メディア取材でも高く評価される話題の英語スクール。英会話、ビジネス英語、英検、TOEIC、TOEFL、IELTS、TEAP、高校・大学受験、留学・ホームステイ、教員養成、米国大学・大学院進学。SevenSeas English Academyは対面とオンラインのハイブリッドクラスで、練馬区/板橋区/中野区/豊島区から誰もが英会話に親しめる社会の実現を目指しています。
Learning the world means learning your own country. Find and love the country where you have grown up. Contribute to and improve your home country and the world.
John Newtonは実は、当初は船乗りとして黒人奴隷貿易によって富を築いていた商人でした。当時の奴隷に対する扱いは想像を絶する家畜以下のものであり、多くの奴隷は輸送中の非衛生的な環境の中でその命を落としたと言われています。彼はそのような罪深いビジネスに従事して富を得ていましたが、1748年のある日、彼の船が嵐により浸水し、沈没の危機に瀕しました。彼はクリスチャンとして育ったものの、救いを求めて本当に心の底から神に祈りを捧げたのは、この時が初めてのことでした。 船は運良く沈没を免れ彼は生き延びることとなりますが、この日を境に彼の考え方は大きく転換し、「奴隷貿易を行なっていたような罪深い自分にも、神は赦しを与えた」ことに対して深く感謝をするようになります。その後もしばらくは奴隷貿易に従事し続けたものの飲酒やギャンブルなどを控えるようになり、1755年にはついに船を降りることを決断し、その後勉学と多額の献金を行い、彼のその経験を伝える事ができるよう牧師へと転身したのです。
例えば日本では「持ち帰りたい」は「テイクアウト」ですが、これはかなりの和製英語で、使用しても通じない可能性が高い表現です。だいたいアメリカのファストフードのお店では店員に”For here or to go?”=「ここで食べるのか、持ち帰りですか?」と聞かれるのが一般的です。またお会計では”Cash or charge?”=「現金ですか、カード払いですか?」も頻出の決まり文句です。”to go”が持ち帰り、”charge”はカード払いと知っておかないと、ファストフードとは言え四苦八苦する可能性もあります。また「フライドポテト」は”french fries”、「バリューセット」は”value meal”と、日本で使われている表現とはだいぶ違うものもあります。本日は僕が若かりし頃に大失敗した「ハンバーガーを単品で」頼むためのフレーズを、エピソードと共にご紹介したいと思います。
そして、TOEICは990点満点のスコアのその半分がリスニング、さらにリーディングも文章が非常に長く常に時間との戦いを要求するシステムになっており、Test of English for International Communicationとの名称が示す通り「コミュニケーション力がなければとれだけ文法が得意でもスコアが上がらない仕組み」になっています。どれだけ一流大学を卒業した人でも会話力がなければ人並みのスコアにも届かないのは、「TOEICとはコミュニケーション力を測定するテスト」だからです。そして企業でも外国人労働者の増加を受けてエンジニア分野でもTOEICのスコアはもはや昇進の条件となり、社会人ならその人生設計そのものに大きく影響を与えるようになりました。理系学部に進学したとしても論文は英語で作成し学会で発表を行う必要もあり、英語を避ければ避けるほど後から壁にぶつかり後悔する結果となります。
思い出せば、異変は入国の段階から始まっていました。入国審査を通り税関に進むと、係員が僕らを制止して荷物をチェック、とここまでは普通だったのですが突然「Give me some money.」と言ったのです。何か関税のかかるものを持っていたかな?と思いつつとりあえず僕は「Why?」と理由を尋ねました。彼らは理由を答えずにただ「Some money.」と言っていたのですが、僕が払うそぶりを見せずにいると、諦めたように「行っていいぞ」というようなジェスチャーをしました。税関の職員と言えば国の職員のはずですが、その立場を利用してこのように「money」と言えば、きっと訳が分からないまま払ってしまう人もいるのでしょう。国の職員や警察でも完全には信用できないのが発展途上国なのだと、初めて感じた経験でした。
ショッピングをしている時も彼は通訳などをして、さあ次はどこへ行く?と言うので僕はそろそろ昼食を食べる、と言うと、レストランの近くの広場に僕を連れて行き、「自分はそろそろ行かなければならないが、君と友達になった証に木彫りの人形をプレゼントするよ。僕は国に登録されている木彫り職人だ。君の名前のイニシャルを彫るから教えてくれ」とライセンス(本物かどうかは不明)らしきものを見せながら言います。そしてイニシャルを彫った木彫りを僕に渡して、「Give me some money.」と言うのです。まあ、親切にしてくれたし、チップくらい払うかと思い5ドルほどを渡すと急に顔つきが変わり、「これでは足りない。この木彫りはハンドメイドで高いんだ。イニシャルも彫った。」と迫って来たので、カチンと頭に血が上った僕は「I don’t need this.」と木彫りを突き返し、その場を立ち去りました。その男は元ラグビー選手と嘘をつくぐらい立派な体格の男で、今思えば本当に危ないことをしたと思うのですが、人のいないような場所ではなかったのでそれ以上追っては来ませんでした。果たしてこのような状況で身を守るためにお金を払うべきかどうかは意見の分かれる所だと思いますが、それ以前に最初について行ってしまったのが最大の間違いだったのだと思います。
まず根本的な勘違いとして、世界に「イギリス」と言う国家名自体が存在しません。このイギリスと言う日本でのみ使用されている国名は、遡ること江戸時代に日本に入って来たポルトガル語「イングレス」やオランダ語「エンゲルシュ」が国内で「エゲレス」と訛ったものが残っているものであり、世界のどこへ行っても「イギリス」と言う国家名を理解出来る場所は存在しません(苦笑)日本でイギリスと呼ばれている国家の正式名称は、「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」、英語名では”the United Kingdom” (通称the UK)であり、United(連合)Kingdom(王国)の名前が示す通り、4つの旧王国であるイングランド、スコットランド、ウェールズ並びに北アイルランドが連合国として国家を形成しているものです。つまりイングランドとは”the United Kingdom”の一部でしかない訳であり、「イギリス=イングランド」と言う認識はイングランド外の英国市民にとっては失礼以外の何者でもありません。歴史上、イングランドがウェールズ、スコットランド、北アイルランドの順に征服をして形成されたためイギリス女王=イングランド女王であるのは紛れも無い事実として今も残っていますが、イングランド女王も日本の天皇制と同様に政治的な権限のない国家元首となっており、英国=イングランドとの認識は100%間違いです。
SSEAは日本の英語教育を変えることを目標としています。今はまだ “We will do it.”ですが、それは必ず近い将来に “We have done it.” にしたいと考えています。ですが、私たちはゴールだけを見て急いで走ることはしません。私たちはゴールに向かって、毎日の一歩一歩、生徒さまとのひと言ひとことの会話を、大切に積み重ねています。講師・スタッフの全員が1人ひとりの生徒さまを大切に、全力で向き合ってお手伝いをさせて頂きます。1人ひとりの生徒さまに1人でも多くの方に英語を好きになって頂くことが、私たちの “We have done it.” へ続く階段を一段ずつ上ることです。例えその成功率が1%に満たないとしても、それを日本で実際にやり遂げることをSSEAは目指しています。
ですが、こうした悲惨な経験も含めてこそ今の自分とその成長があったのだと今では思えます。辛い経験からも非常に多くの事を学ぶことが出来ましたし、その経験こそがより大きな世界を僕に見せてくれる事となりました。ですので僕はこうした悲惨な経験をした事を今では全く後悔していません。むしろ有り難かった、そのおかげで最高の人生を見つけられたとすら思っています。不思議なことですが、物事は成功よりも失敗から学ぶことの方が多いものです。だからこそ日々何か悪いことがあったとしても、”Better than Nothing” とジョークで笑い飛ばすことが出来ます。
実は、僕には英語が話せたからこそ起こった(起こってしまった)事も沢山ありました。英語が話せれば良いことは数え切れないくらい沢山ありますが、同時にそれが災難をもたらした事もあります(苦笑)ですがそれも含めて、僕はより広い世界、より多くの事を経験し学ぶことが出来て、本当に幸せだと思います。英語は自分自身を何倍も大きくしてくれたのだと、今では感謝の気持ちしかありません。まさに僕にとっては全てのことが “Better than Nothing” です。こんなにワクワクするような人生を歩めて、幸せだと思えます。
また、”fish”と言う単語の複数形についても考えてみましょう。この単語は単複同形で、数が増えても”a fish, two fish, three fish…”となりますが、辞書には”fishes”と言う複数形も記されています。これはどういう理由かと言うと、同じ種類の魚は何匹いても”fish”ですが、複数の種類の魚に関しては一部の地域では”fishes”という複数形を使用することがあるためです。ニューヨークでは魚は何匹いようが何種類いようが単複同形の”fish”ですが、辞書にも記されている通り複数形を使用する地域があるのもまた事実です。これはネイティブスピーカー同士でも意見が分かれてしまう内容でどちらが正しいと決めることはできず、「2つの使い方がある」と結論づけるしかありません。
世界で最も有名な自由の女神像は、世界遺産にも登録されており、ニューヨークのシンボルとなっている有名なものであるのは間違いないでしょう。もしかしたら、アメリカ人でも本物の自由の女神はニューヨークにしかないと信じている人がいるかも知れません。自由の女神は英語では”Statue of Liberty”と呼ばれています。”statue”は「像」を意味する単語で、”liberty”は「束縛からの解放と自由」を表す単語です。つまり直訳すると「自由の像」なんですね、女性の像なので日本語では「自由の女神」と呼ばれていますが、英語ではあくまでも”Statue of Liberty”です。
翌朝7時に空港に到着すると、フライト1時間前なのにも関わらず空港には誰もいません。カウンターの奥にいたスタッフにチェックインを頼むと、「This flight is delayed.」と…原因は空港に到着した際に分かったのですが、毎朝、深い霧に空港が包まれて離着陸する事が出来ないのです。だからホテルのスタッフは朝行っても無駄だと言ったのだと分かりましたが、それでも予定時間が8時なら7時に行かないといけないと思うのは、日本人だけなのでしょうか…
目的地はガイドブックにも載っている有名なモスクだったのですが、相変わらずのように運転手は場所を知りませんでした…地図を見せて走り始めたものの正確には場所を把握していなかったようで、道に迷いあちこち回ったり道を聞きに行ったりして、ようやくたどり着いたのは良かったのですが、交渉して決めた料金を払って降りようとすると運転手は「たくさん走ったからもっとよこせ」と言い始めたのです…そんな後から要求されたお金は払えませんし、そもそも道に迷ったのは運転手のせいで払う義理は全くありません。「迷ったのはあなたのミスでしょ?」と言いましたが運転手はしつこく追加料金を要求して譲らず次第に口論になり、とうとう僕は怒りが限界に達して「It’s your fault, IT’S YOUR FAULT !! OK!!??」(それはお前の責任だろ!! 分かったか !?)と怒鳴りつけて最初に決めたお金を叩きつけて強引にタクシーを降りました。余分な料金は払わずに降りたものの、しばらく怒りで気分が悪かったのは言うまでも無いかと思います…
「ああ、しまった!」とは思いましたが、以前に捕まった経験があったこと、前回の罰金はクレジットカードで払えたことから、その時はそれ以上深い心配はありませんでした。車を止めると警官がパトカーから降りて来ます。窓を開けると彼は「Hello, how are you?」とまるでお店の店員のように気さくに話しかけて来ました。スピード超過の旨を伝えられ、日本の免許証とレンタカー会社発行の免許証の翻訳文(州によりますが、アメリカでは国際免許証の代わりにこのような翻訳文を使う事ができ便利です。あくまで有効なのは、日本の免許証原本とされています)を渡すと彼はパトカーに戻り違反チケットを作成して戻って来ました。スピード違反の手続きは一応、違反した地区の裁判所への出頭となるのですが、旅行者などは行ける訳もないのでその時間が無いと伝え、罰金の額を尋ねたところ、なぜか「分からないから1月2日以降に電話してくれ」と言います。聞いたところによると31日と1日は祝日のためオフィスが閉まっていると… 「オフィスは休みなのに取り締まりはしっかりやるのかよ…3日の飛行機で日本に帰るんだが…」と手続きがすぐに出来ないことに不満を覚えましたが、「まあカード番号を電話で知らせれば済むだろう」と、その時は深く考えずにその場を離れました。
コンシェルジュでチケットの処理をしていた時に、1人の他の若いホテルスタッフが話しかけて来ました。「ああ、スピード違反のチケットだね、運が悪かったね…。ホリデーシーズンは取締りが多いんだ、僕の兄弟は1年に何度も捕まってるよ」「どこから来たの?」などと話してくれ、僕らが日本から来たと言うと、彼は「実は僕は日本の文化に興味があって日本語を学んでるんた。いつか日本にも行ってみたいよ」と話してくれました。感じの良い好青年だったので、僕は自分のメールアドレスを渡して「日本に来る時は連絡を下さい、東京を案内しますよ」と伝えると、彼も自分のアドレスを教えてくれました。彼は僕らの荷物を車まで運んでくれ、一緒に写真を撮り、お互い「See you again!」と約束をして別れました。
僕の出来る英語と言えば、”Where are you from?”とか、”What’s your name?”とか、頑張っても”Do you have a boyfriend?”ぐらいのものでしたが、彼女も新入生で英語が上手くは無かったのを覚えています。すると彼女は紙にペンを出して、福山雅治(誰だったかは忘れた)など日本の有名人の名前を漢字で書き始めました。前日にハウスメイトのユンと話した時も感じたことですが、こちらは何も知らないのに、向こうは日本の事を良く知っている、と驚きを感じました。
その日の夜中、僕はお腹が痛くなりトイレで目が覚めました。やはり下痢だったので、ああ、とうとう当たっちゃったか、最初はその程度の感覚でした。しかししばらくすると気分が悪くなり、吐いてしまいました。その後下痢と嘔吐を繰り返し眠ることが出来ず、朝には外に出るのも厳しい状態に…。両親は大丈夫な様子だったので、僕はチェックアウトまで1人でホテルで休むことにしました。胃腸薬、下痢止めなど飲みましたが全く効かず、体調は悪くなる一方です。両親が戻り昼食を食べに出たのですが、何しろ吐き気で食べることが出来ず、飲み物を飲んだらすぐにお腹を下してしまいます。昼食後お土産を買いに町へ出ましたが、頭は高熱でもあるかのように熱く足はフラフラして歩くのもままならず、貧血のように血の気が引いて気が遠くなり、お腹も痛くトイレも我慢できないので、僕は両親に頼んで残りの時間をホテルのカフェで休むことにしたのですが、水分を摂っても摂っても下してしまい、身体は脱水症状で全身から水分が抜け、力は入らず頭はクラクラしてもうろうとし、高熱でうなされているような、宙に浮いているような、まるで全身が自分の体ではないような感覚です。「これ、もしかして死ぬんじゃないか…、明日日本に無事に帰れるだろうか…」そんなことを本気で考えました。その夜LCCでムンバイに戻ったのですが、冷房の効きすぎた空港で飛行機が3時間も遅れ、ただでさえ瀕死だった僕はもう「生きるのか、死ぬのか」、そんな状態でした。新聞紙を体に巻いて寒さをしのぎ、やっとの思いで乗り込んだLCCには毛布もなく、父がジャケットを貸してくれましたが、「命からがら逃げ帰る」、まさにこの言葉がピッタリで、飛行機から降りる際は階段から落ちてしまい、周りから「Are you okay!!??」と叫ばれる始末…。翌日ムンバイの空港でキャセイパシフィックの飛行機を見た時、そして飛行機から香港の街が見えた時、文明の有難さをこんなに実感したことはありませんでした…インドから「救出された」のだと…
サンフランシスコで他の車たちと別れ、サンタバーバラへ帰る高速道路を僕は運転していたのですが、ちょうど半分くらい来たあたり(SF-SB間は車だと約6~7時間)で、車が突然ガタガタと揺れ始めました。その揺れはかなり激しくハンドルも右に左に取られる感じがしたので、僕は経験が無いながらも薄々「タイヤがパンクした(got a flat tire)」のだと気付きました。高速を降りて車を止めると、見事に右前のタイヤがペチャンコに…付近は真っ暗で助けを求めようにもガソリンスタンドひとつ見当たりません。途方に暮れた僕らは相談した結果、スペアタイヤに交換しようと言う結論になったのです…
セバスチャンがタイヤの交換の経験があったので、スペアタイヤをトランクから出してジャッキアップまでは出来たのですが、タイヤのナットが固くどうしても外す事が出来ません。灯りもなくデジカメの液晶の明かりで照らしながら雨の中格闘しましたが、どうにもならず途方に暮れていると、ジェニファーが通りかかった1台の車に助けを求めました。親切なアメリカ人のおじさんは僕らがタイヤが交換できずにいることを知ると手伝ってくれ、僕に運転席でブレーキを踏む(Step on the brake!)ようにと言いました。そうして格闘すること15分、なんとかおじさんの助けでタイヤを交換することができ、親切なおじさんはお礼を言う間も無く行ってしまいました。かくして僕らは交換したタイヤでそろそろと走りながら、サンタバーバラへ帰り着くことが出来たのです。
バラナシの空港からホテルまでプリペイドタクシーを利用すると早速車内で彼らの「営業」に悩まされました。「サールナートへ行くんだろう、タクシーで往復するのにとても安い値段で行ってやるぞ、どうだ?」と持ちかけて来ます。絶対にボラれるのは分かっていたので「No,thank you.」と言ってもしつこく営業して来るので、「I want to see the view of the outside, please be quiet.」と突っぱねましたが、インド人はそんな事では諦めるはずもなく、結局ホテルに着くまでずっとこの営業を聞かされ続けました。
もう今いる場所がどこかすら分からないので行くしかありません。しばらく歩くと、ガンジス川へ出たのですが、「ここからボートに乗れ、川の上からプジャ(ヒンドゥー教のお祈りの儀式)が見られるぞ」と言います。しょうがないのでボートの値段を聞いてみると、貸切の割に値段は高くなかった(他のこの手のボートは人を満杯に詰め込んでいました)ので、ボッタクリではないのかな…と思いつつボートで約1時間のクルーズ(と言うよりは、漂流?)とプジャの見物をしたのですが、冬のガンジス川は思いの他寒く(まさかインドが寒いとは想定外で)、凍えながらもボートは出発した場所へ戻りました。ボートの漕ぎ手にも「ボート代はボートの所有者が全部持って行ってしまうんだ、だから俺にチップをくれ」などとせがまれました…。岸に着くとさっきの自称ガイドが待っていたので、「これから夕飯を食べに行くから、ラディソンホテルへ行ってくれ、それで君はいくら欲しいんだ?」と聞くと、「Nothing. Because I can get the next chance. You are going to Sarnath(サールナート) tomorrow?」と言います。明日も付きまとうのかよ…と思いましたが、リキシャーもボートもひどくボッタくる事はしなかったので、次の日も彼に任せることにしました。
<ボートとバラナシの風景>
翌日は朝6:00に彼と運転手がホテルに迎えに来て、再びガンジス川クルーズ(漂流?)へ向かいました。それは沢山の人が早朝にガンジス川で沐浴をするので、それを見るためです。2時間の見物を終えてホテルに戻り、朝食を食べてリキシャーでサールナートへ向かいました。サールナートは仏教の四大聖地のひとつで、仏陀が初めて説法をしたとされる地です。サールナートへ向かう車内で、彼に「So, how much is your guide?」と聞くと「As you like.」などと自分はボッタくりガイドではないことを強調します。
リキシャーでバラナシへ戻る際に、もうさすがに自由に行動したかったので、「ガンジス川へ行ってくれ、そこでガイドは終わりにしていいから」と伝えると、彼はもう十分に目的は果たしたのか、素直にガンジス川の入り口へ僕らを連れて行きました。リキシャーのチャーター代を払うと彼は小声で「And guide….」とちゃっかりガイド代を要求して来ます。「やっぱり欲しいんじゃん」と思いつつ2000円ほどを渡すと彼は嬉しそうにして、「You are very nice person! When you walk around the river, watch your bag. Some people try to steal it.」などと親切なアドバイスまでくれる始末でした。そんなに満足なのだから、さぞお土産屋からのキャッシュバックがあるのだろうと僕は興味がわき、「I will never get angry, so please let me know honestly. How much can you get from that silk shop?」と突っ込んで聞いてみると、彼は満足気に「2%!」と。1万円のうちの2%が彼の取り分ということは…200円?200円のためにこんなことしてるのかと衝撃を受け、そりゃあ2000円のガイド代をもらえれば最高だろうなと納得しました…インドの金銭感覚を知る良い勉強になりました…
滞在3日目。前日に深夜までアグネスたちと夜遊びをした僕はアラームが鳴っても起きることができず、クリストフの”Could you stop the alarm!?”(アラームを止めてくれ!)の一言で目を覚ましました。もちろん寝不足ですが、この日は初めて学校へ登校する日でした。眠い目をこすりながらキッチンへ行くと、ホストマザーのカレンがコーヒーを入れてくれ、「今日は学校の初日だから、私が車で連れて行くから」と言いました。僕は前日にアグネスと一緒に登校する約束をしていたのでそう伝えると、彼女も一緒に乗って行けば良いと言ってくれました。アグネスと車に乗り込み学校へ向かって出発すると、ユンが1人バス停に向かって歩いていたので、彼女も乗せてあげたら…とは思ったのですが英語の下手な僕は言い出すことが出来ず、そのままアグネスと2人で学校へ向かいました。
ナツコとバスディーポで別れて帰宅した僕はクリストフとテストの話になり、クラスはどうだったと聞かれたのでレベル6に入ってしまったというと彼はもの凄く驚いて、”Level 6!? Are you level 6!?”と何度も聞き返していました(苦笑)。それもそのはずで、英語がペラペラなクリストフは実はレベル5で、僕より下のクラスだったのです。日本人はテストだけは得意だというパターンを思いっきり証明してしまいました。同じく英語がペラペラだったユンでさえ、僕と同じクラスだったのですから、その後僕がどれほどクラスで貝になったかご想像に難くないかと思います(苦笑)
<NEW YORK STRIP(ニューヨークストリップ)、KANSAS CITY STEAK(カンザスシティ・ステーキ)> 日本では(お店によっては現地でも)サーロインステーキと呼ばれます。脂はRIB EYEより少なくフィレよりは多い、肉質はRIB EYEより柔らかいもののフィレよりは固め、といった感じ。ちょうどほどほどなお肉なので人気があります。
「この家にはいったい何人留学生がいるんだ…」(実際には彼女が最後で、居候のボルツと僕を含めて5人)と思っているとアグネスがユンに、「日本から来た新しいやつだよ」と紹介してくれました。ユンは僕に挨拶をすると、僕がどこの大学に行っているのか尋ねて来たので、僕が早稲田大学だと答えると、アグネスに向かって“Wow, he is one of the smartest students in Japan!”(彼は日本の最も優秀な学生の1人よ!)と言いました。アグネスは「だから何?」みたいな反応をしていましたが(笑)僕が下手くそな英語で、”You know well about Japan.”と言うと、彼女は「もちろんよ、トウダイ、ワセダ、ケイオウでしょ?」「私の日本人の友達はワセダを卒業して、東京三菱銀行で働いているわよ」と話してくれました。この時僕は初めて、「(当時はですが)日本人はアジアの国のことはほとんど知らないのに、向こうは日本のことを良く知っている」ということに気が付きました。ユンは優しい穏やかな性格の子で、そのあと僕とアグネスの夕食を作ってくれました。(おそらく初めての留学ではなかったのだと思いますが)ユンは英語も上手で、母親が働きに出ていて家で一人で過ごしていた小さな娘のミシェルと、“Michell, do you want to play with me!?”と言ってよく遊んであげていて、僕はただただ「すごいなあ…、それに比べて自分は…」と感心するばかりだったことを覚えています。
まあ、夜とは言えボーリングなら平和なもんだろうと思っていたのですが、アメリカのボーリング場は日本のそれとは似ていて非なるものでした。ボーリング場の中にお酒を飲めるバーがあって、みんなお酒を飲んでいます。最初はただ平和にボーリングをしていましたが(やはり、2人とももの凄く下手でしたが。笑)、突然ボーリング場が暗くなり、大音量でミュージックが流れ始め、みんなお酒を飲んで踊りながらボーリングをしています…実際は暗いのでもうボーリングどころではなく、ほぼ日本でいうところのクラブのような状態です。「アメリカに着いてまだ学校にも行っていないのに、早くもとんでもない夜遊びと不良生活に巻き込まれてしまった…(汗)」。アグネスの外見のインパクトも手伝って内心「なんだかヤバい…いいのか、これで?」と戸惑いの方が正直大きかったのですが、英語も出来ないしアグネスの車で来ているのでもちろん帰ることもできず、ただただ流されて行く自分がそこにいるだけでした(苦笑)。途中でボルツが「バーに行って一緒に飲もう」と言って僕をバーに連れて行きました。アグネスを放置してるけど、いいのか?と思いながらバーで30分以上過ごしたでしょうか…、当時僕は21歳の誕生日の前でカリフォルニアではまだ飲酒が出来ず、オレンジジュースでボルツの話をただただ聞いていた(喋れないし、聞き取れないし、さらにクラブ状態なので音も聞こえないので、正確に表現すると「ただうなずいていた」)のですが、ボルツは酔っているのでもう何が何だか分からない状態に(苦笑)タイミングをみてボルツに「そろそろ戻った方が良くない?」と言って何とか連れ戻し(これだけでも当時の僕には大仕事です…)、またしばらくボーリング?をして、家に帰り着いたのはもう深夜1時半を過ぎた頃でした…「どうしてユンとクリストフが断ったのか」分かった気がしました…繰り返しますが、前日に米国に着いてまだ学校にも行っていません(笑)。部屋に戻る直前にアグネスは“Do you want to go to school with me?”と言ってくれました。もちろん僕が断れるわけもなく(苦笑)
滞在2日目、ダウンタウンでホームシックになり暗い気持ちでステイ先の家に戻って来た僕は、家の前で車の運転席に座るアグネスに遭遇しました。”What are you doing?”とアグネスに聞かれた僕は家に帰るところだと答えると、彼女は”Do you want to come with us?”と、どこへ行くのかも説明せずに言って来ます。(説明しても僕が英語を理解出来ないと思ったのかも知れませんが…)正直、ダウンタウンへの往復で精神的に打ちのめされた僕は人と関わるのが怖くなり1人になりたい気分だったのですが、断ることも出来ずに戸惑っていると、アグネスは一緒に来いと言いました。そして僕は半ば無理矢理に、さっきまでいたダウンタウンに再び連れ出される事になったのです…
ダウンタウンで車を止め(アグネスはこの時、カリフォルニアで路上に駐車して良い所、時間制限のある所、駐車禁止の場所や取締りが厳しい事などを教えてくれました。アメリカの生活について、僕は彼女から普通はすぐには分からない事を沢山教わったと思います)店に入るとそこはビリヤードの出来るお店でした。そして3人でビリヤードを始めたのですが、何しろ2人共もの凄く下手な上にルールも分かっていないようでした。僕は友達と日本でよくビリヤードに行っていたのでルールなど分かっていて腕も彼女たちよりは大分マシでしたが、英語が出来ないのでルールを説明する事ができず、結局黙ったまま無意味に球を打ち続けるという時間を過ごすことに…。「言葉が通じないって、何て不便なんだ…」、と身に染みて思いました。 ビリヤードを終えるとアグネスは「どこか行きたいところがあるか?」と聞いてきたので、僕はとりあえず「(日本から持ってこなかった)タオルを買いに行きたい」と答えました。車で少し町から離れたショッピングセンターに行き、彼女は「ここの店が一番安く買える」と教えてくれました。しかしタオルを買うのは数分で終わってしまい、アグネスは再び「何かしたいことがあるか?」と聞いてきます。今思えば彼女はアメリカに来たばかりで右も左も分からず言葉も出来ない僕を色々気遣ってくれていたのだと思うのですが、時差ボケやカルチャーショック、そして何より自由の全く効かない英語でのコミュニケーションに疲れ果てていた僕は”I want to sleep.”と答えてしまいました…(本当に情けない話ですが、留学生は初めて海外で生活すると、最初のうちは精神的にも体力的にも、もの凄く疲れます。)
その時の会話で今でも僕が鮮明に覚えていて、大事にしている言葉があります。アグネスと話していてどうしても英語の部分は聞き取れない所があり、これは日本人の悪いクセでしょうか、僕がただ笑いながら分かったフリをしてうなずいていた時です。アグネスはそんな僕の態度を見透かしたように、彼女の頭を指で指し、”Try to understand. “と言いました。この言葉は忘れることが出来ません。理解する努力を放棄することは、コミュニケーションを放棄すること、それは習慣の異なる外国人と生活する上では最悪だと彼女は教えてくれました。同時に、海外で生活するためには英語を使うことは義務であり、英語が出来ないことは恥ずかしいことなのだと僕は思い知らされました。アグネスは外見はとんでもない不良少女に見えましたが(実際学校でも少々問題を起こしていたようですが…)、親切で面倒見が良く、その後も色々な事を教えてくれました。本来ならば、英語が出来なければ相手にされないのが留学生活の現実ですが、彼女と同じ家に滞在できたことは本当に幸運で、貴重な出会いだったと今は思います。
翌日、朝起きると、ホストファミリーは家にいたのですが、やはり何かをしてくれると言う訳ではなく(不親切に聞こえるかも知れませんが、向こうでは普通です)、やる事も無く英語も話せない僕は家にいる事になんとなく不安を覚え、とりあえずダウンタウンと翌日から通う語学学校を一人で見物しに行く事にしました。ホストマザーに何とかバス停の場所を教えてもらい、地図を片手にバスに乗り込んだのですが、ここでまたひとつ問題が。「バスの降り方が分かりません」。日本のバスには大抵付いている、ストップボタンが無いのです。周りを見てみましたが、ダウンタウンへ向かうバスなので、降りる人がほとんどいません。困った…と思っていると、途中のバス停で乗り込んで来て僕の後ろに座った男性が何やら話しかけて来ました。どうやらお札を小銭に両替してくれと言っているようです。小銭を渡すと彼は前の方に歩いて行き、運賃を払って戻って来ました。どうやらバスでは両替は行っていないようで、小銭の無い人は他のお客さんに頼むんだなあ…と習慣の違いと他人との距離の近さに少し驚いたのですが、僕はちょうどいいので彼にバスの降り方を尋ねてみました。”What should I do, when I get off the bus?”と言ったつもりなのですが、通じませんでした…逆に向こうから、「どこから来たんだ、どこへ行くんだ?」などと尋ねられ、僕がダウンタウンで明日から通う語学学校を探すのだと言うと、「みんなダウンタウンのバスディーポで降りるから大丈夫だ!」と教えてくれたのですが、結局学校の近くでバスを降りることが出来ず、そのまま終点のバスターミナルまで行くハメに…(後ほど、バスを降りるときは壁を這っている線を引っ張るのが停止のリクエストなのだと分かりましたが)、こんな些細なことでも、当時の僕には大きな冒険でした。
<Santa Barbaraのダウンタウンとバスディーポ>
学校からは数ブロック向こうへ行ってしまい、15分ほど歩いて何とか学校を見つけ場所を確認した僕は、お昼を食べにマクドナルドに入りました。日本とは違い、米国ではセットメニューのことを”value meal”などと表記しています。(マメ知識①:「フライドポテト」は実は和製英語、向こうでは”french fry”と呼びます。)セットに番号が付いていたので、”No.1, please”と注文したのですが、その後また知らない単語が返ってきます。”For here or to go?”(マメ知識②:「ここで食べるのか、持ち帰りですか?」の意味で、「テイクアウト」も実は和製英語で通じない事が多々)。とりあえずhereだけ理解できたので”here, here!”と答えると、空のどでかい紙コップだけをドスンと出されました。「なんだこりゃ?」と思ってキョロキョロすると、ジュースなどはドリンクバーになっていて、自分で好きなものを好きなだけ入れるのだと気付きました。一人でハンバーガーを食べていると、同じような年代の若者が英語でワイワイ話しているのが聞こえ、耳に入るのは知らない音ばかり、バスの乗り方もハンバーガーの注文も四苦八苦だった僕はどことなく寂しくなり、雨も降って来たのも孤独感に拍車をかけ、トボトボと家に帰ることにしました。
<通っていた語学学校 EF International Language School Santa Barbara>
車を降りると、ホストマザー(当時30何歳くらいだったでしょうか)が出てきたので、僕は緊張しながら「ハウドゥ・・・」(How do you do. と言いたかった。日本の学校で教えられていたこの一言は、堅苦しすぎて実はあまり使われない表現だと、後から知った…)と言いかけた瞬間、「Oh, △☆○&%×$!!」(分からなかった)と先制攻撃を受けてしまい、僕は完全に出鼻をくじかれました。相手の言っていることが分からないという恐怖を、初めて知った瞬間でした。ホストマザーは家の中を説明してくれましたが、何を言っているのか全く分かりません。ルームメイトも出てきて挨拶しましたが、彼の出身国の単語の発音がまた難易度が高く、「I’m from Belgium.」と…。僕はパニック状態で、「ベルジャン?ベルジャンてどこの国?アフリカにそんな国あったっけ?(汗)」、と混乱しているのを見たルームメイトは、「ああ、コイツ全く英語出来ないんだな」、と悟ったようでした。とにかくその時のことで僕が覚えているのは(理解できたことは)、ホストマザーが言った「ここはあなたの家よ、自由にしてね!私はボーイフレンドとデートがあるから忙しいの!」ということだけでした…