旅行記・英語学習記事

代表講師のブログです。海外での出来事や留学の体験、異文化コミュニケーションや国際関係について書いています。不定期の更新ですが、ぜひお読みください。

留学時代の体験
Santa Barbaraその1。

Bostonその1。

「留学時代の体験」カテゴリーの全記事を読む
海外旅行での体験
高速鉄道の「お見合い席」に注意

レンタカーが、パンクした。

モロッコと西サハラ

フィジーの「木彫りおじさん」

海外で怪我をする(台湾編)

必ず3時間遅れるフライト(ネパール編)

ネパールのストライキ

悪質なタクシーを英語で撃退する(カルカッタ編)

インドの食あたりその2(2011年編)

インドの食あたりその1(2008年編)

スピード違反で捕まった(フロリダ編)

バラナシの「自称ガイド」

本場アメリカのステーキ事情

「海外旅行での体験」カテゴリーの全記事を読む
経済・未来・テクノロジー
人気の高いラーメン屋ほど「お支払いは現金のみ」が合理的であるのはなぜか

「グローバリゼーション」の概念を更新しよう

イノベーションとは何か

“imperfect”であることを、受け入れてみよう

「経済・未来・テクノロジー」カテゴリーの全記事を読む
異文化理解・コミュニケーション
Common Sense(常識)は、もう理由にならない

2つの”equality”:「機会の平等」と「結果の平等」

八方美人は、実は誰にも優しくない

「育てる」ときに大切だと思うこと

“Amazing Grace”と言う歌の意味とその背景

イギリス=イングランドではない

“I can do it.” “I will do it.” は “I have done it.” ではない。

“Better than Nothing”

ハリネズミのジレンマ

You and I are different. ‐ 異文化を理解すること

お台場に「自由の女神」がある理由

「異文化理解・コミュニケーション」カテゴリーの全記事を読む
英語学習
「英語を勉強して良かった」1番大切な理由

ハンバーガーを単品で頼むときは (ボストン編)

本気の留学ならアメリカに行くべき10個の理由

変わり行く大学受験と、今後も変わらないこと

アメリカ英語とイギリス英語の違いを考える必要がない理由

アイルランドの歴史と言語事情

留学でやってはいけない13のこと

「英語学習」カテゴリーの全記事を読む

ブログ一覧

インドの食あたりその1(2008年編)

2008年の11月、僕は両親と共に初めてインドという国に足を踏み入れました。インドと言えば、暑くて、食べ物は全部カレーで、カーストと呼ばれる生まれながらの身分制度が今でもあり、人口が中国を追い越しそうなくらい多くて、空気や衛生状態が悪い…そんな前知識は持っていましたが、そんな秘境に行ってみたいとずっと思っていました。そこが想像以上に恐ろしい場所なのだとは思いもせずに…

インドと言えばバックパッカーの聖地。そして初めて訪れた人が必ず経験するのが「食あたりによる下痢」です。ガイドブックには「お腹は必ず壊すので諦めて下痢とうまく付き合いましょう」、などと無責任な事が書いてあります(苦笑)僕らはバックパッカーではありませんが、父は旅行会社で嫌と言うほどツアーの添乗をしていたので、家族旅行は当然のように個人旅行です。そのため「自分の身は自分で守る」しかありません。何しろインドでは、水道水を飲むのはもちろん、町中に売っているミネラルウォーターすら信用できません。入れ物だけ再利用して川の水を入れて売っているなんて話があるくらいで、スーパーでも水を買うときはフタが開かれた形跡が無いかどうか確認する必要があります。両親は「水は日本から持っていくものしか飲まない、歯磨きも日本の水で」と言ってトランクに水のボトルを詰め込んでいました。「さすがにそこまでしなくても…」なんて僕は思ったのですが、インド旅行はどれだけ対策を練ってもやりすぎることは無いのだと、後ほど嫌と言うほど思い知らされることになります…

<水は日本から持参か、ホテルのものをずっと持ち歩く>

旅行は香港乗り継ぎでムンバイへ入り、そこからフランシスコ・ザビエルの遺体が安置されたことがあるゴアへ、ムンバイ経由で飛行機を乗り継ぎデリーを観光して、デリーからタージ・マハルのあるアーグラーへ日帰りし、ムンバイ・香港経由で日本へ帰るというコースでした。香港・バンコクを経由したキャセイパシフィック航空でムンバイへ到着したのは夜。空港を出た瞬間、僕は今までに感じたことのない空気を感じました。「この国はヤバい」という空気を…

<冷房付き?のプリペイドタクシー。 トランクも閉まらないままひもで縛って発車…>

空港でプリペイドタクシーのチケットを購入した時、タクシーには冷房がついているとの事でしたが、実際の車を見て固まってしまいました。「この車、本当に走るのか?」、そういうレベルです。荷物も多い方では無かったのですが、なんとトランクに入りません。すると運転手はトランクのカバーが閉まらないので、ロープで縛り始めるじゃないですか…こんな状態で30キロはあろうかと言うムンバイの中心街まで行けるのか、本当に不安を感じました。走り出すと町は暗く、人が何もせずに道のわきでブラブラしていて、町並みはかつて見た事がないくらい古くて貧しく、本当にタイムスリップしたんじゃないか、そんな気分になりました。近代的なホテルに無事にチェックインした時は本当にホッとしたものです。

<ムンバイのタージホテルとスラム街で魚を売る人々。タージホテルでは帰国後テロで爆発がありました…>

<デリーの町中は牛だらけ。オートリキシャーには信じられない数の人が相乗りしていました…>

翌日からの旅は思いのほか順調でした。食べ物はカレーばかりながら安くて美味しく、ガイドブックに載っている店なら大丈夫だろうと、僕は好物のマンゴーラッシーなどを平気で飲んだりしていました。両親は「そんなの飲んで大丈夫か…」みたいな雰囲気でしたが、全くお腹を壊すこともなく、ムンバイ・ゴア・デリー・アーグラーと観光して、旅行も残り2泊を残すのみとなりました。その日本に帰国する前々日の夜、少しカレーに飽きた僕は、夕飯は中華を食べようと提案しました。ニューデリーのコンノート・プレイスと言う、ちょっとお洒落で高めのレストランが集まる場所で、僕らはインドではおそらく立派すぎるであろう中華料理レストランで夕飯をとりました。食べたものは、炒飯、麻婆豆腐、肉や野菜を炒めたものや餃子など、火の通っているものばかりでまさか食あたりするなどとは夢にも思わないものばかりだったのですが…

<この中華料理が原因なのかどうかは今も不明>

その日の夜中、僕はお腹が痛くなりトイレで目が覚めました。やはり下痢だったので、ああ、とうとう当たっちゃったか、最初はその程度の感覚でした。しかししばらくすると気分が悪くなり、吐いてしまいました。その後下痢と嘔吐を繰り返し眠ることが出来ず、朝には外に出るのも厳しい状態に…。両親は大丈夫な様子だったので、僕はチェックアウトまで1人でホテルで休むことにしました。胃腸薬、下痢止めなど飲みましたが全く効かず、体調は悪くなる一方です。両親が戻り昼食を食べに出たのですが、何しろ吐き気で食べることが出来ず、飲み物を飲んだらすぐにお腹を下してしまいます。昼食後お土産を買いに町へ出ましたが、頭は高熱でもあるかのように熱く足はフラフラして歩くのもままならず、貧血のように血の気が引いて気が遠くなり、お腹も痛くトイレも我慢できないので、僕は両親に頼んで残りの時間をホテルのカフェで休むことにしたのですが、水分を摂っても摂っても下してしまい、身体は脱水症状で全身から水分が抜け、力は入らず頭はクラクラしてもうろうとし、高熱でうなされているような、宙に浮いているような、まるで全身が自分の体ではないような感覚です。「これ、もしかして死ぬんじゃないか…、明日日本に無事に帰れるだろうか…」そんなことを本気で考えました。その夜LCCでムンバイに戻ったのですが、冷房の効きすぎた空港で飛行機が3時間も遅れ、ただでさえ瀕死だった僕はもう「生きるのか、死ぬのか」、そんな状態でした。新聞紙を体に巻いて寒さをしのぎ、やっとの思いで乗り込んだLCCには毛布もなく、父がジャケットを貸してくれましたが、「命からがら逃げ帰る」、まさにこの言葉がピッタリで、飛行機から降りる際は階段から落ちてしまい、周りから「Are you okay!!??」と叫ばれる始末…。翌日ムンバイの空港でキャセイパシフィックの飛行機を見た時、そして飛行機から香港の街が見えた時、文明の有難さをこんなに実感したことはありませんでした…インドから「救出された」のだと…

<この飛行機を見た時は涙が出そうになりました…香港の街が見えた時は「ああ、これで助かる」と…>

ちなみに、母親は帰国の前夜、父親は帰国の翌日にやはりお腹を壊しました。僕は症状が最も酷く、日本に帰国してからも下痢が約2週間続きました。トラウマでそれまで大好きだったインドカレーもかなりの期間食べることが出来ませんでした。「もう二度と、インドには行かない…」少なくとも2年くらいはそう決意していたと思います(苦笑)インドで食べ物に当たると「お腹を壊した」程度の症状では済みません。もしツアーに参加するのであっても、医者が処方するような強い下痢止めと抗生物質を持って行くことをお勧めします。(その後、2回目のインドの旅では薬に救われることになります。2度目の食あたりについては「インドの食あたりその2(2011年編)」もぜひお読みください。)

インドは、非常に魅力的な国です。美味しい食べ物、混沌としてエネルギッシュな雰囲気、タージ・マハルなどの美しい建築物や価値ある遺跡…そして何より、人が必死に生活していることを肌で感じることが出来る貴重な場所です。インドが普通の文明国になってしまう前に見ておくべきだと、僕は思います。ですが、くれぐれも念入りに準備をして渡航して下さい。万が一にも犬に噛まれたら「命に係わる」、そのような国ですので…

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

SSEAのレッスンはオンライン受講が可能になりました!詳細は「オンライン受講」ページをご覧下さい。

無料体験レッスンのお申込み・お問い合わせは「お問い合わせフォーム」より。

レンタカーが、パンクした。

2006年の10月から11月にかけて、僕は会社を退職して少し休暇を取り、2001年に初めての留学で滞在したアメリカ西海岸の小さな町サンタバーバラに、6週間ほど滞在することにしました。今日はその滞在中に休日旅行でサンフランシスコを訪れた際のトラブルについて書きたいと思います。

滞在はホームステイで、僕のルームメイトはセバスチャンというフランス人だったのですが、そのセバスチャンにThanks Givingの翌日からの休日を利用してサンフランシスコへ仲間と行くから、一緒に行かないかと誘われました。僕はセバスチャンと非常に親しかったのでもちろんOKしたのですが、何と全員合わせると10人以上のグループになると言います。そんな大勢で一緒に行動出来るかな…とは思いましたが、なるようにしかならないだろう、と成り行きに任せることにしました(苦笑)

Thanks Givingの翌日、ダウンタウンのバスディーポに集まったのは、フランス人、ベルギー人、ドイツ人、トルコ人、韓国人、日本人、そして誰の知り合いなのか地元のアメリカ人を含む多国籍軍でした。アメリカ人の車1台に乗り切れる訳もなく残り2台をレンタカーする予定だったらしいのですが、何と予約をしておらずレンタカー会社には車が1台もありません…本当にたどり着けるかな(苦笑)と思いましたが、3時間ほど待ってようやく返却された車2台を借りることが出来ました。1台をトルコ人2人、もう1台を僕とセバスチャンが運転することになりました。僕らの車は韓国のKIAというブランドの小さな車だったのですが、3台で高速に入るとアメリカ人とトルコ人の運転の荒さが尋常ではなく、僕らの小さな車はエンジンの大きさからとても付いて行けず、いきなりはぐれてしまいました。かくして僕とフランス人2人、韓国人の女の子の4人での旅が始まったのです。

<レンタカーのKIAと多国籍軍>

サンフランシスコでは他の車と合流したり、はぐれたりしながら観光しましたが、基本的には僕とセバスチャン、フランソワ(フランス)、ジェニファー(韓国)の4人(と時折ベルギー人のステファニー)での行動になりました。観光は充実していて色々な思い出が出来ましたが、最後サンタバーバラへ帰る日は残念ながら雨に降られてしまいました。そしてこの雨のハイウェイでの帰路にてかつて経験した事もないトラブルが起こります。

<左からジェニファー、ステファニー、セバスチャン、フランソワ。多国籍軍は最後までまとまりませんでした>

サンフランシスコで他の車たちと別れ、サンタバーバラへ帰る高速道路を僕は運転していたのですが、ちょうど半分くらい来たあたり(SF-SB間は車だと約6~7時間)で、車が突然ガタガタと揺れ始めました。その揺れはかなり激しくハンドルも右に左に取られる感じがしたので、僕は経験が無いながらも薄々「タイヤがパンクした(got a flat tire)」のだと気付きました。高速を降りて車を止めると、見事に右前のタイヤがペチャンコに…付近は真っ暗で助けを求めようにもガソリンスタンドひとつ見当たりません。途方に暮れた僕らは相談した結果、スペアタイヤに交換しようと言う結論になったのです…

セバスチャンがタイヤの交換の経験があったので、スペアタイヤをトランクから出してジャッキアップまでは出来たのですが、タイヤのナットが固くどうしても外す事が出来ません。灯りもなくデジカメの液晶の明かりで照らしながら雨の中格闘しましたが、どうにもならず途方に暮れていると、ジェニファーが通りかかった1台の車に助けを求めました。親切なアメリカ人のおじさんは僕らがタイヤが交換できずにいることを知ると手伝ってくれ、僕に運転席でブレーキを踏む(Step on the brake!)ようにと言いました。そうして格闘すること15分、なんとかおじさんの助けでタイヤを交換することができ、親切なおじさんはお礼を言う間も無く行ってしまいました。かくして僕らは交換したタイヤでそろそろと走りながら、サンタバーバラへ帰り着くことが出来たのです。

翌日レンタカーを返却する際に、頭に血が上りやすい僕はカウンターで散々クレームを付けました。寒くて暗い雨の高速でタイヤを交換したんだと言うと、彼らは交換したタイヤを見て申し訳ないと言ったあと、レンタカー代は半額にすると言いましたが、次からパンクした際はロードサービスに電話したら良いと言うのです。しかしナビも付いていなかった当時、550キロはあろうかと言うSF-SB間(東京~神戸間に匹敵する距離です…)のどこにいるか分からないと言ったら、果たして彼らは何時間以内に来てくれたのでしょうか…親切に手伝ってくれたアメリカ人のおじさんにお礼を出来なかったのが悔やまれます…それ以前に、パンクするようなレンタカーを扱わないで欲しいと思います、Enterprise Rent-A-Car…(アメリカでは割と大手で1番安いのですが、もう使う気になれません…)

皆さんもパンクした際にロードサービスに電話をする際に必要なこの単語、ぜひ覚えてください。

We got a flat tire! 「タイヤがパンクした!」

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

SSEAのレッスンはオンライン受講が可能になりました!詳細は「オンライン受講」ページをご覧下さい。

無料体験レッスンのお申込み・お問い合わせは以下のページの「お問い合わせフォーム」より。

バラナシの「自称ガイド」

2011年の年末年始にかけて、両親の還暦を記念して家族でタイ、カンボジアを訪れたのですが、その旅行と合わせてインドとネパールを旅しました。トータルで19日間に及ぶ壮大な旅になりましたが、今回はインドのバラナシで遭遇した「自称ガイド」のことを書きたいと思います。

インドを訪れたのは人生で2回目でした。初めて訪れた時は食べ物にあたりひどい目にあい、命からがら帰国してもう二度と行くまいと思ったのですが、数年経つとトラウマも薄れていたのでしょうか、またこの恐ろしい国に足を踏み入れてしまいました。今回はバンコクからカルカッタへ入り、飛行機でガンジス川の沐浴で有名なヒンズー教の聖地バラナシへ移動、仏教の聖地であるサールナートとクシナガルを訪れ、そのまま北上し陸路でネパールへ抜ける計画を立てました。移動は飛行機と鉄道で、バスは絶対に使わないようにしました。(体力の節約とお腹を壊した際のトイレを考慮して)

バラナシの空港からホテルまでプリペイドタクシーを利用すると早速車内で彼らの「営業」に悩まされました。「サールナートへ行くんだろう、タクシーで往復するのにとても安い値段で行ってやるぞ、どうだ?」と持ちかけて来ます。絶対にボラれるのは分かっていたので「No,thank you.」と言ってもしつこく営業して来るので、「I want to see the view of the outside, please be quiet.」と突っぱねましたが、インド人はそんな事では諦めるはずもなく、結局ホテルに着くまでずっとこの営業を聞かされ続けました。

バラナシの洗礼にうんざりしつつも何とか逃げ切り、ホテルにチェックインした後、早速ガンジス川を見に行くことにして、ホテルの前でオートリキシャーに乗り込むと、突然1人の男がリキシャーに乗り込んで来ました。

<オートリキシャーと「自称ガイド」の男>

走り出すと「ガンジス川へ行くんだろう?俺に任せておけ」みたいな事を言います。同じリキシャーに乗っているので逃げることも出来ず、諦めているとリキシャーは当初指定した場所とは違う所へ到着しました。どうやらこの「自称ガイド」が運転手を丸め込んだようで、リキシャーを降りると「こっちだ、ついて来い」と…

もう今いる場所がどこかすら分からないので行くしかありません。しばらく歩くと、ガンジス川へ出たのですが、「ここからボートに乗れ、川の上からプジャ(ヒンドゥー教のお祈りの儀式)が見られるぞ」と言います。しょうがないのでボートの値段を聞いてみると、貸切の割に値段は高くなかった(他のこの手のボートは人を満杯に詰め込んでいました)ので、ボッタクリではないのかな…と思いつつボートで約1時間のクルーズ(と言うよりは、漂流?)とプジャの見物をしたのですが、冬のガンジス川は思いの他寒く(まさかインドが寒いとは想定外で)、凍えながらもボートは出発した場所へ戻りました。ボートの漕ぎ手にも「ボート代はボートの所有者が全部持って行ってしまうんだ、だから俺にチップをくれ」などとせがまれました…。岸に着くとさっきの自称ガイドが待っていたので、「これから夕飯を食べに行くから、ラディソンホテルへ行ってくれ、それで君はいくら欲しいんだ?」と聞くと、「Nothing. Because I can get the next chance. You are going to Sarnath(サールナート) tomorrow?」と言います。明日も付きまとうのかよ…と思いましたが、リキシャーもボートもひどくボッタくる事はしなかったので、次の日も彼に任せることにしました。

<ボートとバラナシの風景>

翌日は朝6:00に彼と運転手がホテルに迎えに来て、再びガンジス川クルーズ(漂流?)へ向かいました。それは沢山の人が早朝にガンジス川で沐浴をするので、それを見るためです。2時間の見物を終えてホテルに戻り、朝食を食べてリキシャーでサールナートへ向かいました。サールナートは仏教の四大聖地のひとつで、仏陀が初めて説法をしたとされる地です。サールナートへ向かう車内で、彼に「So, how much is your guide?」と聞くと「As you like.」などと自分はボッタくりガイドではないことを強調します。

サールナートの遺跡を見物し、周辺の寺院をいくつか訪れたあと、リキシャーに乗り込むと、彼は「これから少しショッピングに連れて行くから」と…

狙いはこれか!」と思いましたが、インドで車などをチャーターするとお土産屋に連れて行かれるのは定番なので、とりあえず行ってみました。しばらくするとリキシャーはシルクの織り工房件販売所に着きました。元々インドでシルクのスカーフをお土産に買うつもりだったので、工房で散々本物かどうか店員と揉めて(どうやらちゃんとした品物でしたが)、およそ1万円分のスカーフを購入しました。

<サールナートとシルク工房>

リキシャーでバラナシへ戻る際に、もうさすがに自由に行動したかったので、「ガンジス川へ行ってくれ、そこでガイドは終わりにしていいから」と伝えると、彼はもう十分に目的は果たしたのか、素直にガンジス川の入り口へ僕らを連れて行きました。リキシャーのチャーター代を払うと彼は小声で「And guide….」とちゃっかりガイド代を要求して来ます。「やっぱり欲しいんじゃん」と思いつつ2000円ほどを渡すと彼は嬉しそうにして、「You are very nice person! When you walk around the river, watch your bag. Some people try to steal it.」などと親切なアドバイスまでくれる始末でした。そんなに満足なのだから、さぞお土産屋からのキャッシュバックがあるのだろうと僕は興味がわき、「I will never get angry, so please let me know honestly. How much can you get from that silk shop?」と突っ込んで聞いてみると、彼は満足気に「2%!」と。1万円のうちの2%が彼の取り分ということは…200円?200円のためにこんなことしてるのかと衝撃を受け、そりゃあ2000円のガイド代をもらえれば最高だろうなと納得しました…インドの金銭感覚を知る良い勉強になりました…

強引な自称ガイドの押し売りでしたが、ボッタクることもなくトータルでそんな悪いサービスでは無かったかなと思い、次の日駅に向かうのにタクシーを手配できるか訪ねると、「大丈夫だ、必ず迎えに行く」と。翌朝は朝の列車だったので、早朝に待ち合わせしたのですが、10分前…約束の時間…10分が過ぎ…タクシーが来る気配はありません。「ああ、やられた!!」と思いましたが列車に乗り遅れる訳にはいかず、別のタクシーを探しましたが早朝なので全く走っていません。困っていると、近くに止まっていた観光バスのガイドの人が「どうしたんだ?」と声をかけてくれたので、駅に行かなければならないんだけどタクシーが捕まらないと言うと、彼は1台のオートリキシャーを捕まえてくれました。大きな荷物が3つあるのでちょっと…と思いましたが、なんとか荷物を積むことができ、リキシャーで30分ほど走り、何とか駅にたどり着き事なきを得ました。バラナシには駅が複数あるのでちゃんと目的地が伝わっているのか不安でしたが、観光バスのガイドはどうやらちゃんと運転手に伝えてくれたようです。

かくしてバラナシではインド人の強引さ、たくましさ、しつこさ、あざとさ、無責任、親切など様々な側面を経験しましたが、観光地であるためか総じて歩くだけでも災難が飛んでくるような町です。ガンジス川の周りではボートや両替の勧誘がしつこく、無視すれば「このゴミ!来るな!」などと罵声を浴びせられ、話しかけて来る奴は勝手にガイドを始めお金を要求する…もう周囲のインド人全てが敵に見えます。バラナシを個人旅行で訪れる際は、鉄の意志を持って、断固拒否の態度を示して歩きましょう。「手強い」インド人たちがあなたを狙っていますので(苦笑)

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

SSEAのレッスンはオンライン受講が可能になりました!詳細は「オンライン受講」ページをご覧下さい。

無料体験レッスンのお申込み・お問い合わせは「お問い合わせフォーム」より。

Santa Barbaraその5。

ここでは僕が初めての留学で滞在したアメリカ西海岸の小さな町、サンタ・バーバラでの体験について書いています。初めてこのブログをお読みになる方は、Santa Barbaraその1。からお読み下さい。

滞在3日目。前日に深夜までアグネスたちと夜遊びをした僕はアラームが鳴っても起きることができず、クリストフの”Could you stop the alarm!?”(アラームを止めてくれ!)の一言で目を覚ましました。もちろん寝不足ですが、この日は初めて学校へ登校する日でした。眠い目をこすりながらキッチンへ行くと、ホストマザーのカレンがコーヒーを入れてくれ、「今日は学校の初日だから、私が車で連れて行くから」と言いました。僕は前日にアグネスと一緒に登校する約束をしていたのでそう伝えると、彼女も一緒に乗って行けば良いと言ってくれました。アグネスと車に乗り込み学校へ向かって出発すると、ユンが1人バス停に向かって歩いていたので、彼女も乗せてあげたら…とは思ったのですが英語の下手な僕は言い出すことが出来ず、そのままアグネスと2人で学校へ向かいました。

学校に到着すると、新規の入学生はロビーで入学手続きを待っていたのですが、そこで一度目にしたことのある日本人を発見しました。彼の名はR(彼の名誉のため本ブログではこう呼びたいと思います)と言い、ロサンゼルスからサンタバーバラへのフライトで同じ飛行機に乗っていて、サンタバーバラの空港で話しかけてみようかと迷っているうちに出迎えのホストファミリーに連れて行かれた男でした。何しろアメリカに着いて日本語に全く触れていなかった僕は、藁をもつかむ思いで彼に話しかけたのです。「あの、飛行機で一緒でしたよね」と言うと彼はぶっきらぼうに、「ああ、そうですね」と答えました。「どこから来たんですか」と続けて尋ねると、彼は自慢げに「東京の世田谷でございます」と言いました。「世田谷ってわざわざ強調する必要、あるのか?」と、僕はちょっと嫌な感じの奴だなと思いましたが、何しろ日本語に飢えていた僕はしばらく彼と話すことにしました。週末は何をしていたのか尋ねると、「何もすることなくてさー、家の中でタバコ吸ったら外に追い出されちゃってさー」などと言い、「あたりまえだろ、許可も取らずに吸ったのか?」と僕は内心呆れました。さらに話を進めると彼は23歳であることが分かり、どこの大学へ行っているのか尋ねると「成城大学の3年でございます」と言ったので僕はうっかり、「23歳で3年生?」と突っ込んでしまうと彼は怒って、「うっせーな!2ダブだよ!(2年留年している)」と吐き捨てました。どうやら高いであろう彼の安っぽいプライドを傷つけてしまったようでした(笑)。

こんな日本人しか留学に来ないのかと若干ガッカリしながら教室に移動して、僕ら新入生はレベル分けのための入学テストを受けました。その後学校のスタッフがお昼ご飯を買いに近くのスーパーへ連れていってくれたのですが、その時ちょうど雨が少し降って来ました。傘を持っていなかった僕はそのまま歩いていると、小さな日本人の女の子が親切に傘に入れてくれました。彼女の名はナツコと言い大阪の大学でフランス語を専攻している子でした。「良かった、良い日本人もいるんだな。この子と友達になれば良いや」と思って僕は大分ホッとしたのですが、お昼を食べた後のクラス分け発表で小さな事件が起こります。クラスは7段階で、下の方のクラスはほぼ全員が日本人なんて所もあったのですが、僕のクラスの所にはなんと Level 6 と書いてあるのです…「ああ、下から2番目…じゃない!上から2番目!?全然話せないのに!?」と僕は愕然としてしまいました。いきなりレベル7に入る新入生はいなかったので、新入生としては1番レベルの高いクラスに入ってしまったのです…実はこれは日本人に良くあるケースで、ヒアリングとスピーキングは全くできないのに文法とリーディングが得意なので、実力とかけ離れた点数が取れてしまうと言う…かくして僕は実力に分不相応なレベルの高いクラスに入って授業を受けることになってしまいました…。

<一緒に入学した新入生。半分くらい日本人だった気がします>

クラス発表が終わりオリエンテーションを受けて、初日の学校は終わりでした。僕はもうRのことは忘れて(笑) ナツコと他の日本人や外国人たちと帰宅するためバスディーポに向かって歩き始めたのですが、その中に1人のドイツ人の女の子がいました。彼女の名はアンドレアと言い、この留学で僕が唯一、自分の力で仲良くなった外国人だったかも知れません。どういうきっかけで彼女と会話を始めたのか定かではないのですが、僕が下手くそな英語で、前日バスを降りられず”Help me~”だったんだよと言うと彼女は大笑いして、僕に親しみを感じてくれたようでした。このバスの失敗談で彼女と仲良くなれましたので、今思うと週末のドタバタも無駄ではなかったのかなと思います。アンドレアのルームメイトは日本人でその時一緒に歩いていたのですが、彼女は全く英語ができず、アンドレアにどうやって家に帰るつもりなのか聞いて欲しいと僕に行ってきました。「レベル6、頼むよ!」などと言われ若干ムッとしましたが、アンドレアは歩いて帰ると言ったのでそう伝えると、その子は右も左も分からずアンドレアにただついて帰って行きました。補足するとその子はその後も英語を全く話そうとせず、ルームメイトであるアンドレアとトラブルになり、それがホストファミリーとのトラブルに発展し、とうとうホスト先の家を追い出されて退廃的なモーテル暮らしをすることになります。2~3週間後にその子に再会した際は、この時のような失礼なテンションは影をひそめ、げっそりやつれて別人のようになっていました…。アンドレアから事の成り行きを聞いていたので同情はしませんでしたが、英語を話さなければ留学は必ずしも華々しいものではないという典型的な事例だったかと思います。

<唯一自力で仲良くなったアンドレアと学校のソファーにて>

ナツコとバスディーポで別れて帰宅した僕はクリストフとテストの話になり、クラスはどうだったと聞かれたのでレベル6に入ってしまったというと彼はもの凄く驚いて、”Level 6!? Are you level 6!?”と何度も聞き返していました(苦笑)。それもそのはずで、英語がペラペラなクリストフは実はレベル5で、僕より下のクラスだったのです。日本人はテストだけは得意だというパターンを思いっきり証明してしまいました。同じく英語がペラペラだったユンでさえ、僕と同じクラスだったのですから、その後僕がどれほどクラスで貝になったかご想像に難くないかと思います(苦笑)

その日の夕飯を食べた後、僕はアグネスに連れられて新入生歓迎のクラブパーティーへと、2日連続の夜遊びに出かけることになります。続きはまたの機会にご紹介したいと思います。

To be continued.

Santa Barabaraその6。へ続く

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

SSEAのレッスンはオンライン受講が可能になりました!詳細は「オンライン受講」ページをご覧下さい。

無料体験レッスンのお申込み・お問い合わせは以下のページの「お問い合わせフォーム」より。

本場アメリカのステーキ事情

ステーキと言えば、やっぱりアメリカが本場ですよね!ですが近年、アメリカのステーキ事情に大きな変化の兆しが…そんなアメリカのステーキ事情についてご紹介したいと思います。まず、アメリカでのステーキの種類を見てみましょう。

<RIB EYE(リブアイ・ステーキ)>
日本で言うとリブステーキです。脂がのっていて肉質は少し固めですが、肉好きが最も愛するステーキです。

<NEW YORK STRIP(ニューヨークストリップ)、KANSAS CITY STEAK(カンザスシティ・ステーキ)>
日本では(お店によっては現地でも)サーロインステーキと呼ばれます。脂はRIB EYEより少なくフィレよりは多い、肉質はRIB EYEより柔らかいもののフィレよりは固め、といった感じ。ちょうどほどほどなお肉なので人気があります。

<Filet Mignon(フィレミニョン)、Tenderloin(テンダーロイン)>
フィレステーキです。脂は少なくてあっさりしていますが非常にやわらかく、牛一頭から取れる量が少ないためお値段も高めです。

<Porterhouse(ポーターハウス)、T-bone steak(ティーボーン)>
T字型の骨の左右にフィレとサーロインが付いている、一度で二種類のお肉が楽しめる大きなステーキです。

<Tomahawk(トマホーク)>
テキサスなどのステーキハウスにある、非常に巨大なRIB EYEステーキで、その大きさは38オンス(1077グラム)や50オンス(1417グラム)など、まさにアメリカンサイズ!

<Prime Rib(プライムリブ)>
これは焼いたステーキとは調理方法がやや異なり、リブの肉をかたまりのままじっくり焼き上げ、食べる際に切り分けて盛り付ける温かいローストビーフのことです。

さて、このステーキの本場で、ある異変が起きていることをご存知でしょうか。なんと今アメリカでは、和牛が大ブームになっているのです。有名なステーキハウスのメニューを見て頂くと分かるのですが、評価の高いステーキハウスは軒並み和牛を売りにしています。和牛の名称もバラエティに富んでおり、WAGYUだったりAKAUSHIとか、KOBE BEEFと記載している所もあります。

余談になりますが、「神戸牛」というのは兵庫県で生産された「但馬牛(たじまうし)」からとれる肉が一定以上の基準を満たした場合にのみ用いることが出来る高級な牛肉のブランド名であり、日本三大和牛の1つとして非常に希少なものであるためほとんど海外には流通しておらず、アメリカに神戸牛が氾濫しているはずはないのですが…(苦笑)アメリカでは日本で飼育されたものでなくても、種牛が和牛であればWAGYUと呼ばれているようで、アメリカ産に加えてオーストラリア産の「WAGYU」まであります(笑)僕が先の年末年始にフロリダのステーキハウスで食事をした際に、ウエイターが特別な牛肉があると言って誇らしげに2つのお肉を持って来て見せてくれました。1つは宮崎牛のフィレで、もう一つはオーストラリア産のWAGYUのリブアイだと言っていました。もちろんアメリカに行ってまでわざわざ和牛を食べるのは本末転倒ですので、僕らはアメリカ産アンガス牛のステーキを注文しましたが…それにしても彼らが宮崎牛だと言っていたフィレは目玉が飛び出るほどの値段でした…

一昔前までは和牛は柔らかすぎて脂っこくてこれは本物のステーキじゃないとアメリカ人は言っていたような記憶もありますが…時代は変わるものですね…いずれにしても日本の畜産農家の努力と研究の賜物である和牛が世界で評価されていることは、日本人として喜ばしい限りです。神戸牛は2009年に、米メディアが選んだ「世界で最も高価な9種類の食べ物」にキャビア、フォアグラ、白トリュフらと共に選出されたと言うから驚きですね。品質を追求する日本人の底力は食材の分野でも発揮されつつあるようです。

ですが、本場のアメリカらしいステーキを食べたいと思っている方は、レストランに行く前にどこのお肉を扱っているのかチェックすることをお勧めします(苦笑)

※ 英会話SSEAが『みんなの英語ひろば』の取材を受け、特集記事が掲載されました。ぜひご覧ください!

SSEAのレッスンはオンライン受講が可能になりました!詳細は「オンライン受講」ページをご覧下さい。

無料体験レッスンのお申込み・お問い合わせは「お問い合わせフォーム」より。