんありますが、ものすごく単純に分けて考えるのであれば、これまで欧米社会、特に米国は機会の平等の実現を追求して来たのに対し、日本社会はどちらかと言えば「結果の平等」を大切にして来たように思えます。日本ではメンバーシップ型雇用(終身雇用:Lifetime Employment)によってほぼ全ての社員が退職までの生活とその後の年金を保証され、主に年齢と就業年数によって昇進が決められ(年功序列:Seniority System)、悪い言い方をすれば「頑張っても頑張らなくても、結果はあまり大きくは変わらない」のが、これまでの日本社会でした。みなさまも、まったく仕事をしているように見えない課長や部長を、どこの会社でも見かけたことがあるかと思います。極端に言えば、これまでの日本の社会では「真面目に頑張る人ほど、損をする状態になってしまっていた」ことを、日本企業で勤務したことがある方なら誰もが実感して来たのではないでしょうか。

 この点は海外と日本の社会を比較すれば、多くの側面で違いを確認することが可能です。近年は国内では「格差が広がった」と、まるでこの世の終わりかのようにネガティブに報道するケースが目につきますが、その状況を加味してもなお、日本はまだまだ他国と比べれば「他国と比較することが馬鹿馬鹿しいくらいに、圧倒的に格差が小さい社会」です。格差が広がること自体が良いのか悪いのかは後半で再度触れますが、事実としては日本ほど格差が小さすぎる社会は、世界広しと言えども、極端な福祉制度を持つ北欧くらいかも知れません。米国の投資銀行の駐在員として日本に滞在した日本支社のCEOが帰国時に述べた感想が

「日本は世界で最も大きな規模の社会主義国だ」

だった、との笑い話は冗談ではなく、社会制度や規制によって、本当に社会主義に近い状況に結果的になっていることを象徴したひと言だったのかと思います。少なくとも、海外から見ればそのように見えるのが日本の社会制度です。

 例えば、日本ではなぜか「学歴は大切なのか」という話題がたびたびメディアで繰り広げられますが、こんなことを真剣に議論するのは日本人だけではないかと思います。残念ながらこの点は国内メディアも井の中の蛙になっている(正確には、メディアだけでなく日本では読み手がそれを求めているからこそ、そのような趣旨の記事や番組が増える)と感じるのですが、日本人が学歴云々を議論する間にも、海外では日本以上の超学歴社会が繰り広げられており、大卒と高卒では人生は天と地ほどに変わってしまいます。欧米ではさらに、大卒どころか修士や博士の学位を取得することも当たり前のように推奨されており、大卒でも高卒でも平均年収の差が1.5倍にもならない日本社会は、世界の中ではむしろ「異常なほど格差を認めない社会」となっています。欧米ではスチューデントローンを組んで、借金をしてでも大学を卒業して働きながら返済して行くのが当然ですし、社会に出たあとでも、年間で1000万円の学費にも達する大学院へ戻るために数年間は働いて貯金をし、さらに高度な学歴取得を目指して人生設計を組み立てるのが普通です。

 また、日本の税の仕組みや社会保険なども、例外に漏れずに日本人の価値観を反映したものとなっています。所得税に関して言えば累進課税が設定されているので、例えば頑張って働いて年収が1,000万円に到達すると、その収入の約半分は税金と保険料で消えてしまいます(所得税や住民税だけではなく、健康保険料なども収入に応じて増減するため)。一見とても公平なように見えるのですが、ここでは頑張った結果は報われるべきという「機会の平等」よりも、収入が多い人はその分を他人に還元すべきとの「結果の平等」が優先されているのが、今の日本社会です。収入の半分を失うために、昼夜を問わずに必死に働いて何かを努力しようとする人が、果たしているのでしょうか。日本人はよく「集団のために生きている民族」と海外から揶揄されることがありますが、これは国民性だけではなく社会制度そのものもこうした目的を達成するための設計となっていることを、私たちも正確に知っておく必要があるでしょう。結果の平等を尊重する社会とは、反対に言い換えれば「努力を搾取している社会」でもあります。歴史上で社会主義や共産主義が失敗に終わって来たのは、結果の平等を追及すると誰も努力をしなくなり、社会と人間そのものが腐ってしまうからです。残念ながら人間とは、競争が無ければ怠惰になり腐る生き物であることは、すでに歴史が証明しています。

 さて、ここまで書いて来た内容を読んで「単純に日本を批判している」とお感じになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、実はそのような意図でこの記事を書いているのではないことを、一度立ち戻って確認しておきたいと思います。ここまで書いて来たことはあくまで比較対象としての「事実の羅列」であって、僕の意見や考えとは異なることです。むしろ冒頭でも述べた通り、「機会の平等を一方的に追求することには、罠もある」というのが、ここで本当に明らかにしたいことでもあります。

 先日、「ジョブ型雇用は実は欧米ではもう時代遅れのものなのに、日本は今から導入しようとしている」と書かれた記事がありました。これはまさに僕も同じことを感じています。ジョブ型雇用で、つまり能力のみを絶対かつ唯一の評価基準として組織を運営しても、そもそも人間には感情があり機械の部品ではないので、結果的には上手く行かないと、ここまでの組織作りの経験で僕も理解して来たことでもあります。ですのでSSEAでは、あくまで機会の平等を基本原則としながらも、結果の平等が損なわれ過ぎないよう、「バランスを取るための決定」も忘れないようにしています。純粋な弱肉強食だけではやはり、組織や社会は良いバランスでは成長しないと感じているからです。そのためSSEAではビジネス原則を基本としながらも、多くの企業では一般的に(どれだけ包み隠しても)絶対の正義とされている「利益第一主義」や「売上至上主義」は敢えて排除し、顧客満足と従業員のウェルビーイングを利益よりも先にまず実現すべきことに据えています。そこはおそらく、SSEAという組織が利益の最大化自体を組織のパーパスとせず、社会貢献をその存在価値としているからこそ可能なのかなと思います。欧米型の考え方やシステムを取り入れつつも、そもそもアメリカとヨーロッパとオーストラリアで既に相互にまったく異なっている価値観やシステムを常に比較し、日本の良いところも加えながら、「ベストミックス」して新しい組織の在り方を生み出すことをマネジメントの前提としています。いかに米国が世界の最先端であっても、米国のビジネスをコピーすることはここでは全く望んでいません。むしろ、米国を上回る良いものを実現するべきだと考えています。

 現在の米国での「社会分断」(Social Segregation)の深刻さはたびたびニュースで取り上げられていますが、それでも日本で普通に生活する方々がその深刻さを本当の意味で理解することは、非常に難しいことなのではないかなと思います。この社会分断の原因には「弱肉強食社会での階層化」が根底にあり、機会の平等を追求したいリベラル主義と、宗教に基づいた「古き良き」伝統的な価値観を維持したい保守的な中間層が、相互に話し合うことすらもはや不可能になってしまうくらいに対立を深めてしまった結果であると言えます。AなのかBなのか、白なのか黒なのかという、2択のどちらかを双方が「絶対正義」と考え、その選択を迫るような価値観が強まった結果、今のアメリカではおよそ人口の半分の人が「2030年までにアメリカは内戦に陥る」と感じているそうです。それが実際に武器を使った姿の内戦になるかどうかは分かりませんが、機会の平等を絶対の理念として追及して来た結果、米国は社会に大きすぎる格差と階層、対立・紛争と不理解を副作用として誘発して、社会がバランスを取るための機能を失ってしまっているように見えます。相互に対する理解や思い遣りを欠き、ただひたすらに相手を否定すること自体を目的とする前提の姿勢と議論では、社会がより良い姿を実現する事は不可能と言えるでしょう。格差が異常なまでに小さく、妥協や集団生活を重んじる日本人の価値観はその対極にあることから、日本人がこのような「社会分断と格差の現実」を本当の意味で理解し実感することは、ほぼ不可能なのではないかと思います。

 ただ、ここで確認しておきたいもう1つの事実は、これは本当に「残酷な社会の真実」だと思うのですが、「分断された社会や格差は、一部の既得権益や富裕層、国の経済や資本家にとっては、むしろポジティブ」だという点です。近年に「伸びている」企業や経済、あるいは国家では一部の大企業や資本家と富裕層の利益だけが物凄い勢いで増えていることがほとんどであり、こうした「経済の先導役」がいて初めて、国際競争に勝ち抜き経済や平均所得が向上するのが現実です。中国では「富めるものから先に豊かになれ」として社会の格差を容認した鄧小平による改革開放が現在の経済発展のきっかけとなり、米国であればGAFA、韓国であれば財閥企業(特に経済の20%を占めるサムスン電子)、台湾であれば世界の半導体の中心プレーヤーともなった台湾積体電路製造(TSMC)などのIT関連企業、シンガポールや香港であれば富裕層による金融と投資が経済を支えていますが、これは「国民全員が豊かになった」とのイメージとは全くに異なる姿の「発展」であり、どの国家や地域でも日本とは比較できないような深刻な格差問題と社会分断を抱えていますが、そうした面は国内で報道の場にあがることは非常に稀です。社会の上位10%~20%に富が集中する方が社会の平均値は素早く上昇するのですが、逆に考えればそれは社会の80%を形成する「苦しい庶民」の犠牲と、そこからの搾取によって成立している「平均値という名前の数字上の発展」でもあります。日本以外の国の経済の「平均値」を考えてみても、実は何も参考にならないことは、直接その国の人々と触れてみれば、よく分かることです(平均値は富裕層や大企業が一気に押し上げているものであり、その「平均値で生きている人」は、格差社会には多くは存在しません)。まだまだ中間層が社会の最も大きなウェイトを占める日本人はとにかく格差にアレルギーがありますが、経済成長(平均値の底上げ)を達成するためには「格差社会の方が優れている」のもまた、知っておかなければならない残酷な現実です。

 当然こうした「格差社会」には、多くの犠牲が内包されています。富裕層が超高級車やプライベートジェットで豪遊する一方で、中間層を含む庶民は病院で満足な医療も受けられないのもまた米国社会であり、金融や投資で豊かな地域では、肉体労働のような社会の厳しい職務を負担し、その生活が向上する可能性は与えられていない「奴隷のような労働力」が社会を支えています。「機会の平等を尊重して豊かになった社会」(平均値が押し上げられた社会)とは、必ずしも美しいことばかりではないのです。必ず勝者と敗者に分けられて、同じ人間とは思えないくらいの立場の違いを受け入れるか、感情的に受け入れられなければ、社会分断と治安の悪化を副作用として誘発する。残念ながら、格差社会で競争に敗れることとなるほとんどの人間は機会の平等を論理的に受け入れて大人しく平和に暮らすことを受け入れないので、社会分断と治安悪化は、機会の平等という美しい響きの単語とセットで、必ずやって来ます。こうした「機会の平等を追及することの裏に存在する現実」も、私たちは未来の社会を描く際には知っておかなければならないでしょう。

 さて、僕の中で「機会の平等と結果の平等のどちらを尊重すべきか」という宿題については、残念ながらまだ答えが出ていません。というよりは、ハッキリとした答えは絶対に見つからない問題なのだろうということが、既に分かってしまっている、と言う方が正しいかなと思います。

 機会の平等と結果の平等は必ず相互に矛盾しますので、どちらか一方を追及するのではなく、どこにその理想的なバランスがあるのかを探し続けるのが僕の課題の1つかなと考えています。チャンスが平等にあり、頑張ったことが報われるべきというのは組織や社会の最低条件ですが、一方でそこに、人の生命や幸せといった基本的人権に対する犠牲があってはならないとも感じます。

 運の良いことに、SSEAには国籍も価値観も文化も、もともとバラバラであった多様なメンバーが集結しています。その多様性の中でバランスを取ることで、どこに理想的なバランスがあるのか、その永遠に答えは出ないであろう宿題に今後も取り組んで行ければと僕は考えています。

 また、いま僕がこうしてメディアに書かれている情報をいったん疑い、ゼロベースから物事を考えるようになったのは、やはり英語が話せるようになり、多くの外国人と直接触れ合って来たおかげかなと、常に実感しています。みなさまにもぜひ、少しでも英語を身に付けて、オンラインからの「情報」では分からない本当の世界の姿を、「経験」として発見していただければ幸いです。

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

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Santa Barbaraその13。

ここでは2001年の春に僕が初めての留学で滞在したカリフォルニアの小さな町、サンタバーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方はぜひ、Santa Barbaraその1。からお読みください。

前日にメキシコのTijuana(ティファナ)からSan Diegoへと戻った僕らは夕飯にアメリカンなBBQを楽しみ、夜の遊園地やショッピングを楽しんでホテルに戻ると、ホテルの駐車場が満車になっていました。フロントのスタッフに「どこに車を駐車したら良いか」と尋ねると、「朝まではホテル前の路上に駐めておいても大丈夫だ」と言ったのでそうしたのですが…。朝6時頃、早めに起きて車の様子を見に行くと、周りにたくさん駐まっていた車が一台もいなくなっていました。「あれ、やっぱりマズかったかな」と思いましたが、特に駐車違反の切符や貼り紙などもなかったため、空いていたホテルの駐車場に車を移し、一安心したのですが…

<アメリカの駐車ルールの標識。厳守しないと必ず違反を取られる>

(この標識は「水曜日の正午12時から午後2時は駐車禁止(道路清掃のため)」との意味。逆に言えばそれ以外の時間は駐車可能。アメリカでは警察が非常に頻繁に駐車状況をチェックしている。)

日本に帰国してからの話ですが、サンタ・バーバラから3月に帰国した僕のクレジットカードに、レンタカー会社から6月の日付で謎の請求が来たのです。「6月なんてアメリカにいるはずがないのに、いったい何の請求なのか、間違いではないのか?」とクレジットカード会社に調べてもらったところ、クレジットカード会社から、「レンタカーを借りていた間に駐車違反をしていたようで、その請求がレンタカー会社を経由して来たようです」との回答が…(汗)その添付資料にはしっかりと”Parking-Violation”(駐車違反)と書かれていました…。アメリカで長時間、路上に車を駐めたのはこのサン・ディエゴの1回だけでしたので、この際に駐車違反を取られたのはほぼ間違いないでしょう(泣)もちろん自分でしっかり確認しなかったのが悪いのですが、「くそー、ホテルのスタッフにダマされた!」と、泣く泣く罰金を払うことになりました。まあ、そのおかげで、駐車違反は英語では”Parking-Violation”と言うのだと学びましたが…。2度と忘れることのない英語表現の1つで、その時のクレジットカード明細は今でも記念にとってあります(苦笑)アメリカは駐車違反はもの凄く厳しくチェックしていますので、皆さんも路上駐車には気をつけてください。必ずその道ごとに駐めて良い時間や規則が書いてあります。

何しろその時は駐車違反をしたことに気づかなかったため、朝にホテルを出発した僕らはサン・ディエゴのSea Worldやオールドタウンを観光し、その夜にサンタ・バーバラへと帰着しました。

<朝食はカフェにて大きなホットドッグ。まだトラブルに気づいていない>

<サン・ディエゴのSea Worldはあいにくの雨天で寒かった>

「やれやれ、今回は先週と違ってトラブルの少ない平和な旅だった」と思ったのですが、翌日に語学学校に行った際にまたまた事件が発覚します。マユミが、同じ家に滞在していて同じ週末にサン・ディエゴとティファナを訪れたハウスメイトから「病院に一緒に来てくれ」と言われているが、理由が分からないと言うので彼と話してみたところ、彼も英語が堪能ではなかったのですが、何やらお腹をさすりながら、”liver, liver…”と言っているのです。「リバー…何か、肝臓がどうとか言ってるよ」、とマユミに伝えたところ、「ええっ!?」と驚きつつ、何がなんだか分からないまま、彼に病院へと連れて行かれたのです…。

そう、彼はティファナで非衛生なものを食べて、あろうことか肝炎(A型かB型か詳細は不明)に感染してしまい、「同じくティファナで食事をしたマユミも検査を受けた方が良い」と言いたかったのです(汗)幸いなことにマユミは肝炎には感染していませんでしたが、病院で注射などを受け、その夜は「自分もメキシコで物を食べてしまった」という不安と恐怖でずっと泣いていたそうです…。肝炎に感染したハウスメイトも彼女の部屋に謝りに来たそうですが、彼は肝炎に感染してしまった訳で、「もしティファナでしっかり食事をしていたらもしかしたら自分たちも…」と考えると、ゾッとしました…(汗)「絶対何も口にしない」と言ってくれたアンドレアに感謝しなければいけません(苦笑)

<レボルシオン通りの入口にて。ガイドブックに掲載のない場所で食事してはいけない(2001年基準)>

このように、一見無事に終わったかに見えたサン・ディエゴ&ティファナ旅行は、帰った後に色々とトラブルが判明することとなりましたが、こうしたトラブルも今思うと貴重な経験だったのかと思います。アメリカとメキシコの国境で今でも続いている問題を肌で感じ、今は違うかも知れませんが発展途上国でむやみに食べ物を選んではいけないと言う教訓も得ることが出来ました。それと、アメリカでの路上駐車のルールも(苦笑)

<ティファナは今でもアメリカとメキシコが交わる、不法入国や麻薬密輸の最前線>

とにもかくにも、健康だけは何とか守ってサンタバーバラへ帰ることが出来た僕らは、最後の週末はロサンゼルスへと車で向かうこととなりますが、そこでこの留学中、最大のピンチが僕を襲うことになります。続きはまた次のブログにてご紹介致します。

To be continued.

Santa Barbaraその14。へ続く

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モロッコと西サハラ

2005年の2月、僕は貯まりに貯まった有休を使ってモロッコを約1週間かけて周りました。初めてのアフリカ、そして初めてのイスラム教の国の旅でしたので、期待と不安の入り混じった旅行でしたが、これまで見たことのない文化圏への旅行は非常に刺激的で貴重な経験だったと思います。今日はその旅の中で初めて知ることになった、「西サハラ問題」についてご紹介したいと思います。

<英語ガイド兼ドライバーのハリディと、砂漠の要塞アイトベンハッドゥ。ハリディは腰が悪いらしく、長い運転がいつも辛そうでした>

モロッコでは専用の英語ガイド兼ドライバーと共に、マラケシュ、アイトベンハッドゥ、ワルザザート、トドラ渓谷、エルフードと周り、メルズーガの丘からサハラ砂漠を眺め、最後にフェズ を訪れ、カサブランカからトランジットで経由したパリに一泊して帰国しました。モロッコは旧フランス圏なので公用語はフランス語で、英語はあまり通じません。また古都であるマラケシュやフェズの旧市街(メディナ)はまさに迷宮で、現地ガイドなしでは迷って出れなくなってしまいますので、英語のできるガイドは本当に頼りになりました。

<トドラ渓谷と水を飲むラクダ。モロッコ南部は大部分が砂漠地帯で、オアシスは本当に貴重です>

旅の中盤、ワルザザートからトドラ渓谷へ向かう途中の小さな町を過ぎた丘の上で、ハリディ(英語ガイド兼ドライバー)が、「ここは眺めが良いから、写真を撮ったら良い」と言って車を止めました。丘の上から写真を撮っていた僕は、反対側の丘の斜面に書かれた大きなアラビア文字があることに気がつきました。「あれは何て書いてあるの?」とハリディに尋ねると、彼は「西サハラは我々の領土だ」と書いてあるのだと教えてくれました。その時に「西サハラ」と言う地名を初めて聞いたのですが、何だか政治的に微妙な問題である臭いがしたので、僕はそれ以上尋ねることはしませんでした。後でモロッコのガイドブックを見てみると、確かにモロッコの隣に「西サハラ」と載っていましたが、そこは国ではなく、かと言ってモロッコ領でもない、空白地帯のような扱いとなっていました。

<立ち寄った小さな町の丘に書かれたアラビア文字。「西サハラは我々の領土だ」と書かれています>

西サハラとはモロッコの西側に位置する地域で、人口は約27万人(2004年)、住民の大多数はサハラウィー人、アラブ人やベルベル人で遊牧民も数多く生活しています。1969年まではスペイン領の一部でしたが現在の帰属は未確定で、亡命政権であるサハラ・アラブ民主共和国とモロッコ王国が領有を主張しており、国連の「非自治地域リスト」に1960年代以来掲載されています。1975年にスペインが領有権を放棄すると、1976年にモーリタニアとモロッコが分割統治を開始しましたが、一方で西サハラの独立を目指すポリサリオ戦線が武力闘争を開始し、1976年にアルジェリアで亡命政権「サハラ・アラブ民主共和国」を樹立しています。1979年にモーリタニアはポリサリオ戦線と和平協定を締結し西サハラ領有権を放棄しましたが、同年モーリタニアが放棄した領域をモロッコ軍がすぐに占領し、現在に至るまで独立をめぐる問題が続いています。モロッコによる領有権の主張は大多数の国から認められておらず、アフリカ・中南米・南アジア諸国を中心に約80か国がサハラ・アラブ民主共和国を国家として承認していますが、欧米や日本などの先進諸国はモロッコとの関係上からサハラ・アラブ民主共和国を国家として承認しておらず、国連にも加盟できていません。モロッコは国王の相次ぐ西サハラ訪問やインフラ整備などにより西サハラの実効支配を既成事実化し、サハラ・アラブ民主共和国の独立を妨害しています。サハラ・アラブ民主共和国は1982年にアフリカ統一機構(現在のアフリカ連合)に加盟しており、一方でモロッコがアフリカで唯一アフリカ連合に加盟していないのは、サハラ・アラブ民主共和国の加盟に反発して脱退したためです。そのためサハラ・アラブ民主共和国はアフリカ連合のみの加盟、モロッコは国連のみの加盟となっています。

<アフリカ・西サハラ・モロッコの地図>

モロッコ旅行も終盤に差し掛かり、パーキングエリアでコーヒー休憩を取っていた時に、ハリディが僕の持っていた「地球の歩き方」の地図を見せてくれと言いました。彼は西サハラがモロッコと分離されている地図を見て、「この地図は間違っている。西サハラはモロッコの領土だ。この地図が分離して載せていると言うことは、日本政府が西サハラをモロッコ領だと認めていない証拠だ。」と言いました。僕らは西サハラに関する知識はほとんどありませんでしたし、政治的に微妙な話題なので、「自分たちはその事は良く知らないんだ。西サハラについて教えてくれ」と言うと、彼はフランス語訛りの聞き取り辛い英語で西サハラについて語り始めたのです。長い話でしたし、聞き取れない部分もかなりありましたが、「モロッコは西サハラを自分たちの領土として道路などのインフラを整備したし、学校を作ってモロッコの税金で教育を行っているのに、国際社会が西サハラをモロッコ領と認めないのはおかしい」といった内容で、穏やかな語り口ながらもその言葉はとても強く、興奮を押し殺しているかのような様子で話していました。日本では当時は愛国心やナショナリズムを示すことは悪いことだと言う空気があった時代でしたので、彼が強く主張する様子は僕らにとってはとても新鮮な体験だったことを思い出します。

日本にも多くの領土問題がありますし、海外の人々とこうした内容の話をする機会がまたあるかも知れませんが、領土問題にはそれぞれの立場と言い分があり、全てを客観的に理解することは難しい事だと思います。そうした際に、問題に対する十分な知識なく話をすることはとても危険な事なのでしょう。日本にいるとどうしても目が内向きになりがちですが、世界に存在する様々な問題に興味を持つことは大切であると感じた経験でした。無知であることは時にその国の人々を傷つけることにもなります。そうならないためにも、日本のこと、世界のこと、これからもしっかり理解して行きたいと思います。

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