メディア取材でも高く評価される話題の英語スクール。英会話、ビジネス英語、旅行会話、キッズ英会話、英検、TOEIC、TOEFL、IELTS、TEAP、高校・大学受験、海外留学・大学・大学院進学。 SevenSeas English Academyは対面とオンラインのハイブリッドクラスで、練馬区/板橋区/中野区/豊島区から誰もが英会話に親しめる社会の実現を目指しています。
Santa Barbaraから帰国した僕はそこでの悔しさから、国内で英語学校に通うことと次の夏休みに再び海外での勉強に挑戦することを決意しました。当時高田馬場にあったTOEICスクールにてスコアの向上を図りながら、僕は次の留学先を探し始めました。
Santa Barbaraで4週間通学したEF International Language Schoolは、クラスの質はおそらくそこまで高かったのではないと思いますが(と言うより、おそらく語学学校のクラスはどこも大差ないでしょう)、その留学生のバランス・多様性は非常に素晴らしく世界中から学生が集まる環境が魅力的だったので、次の留学も別の都市で同じスクールを選ぶことにしました。実際に語学学校を選ぶ際のポイントは、そのクラスの質よりも学生の出身国の多様性の方が遥かに大切です(語学留学は、クラスで学ぶ時間よりプライベートで会話する時間の方がずっと長いためです。アジア人ばかりが在籍するような学校で学ぶことは、効果や経験の価値が薄いかと思います)。
当日の思いつきでレンタカーを借りて飛び出したためホテルも予約しませんでしたが、町外れの小さいながらも素敵なモーテルに飛び込んだところ、部屋は一泊たったの40ドルでした。夕飯を町の小洒落たレストランで取り夕飯後は部屋でお酒を飲みながら、最後の語らいの時間を楽しみ、翌朝は北欧を模して作られたソルバングの町やオールドミッションを散策して、昼頃にサンタバーバラへと帰着しました。クラスへ戻るとクラスメイトに”You skipped your class!”(あなた、クラスをサボったわね!)とからかわれましたが、このショートトリップも最後にまた一つ仲間たちと時間を過ごすことが出来た、とても大切な思い出です。
そして1か月滞在したステイ先を離れサンフランシスコへ向かう際に、腰の手術をしたためベッドから動けなかったカレンは最後に僕を呼んで、「あなたのお別れパーティーを開けなくてごめんなさい。あなたは本当に素晴らしい青年だったわ。次に来る時にはこの家にいつでも泊まってね、お金はいらないわよ」と言ってくれました。もう少し英語が話せたらちゃんとしたお礼が言えたはずでしたが、僕は”Thank you, I enjoyed.”と言うのが精一杯でした。この時も懐の深いホストマザーとアメリカ合衆国と言うオープンな国に対する感動を覚えたと同時に、英語が話せない自分の情けなさを再認識した事を深く覚えています。カレンの母親がボルツと共に(笑)サンタバーバラの空港まで送ってくれましたが、ボルツが最後に”Next year!”(また来年!)と言った事も、最後まで彼らしいなと笑った良き思い出です。
アグネスと学校にたどり着いた僕は、学校の受付スタッフに泣き付きました。”Can you help me?” “I was caught by a patrol car yesterday…”などと英語で説明する必要があったのはある意味で良い勉強であったのかも知れませんが、スピード違反のチケットをスタッフに見せると、”Oh, you were driving too fast.”と笑われたことを覚えています。
みなさまこんにちは。最近は文字ばかりの記事になってしまい恐縮なのですが、本日は僕が組織を運営するにあたって常に悩みどころともなっている「機会の平等」(Equality of Oppotunitiy)と「結果の平等」(Equality of Outcomes)について、書いてみたいと思います。
最初に結論のようなことを書いてしまうと、「平等」に関する問題には、完全な解決方法と言うものは、実は存在しません。そもそも「何を平等と考えるか」によって、大切にすべきことが変わってしまいますし、上記した「機会の平等」と「結果の平等」は、実は必ず相互に矛盾する(includes a mutual contradiction)存在だからです。つまり、私たちが平等な環境を実現するための取り組みというのは、実はこの「機会の平等と結果の平等の間の、どこでバランスを実現するのか」について、人々が自らの属性の利益を追求するための駆け引きとして行っているに過ぎません。どちらかの平等を追求すれば、もう一方の平等は損なわれる。残念ながら、それが人間が形成している社会と言えます。
Learning the world means learning your own country. Find and love the country where you have grown up. Contribute to and improve your home country and the world.
John Newtonは実は、当初は船乗りとして黒人奴隷貿易によって富を築いていた商人でした。当時の奴隷に対する扱いは想像を絶する家畜以下のものであり、多くの奴隷は輸送中の非衛生的な環境の中でその命を落としたと言われています。彼はそのような罪深いビジネスに従事して富を得ていましたが、1748年のある日、彼の船が嵐により浸水し、沈没の危機に瀕しました。彼はクリスチャンとして育ったものの、救いを求めて本当に心の底から神に祈りを捧げたのは、この時が初めてのことでした。 船は運良く沈没を免れ彼は生き延びることとなりますが、この日を境に彼の考え方は大きく転換し、「奴隷貿易を行なっていたような罪深い自分にも、神は赦しを与えた」ことに対して深く感謝をするようになります。その後もしばらくは奴隷貿易に従事し続けたものの飲酒やギャンブルなどを控えるようになり、1755年にはついに船を降りることを決断し、その後勉学と多額の献金を行い、彼のその経験を伝える事ができるよう牧師へと転身したのです。
例えば日本では「持ち帰りたい」は「テイクアウト」ですが、これはかなりの和製英語で、使用しても通じない可能性が高い表現です。だいたいアメリカのファストフードのお店では店員に”For here or to go?”=「ここで食べるのか、持ち帰りですか?」と聞かれるのが一般的です。またお会計では”Cash or charge?”=「現金ですか、カード払いですか?」も頻出の決まり文句です。”to go”が持ち帰り、”charge”はカード払いと知っておかないと、ファストフードとは言え四苦八苦する可能性もあります。また「フライドポテト」は”french fries”、「バリューセット」は”value meal”と、日本で使われている表現とはだいぶ違うものもあります。本日は僕が若かりし頃に大失敗した「ハンバーガーを単品で」頼むためのフレーズを、エピソードと共にご紹介したいと思います。
そして、TOEICは990点満点のスコアのその半分がリスニング、さらにリーディングも文章が非常に長く常に時間との戦いを要求するシステムになっており、Test of English for International Communicationとの名称が示す通り「コミュニケーション力がなければとれだけ文法が得意でもスコアが上がらない仕組み」になっています。どれだけ一流大学を卒業した人でも会話力がなければ人並みのスコアにも届かないのは、「TOEICとはコミュニケーション力を測定するテスト」だからです。そして企業でも外国人労働者の増加を受けてエンジニア分野でもTOEICのスコアはもはや昇進の条件となり、社会人ならその人生設計そのものに大きく影響を与えるようになりました。理系学部に進学したとしても論文は英語で作成し学会で発表を行う必要もあり、英語を避ければ避けるほど後から壁にぶつかり後悔する結果となります。
思い出せば、異変は入国の段階から始まっていました。入国審査を通り税関に進むと、係員が僕らを制止して荷物をチェック、とここまでは普通だったのですが突然「Give me some money.」と言ったのです。何か関税のかかるものを持っていたかな?と思いつつとりあえず僕は「Why?」と理由を尋ねました。彼らは理由を答えずにただ「Some money.」と言っていたのですが、僕が払うそぶりを見せずにいると、諦めたように「行っていいぞ」というようなジェスチャーをしました。税関の職員と言えば国の職員のはずですが、その立場を利用してこのように「money」と言えば、きっと訳が分からないまま払ってしまう人もいるのでしょう。国の職員や警察でも完全には信用できないのが発展途上国なのだと、初めて感じた経験でした。
ショッピングをしている時も彼は通訳などをして、さあ次はどこへ行く?と言うので僕はそろそろ昼食を食べる、と言うと、レストランの近くの広場に僕を連れて行き、「自分はそろそろ行かなければならないが、君と友達になった証に木彫りの人形をプレゼントするよ。僕は国に登録されている木彫り職人だ。君の名前のイニシャルを彫るから教えてくれ」とライセンス(本物かどうかは不明)らしきものを見せながら言います。そしてイニシャルを彫った木彫りを僕に渡して、「Give me some money.」と言うのです。まあ、親切にしてくれたし、チップくらい払うかと思い5ドルほどを渡すと急に顔つきが変わり、「これでは足りない。この木彫りはハンドメイドで高いんだ。イニシャルも彫った。」と迫って来たので、カチンと頭に血が上った僕は「I don’t need this.」と木彫りを突き返し、その場を立ち去りました。その男は元ラグビー選手と嘘をつくぐらい立派な体格の男で、今思えば本当に危ないことをしたと思うのですが、人のいないような場所ではなかったのでそれ以上追っては来ませんでした。果たしてこのような状況で身を守るためにお金を払うべきかどうかは意見の分かれる所だと思いますが、それ以前に最初について行ってしまったのが最大の間違いだったのだと思います。
まず根本的な勘違いとして、世界に「イギリス」と言う国家名自体が存在しません。このイギリスと言う日本でのみ使用されている国名は、遡ること江戸時代に日本に入って来たポルトガル語「イングレス」やオランダ語「エンゲルシュ」が国内で「エゲレス」と訛ったものが残っているものであり、世界のどこへ行っても「イギリス」と言う国家名を理解出来る場所は存在しません(苦笑)日本でイギリスと呼ばれている国家の正式名称は、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」、英語名では”the United Kingdom” (通称the UK)であり、United(連合)Kingdom(王国)の名前が示す通り、4つの旧王国であるイングランド、スコットランド、ウェールズ並びに北アイルランドが連合国として国家を形成しているものです。つまりイングランドとは”the United Kingdom”の一部でしかない訳であり、「イギリス=イングランド」と言う認識はイングランド外の英国市民にとっては失礼以外の何者でもありません。歴史上、イングランドがウェールズ、スコットランド、北アイルランドの順に征服をして形成されたためイギリス女王=イングランド女王であるのは紛れも無い事実として今も残っていますが、イングランド女王も日本の天皇制と同様に政治的な権限のない国家元首となっており、英国=イングランドとの認識は100%間違いです。
SSEAは日本の英語教育を変えることを目標としています。今はまだ “We will do it.”ですが、それは必ず近い将来に “We have done it.” にしたいと考えています。ですが、私たちはゴールだけを見て急いで走ることはしません。私たちはゴールに向かって、毎日の一歩一歩、生徒さまとのひと言ひとことの会話を、大切に積み重ねています。講師・スタッフの全員が1人ひとりの生徒さまを大切に、全力で向き合ってお手伝いをさせて頂きます。1人ひとりの生徒さまに1人でも多くの方に英語を好きになって頂くことが、私たちの “We have done it.” へ続く階段を一段ずつ上ることです。例えその成功率が1%に満たないとしても、それを日本で実際にやり遂げることをSSEAは目指しています。
ですが、こうした悲惨な経験も含めてこそ今の自分とその成長があったのだと今では思えます。辛い経験からも非常に多くの事を学ぶことが出来ましたし、その経験こそがより大きな世界を僕に見せてくれる事となりました。ですので僕はこうした悲惨な経験をした事を今では全く後悔していません。むしろ有り難かった、そのおかげで最高の人生を見つけられたとすら思っています。不思議なことですが、物事は成功よりも失敗から学ぶことの方が多いものです。だからこそ日々何か悪いことがあったとしても、”Better than Nothing” とジョークで笑い飛ばすことが出来ます。
実は、僕には英語が話せたからこそ起こった(起こってしまった)事も沢山ありました。英語が話せれば良いことは数え切れないくらい沢山ありますが、同時にそれが災難をもたらした事もあります(苦笑)ですがそれも含めて、僕はより広い世界、より多くの事を経験し学ぶことが出来て、本当に幸せだと思います。英語は自分自身を何倍も大きくしてくれたのだと、今では感謝の気持ちしかありません。まさに僕にとっては全てのことが “Better than Nothing” です。こんなにワクワクするような人生を歩めて、幸せだと思えます。
また、”fish”と言う単語の複数形についても考えてみましょう。この単語は単複同形で、数が増えても”a fish, two fish, three fish…”となりますが、辞書には”fishes”と言う複数形も記されています。これはどういう理由かと言うと、同じ種類の魚は何匹いても”fish”ですが、複数の種類の魚に関しては一部の地域では”fishes”という複数形を使用することがあるためです。ニューヨークでは魚は何匹いようが何種類いようが単複同形の”fish”ですが、辞書にも記されている通り複数形を使用する地域があるのもまた事実です。これはネイティブスピーカー同士でも意見が分かれてしまう内容でどちらが正しいと決めることはできず、「2つの使い方がある」と結論づけるしかありません。
世界で最も有名な自由の女神像は、世界遺産にも登録されており、ニューヨークのシンボルとなっている有名なものであるのは間違いないでしょう。もしかしたら、アメリカ人でも本物の自由の女神はニューヨークにしかないと信じている人がいるかも知れません。自由の女神は英語では”Statue of Liberty”と呼ばれています。”statue”は「像」を意味する単語で、”liberty”は「束縛からの解放と自由」を表す単語です。つまり直訳すると「自由の像」なんですね、女性の像なので日本語では「自由の女神」と呼ばれていますが、英語ではあくまでも”Statue of Liberty”です。
翌朝7時に空港に到着すると、フライト1時間前なのにも関わらず空港には誰もいません。カウンターの奥にいたスタッフにチェックインを頼むと、「This flight is delayed.」と…原因は空港に到着した際に分かったのですが、毎朝、深い霧に空港が包まれて離着陸する事が出来ないのです。だからホテルのスタッフは朝行っても無駄だと言ったのだと分かりましたが、それでも予定時間が8時なら7時に行かないといけないと思うのは、日本人だけなのでしょうか…
目的地はガイドブックにも載っている有名なモスクだったのですが、相変わらずのように運転手は場所を知りませんでした…地図を見せて走り始めたものの正確には場所を把握していなかったようで、道に迷いあちこち回ったり道を聞きに行ったりして、ようやくたどり着いたのは良かったのですが、交渉して決めた料金を払って降りようとすると運転手は「たくさん走ったからもっとよこせ」と言い始めたのです…そんな後から要求されたお金は払えませんし、そもそも道に迷ったのは運転手のせいで払う義理は全くありません。「迷ったのはあなたのミスでしょ?」と言いましたが運転手はしつこく追加料金を要求して譲らず次第に口論になり、とうとう僕は怒りが限界に達して「It’s your fault, IT’S YOUR FAULT !! OK!!??」(それはお前の責任だろ!! 分かったか !?)と怒鳴りつけて最初に決めたお金を叩きつけて強引にタクシーを降りました。余分な料金は払わずに降りたものの、しばらく怒りで気分が悪かったのは言うまでも無いかと思います…
「ああ、しまった!」とは思いましたが、以前に捕まった経験があったこと、前回の罰金はクレジットカードで払えたことから、その時はそれ以上深い心配はありませんでした。車を止めると警官がパトカーから降りて来ます。窓を開けると彼は「Hello, how are you?」とまるでお店の店員のように気さくに話しかけて来ました。スピード超過の旨を伝えられ、日本の免許証とレンタカー会社発行の免許証の翻訳文(州によりますが、アメリカでは国際免許証の代わりにこのような翻訳文を使う事ができ便利です。あくまで有効なのは、日本の免許証原本とされています)を渡すと彼はパトカーに戻り違反チケットを作成して戻って来ました。スピード違反の手続きは一応、違反した地区の裁判所への出頭となるのですが、旅行者などは行ける訳もないのでその時間が無いと伝え、罰金の額を尋ねたところ、なぜか「分からないから1月2日以降に電話してくれ」と言います。聞いたところによると31日と1日は祝日のためオフィスが閉まっていると… 「オフィスは休みなのに取り締まりはしっかりやるのかよ…3日の飛行機で日本に帰るんだが…」と手続きがすぐに出来ないことに不満を覚えましたが、「まあカード番号を電話で知らせれば済むだろう」と、その時は深く考えずにその場を離れました。
コンシェルジュでチケットの処理をしていた時に、1人の他の若いホテルスタッフが話しかけて来ました。「ああ、スピード違反のチケットだね、運が悪かったね…。ホリデーシーズンは取締りが多いんだ、僕の兄弟は1年に何度も捕まってるよ」「どこから来たの?」などと話してくれ、僕らが日本から来たと言うと、彼は「実は僕は日本の文化に興味があって日本語を学んでるんた。いつか日本にも行ってみたいよ」と話してくれました。感じの良い好青年だったので、僕は自分のメールアドレスを渡して「日本に来る時は連絡を下さい、東京を案内しますよ」と伝えると、彼も自分のアドレスを教えてくれました。彼は僕らの荷物を車まで運んでくれ、一緒に写真を撮り、お互い「See you again!」と約束をして別れました。
その日の夜中、僕はお腹が痛くなりトイレで目が覚めました。やはり下痢だったので、ああ、とうとう当たっちゃったか、最初はその程度の感覚でした。しかししばらくすると気分が悪くなり、吐いてしまいました。その後下痢と嘔吐を繰り返し眠ることが出来ず、朝には外に出るのも厳しい状態に…。両親は大丈夫な様子だったので、僕はチェックアウトまで1人でホテルで休むことにしました。胃腸薬、下痢止めなど飲みましたが全く効かず、体調は悪くなる一方です。両親が戻り昼食を食べに出たのですが、何しろ吐き気で食べることが出来ず、飲み物を飲んだらすぐにお腹を下してしまいます。昼食後お土産を買いに町へ出ましたが、頭は高熱でもあるかのように熱く足はフラフラして歩くのもままならず、貧血のように血の気が引いて気が遠くなり、お腹も痛くトイレも我慢できないので、僕は両親に頼んで残りの時間をホテルのカフェで休むことにしたのですが、水分を摂っても摂っても下してしまい、身体は脱水症状で全身から水分が抜け、力は入らず頭はクラクラしてもうろうとし、高熱でうなされているような、宙に浮いているような、まるで全身が自分の体ではないような感覚です。「これ、もしかして死ぬんじゃないか…、明日日本に無事に帰れるだろうか…」そんなことを本気で考えました。その夜LCCでムンバイに戻ったのですが、冷房の効きすぎた空港で飛行機が3時間も遅れ、ただでさえ瀕死だった僕はもう「生きるのか、死ぬのか」、そんな状態でした。新聞紙を体に巻いて寒さをしのぎ、やっとの思いで乗り込んだLCCには毛布もなく、父がジャケットを貸してくれましたが、「命からがら逃げ帰る」、まさにこの言葉がピッタリで、飛行機から降りる際は階段から落ちてしまい、周りから「Are you okay!!??」と叫ばれる始末…。翌日ムンバイの空港でキャセイパシフィックの飛行機を見た時、そして飛行機から香港の街が見えた時、文明の有難さをこんなに実感したことはありませんでした…インドから「救出された」のだと…
サンフランシスコで他の車たちと別れ、サンタバーバラへ帰る高速道路を僕は運転していたのですが、ちょうど半分くらい来たあたり(SF-SB間は車だと約6~7時間)で、車が突然ガタガタと揺れ始めました。その揺れはかなり激しくハンドルも右に左に取られる感じがしたので、僕は経験が無いながらも薄々「タイヤがパンクした(got a flat tire)」のだと気付きました。高速を降りて車を止めると、見事に右前のタイヤがペチャンコに…付近は真っ暗で助けを求めようにもガソリンスタンドひとつ見当たりません。途方に暮れた僕らは相談した結果、スペアタイヤに交換しようと言う結論になったのです…
セバスチャンがタイヤの交換の経験があったので、スペアタイヤをトランクから出してジャッキアップまでは出来たのですが、タイヤのナットが固くどうしても外す事が出来ません。灯りもなくデジカメの液晶の明かりで照らしながら雨の中格闘しましたが、どうにもならず途方に暮れていると、ジェニファーが通りかかった1台の車に助けを求めました。親切なアメリカ人のおじさんは僕らがタイヤが交換できずにいることを知ると手伝ってくれ、僕に運転席でブレーキを踏む(Step on the brake!)ようにと言いました。そうして格闘すること15分、なんとかおじさんの助けでタイヤを交換することができ、親切なおじさんはお礼を言う間も無く行ってしまいました。かくして僕らは交換したタイヤでそろそろと走りながら、サンタバーバラへ帰り着くことが出来たのです。
<NEW YORK STRIP(ニューヨークストリップ)、KANSAS CITY STEAK(カンザスシティ・ステーキ)> 日本では(お店によっては現地でも)サーロインステーキと呼ばれます。脂はRIB EYEより少なくフィレよりは多い、肉質はRIB EYEより柔らかいもののフィレよりは固め、といった感じ。ちょうどほどほどなお肉なので人気があります。
車を降りると、ホストマザー(当時30何歳くらいだったでしょうか)が出てきたので、僕は緊張しながら「ハウドゥ・・・」(How do you do. と言いたかった。日本の学校で教えられていたこの一言は、堅苦しすぎて実はあまり使われない表現だと、後から知った…)と言いかけた瞬間、「Oh, △☆○&%×$!!」(分からなかった)と先制攻撃を受けてしまい、僕は完全に出鼻をくじかれました。相手の言っていることが分からないことは恐怖なのだと、初めて知った瞬間でした。ホストマザーは家の中を説明してくれましたが、何を言っているのか全く分かりません。
ルームメイトも出てきて挨拶したのですが、彼の出身国の単語の発音がまた難易度が高く、「I’m from Belgium.」と…。僕はパニック状態で、「ベルジャン?ベルジャンてどこの国?アフリカにそんな国あったっけ?(汗)」、と混乱しているのを見たルームメイトは、「ああ、コイツ全く英語出来ないんだな」、と悟ったようでした。とにかくその時のことで僕が覚えているのは(理解できたことは)、ホストマザーが言った「ここはあなたの家よ、自由にしてね!私はボーイフレンドとデートがあるから忙しいの!」ということだけでした…